mirror mirror

 夜が明けた。
 結局窓から逃げた朝倉の行方はその後掴めず、現場でももうこのエリアには居ないだろうという見方が大半を占めていた。どうやら闇に紛れて逃げられてしまったらしい。
 次に朝倉が身を隠しそうな場所はどこか。一部を残して捜査員達はそれぞれに散り、別方向からの捜査に向かっていく。今はもうそれ以外に出来ることは無い。

 そんな中。
 「本当に大丈夫なのか?」
拓磨が心配そうにデジルの顔を覗き込む。デジルが苦笑してみせた。
 「大丈夫だって、今少し休ませてもらったし。それよりも、早く朝倉を探さないと」
デジルが朝倉に何をされたのかは、その姿を見ればすぐに分かった。その事も勿論心配だったが、拓磨は「眩暈がして」というデジルの言葉にも引っ掛かっていた。
 「デジル……無理はするな、頼む。お前が倒れでもしたら…」
 「心配し過ぎ。……朝倉に、俺を殺さなかったことを後悔させてやらなくちゃな」
誰よりも悔しい思いをしたのは当の本人であろうに、そんな事を笑いながら言ってのける。体調さえ万全であれば、そう簡単に朝倉になど……それを思うと、拓磨の心は痛んだ。

 だが。デジルの胸中は、また違っていた。
 殺される──そう思った瞬間に感じた全身の震えを思い起こす。あの瞳の奥に垣間見えた深い闇が、デジルの心を捉えたまま放さなかった。
 朝倉を、何としてもこの手で捕らえなければ。捕らえた後の自分がどうなってしまうのかは分からない。それでも……。

 それから、数日が過ぎ。
 幸いにして朝倉の方は、今のところ逃げているだけで何かしら事件を起こしたりはしていなかったが、だからと言って放置しておける筈もなく。署を問わず朝倉捜索班は、それこそ早朝から深夜まで駆けずり回っていた。
 そうしてようやく判明した、朝倉の居場所。
 彼は再び、拓磨達の管轄内に戻ってきていた。今度は大規模ショッピングセンターの建設現場。建物の概要は完成しつつあるのだが、鉄骨に中途半端な壁がはめ込まれた状態になっている。先日の倉庫街ほど広くはないとは言え、積み上げられた建材などが残されており、隠れる場所も多い。

 「また厄介な所へ…」
 「行こう拓磨!」
連絡を受け、署で待機していた拓磨とデジルが立ち上がる。──しかし。
 ぐらり。
 動きの鈍くなったデジルの身体がゆっくりと傾き、まるでスローモーションのようにその場へ崩れていく。
 「デジル…!?」
拓磨が驚いてデジルを抱き起こすが、デジルの身体にはまるで力が入っていない。青ざめたその顔色に、拓磨の心臓が早鐘のように打ち鳴らされる。
 「デジル、どうしたんだ…デジルっ!!」
 「…朝、く…ら、………」
震える腕が虚空を掻き、そのままぱたり、と落ちた。呼吸が止まり、拓磨が抱き締めるその腕の中で、急速に体温が低下していく。
 「そ…そんなっ、デジル……デジルっっ!!!」
拓磨の叫び声に、二度と答えは返ってこなかった。

 「出てこい朝倉っ、朝倉ぁーーーっ!!」
朝倉が居ると目された、その建設現場。仲間の静止も聞かず、拓磨はひとりその内部へ飛び込んでいった。彼の頭には、朝倉を捕らえることなど既にない。殺す。絶対にこの男を許さない。悲痛なまでの決意──彼は刑事であることを捨てていた。
 「どこだ朝倉っ、いつまで逃げ隠れているつもりだっっ!」
 「うるせえな」
低い呟きとともに、手にした拳銃が蹴り上げられ、遥か前方へと飛ばされる。
 「この至近距離じゃ、どうせ役に立ちゃしねぇだろ」
クク、と目の前に現れた男が笑った。いつの間にか後ろを取られていた。拓磨の額から、冷や汗が流れ落ちる。
 「朝倉───っっ!!!」
膝蹴りは見事な体捌きでかわされたが、直後に放った手刀が朝倉の頬を掠め、チ、と舌打ちが聞こえた。
 デジルの仇──どうあってもとらねばならない。だが、もって生まれた反射神経なのか、朝倉の動きは格闘家顔負けの相当なものだった。数度の攻防の後、朝倉の口元が笑みの形に歪むのが拓磨にも分かった。
 一瞬。痛みよりも、熱さが全身を駆け巡った。見れば心臓の辺りに、深々とナイフが突き刺さっている。
 「ぅぐっ……!」
いつそれを手にしたのかさえも見えなかった。だが朝倉の持つナイフが、寸分の狂いもなく拓磨の急所を貫いている。脱獄を手引きしたという人物は、朝倉のこの身体能力を知っていたのかどうか。
 倒れる訳には、いかない。たとえ死んででも、こいつを……。
 だが下から睨み付ける拓磨の視線を受け流し、朝倉はニヤと笑った。
 「あの青い眼の刑事さんはどうした?」
 「死ん、だよ……」
 「死んだ?」
その言葉に、見る間に朝倉の表情が変わる。
 「最後まで、貴様の、ことを、恨みながら、な……あ、あさく、ら……許さ、な……ぐ…っ!!」
朝倉がナイフを持つその手を僅かに捻った。傷口が開き、外気が入り込む。拓磨の身体がズル…とその場に崩れ、動かなくなった。
 「死んだ、だと? あれが…?」
信じられないとでも言いたげな朝倉の眼が、手にしたナイフを見つめた。拓磨の血に赤く染まったそれが、血まみれになったあの男の姿に重なる。
 オレが殺してやるつもりだった。あの時命を奪わなかったのは、ただの気まぐれだった。いや、もう一度抱きたいという欲があったのかもしれない。いずれはこの手で殺して、自分だけのものにしてしまおうと。誰の目にも触れぬところへ隠してしまおうと。──自分でもこの時初めて気付いた、それが朝倉の本心。
 彼は知らない。デジルもあの瞬間から、心のどこかでそう望んでいたことを。
 「く───」
ナイフを握る手に、関節が白く浮き上がるほど力が込められる。
 「うおおおおおおっっ!!」
振り向きざま雄叫びを上げる朝倉に、一斉に複数の銃口が向けられる。拓磨を追ってきた同僚達だった。ぶつけ所のないその怒りにも似た感情を持て余すがままに、朝倉はその中へと突っ込んでいく。
 低い銃声が数発分響く。朝倉の足が止まった。
 朝倉はその場に膝を付き、ドサリと音を立てて前のめりに倒れた。

 ポツ。
 倒れ伏した朝倉の頬に、一粒水滴が落ちた。
 ポツ、ポツン。
 ポツポツ、ポツポツポツ、ポツ………
 ザァアアアアアア─────
 雨はあっと言う間に土砂降りとなり、その流れは地面を濡らす血を洗い落としていく。

 後には──流された血と同じ色の薔薇が、デジルの倒れたその場所で静かに揺れているのだった。

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