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タイトルRe^2: 日本と外国人労働者
投稿日: 2004/12/19(Sun) 22:13
投稿者北の狼(おちょくり塾)
/題:外国人労働者の定住
   氏名:北の狼 日:2004/12/14(Tue) 22:29 No.1439

以前に、「外国人労働者」に関する、私の過去の投稿を紹介しましたが、「定住」についての投稿をし忘れていましたので、ここに追加しておきます。


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「外国人労働者の定住」

外国人労働者の導入賛成派には、外国人労働者の日本滞在の期限を区切って滞在期間がすぎれば即座に帰国させればよく、深刻な文化摩擦という問題は生じない、という意見を述べる者がいますB
確かに、外国人労働者たちが素直に帰国してくれれば「多文化主義」云々といった議論も重要ではないということになりますが、現実にはどうでしょうか?


ここで、アルジェリア出身の移民研究家A・サイヤードの『定住化の三段階仮設』なるものをみてみましょう。いろいろと、示唆にとむものを提供してくれます。

A・サイアードは、戦前・戦後にかけてフランス本国に出稼ぎに赴いたアルジェリア人たちがフランスに定住化するにいたった過程を、アルジェリア人の社会的・心理的側面から詳細に分析しました。
周知のように、アルジェリアは1962年にフランスとの戦闘を通じて独立を達成しました。しかし、両国の関係は複雑であり、宗教的な相違も加わり、アルジェリア人がフランスへに帰化する例はそう多くはないのですが、大量にフランスに定住しています。

サイヤードの分析によれば、当初の移民は単なる出稼ぎ労働であり、アルジェリアの農村共同体の維持・存続のためになされたものでした。つまり、「個人的動機」によってではなく、むしろ逆に共同体や家族の要請をうける形で、いわば「代表」として共同体や家族に補完的収入をもたらすためにフランスに赴いたのです。それゆえ、フランスへ移民として出かける者は、共同体や家族の論理を体現する壮年の既婚者が多く、若者や独身者は少なかったのでした。そして、単身での短期の出稼ぎという形をとり、これは自動的な交代システムによって継続されていきました。この態様の移民は、第二次世界大戦の直後まで続きましたーーーー(第一段階)。

つぎの段階は、農村における開発の遅れ、人口爆発、通信・移動手段の発達、農村共同体の衰退といった状況のなかで始まったものです。
この段階での移民という行為は、農村共同体の要請をうけた「代表」というよりも、非農業的な「個人的動機・企図」という色彩が強いものです。ですから、移民の主役も、土地や農村共同体とは関係が薄い若者や独身者へと移行しました。そして、移民を送りだす側も、段々と移民先から送られてくる現金に依存するようになり、やがて送金なしでは生活が困難になるようになっていきました。
移民者たちは定期的に本国へ帰りますが、それは休暇やバカンスといった様相を呈するようになり、都市の労働者という自己規定が強くなり、職業やキャリア形成、さらには昇進への関心も強くなってゆき、移民たちは先進国での社会経済活動に本格的にコミットしてゆくようになりましたーーーー(第二段階)。

最後の段階では、移民先の国に「在外居留社会」が形成されるようになります。この「在外居留社会」は、受け入れ社会に対してある程度の相対的自律性を有しており、それゆえ移民たちの受け入れ社会への完全な同化をくい止めるとともに、独自の社会的空間を形成するようになってゆきました。
当初は移民たちも「一時的滞在者」という意識を持ち続け、これが10年、15年と続くわけですが、それでも彼らは「一時的滞在者」という幻想を捨てようとはしません。つまり、そのうち母国へ帰るつもりなのです。
やがて、この段階で、決定的なことが生じます。それは移民先における「家族」という形での生活の開始です。この「家族」の形成は、多くの場合、移民先での滞在が長期になり、ないしは、そうなると予想された結果、本国の家族を呼び寄せるという形をとります。また、移民先の国民と結婚したり、その結婚後に本国の家族を呼び寄せるという場合もあります。このような移民先での「家族」の形成により、本国への送金の必要性が減少し、本国との関係はますます希薄なものとなってゆきました。
こうして、移民の「一時出稼ぎ型」から「定住型」への移行が進行するわけです。アルジェリア人のフランスにおける「在外居留社会」は、かなり強固なものがあるそうですが、それでも、国際結婚なども進行し、移民共同体の均質性が少しずつ失われているということです。つまり、移民共同体それ自信の中に多様性と階層化が生じてきたのですーーーー(第三段階)。

以上が、サイヤードによる移民が定住化にいたる過程の分析ですが、西欧諸国で「一時出稼ぎ」から「定住」への移行を側面から押し進めたのは、主として最後の「家族の呼び寄せ」によるものでした。
この「家族の形成」には二重の意味があります。

一つには、受け入れ国側の政策に及ぼす影響です。近年では「人権尊重」が特に先進国では重要視されており、少なくとも合法に滞在・就業している者の家族の呼び寄せの拒否、ならびに、その家族に対する(半)強制的な帰国政策というのは、とりづらい傾向にあるのです。
二つには、第二世代(子供)の誕生と成長です。子供たちは、受け入れ社会の言語に慣れ親しみ、そこの学校に通います。そして、受け入れ国の文化や価値観を、当然のことのように身につけ、むしろ両親の本国は異国と写るようになり、両親以上に受け入れ社会への参加が進行していくのです。こうなると、かれら二世は、本国へ戻るというような願望さえなくなってゆきます。
例えば、フランスは70年代の保守政権下で、多くの移民二世が非行・犯罪などの理由で祖国アルジェリアに強制送還されましたが、自発的に帰国したものにしろ強制送還で帰国させられたものにしろ、本国での文化や言語の問題もあり、不法入国という形で再度フランスへ戻ってきた者が多いのです。要するに、彼らにとっては、もはやフランスこそが母国だということです。


移民の定住化を促進する要因は他にもあります。
本国における政治・経済状況の悪化や、雇用機会の欠除がそうですね。受け入れ国よりはるかに悪い経済状況にある出身国に帰ることには、相当の勇気が必要とされることです。日本でも、朝鮮人が北朝鮮へ帰還したことがありましたが、それはあくまで「地上の楽園」という夢に魅了されて、という要因が大きかったのです(実際、当時の北朝鮮の経済状況はそう悪くなかったのです)。西欧でも70年代以降、イタリア人やスペイン人の移民が減少し、祖国への帰還が増加していますが、祖国のめざましい経済発展があったればこその話なのでした。
そして、受け入れ先の社会の経営者側の対応も見逃せません。西欧諸国では、当初、移民労働者の労働と滞在の許可を短期間(数年間)に限るという「ローテーション」政策が採用されてきました。しかし、一、二年という短い滞在期間で、言語の修得や技能の修得を移民が変わるたびに繰り替えさなければならず、経営者側のコスト高をまねき、結局は深刻な人手不足のなかで「ローテーション」制度はなし崩し的に放棄され、移民たちは長期滞在することになり、彼らの「定住化」を抑制することはできませんでした。

さらに、近年の人権思想の普及と拡大も忘れてはいけません。一定期間その国に居住するということは、それなりの権利が発生するのです。また、国連は1990年に、「移住労働者およびその家族の権利保護」条約を議決しており(ただし、日本をはじめ、外国人労働者を受け入れている先進国は未批准)、移民家族の長期にわたる離散を好ましくないものとみなす考えは一般化しています。中東産油国諸国は「ターン・キー」方式といって、韓国人やパキスタン人移民を国別に働かせる請負いという方式で採用し、居住も一般住民から隔離しました。従って、彼らの帰国も容易であったのですが、国土が狭く地価も高い日本ではこのような政策は採用しずらいでしょう。
シンガポールなどは、メイドとして働く外国人女性に対して厳しい妊娠チェックを行い、妊娠が確認されたら強制的に帰国させたり、法律違反者に対しては「ムチウチ刑」を課していましたが、このような政策は、日本や他の先進国では許されません。



以上のように、移民の定住を促進する要因をみてきましたが、ここで注意していただきたいのは、上のような西欧諸国の移民の定住化は【予期せざる結果】であったということですーーーー移民の側にとっても、受け入れ国側にとっても。

移民たちにしてみれば(特に一世にとっては)、滞在は一時的なものであり、「一時的出稼ぎという集団的幻想」は未だに根強いものがあります。彼らは、いずれ帰国するという強い意思を抱き続け、帰国しないのは、単に「今は、その時期ではない」からなのです。要するに、彼らの意図や希望と、現実には乖離があるのです。
通常は、時間とともに否応なく同化が進行するものですが、これに「歴史的背景」が加わると話はややこしくなります。彼らには、事実上の同化が進行しているにもかかわらず、歴史を背景として、それを決して認めようとしない心理的ブレーキが働きます。この同化に反対する心理的ブレーキが強い場合は、その影響が第二、三世代にも及ぶことになります(フランスのアルジェリア人や、日本の在日朝鮮人がいい例です)。
受け入れ国側も、移民の受け入れは一時的と考えていた国が殆どであり、定住化を阻止するための方策をそれなりに用意して移民を受け入れてきたのです。ドイツやスイスは、数十年を経た今でも、彼らを「客員労働者」と呼び、自国が移民の国でないことを強調しています。送り出し国のアルジェリアやモロッコも、移民の第二世をも含めて自国民とみなし、彼らを一時的な出稼ぎとみなし続けていているのです。それにもかかわらず、移民の定住化は進行し、彼らの祖国への帰国は、もはや考えられないものとなっている、というのが現状です。

受入国による「規制」および外国人本人の「帰国の意思」と、現実に起こりうる事態とは区別されるべきものなのです。


このような事態を背景として、国家の統合を維持することを目的として、「多文化主義」という思想が生れてきたのです。つまり、「多文化主義」は、本来的に、また本質的に、移民を受け入れるための思想ではないのです。あくまで、異民族(外国人労働者)の定住化と対立という予期せぬ事態に対処するために生れてきたものです。
左派から時折、「欧米では、『多文化主義』という思想のもと異民族との共生がはかられており、それを見習って日本も『多文化主義』思想のもと移民を受け入れるべきだ」との主張がなされることがりますが、これは「多文化主義」の本来の意味や現実に照らし合わせて顛倒した論理展開と言わざるをえませんし、上手くいくという保障もどこにもないのです(実際、欧米では上手く機能しているとは必ずしもいえないのです)。


日本では、出入国管理政策によって一般の労働者の入国が認められていないので、そのような外国人労働者は不法就労・不法滞在を余儀なくされることになり、定住化はおこりにくいかもしれません。しかし、彼らを合法的に受け入れるようになると、話は全く違ってくるのです。

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