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タイトル日本と外国人労働者
記事No11
投稿日: 2004/12/19(Sun) 22:04
投稿者北の狼(おちょくり塾)
/題:日本と外国人労働者
         氏名:北の狼 日:2004/12/03(Fri) 00:58 No.1349

<<波浪規定さん>>
>フィリピンの看護師の受け入れを厳しくするのは当然だ。

随分前に、「日本と外国人労働者」について考える際の予備知識として、あるサイトに投稿したものです。ですから、内容はちょっと古いかもしれませんし、また『山椒庵』のほうが相応しいかもしれませんが、ご参考までに。


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【日本と外国人労働者】


日本の高度経済成長が、欧米と比べて特異な点は、外国人労働者を導入することなしにそれを達成したということです。このことは、我々にとっては当然のようにも思えるのですが、では、何故、欧米諸国は高度成長時代、とりわけ1960年代に外国人労働者を導入したのでしょうか?

第一の理由は、欧米(特に西欧)では、追加的な労働力(主として第二次、第三次産業へ移行できる農業労働者)が絶対的に不足していたということがあげられます。多くの西欧諸国では、農業労働者の第二次、第三次産業への移行は、日本よりかなり早い段階で起こっており、また、世界大戦による人口の絶対的減少も大きく、さらには人口の自然増加率の低下も、かなり早い時点で起こっていました。
スイスでは、第二次大戦直後から労働力の逼迫に悩まされており、主としてイタリアからの労働者に依存していました。
ドイツでは、敗戦による一○○○万人を超えるドイツ系住民の東欧諸国からの帰還、さらには東ドイツからの人の流入が追加労働者の一部を満たしましており、従って、本格的に外国人労働者に頼るようになったのは、ベルリンの壁が構築された1961年以降のことです。
戦後、経済の衰退に悩んできたイギリスは、大規模な外国人労働者の導入はなされていません。
対して、日本では農村部を中心に転換可能なかなりの労働力が存在していました。

第二の理由として、西欧諸国では、一般に地域主義的傾向が強いということがあげられます。どういうことかと言うと、例えば、フランスではアルザス、ブルターニュ、プロヴァンスといった地域特有の文化は健在で、今でも、一部に言語の違いがあります。ドイツでは、地方色豊かな地域が存在するのみならず、地域の分権化が徹底しており、連邦化が顕著です。このような地域主義的傾向は出身地への定着指向を強め、国内の労働力移動に対するブレーキの役割を果たし、必然的に追加労働者を外国人に頼らざるをえなくなるわけです。
対して、日本は均質化が進んでおり、例えば、どこを旅行してもよく似た風景・環境に出会うことになります。そして、太平洋ベルト地帯への大量の労働力の移動が、苦もなく行われてきました。

第三の理由として、労働市場の柔軟性(フレクシビリティ)があげられます。
日本のシステムの長所の一つは、企業内での雇用調整や配置転換による労働力のフレクシブルな使用にあります。西欧諸国では、もともとこうした柔軟性に欠けている上、労働組合の組織化によりさらにこの傾向が強まりました。一部の国では「国有化」がこれに拍車をかけています。そして、外国人労働者を導入した後も、この問題は解決されておらず、企業のリストラの足かせとなっています。とりわけ、ザールラント、ロレーヌ、ワロニーなどの重化学工業地帯を中心としてリストラの進展しない地域がいくつも存在しており、一方では(外国人労働者を含めて)労働力過剰に悩んでいますが、他方で、情報化が必要な分野では労働力が不足するという事態が続いています。

視点を日本に移して、何故、日本は高度成長時代に外国人労働者を必要としなかったのか、産業構造という観点から見てみましょう(上でも一部、述べていますが)。ちなみに、「西欧での外国人労働者が果たしている機能を、日本では何(誰)が果たしているか」といったことを表現するのに「機能的等価物」(R.K.マートン:アメリカの社会学者)という表現をもちいることがあります。

日本での外国人労働者の「機能的等価物」として、第一にあげられるのは、戦後の日本をおそった大規模な人の移動です。多数の人が、いわゆる田舎から東京、大阪、名古屋などの大都市圏や、それらを結ぶ太平洋ベルト地帯に移動しましたが、それに匹敵するような長大な、かつ多くの労働人口をかかえた工業地帯は外国にはまず存在しませんでした。そして、東京への一極集中を生み、過疎ー過密問題を生み出しました。これは一面、農村部を中心に第二次、第三次産業へ転換可能な労働力がかなり存在していたともいえますが、他面、農村部の若者が都市へ憧れて流出したということにもなります。先述したように、西欧では言語、文化を異にする多数の地域から成り立っており、地域間の人口移動が抑制される傾向が強いのですが、日本においては、そうした傾向は希薄であり、共通な言語、弱い地域特性が、こうした人口移動を促したともいえます。

第二の「機能的等価物」は、日本の企業内部での合理化やオートメ化です。このようなシステムが「単純労働者」を必要としない環境をつくりだし、他方、生産性の向上をうみ、国際競争力を高める結果となりました。石油危機以降、西欧諸国の産業界では、日本のオートメ化・情報化の進展を目のあたりにして、外国人労働者に依存した産業体質に疑問をもつ見解が強まっています。
人手不足はあらゆる分野で一様に起こるとは限りません。一つの企業内でさえ、売れる製品と売れない製品があります。そこで、日本では、配置転換や労働力の多様化が追及され、こうした企業労働力の柔軟性(これには、組織としての柔軟性と、労働者個人の能力としてのそれがあります)もまた、外国人労働者を必要としなかった要因とみることができます。

第三の「機能的等価物」は、『企業外労働力』への依存です。なんのことかというと、主婦などのパートタイムや学生アルバイトなどの、各種非公式な労働力のことです。現在、日本の外食産業やスーパー・マーケットは、これらの労働力なしには、もはや成り立たないといっていいでしょう。欧米のファースト・フード店では、外国人労働者やエスニック・マイノリティに属する人々がしばしば働いています。
ただ、これと同様な傾向(『企業外労働力』)は欧米でもみられるのですが、しかし、日本の場合、労働組合と比べて経営側の力が強く、または、反抗的な労働組合は比較的少なく、経営者は、労働力の再編という点でフレクシブルな態勢をとりやすかったのです。いくつかの西欧諸国では、労働組合を背後にもった社会民主主義政権が成立し「国有化」政策が進められ、これによって労働市場のフレクシビリティが弱まったのでした。

第四の「機能的等価物」は、日本の労働者の「長時間労働」であり、「残業」です。旧西ドイツやフランスでは、戦後、労働時間の短縮という要求が、労働組合によって熱心に追及され、余暇志向が進みましたが、それを底辺でささえてきたのが外国人労働者でした。日本の労働過重が、外国人労働者の受け入れを抑制してきたともいえます。
また、日本では高齢者(六○才以上)の高い労働化率によって、比較的多くの低賃金労働力の獲得が可能になったという点も重要です。西欧では、むしろ定年退職年齢の繰り下げが要求され、退職後は、引退して静かな生活を送るというライフスタイルが一般的です。

以上が、外国人労働者の日本における「機能的等価物」ですが、これにいくつか歴史的偶然が加わります。

第一の偶然は石油危機です。これにより、先進国は一挙に経済不況に陥りましたが、これが西欧諸国の外国人労働者の受け入れ停止をもたらし、日本でも外国人労働者を必要とするような事態の到来を遠ざけたのでした。これには二重の意味があります。一つは勿論、不況で、もう一つは、これを契機として企業の省力化、合理化が進んだことです。
第二は円高です。これは、製造業を中心とした日本企業の海外進出を促し、国内における労働力の逼迫を緩和させたともいえます。しかし、他方、円高は外国人労働者、特に、単純作業やサービス・接待業で、しかも不法就労労働者を呼び寄せる原因にもなっているのですが。

以上のように、過去における労働力不足への対応という点での違いが、西欧諸国と日本の産業構造や労働システムを相当に異質なものにしてきたといえます。こうした特質は容易に解消するとも思えなませんが、こうした「機能的等価物」がカバーしてきた労働力を上回る労働力不足が起これば、または、除々に日本的特殊性の「メリット」が失われれば、外国人労働者の流入は止められないということになるかもしれません。

しかし、以下のことを忘れてはいけません。

”我々は労働力を必要とした。しかし、実際にやってきたのは人間だったのである”
(スイスのある移民研究者の言葉より)

このことに対する覚悟と準備がない限り、(単純)外国人労働者を受け入れるべきではありません。そして、いまの日本にはその覚悟と準備があるとは到底思えません。
つまり、日本は、安易に(単純)外国人労働者を受け入れるべきではないのです。

タイトルRe: 日本と外国人労働者
記事No12
投稿日: 2004/12/19(Sun) 22:06
投稿者北の狼(おちょくり塾)
/氏名:北の狼 日:2004/12/04(Sat) 21:48 No.1360

>正論の昭和63年5月号で、石川好氏が「のしあがるやつはのし上がるから、外国人をいじめてかまわないんですよ」という趣旨の発言をしていた・・・・。

なんか力が抜けてきますね。そんな単純な話で済めば、誰も苦労しませんし、事がそう簡単に運ぶのなら、そもそも日本人と在日韓国人との間で摩擦なんて生じませんね。
以下の言葉の意味を考えてほしいものです。

”我々は労働力を必要とした。しかし、実際にやってきたのは人間だったのである”
(スイスのある移民研究者の言葉より)

「人間」というのは、要するに「文化」のことなのです。つまり、外国人労働者を導入した国で問題になってくるのは、文化摩擦なのです。ですから、外国人労働者を抱えている国では、【国家や社会の統合性を維持する】ことを本来の目的として・・・・この点は重要です・・・・、両者の摩擦を解消しなければならないという必要性から、「多文化主義」という思想が生れてきたのです。
外国人労働者受け入れ賛成派は、せめて、日本は以下のどの「多文化主義」の形態をとりうるのか(それらの変奏態でもいいですが)、現実に即したかたちで示して欲しいものです。それが、責任ある態度というものでしょう。
以下も、私の過去の投稿から再掲するものです。


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私は先に、外国人労働者受け入れに関して、以下のような問題点を指摘しました。

>1 異文化が接するところでは必ず摩擦が生じる。
>2 ヘタをすると差別につながりかねない。
>3 人間を一度受け入れると、後戻り出来ない。

必ずしもこういう事態が生じるとは限らないかもしれませんが、外国人労働者を受け入れる場合、常に念頭においておかなければならないことであると考えています。つまり、それだけの覚悟や準備なしに、外国人労働者を受け入れるべきではない、と。
滞在期間が、例え短期間であろうとも、”人間”を受け入れるのですから、それらの方々の文化的な配慮は欠かせないでしょう。家族とともに来日する人もいるでしょうし、そのうち帰化する人もいるでしょう。そうすると、子供の教育、固有の言語や文化的生活・活動といったものに対する配慮が必要となってくるわけです。
特に、人間というのは異国の地へ行くとなおさらのこと、自分のアイデンティティを文化に求めるようになるとのことですから。

さて、これからの私の話は、日本が外国人労働者を受け入れ、その外国人が日本に定住(帰化)したとの設定で、異文化どうしがどう仲良く共存していけるのか、また、それは可能なのか、といったテーマで進めて行きます。
要するに、「多文化主義」の現状とその問題点、そして日本への適用ということになります。


   ーーー「多文化主義」ーーー


まずは、簡単に用語を説明しておきましょう。

・「同化主義(assimilationism)」:国民国家は一文化、一言語、一民族によって成立すべきであるとする考えかた。当然、定住・帰化した異民族には、ホスト国の文化に同化することが求められ、ホスト国の文化以外は排除されることになります。

・「多文化主義(multiculturalism)」:多民族・多文化社会化する国民国家を統合するためにはもはや「同化主義」は有効ではなく、むしろ「同化主義」の押し付けはエスニック紛争の原因になるとの認識に立ちます。そこで、文化の多様性をそのまま認めながら、なんとか社会的・国家的統合ができないかという視点から、「多文化主義」という思想が生まれてきました。
異文化・異言語が尊重されることにより、移民、難民、外国人労働者、エスニック・マイノリティたちは、自らが喪失していた文化や自言語からアイデンティティを復活させて自信を取り戻し、その結果、彼らもホスト国の言語、文化、生活様式の学習にも積極的となり社会的適応力が増すだろうから、受け入れ社会に対してもよい感情を抱くようになるであろうし、分離・独立といった急進性を生み出さずにすみ、結果的に、社会や国家の統合は調和を土台として達成できることになる、と考えるのが「多文化主義」のイデオロギーです。

「多文化主義」もいくつかに分類されます。

・「リベラル多元主義(Liberal Pluralist Approach)」
社会や国家の統合に際し、文化の多様性を許容し、エスニック集団・民族の存在も認めるが、市民生活や公的生活面においてはホスト社会の文化、言語、社会慣習に従うべきだとします。すなわち、私的生活領域での文化の多様性は認めるが、公的生活領域(学校、公共施設、職場など)では認めないとする考え方です。
公的生活ではリベラルな期待や価値観、すなわち自由、平等、個人主義、能力主義、信仰の自由等が尊重され、これを拠り所として、人種やエスニシティにもとずく公的生活面での差別は禁止および処罰され、さらに同化の強要は差別行為とみなされることになります。
こういったアプローチにより、差別を禁止して社会参加の「機会の平等」さえ確保すれば、時間とともにマジョリティとマイノリティとの間の差別、不平等構造はなくなると考えます。
別名「文化多元主義アプローチ(Cultural pluralist Approach)」とも呼称されます。「多文化主義(multiculturalism)」を「多元文化主義」と訳す人もいるようで、この「文化多元主義」と混同しないように注意ください。

・「コーポレイト多元主義(Corporate Pluralist Approach)」
上のリベラル多元主義は「機会の平等」を保証するのみですが、「コーポレイト多元主義」は、差別を禁止した上で、さらに被差別者は本来的に競争上不利な状況にあるという認識から、マイノリティの社会参加のために積極的に財政的、法的援助の手をさしのべます。つまり、「機会の平等」に加えて「結果の平等」をも求めることになります。
マイノリティの言語や文化は、社会的なハンディキャップを負わされているとの認識にたち、その不利を克服させるため、公的生活領域において多言語放送、多言語コミュニケーション文書、多言語・多文化教育が推進され、私的生活領域においてもエスニック・スクールなどへの援助が拡大されたりします。
就職や教育に対してはアファーマティブ・アクションやクォーター制度が実施され、マイノリティの人々は人口比に応じて教育や就職の比率が保証され、職場での代表も同様に保証されます。行政機関、司法機関、病院、学校などの公的機関での通訳や多言語職員の配置が法的に強制され、公務員への非市民の登用や、場合によっては非市民の地方選挙への参加が認められます。
別名「構造多元主義(Structural Pluralist Approach)」ともいわれます。
差別の禁止だけでなく、人種的中傷、誹謗などの言動に対しても厳しい規制が加えられ、人種差別禁止法制が強化されます。これは、異文化、異言語の進出に脅威を感じる極右勢力などからの攻撃から防衛するためです。

・「急進的(ラジカル)多元主義(Radical pluralist Approach)」
上の、「リベラル多元主義」や「コーポレイト多元主義」によってさえも、言語、文化、生活様式が平等に扱われる社会がなかなか実現しない場合、どうしても異文化、異言語集団の不満が残ることになります。その結果、混在型の多民族・多文化社会において、ホスト・主流社会の文化(価値・規範)、言語、生活様式を全く否定して、独自な生き方や生活を追及しようとする動きも出てきます。
こうした急進的で隔離的な動きを求めるものの代表に、米国の黒人過激主義運動があります。この「急進的(ラジカル)多元主義」によれば、例えば、白人が黒人の歴史を大学で教えることが否定されます。また、黒人のことは黒人にしかわからないということになり、分裂的・隔離的なエスニック・コミュニティ形成の動きを生み出しやすく、主流・ホスト社会からの反発を生み出しやすいことにもなります。

・「連邦多元主義的アプローチ(Ethnic Federalism Pluralist Approach)」
国土が広いところで民族やエスニック集団の地域的な棲み分けがある場合は、連邦性をとって各文化・言語集団の自治・自立性を高めることが可能で、場合によっては分離・独立も可能となります。カナダ、スイス、かつてのチェコスロヴァキア、旧ユーゴのように、エスニック集団が地域的に分離していたものが集合し、各々の文化、言語、社会習慣を維持しながらも、各地域が連邦を結成して政治的に連合社会を結成する場合も含まれます。

*)上でも述べましたが、「多文化主義」の本来の目的は、【国家や社会の統合性を維持する】ことですが、「連邦多元主義的アプローチ」で「分離・独立」が視野に入ってきますと、これはもはや本来の「多文化主義」の趣旨から外れることになります。

日本が「多文化社会」を選択するとして、どのタイプを選択すべきなのかということが問題になりまが、その際、今後入ってくると仮定される外国人労働者に加えて、(合法もあれば違法もありますが)在日の朝鮮人、中国人、イラン人なども考慮して、問題の解決にあたらなければならないでしょうね。

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最後に、再度確認しておきますが、本来「多文化主義」の根底にある目標は【国家や社会の統合性を維持する】ことだということです。
ところが、日本の左翼・サヨクは「多文化主義」の理論を援用しながらも、その言説からは、この【国家や社会の統合性を維持する】という意味・目標がすっぽりと抜け落ちている場合が多いのです。つまり、日本の左翼は、(日本国家を弱体化させるための)反日活動の一環として、「多文化主義」の本来の意味・目標を全く”顛倒”して(国家の統合→国家の崩壊)、表層的な論理のみを援用している、ということに十分に注意する必要があります。
実は、この辺の事情は「男女共同参画法」でも同様なのです。

タイトルRe^2: 日本と外国人労働者
記事No13
投稿日: 2004/12/19(Sun) 22:13
投稿者北の狼(おちょくり塾)
/題:外国人労働者の定住
   氏名:北の狼 日:2004/12/14(Tue) 22:29 No.1439

以前に、「外国人労働者」に関する、私の過去の投稿を紹介しましたが、「定住」についての投稿をし忘れていましたので、ここに追加しておきます。


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「外国人労働者の定住」

外国人労働者の導入賛成派には、外国人労働者の日本滞在の期限を区切って滞在期間がすぎれば即座に帰国させればよく、深刻な文化摩擦という問題は生じない、という意見を述べる者がいますB
確かに、外国人労働者たちが素直に帰国してくれれば「多文化主義」云々といった議論も重要ではないということになりますが、現実にはどうでしょうか?


ここで、アルジェリア出身の移民研究家A・サイヤードの『定住化の三段階仮設』なるものをみてみましょう。いろいろと、示唆にとむものを提供してくれます。

A・サイアードは、戦前・戦後にかけてフランス本国に出稼ぎに赴いたアルジェリア人たちがフランスに定住化するにいたった過程を、アルジェリア人の社会的・心理的側面から詳細に分析しました。
周知のように、アルジェリアは1962年にフランスとの戦闘を通じて独立を達成しました。しかし、両国の関係は複雑であり、宗教的な相違も加わり、アルジェリア人がフランスへに帰化する例はそう多くはないのですが、大量にフランスに定住しています。

サイヤードの分析によれば、当初の移民は単なる出稼ぎ労働であり、アルジェリアの農村共同体の維持・存続のためになされたものでした。つまり、「個人的動機」によってではなく、むしろ逆に共同体や家族の要請をうける形で、いわば「代表」として共同体や家族に補完的収入をもたらすためにフランスに赴いたのです。それゆえ、フランスへ移民として出かける者は、共同体や家族の論理を体現する壮年の既婚者が多く、若者や独身者は少なかったのでした。そして、単身での短期の出稼ぎという形をとり、これは自動的な交代システムによって継続されていきました。この態様の移民は、第二次世界大戦の直後まで続きましたーーーー(第一段階)。

つぎの段階は、農村における開発の遅れ、人口爆発、通信・移動手段の発達、農村共同体の衰退といった状況のなかで始まったものです。
この段階での移民という行為は、農村共同体の要請をうけた「代表」というよりも、非農業的な「個人的動機・企図」という色彩が強いものです。ですから、移民の主役も、土地や農村共同体とは関係が薄い若者や独身者へと移行しました。そして、移民を送りだす側も、段々と移民先から送られてくる現金に依存するようになり、やがて送金なしでは生活が困難になるようになっていきました。
移民者たちは定期的に本国へ帰りますが、それは休暇やバカンスといった様相を呈するようになり、都市の労働者という自己規定が強くなり、職業やキャリア形成、さらには昇進への関心も強くなってゆき、移民たちは先進国での社会経済活動に本格的にコミットしてゆくようになりましたーーーー(第二段階)。

最後の段階では、移民先の国に「在外居留社会」が形成されるようになります。この「在外居留社会」は、受け入れ社会に対してある程度の相対的自律性を有しており、それゆえ移民たちの受け入れ社会への完全な同化をくい止めるとともに、独自の社会的空間を形成するようになってゆきました。
当初は移民たちも「一時的滞在者」という意識を持ち続け、これが10年、15年と続くわけですが、それでも彼らは「一時的滞在者」という幻想を捨てようとはしません。つまり、そのうち母国へ帰るつもりなのです。
やがて、この段階で、決定的なことが生じます。それは移民先における「家族」という形での生活の開始です。この「家族」の形成は、多くの場合、移民先での滞在が長期になり、ないしは、そうなると予想された結果、本国の家族を呼び寄せるという形をとります。また、移民先の国民と結婚したり、その結婚後に本国の家族を呼び寄せるという場合もあります。このような移民先での「家族」の形成により、本国への送金の必要性が減少し、本国との関係はますます希薄なものとなってゆきました。
こうして、移民の「一時出稼ぎ型」から「定住型」への移行が進行するわけです。アルジェリア人のフランスにおける「在外居留社会」は、かなり強固なものがあるそうですが、それでも、国際結婚なども進行し、移民共同体の均質性が少しずつ失われているということです。つまり、移民共同体それ自信の中に多様性と階層化が生じてきたのですーーーー(第三段階)。

以上が、サイヤードによる移民が定住化にいたる過程の分析ですが、西欧諸国で「一時出稼ぎ」から「定住」への移行を側面から押し進めたのは、主として最後の「家族の呼び寄せ」によるものでした。
この「家族の形成」には二重の意味があります。

一つには、受け入れ国側の政策に及ぼす影響です。近年では「人権尊重」が特に先進国では重要視されており、少なくとも合法に滞在・就業している者の家族の呼び寄せの拒否、ならびに、その家族に対する(半)強制的な帰国政策というのは、とりづらい傾向にあるのです。
二つには、第二世代(子供)の誕生と成長です。子供たちは、受け入れ社会の言語に慣れ親しみ、そこの学校に通います。そして、受け入れ国の文化や価値観を、当然のことのように身につけ、むしろ両親の本国は異国と写るようになり、両親以上に受け入れ社会への参加が進行していくのです。こうなると、かれら二世は、本国へ戻るというような願望さえなくなってゆきます。
例えば、フランスは70年代の保守政権下で、多くの移民二世が非行・犯罪などの理由で祖国アルジェリアに強制送還されましたが、自発的に帰国したものにしろ強制送還で帰国させられたものにしろ、本国での文化や言語の問題もあり、不法入国という形で再度フランスへ戻ってきた者が多いのです。要するに、彼らにとっては、もはやフランスこそが母国だということです。


移民の定住化を促進する要因は他にもあります。
本国における政治・経済状況の悪化や、雇用機会の欠除がそうですね。受け入れ国よりはるかに悪い経済状況にある出身国に帰ることには、相当の勇気が必要とされることです。日本でも、朝鮮人が北朝鮮へ帰還したことがありましたが、それはあくまで「地上の楽園」という夢に魅了されて、という要因が大きかったのです(実際、当時の北朝鮮の経済状況はそう悪くなかったのです)。西欧でも70年代以降、イタリア人やスペイン人の移民が減少し、祖国への帰還が増加していますが、祖国のめざましい経済発展があったればこその話なのでした。
そして、受け入れ先の社会の経営者側の対応も見逃せません。西欧諸国では、当初、移民労働者の労働と滞在の許可を短期間(数年間)に限るという「ローテーション」政策が採用されてきました。しかし、一、二年という短い滞在期間で、言語の修得や技能の修得を移民が変わるたびに繰り替えさなければならず、経営者側のコスト高をまねき、結局は深刻な人手不足のなかで「ローテーション」制度はなし崩し的に放棄され、移民たちは長期滞在することになり、彼らの「定住化」を抑制することはできませんでした。

さらに、近年の人権思想の普及と拡大も忘れてはいけません。一定期間その国に居住するということは、それなりの権利が発生するのです。また、国連は1990年に、「移住労働者およびその家族の権利保護」条約を議決しており(ただし、日本をはじめ、外国人労働者を受け入れている先進国は未批准)、移民家族の長期にわたる離散を好ましくないものとみなす考えは一般化しています。中東産油国諸国は「ターン・キー」方式といって、韓国人やパキスタン人移民を国別に働かせる請負いという方式で採用し、居住も一般住民から隔離しました。従って、彼らの帰国も容易であったのですが、国土が狭く地価も高い日本ではこのような政策は採用しずらいでしょう。
シンガポールなどは、メイドとして働く外国人女性に対して厳しい妊娠チェックを行い、妊娠が確認されたら強制的に帰国させたり、法律違反者に対しては「ムチウチ刑」を課していましたが、このような政策は、日本や他の先進国では許されません。



以上のように、移民の定住を促進する要因をみてきましたが、ここで注意していただきたいのは、上のような西欧諸国の移民の定住化は【予期せざる結果】であったということですーーーー移民の側にとっても、受け入れ国側にとっても。

移民たちにしてみれば(特に一世にとっては)、滞在は一時的なものであり、「一時的出稼ぎという集団的幻想」は未だに根強いものがあります。彼らは、いずれ帰国するという強い意思を抱き続け、帰国しないのは、単に「今は、その時期ではない」からなのです。要するに、彼らの意図や希望と、現実には乖離があるのです。
通常は、時間とともに否応なく同化が進行するものですが、これに「歴史的背景」が加わると話はややこしくなります。彼らには、事実上の同化が進行しているにもかかわらず、歴史を背景として、それを決して認めようとしない心理的ブレーキが働きます。この同化に反対する心理的ブレーキが強い場合は、その影響が第二、三世代にも及ぶことになります(フランスのアルジェリア人や、日本の在日朝鮮人がいい例です)。
受け入れ国側も、移民の受け入れは一時的と考えていた国が殆どであり、定住化を阻止するための方策をそれなりに用意して移民を受け入れてきたのです。ドイツやスイスは、数十年を経た今でも、彼らを「客員労働者」と呼び、自国が移民の国でないことを強調しています。送り出し国のアルジェリアやモロッコも、移民の第二世をも含めて自国民とみなし、彼らを一時的な出稼ぎとみなし続けていているのです。それにもかかわらず、移民の定住化は進行し、彼らの祖国への帰国は、もはや考えられないものとなっている、というのが現状です。

受入国による「規制」および外国人本人の「帰国の意思」と、現実に起こりうる事態とは区別されるべきものなのです。


このような事態を背景として、国家の統合を維持することを目的として、「多文化主義」という思想が生れてきたのです。つまり、「多文化主義」は、本来的に、また本質的に、移民を受け入れるための思想ではないのです。あくまで、異民族(外国人労働者)の定住化と対立という予期せぬ事態に対処するために生れてきたものです。
左派から時折、「欧米では、『多文化主義』という思想のもと異民族との共生がはかられており、それを見習って日本も『多文化主義』思想のもと移民を受け入れるべきだ」との主張がなされることがりますが、これは「多文化主義」の本来の意味や現実に照らし合わせて顛倒した論理展開と言わざるをえませんし、上手くいくという保障もどこにもないのです(実際、欧米では上手く機能しているとは必ずしもいえないのです)。


日本では、出入国管理政策によって一般の労働者の入国が認められていないので、そのような外国人労働者は不法就労・不法滞在を余儀なくされることになり、定住化はおこりにくいかもしれません。しかし、彼らを合法的に受け入れるようになると、話は全く違ってくるのです。