012:聖域

 連れて行くと誓った。何があろうとも。




 ぐがぁ。
 すぅぅ。
 にくぅぅ。
 ぐがぁ。
 すぅぅ。
 にくぅぅ。


「…いつも思うんだが」
 珍妙な寝息を立てるルフィの枕もとにしゃがみ、ウソップは1人ごちた。
「この『にくぅぅ』ってのは寝言なのか、寝息なのか…」
 究極の難問。
 試しに鼻を摘んでやる。

 にくぅぅ。

「器用だなオイ」
 幸せそうな笑顔まで浮かべたので、さすがに気持ち悪くなって手を離す。
 昨夜飲みまくったせいで、記憶がかなり抜けているので、いつこの男3人が戻ってき たかは知らない。しかし、この爆睡っぷりはどうしたことだろう。
「そろそろ起きろよー」
 小さめに声をかけてみるが、誰も目を覚ます気配がない。
「朝だぞー」
 もう少し大きい声で言ってみるが、やはり3人とも眠りっぱなしである。
「おら起きろ! 偉大なる勇者ウソップ様が起こしてんだぞ! 飛び起きて敬礼っ」
 かなり大きい声で言ってみたが、それでも誰も起きてこない。
 業を煮やして、一人一人の耳元で甘ったるい言葉でも囁いて朝からアレな気分にし てやろうか、などと考えながら一歩踏み出した瞬間。
「いつまで寝てんのよこのネボスケども!」
 凄い勢いで部屋の扉が開き、威勢のいいナミの怒鳴り声が飛び込んできた。
「はいっおはようございますナミさん!!! ナミさんに起こしていただけるなんて、今日は素 晴らしい一日になるだろうなぁ」
「…んぁ? 肉か?」
「なんでやねん!!!」
 一発で目覚めたサンジとルフィに、ウソップはいささか空しい気分でツッコミを入れ た。
 ――所詮、ナミにはかなわないのか。
「今日は天気も良くて、山越えには最高よ! ほら起きて、宿の奥さんが朝ご飯作って くれてるんだから!」
 という言葉を聞いた直後には、ルフィは簡素な肌着のシャツ一枚といつものズボンで 部屋を飛び出していった。
「飯ー!!!」
「おい! せめて着替え…」
 ウソップの制止なぞ、飯を前にしたルフィにとっては風の前の塵に同じ。しかも風の方 は超大型の台風ときている。
 ウソップは溜息をつきつつ、自分は着替えようとしてようやく振り返った。
「ナミぃ! いつまでいるんだよお」
「あら失礼。ま、あんた達のハダカなんて見飽きちゃったけどね」
 ころころと笑いながら、来た時と同じく勢い良く去って行く。
「あぁあナミさんが場慣れた女性のような台詞を吐くと格好いいなぁ」
 所構わずピンクのハートを飛び散らせつつ、嬉しそうに靴の具合を確かめる。
 衣装と楽器は亜空帯の中だ。重要なものは亜空帯の中に入れられないが、かといっ て、楽器を普通に持ち歩いたのではすぐに痛んでしまう。着物も同様の理由から、亜空 帯の中に保管されていた。今のところ、亜空帯の中身は食器、調味料、保存食(ルフィ に食い荒らされる日は近い)、楽器、着物、多少の個人的品物で占められている。
 サンジが服装を点検している間、ウソップはゾロを起こすべく奮闘していた。
 何せ、多少耳元で甘い言葉を囁いたぐらいでは目を覚まさず、大声で怒鳴ってみても 一行におきてこないからだ。
「おーいゾロ、起きろー! 起きてぇぇん…ダメだ、こいつちょっと呼んだくらいじゃ起き ねぇぞ」
 春眠暁を覚えず。
 ――いや今春じゃねぇし。…この辺は結構春っぽくなくもないけど。
 布団を腹にだけひっかけて眠る剣士に向けて、裏手ツッコミ。
 1人漫才を繰り広げていると、サンジがつかつかと歩み寄ってきた。
「なんだよ、毬藻剣士は朝が苦手ってか?」
「だめだ、筋金入り。こりゃ直接的手段に訴え…」
 サンジはためらいもなく右足を振り上げた。
 どず。
「テメェ何しやがる!?」
「うぉぉい!!!」
 ゾロが眼を見開いて横転するのと、ウソップが慌てて制止に入るのがほぼ同時。サン ジのカカト落としは綺麗に決まり、一瞬前までゾロの腹があった辺りにめり込んでい る。
「殺す気かっ!?」
「うるせぇな居眠り剣士、朝飯の時間だ」
「飯の時間にいちいちこんな起こし方すんのか、テメェは!」
「テメェが呼んでも起きねぇからだろうが!」
「もうちょっと起こす努力しろ!」
「テメェこそ起きる努力をしろ!」
「何を!?」
「やるか!?」
 にらみ合う二人を見比べてオロオロしていたウソップは、朝日を反射してキラリと光っ たそれに気がついた。
「あ!! 腕輪!!」
 ゾロの左腕に存在を主張する銀の腕輪。それは仲間の証である――と、いうことは。
「…ああ、そういやぁそうだったな」
 心なしかばつが悪そうな表情を浮かべ、がりがりと頭をかくゾロ。
「へぇ〜…まぁ、あんだけ出来るんだもんな、当然か」
 場の空気が和んだのをいいことに、ウソップは次々と言葉を紡いだ。場の空気が重く なったときの、ウソップの癖である。そしてそれは大概の場合、良い方向に働くのだっ た。
「いつの間に渡したんだ? あ、昨夜オレが酔いつぶれてた間かぁ。中々似合ってる ぜ」
「そ、そうか?」
「ああ! な、サンジ」
「まあ、な。悪かねぇ」
 口の端を吊り上げて笑う。
 ゾロはそんなサンジをちらりと一瞥すると、ゾロも僅かに口の端を歪めた。そのまま踵 を返し、ウソップの横を通り過ぎて部屋を出て行ってしまう。
「…おい〜、よく渡す気になったな、しかも一晩で」
「昨夜ちょっと、な。おら、早く行かねぇと朝食無くなっちまうぜ」
 サンジはそれだけ言うと、ウソップの鼻先を軽く小突いて部屋を後にした。
「ちょっと、ねぇ…」
 ウソップはよく知っている。サンジの「ちょっと」は、「とてもたくさん」を意味しているの だということを。サンジが「ちょっとツライ」と言ったら、つまり限界の一歩手前だというこ とになる。ギリギリまで黙って1人で何とかしようとするサンジの悪い癖だった。好きな もの、気にいったものについて話すときも同じで、ストレートに気持ちを表現できず、必 要も無いのに過剰に遠慮してしまうため、つい「ちょっと」という言葉を使ってしまうの だ。それが分かるまで、かなりの時間を要した。
「つまり、昨夜相当ふかぁぁぁい話をしたってことか」
 ウソップはナミのように「早すぎる」とはこれっぽっちも思わなかった。なぜなら、正し い「変化」は急激に起こるものだと思っていたからだ。大体、人と人の心が近付くのに、 時間は関係ない。出会ってすぐに、生まれたときから友達だったみたいに仲良くだって なれるんだ――そうウソップは信じていた。
 1人うんうんと頷く。
「いい感じだな」
 サンジだけではない。他の3人にも、ゾロは大きな影響を与えるに違いない。
 それがウソップには嬉しかった。良きにつけ悪しきにつけ、「変化」は大切なことだ。
 かつて幽閉されていたあの神殿には変化がなかった。サンジたちと出会ってからも、 それは神殿内を流れる時間と同じくひどくゆっくりしていた。
 外に出てみれば、どうだ。
 毎日何かが変化していく。「今日」は「昨日」の繰り返しのようでいて、実は全く違う一 日となる。昨日と同じ空、昨日とは違う新しい風、日々成長していく自分と仲間たち。
 部屋を出ようとして、4つベッドの並んだ室内を見渡す。
 シーツも布団もぐっしゃぐしゃのベッドは、ルフィのもの。
 ベッドメイキング直後みたいにビシッとしたベッドは、サンジのもの。
 布団は一応畳んであるが、いかにも不器用な人が畳んだ風なのはゾロのベッド。
 こういうものを見る事ができるようになったのだって、神殿を出てからだ。こんな些細 な出来事でも、ウソップは無性に面白かった。
「今日はどうなるんだかなぁ」





 朝食後、荷造りをしながら、ゾロがふと思い出したように言った。
「どうするんだ?」
「何が」
 銃をばらしてせっせと手入れをしていたウソップは、顔を上げずに聞き返した。
「だから、これからどうするんだ」
 そういえば、とウソップは思った。
 ――これから何処に行くか、きちんとコイツにまだ言ってなかったな。
 山道を歩いているときも同じ質問をされたが、直後の「ゾロ迷子譚」のせいですっかり 忘れていたのであった。
 部屋には今のところルフィとサンジはいない。ナミに引きずられ、今頃村長に挨拶し にいっているところだろう…ルフィがいらない寄り道をしていなければ。
「聞いて驚け」
 ウソップはかけていた接眼鏡を上げてニヤリと笑った。
「まずは山脈越えだ。それから西の大国ドラムを経由して、砂漠を越えて、海を渡って 草原を越えて…」
「結局何処へ行くつもりなんだ」
 ますますウソップの笑いが深くなる。
「聞いた事、あるか?」

 奇跡の地。
 聖なる場所。
 飢えも苦しみもなく、何処までも青く透明な空気に満たされた楽園。

「オール・ブルー。そう呼ばれる楽園を、オレたちは目指してる」
 ゾロが怪訝そうな顔をした。
「御伽噺じゃねぇか、そりゃ」
 途端にウソップはバン!とベッドを叩いて立ち上がった。
「いや、ある! 絶対にある! いいか、ゾロ。サンジの前では絶対そんなこと言うな よ。言ったら…」
 喋っているうちに落ち着いてきたのか、ウソップはゆっくりと腰を下ろした。自分がベッ ドを叩いたせいで飛び散った銃の部品を、慌ててかき集める。
「言ったら、何だ」
「…言ったら」
 ウソップは部品を点検するふりをして、俯いた。
「許さねぇ。それだけ」
「どういうことだ」
「どうもこうも、オール・ブルーの否定は、サンジそのものの否定になるからさ」
 かちり、かちり。
 ネジを締めながら、ちらりとゾロの左腕を見やる。
「昔の事、聞いたかどうかは知らねぇけどさ。…なんか、サンジって、旅に出てから様子 が変で。たくさん喋るようになったけど、妙に刹那的というか」
 グルグルとドライバーを弄ぶ。
「…今のサンジは、『オール・ブルーに行きたい』って夢があるからまだなんとかやって んだ。オレたちだってそうさ」
 銃を持ち上げ、今度は薬莢を詰めていく。
「『オール・ブルーに行く』。それだけでここまで来たんだぜ。そりゃ確かに、本当にある かどうかも分からない場所だけどよぅ…」
 語尾に向かって小さくなる声。
「今じゃオレたちみんなの夢なんだ。だから…否定すんなよぉ」
「…もう、いい」
 喉に何かひっかかったような声で言うと、ゾロはウソップに背を向けた。
「よく、分かった」
 気まずい沈黙に、双方とも眼が泳ぐ。
 そのとき、窓の外からルフィの元気に溢れた声が聞こえてきた。途端にウソップが慌 ててまくし立てる。
「あーっと! 今話した事は秘密、ヒミツな!」
「…何でだ」
「だってよぉ」
 苦笑いを浮かべ、ウソップは正直なところを述べた。
「恥ずかしいだろぉ。オレ、あんなこという柄じゃね〜し? オレは明るく楽しくホラ吹い て、みんなを笑わせんのが好きなの。重い話の担当はサンジとナミに任せてんだ」
「…なるほど」
 ゾロは納得した。
 ――なるほど、サンジの言った通りだ。一日一緒にいりゃ分かるな、確かに。
「あっ、こら、笑うな! 恥ずかしいんだぞ、ホント!」
「ん? ああ、悪い」
 知らず知らずの内に緩んでいた口元を引き締め、ゾロは窓から外を見下ろした。
 ぎゃあぎゃあと騒々しく通りをやってくる3人の表情は、一様に明るい。
「ん? ゾロだ! おーい、ゾーロー!!!」
「荷造りすんでるー? すぐ出発よ!」
「ちゃんと寝ないで待ってたか、感心感心」
 人目も憚らず、外から大声でゾロに話し掛けてくる。
 銃の手入れが終わったらしいウソップも、窓際にやって来て応える。
「おいルフィー! サンジー! 荷物取りに上がってこいよ! ゾロ、お前も持てよ」
「へーへー」
 ウソップは部屋の片隅に置かれたオレ様袋に歩み寄りかけて、ふと振り返った。
「さっき話した事、忘れんなよ?」
 その表情は、いつものウソップとは正反対の真剣なもので。
 ゾロは傍を通り過ぎざま無言でその肩を叩き、部屋を出て行った。
 ウソップはなんだか無性にどうにも顔が緩むのが止められず、上機嫌で鼻歌を歌いな がら荷物を背負いかけて気がついた。
「ぅおい! なんで出てくんだよゾロ!」



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