013:道標 -1-
人はそれに祈りを込める。実際、山越えは実に愉快だった…ゾロを除いて。
上り続けること半日、峠まであと少し。
5人は休憩もかねて練習会を行なっていた。
全員楽器を取り出し(ゾロはどうしてもうまくできなかったので、サンジが出してやった)、各々練習を始める。
といっても、実際に楽譜に沿って演奏するわけではない。基礎練習を行なうのだ。とても地味で単調な曲だが、これが出来ると出来ないとでは演奏の 出来が大きく違ってくる。 ルフィは練習をはじめてからこの方、静かにそっとシディレを引き続けていた。ともすれば風に紛れてしまいそうな、しかし弾む 音は確かに聞こえてくる。
大きく強く弾く事は、誰にでも出来る。しかし、小さく弱く、優しく奏でることは難しい。けれどルフィは楽しげに、その静かな演奏を続けていた。
ナミはナミで、腕立て伏せやら手を握ったり開いたりやら、さらには柔軟運動まできっちり終えてからようやく練習を始めていた。トェラドニは、ただ叩く だけの楽器ではない。奏者の筋力、柔軟性がそのまま響きに繋がる。ナミはその事をよく知っていたから、準備運動は十分すぎるほど行なうのだった。
ウソップはというと、何せ彼の担当楽器は数が多いので、いつもならナミと一緒に準備運動をした後いくつかの打楽器や木管楽器を選んで練習してい るのだが、今日は楽譜と睨めっこを始めていた。ゾロが参加できそうな楽譜を探しているのだ。
そして、問題のゾロには、サンジがつきっきりでシジマの基本演奏を教え込んでいた。
「…で、振(シン)の和音は、この一弦と二弦のこことここを押さえて弾けばいい。ほれ、やってみ」
ギィーコ。
ギィーガ。
「おおう、ファンタスティック!」
「うわ〜、ダメ、鳥肌立っちゃった」
「爪で黒板ひっかいてるみたいな音だな…ん? おお、ナイスアイデェア! 早速新しいウソップアイテムに追加だ!」
「それってそういう名前のワオンだったのかー!」
ガギィー。
ゴギィー。
「あちゃぁ、こりゃひでぇ」
「ちょっと、背中がムズムズしてきちゃったわよ」
「その名も『ウソップ黒板』…いや『ウソップボード』…いやもっと格好いい方が…」
「そういやワオンってなんか犬の鳴き声っぽいよなぁ」
「ええい五月蝿いっ!!! あっち行ってろ!!!」
とうとうキレたゾロは怒鳴り、弦を振り回してルフィたちを追い払った。
爆笑しながら逃げていく3人の後ろ姿を、ゾロは苦々しげに見送った。
事の次第は、ヴィウェル村を出発前に、ゾロの腕輪について話題になったことだった。
買い物に売り物も済ませ、後は村の人々に挨拶して出発するのみという時になって、ゾロの方から切り出したのだ。
「自分も腕輪をもらったからには、《仕事》を手伝いたい」
そう言った時のゾロの顔を、当分4人は忘れないだろう。
照れつつ仏頂面。
笑うのを我慢しているようなしかめっ面。
泣きそうにも見えるし怒り出しそうでもある。
返事を待つ間のゾロときたら、まるで小さな子どものようで。
「いいぜ」
サンジの一言で、文字通りぱぁっと顔が明るくなった。
「ただし」
またもや曇る表情。
4人は顔を見合わせると、クスリと笑った。
「毎日ちゃんと練習するって約束しろよな」
「先輩であるオレ様たちの意見をちゃんと聞けー」
「楽器を大切にすること。使った後は自分でお手入れするのよ」
「ゾロの知らない曲一杯教えっから、おれの知らない曲教えてくれよ〜」
立ち尽くすゾロの横を通り過ぎざまに、それぞれに小突いたりつついたりしながら言う。誰一人反対はしなかった…ナミでさえも。
しばらくそのまま呆然としていたゾロは、突然勢い良く振り返った。
4人は待っている。
ゾロをステージに引き上げた時とは違い、今度は誰も手を差し伸べてはいない。
ただ、ゾロが自分でこちらへやってくるのを待っている。
「…へっ」
礼など無用。
ゾロはくしゃりと顔を歪めると、足早に4人に歩み寄り・・・
肩を並べて、歩き出したのだった。
ところが実際に練習してみると、村での演奏の時の腕前は何処へやら、シジマから流れ出るのは珍妙な雑音ばかり。落差が大きすぎて、最初は呆れ ていたナミも、しまいにはウソップやルフィと一緒になって笑い出す始末だった。
「癇癪起こすなって」
呆れた調子で言って、サンジはゾロの肩をバンバン叩いた。
「隠、修、振、貫。あとは慧、浪、桔、昂の和音ぐらいは覚えねぇと、楽譜も読めねぇだろ」
「ぐぐぐ…」
獣のように唸り、どっかりと座り込む。
「もう一回行くぞ。隠の和音は?」
ギョー。
「…シジマってこんな音出るんだな…」
いっそ感心したように言われて、ゾロは思わずカッとなった。
「十数年ぶりだからしょうがねぇだろ!?」
十数年振りなのに《仕事》を手伝わせてくれと言ってしまった自分に激しく後悔する。あの時は…村での演奏の時は何かがとり憑いていたとしか思え ない。
「確かに初心者同然だわな」
そう言われてますます後悔する。
特にフォローするわけでもなく、サンジは独り言のように呟いた。
「だが、練習すれば初心者だっていつかは玄人になれる。途中で投げ出さなきゃ、大抵の事はいつか実を結ぶってもんだ」
ゾロは頭をかかえた。
サンジのいう事も分かるが、自分には本当に演奏の才があるのだろうか。
「まあ、あまり深く考えるなよ、ゾロ。まずは楽しむ事から始めりゃいい」
「あんまり、深く考えない方がいいよ、ゾロ」
不意によみがえる幼馴染の少女のセリフ。
あれは夏の夕暮れ。
ヒグラシの鳴く縁側で。
「まずは楽しまないとね」
――そうだ、村で演奏したときの事を思い出せ。
――あの高揚感、感動を思い出せ。
不意に弓を弦に当て、そっと弾いた。
る。
「お」
るぅ。
「へぇ」
サンジは眼を細め、次々に和音の名前を並べた。
「浪、慧、昂、修、桔、隠、振、貫」
多少音が飛んだり跳ねたりしたが、何とか言われたとおりの和音を奏でることに成功する。
遠巻きに様子を見ていたウソップがすかさず近寄ってくる。
「さすがオレの見込んだ男! いやお前はやれると思っていた!」
「へ、そうかよ」
一度うまく行くと、心に余裕が出来る。余裕が出来ると、楽しくなってくる。
ゾロは再びシジマを弾き始めた。
「隠、隠、浪、慧、修、修、振、昂」
和音の名前と音が、ゾロの中で一致していく。
ナミとルフィも近寄ってきて、今度は黙ってゾロの拙い演奏を聞いている。
「…よし、ゾロ。ルフィの後を追っかけて弾いてみろ」
いつのまにやらシディレからヴィオレーテに持ち替えたルフィがニィと笑う。弓と弦を使った楽器なので、弦の数は違うがシジマと同じ和音を出す事は出 来る。
ルフィはやおら弾き始めた。
ゾロは慌ててそれを追う。
ちなみに、ルフィは和音の名前をまったく覚えていない。ナミとサンジで教え込もうとしたが、どれだけ教えても右から左、しまいには2人とも諦めてし まった。けれどもその演奏は、どうしたことか正確で、そのくせ人間味に溢れていた。そういう奏者は稀であり貴重である。
ルフィは案の定ゾロの演奏などほとんど聴いていないかのように、好き放題弾き始めた。音が踊り、飛び跳ね、宙返りする。
一方のゾロは、覚えたての和音と思い出したての演奏で必死にそれを追っていた。どうやらこちらはきちんと和音の名前も覚えるつもりのようで、呪文 のように和音を唱えながら演奏を続けている。
「…ふぅん?」
鼻を鳴らすと、ナミがトェラドニを演奏し始めた。
2人のセッションを邪魔しない程度の緩やかなリズム。
続けてウソップが、シェルコと呼ばれる木管楽器でそのリズムを追い始めた。
するとルフィは、相変わらず自由奔放な演奏を続けていたが、そのリズムに乗って流れを変えた。ゾロも自然とそのリズムに乗る形になる。
サンジはそれを笑顔で聴いていた。
ナミのトェラドニにあわせ、手拍子を打ち始める。
「なぁサンジ〜」
立ち上がりざま、ルフィがイタズラを思いついた子どものような笑顔で言った。
「唄おうぜ!」
サンジの手拍子がはたと止んだ。
楽しげな笑顔が、困ったような笑顔にすりかわる。
ゾロはなぜか緊張した。
唄わない、とサンジは言った。唄えない理由もゾロは聞いた。
ルフィは当然それを知っているはずだ。
だが、ルフィはゾロを誘った。おそらくわざと…もしくは単に自分が唄いたくなったからかもしれないが。
「おれも一緒に唄うから! な!」
サンジは困ったような笑みを浮かべたまま、首を横に振った。
「必要なとき以外は…」
唄いたくない、あるいは唄えない。
そう続けるつもりだったのだろう。だが。
「今、必要だ!」
いつの間にか全員が演奏を止めていた。
ナミは額を押さえながらルフィを見上げていた。ウソップなど頭を抱え、無言でのたくっている。
ルフィは力強く断言した。
「唄うぞ!」
そして本当に唄い出した。ヴィオレーテを置いてシディレをかき鳴らしながら、開けっぴろげな歌声で唄い出す。
Nunc est bibendum, nunc pede libero pulsanda tellus!
音痴ではないのだが、どうにもずれているようないないような。ともかく唄っている本人は大変気持ちよさそうである。
「…おい…ウソップ。ありゃどういう意味だ?」
「ええと…なんだっけナミ」
「『今こそ飲むべし、今こそ自由な足取りで大地を踏むべし』…ね。古精霊語の歌よ。けどアイツが唄うと、『今こそ食うぜ、今こそ食べ物に向かって突き 進むぜ』って感じだわ」
頭痛くなってきた。ナミはそう呟くと、ちらりとサンジを見やった。
――まさか、唄う?
サンジはますます困ったような笑顔を浮かべていた。
少しだけ口元が動いたようにも見えた。
nunc pede libero pulsanda tellus.
けれどサンジはとうとう声を出さず、結局最後まで唄う事は無かった。
それがゾロには酷く残念だった。
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