003:水鏡


最初に気づいたのは、サンジだった。


「…てめぇ…ロロノア、か?」
 煙草の煙と共に吐き出された名前に、その紅い男は口の端を吊り上げた。
「…だったら…どうする…」
 
 ――ああ、獣だ。獣の目だ。
 これまで見てきたどの賞金稼ぎにも、こんな目、そして気を放つ者は一人もいなかっ た。
 ――こいつは、強い。
 だが、とサンジは思う。
 ――強さなら、こっちだって負けてねェ。
 パーティーリーダーは、何てったって、《麦わら》なのだ――普段は壊れた蓄音機み たいに「肉」と「飯」を連呼しているが、懸賞金1億ベリーは伊達ではない。
 《星読みの魔女》と称されるナミとて、おそらくこの男にひけは取るまい。
 ウソップは…まあ、本気のウソップは強いに違いない。…今のところ、未確認だが。
 勿論自分も負ける気はしない。あの時から、数え切れない追っ手を退けて「生きてき た」、それがサンジの自信だった。

 軽く煙草の灰を落とし、紫煙を燻らせながら、サンジは挑発するように男を睨みつけ た。
「何か用か。用がねぇならさっさと行っちまえ…俺達ぁ忙しいんでね」
 自分達の強さには自信があった。
 しかし、目の前のこの男には、その自信を覆すだけの何かがある。
 そう、本能が告げていた。
 ――こりゃ、油断したら…死ぬかもな。

 にぃ、と男が嘲った。
「用か。用なら出来た」
 だらりと下がっていた両腕に、急激に力がこもって行く。
「知ってるぜ。お前の顔は」
 男の纏う空気が変わった。血臭に紛れて立ち上る、黒く、美しくさえある気配――

 純粋な殺意。

「テメェは、《奇跡の歌い手》だな…?」
 サンジは頷いた。
 ごまかしは通じない、そう思ったからだ。
「てぇことは、こっちは《麦わら》に《星読みの魔女》か」
 1人足りねぇようだが、まあいい。男はそう呟くと、ふわりと浮き上がり――
「!」
 ――速い。
 男が陽炎のように揺らいだかに見えた次の瞬間、男はサンジの目前にいた。三筋の 切っ先は、間違いなくその心臓を貫くはずだった。
 …が、間一髪、割り込んだルフィによって、それらは止められていた。
「…ちったぁやるみてぇだな、《麦わら》」
「ああ、俺は強いぞ!」
 一筋は右手で。一筋は左手で。残る一筋は己が右肩で。
 武器を一切持たぬルフィは、打撃には強いが切りには弱い。
 たちまちのうちに紅く染まっていくルフィに、ナミは思わず悲鳴を上げていた。
 しかし、当のルフィはケロリとしたもので。
「けどお前も強いなぁ」
 刀を自分の体で止めたまま、いつものように笑ってみせた。
「バぁカ、ナミさんに心配かけてんじゃねぇよ」
 ――ちょっと、ヤバかったかもしれねェ。
 心中の僅かな動揺などおくびにも出さず、呆れたように言って、サンジは振り上げか けていた足を引き戻した。
 ルフィが割り込まなければ、果たして自分は無事でいられただろうか。
「はは、悪ぃ悪ぃ」
 ルフィは刀を掴んだまま、悪びれもせずナミに笑顔を向けた。
「ナミー、心配しなくても全然大丈夫だぞ!」
「ばっ…バカ、誰が!」
「余裕、みせつけてくれるじゃねェか」
 男は嘲った。そうして、一息に刀を引き、再び攻撃を繰り出そうとした、だが。
「…!?」
「お前、ケガしてっだろ。それじゃ、全力出せねぇぞ」
 ルフィは別段力を入れているようには見えない。
 しかし、刀は動かなかった。
 押せども引けども、ピクリとも動かない。
 男の表情から笑みが消えた。
「どうせやるなら、ケガ治してからにしねぇか? お前強ぇし、ちゃんとやりてぇよ」
 な、そうしようぜ。そう言って、ルフィはなおも笑った。相変わらず刀はその体を貫いて いるというのに。
「…1億ベリーは…伊達じゃ…ねぇってか…」
 男の頬に脂汗が滲んだ。
 互いに一歩も譲らず、次第に濃くなっていく血臭だけが時の経過を告げる。
 ナミはその様子を固唾を飲んで見つめていた。
 もちろん、ウソップもいるにはいるのだが、男の気配に当てられてか石の様に動かな い。
 僅かに男の気配が揺らめいた。

「…やめとけ」

 男の射殺さんばかりの視線が、声の主――サンジに向けられた。
 真っ向からそれを受け止め、なおもサンジは言い募る。
「お前が無傷でも、そいつ――ルフィにゃ敵わねぇよ」
 血臭をかき消すように吐き出された紫煙の陰で、サンジは小さく笑った。
 ――獣がいくら強くても、竜には勝てねェ…そういう決まりなんだぜ。
「どうする? テメェがやめるっていうまでこのままだぜ。え、《紅風の魔獣》さんよォ」
 殊更挑発するように言って、サンジは1歩前に出た。
 背後の茂みの中でウソップが「おい、やめとけ、やめとけって」と小声で必死に叫んで いたが、サンジはそれをいなすように右手の煙草を振って見せた。
 サンジはゆっくりとした足取りで近寄ると、密着せんばかりに顔を近づけて、一言一 言区切るように言った。
「さあ、金と命、どっちを取る」
 どちらと答えても、サンジは男を見下していただろう。
 なぜなら、サンジはこのどちらも心底嫌いだったから。
 ――さあ、テメェは、なんて答える?

 男は激しい怒りをその顔に浮かべたが、刀を咥えた口でうめくように応えた。
「…どっちも…いらねぇ…!!」

 それはあっという間の出来事だった。
 男は唯一自由に動かせる部位…足で、渾身の力を込めた蹴りをサンジ目掛けて繰り 出した。
 サンジがそれを同じく足で迎え撃つ。
 完全に止められた蹴り、その反動で男は刀を我武者羅に振りぬいた。
 思わぬ動きに、一瞬ルフィの注意が刀から逸れる。
 1刀。
 ルフィの右肩に食い込んでいた刀、男の口に咥えられていた刀が、動いた。
 動くと見るや、男は両手の2刀を即座に手放し、1刀を右手に持ち替え――。
 サンジの心臓目掛け、突き出した。
 だがそれは振り下ろされたサンジの足によって阻まれた。
 男がたたらを踏み、サンジは連撃を繰り出そうとした。
 鉄製の鎧さえ打ち砕く蹴りが男のこめかみを狙う。
 硬質の音が周囲に響き渡った。
 蹴りは寸前で止められていた。男は刀の鞘を引き抜き、盾として利用したのだ。
 そのまま常人離れした筋力で押し返され、今度はサンジがバランスを崩す。
 勝機とばかり打ち込まれた一撃を、サンジは紙一重でかわしていた。
 深く身を静め、強力な回し蹴りを放つ。
 その一撃は確かに男の右足首を砕いた。しかし、男はそれを意にも会せずその足目 掛けて刀を振り下ろした。
 サンジは跳ね起きると飛び退いた。
 刀がわずかに脛を掠め、ぶつり、と革靴ごと切り裂く。
 着地が僅かに乱れた。
 男はその隙を逃さなかった。
 鞘でサンジの鳩尾を強打すると、前かがみになったところを金髪を鷲掴みにして地面 に引き倒す。
 咄嗟に前転して体制を立て直そうとしたところへ、首筋にひたり、と冷たい物が当てら れた。
「サンジぃ!」
 ウソップが悲鳴を上げて飛び上がった。
 ――やりやがる。
 しゃがんだ姿勢のまま、サンジは動きを止めた。
 見ずとも分かる。今、僅かでも動けば、この冷たく真っ直ぐな殺意は一瞬でのどを貫く だろう。
 ほんの数回瞬きする間に、形勢は逆転したようだった。
 男の荒い息だけが、森に響く。
 サンジは冷静に状況を分析していた。
 動けば死。動かずとも死。ルフィの拳よりナミの魔法よりウソップの銃より、男が刀を 僅かに動かす、その方が速いことは明白だった。《紅風の魔獣》ロロノアの噂は聞いて いたが、まさかこれほどの剣士とは思いもよらなかった。
 油断したつもりはない。
 男はあまりに、強かった。
 ひとつ、溜息をもらす。
 落ち着け。
 この男もさっきから動かないが、それは何故か?
 俺が死ねば、自分も殺されるだろうということが分かっているからではないか。
 ルフィは成り行きを見守っているだけのようだが、自分に何かあれば、凄まじい瞬発 力で動くだろう。
 ナミは、本来全文を唱えねば発動しない魔法を、ほんの二言、三言で発動させる事 が出来る。ルフィがやられても魔法は発動し、男に致命傷を与えるだろう。
 ――ウソップ、お前の銃だって、俺は結構頼りにしてるんだぜ。いやホントに。
 多分、茂みの中で、震えながらも照準を男にあわせているであろう頼りになる狙撃手 に心の中で話し掛けると、サンジは吐いた息をゆっくりと吸い込んだ。
 努めて冷静に。余裕を持って。
「なんで動かねェ」
 喉に触れた刃が僅かに震えた。
 ――バカ正直なヤツだな。
「なんで動かねぇ。動けば死ぬからか?」
 男はそれでも動かない。
 ――ああ、バカ正直と言やぁ。
「…金も命もいらないって言ったよなぁ?」
 それはちょっとした疑問だった。
 奇妙に心に引っ掛かる疑問だった。
 人間なら誰もが欲するもののはずだ。それを、この男はどちらも要らないという。
「じゃあ、金と命以外、てめェは何が欲しいんだ?」
 ぐ、と刀が喉に食い込む。
 一筋、紅い物が流れた。

「…誇りだ」

 ――嗚呼。
「そりゃ、強いわけだ」
 自分でも意外なほど、落ち着き払った声が出た。
 それは自分達にとっても、追い求めるべき「耀く物」だった。
 この男は同じものを求めている。
 サンジは思わず苦笑した。
 ――共感してどうする、こいつは敵だぜ?
「お前、格好いいな!」
 能天気、としか言いようのない声が割り込んだ。
「だからさ、やめようぜ〜。こんなの楽しくねぇしよ〜」
 だらだらと血を流しながら、ルフィは無造作に男に歩み寄った。
 一瞬呆気に取られた男は、反応が僅かに…ごく僅かに遅れた。
 それで十分だった。

 ドォン!

 紫電の蹴り、裂帛の拳、風刃、そして銃弾。
 それらが一度に男を直撃した。
「ぐ…お!!!」
 ぐらり。
 男の巨体が傾ぎ、どう…と地面に倒れ臥した。

 サンジは一息に距離をとり、動かなくなった男を睨みつける。
「し、死んだかしら?」
 不安げに杖を構えたまま、ナミがポツリと漏らした。
 ガサリ!と音を立て、勢いよく茂みから飛び出すウソップ。
「も、も、も、もう大丈夫だ、この勇者ウソップ様の一撃により、こ…」
「お、まだ生きてんぞ」
「ぎょああああああ!!!!」
 瞬時に逆戻り。
「お、お、おい、どうすんだよぉ、そいつ!」
 茂みから鼻だけ突き出して、サンジに問いかける。
 ――どうする、ってったってなぁ。
 サンジは男を見下ろした。
 不思議な事に、サンジはこの男を「危険」とは感じていなかった。
 金のためには何だってする賞金稼ぎとは、どうやら違うようだ。
 ――魔獣、か。
 ここに現れるまで、一体何処で何をしていたのかはしれないが、男は血まみれだっ た。
 …《紅風の魔獣》という通り名に相応しく。
 でも。
 何故か男はサンジを殺さなかった。
 命はいらないと言っておきながら、やっぱり命が大事だったのか。
 それとも他の理由からか。
 
「…誇りだ」

 ――誇り、か。
 新しい煙草に火をつけ、倒れて動かない男を見やる。
 ガッシリした体は、サンジとは正反対だ。所持品はどうやら三振りの刀のみ…そのう ち二振りはルフィが無造作に掴んでいる。最後の一刀は、気絶してもなお、固くその手 に握られていた。剣士としての執念か、それとも余程大切な刀なのか。ろくな旅荷もな く、男はどうやってこんな山奥までやって来たのだろう? 一体何をして、こんなに傷だ らけになった? …この男にとっての誇りとは?
 考えれば考えるほど、疑問は深まるばかりだった。

 ――ああ、面倒くせぇ。

 サンジは無造作に男に歩み寄ると、マントが血に濡れるのも構わず担ぎ上げた。
 見た目どおりの重さに眉をしかめる。
「ササササンジ!? お前何やってんだっ!?」
「何って…」
 口の端を歪め、サンジは言った。
「拾った」
「はぁ!?」

「拾ったから、コレは俺のな」

 途端にナミとウソップの猛抗議が始まった。
「何考えてんだサンジ! そそそいつはアレだ、そのー…」
「あの《紅風の魔獣》でしょ!? 拾うだなんてとんでもない! 今すぐ息の根止めるべき よ!」
「そーだそーだ、ナミの言う通り! そんな危険なやつ、拾ってどうすんだよ!」
「拾ったって良い事ないに決まってるじゃない! 捨てて捨てて!」
 ぎゃあぎゃあとまくし立てる2人。
 しかし、ルフィは違った。
「じゃあ、そいつのも何か買わなきゃな〜」
 嬉しげに言って、持っていた二刀を鞘に戻してやる。ついでに握り締めた刀も鞘に納 めようとして、男の拳が剥がれなかったので、そのまま無理やり戻してやった。
「まだ連れてくとは言ってねェぞ」
 少し呆れたようにサンジが言うと、ルフィはぶんぶんと首を横に振った。
「いーや、連れてく。俺が決めた。連れてく」
「でも、拾ったのは俺だ」
「じゃ、サンジが捨てたら俺が拾って連れてく」
 勘弁してくれ冗談じゃないわ、と呆れたような抗議の声。
「只でさえこのパーティーはややこしいんだから! これ以上ややこしくしてどーするの よ!」
「それに、目ぇ覚ましたらまた襲ってくるかもしれねぇんだぞ!?」
「あ、ダイジョーブダイジョーブ」
 実に無責任にルフィが言った。
「もうコイツは俺達を襲わねぇよ。な、サンジ!」
「ああ」
「その自信は何処から来るのよ!!」
 ナミは頭を掻き毟らんばかりに身悶えると、怒りの矛先を何故か傍にいたウソップに 向けた。
「ああもう何なの!? みんな一度言い出したら聞かないし! ルフィの言ってる事は大体当たるし! 私の心配は無駄だし! どうしてくれるのよ!!」
 杖でボコボコとウソップを殴りつける。
「そんなもん俺が聞きてぇよおおお!」
 半泣きで器用にかわしながら、ウソップも叫んだ。
「すみません、ナミさん」
 心底申しわけなさそうに言って、サンジは頭を下げた。
「いざとなったら俺がきちんとしますから」
 ナミはぜぇぜぇと息を切らしていたが、杖をビシィ!とサンジに突きつけて言った。
「…サンジ君に何かあったら、すぐさまそいつ殺すから。いいわね?」
「勿論です! 俺を心配してくれるなんて…光栄ですナミさん!」
「はいはい、知ってます」
 物凄くテキトーに応えると、ナミは杖を肩に担ぎ、さっさと歩き出した。
 ウソップはその辺に放り出されていた荷物を拾い上げ、慌てて後を追う。
 ズルズルと男の足を引きずりながら、サンジがその後に続いた。
 並んで歩きながら、ルフィが言った。
「なあ、サンジ〜」
「なんだリーダー」

「一度拾ったら、簡単に捨てちゃダメだぞ」

「ああ」

「ならいいんだ。大事にすんだぞ!」

「ああ」

 満足げに笑うと、ルフィはそれ以上何も言わなかった。


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