キスの意味が変わるとき
思わずキスしたくなる唇と、実際にキスして気持ちのいい唇は違う。
例えばリップグロスは濡れたような艶を与え魅力的な唇を演出してくれる。ところが、いざ唇を合わせてみるとあまり気持ちいいものではない。
口紅もそうだ。あのベッタリとした感触に興醒めするという男は多い。口紅だけではなくリップクリームも同じだ。油を感じさせる質感に気が散ってしまい相手の唇を堪能する妨げになるような気がする。何も塗らないほうがいいと言っているわけではないのだが、口紅やリップクリームのテクスチャーはどうも好きにはなれない。なぜなら官能的とは思えないからだ。
あくまでも見た目を整えるメイクアップ、もしくは唇の荒れ防止ということが第一目的である商品なのだから、仕方ないといえば仕方ない。贅沢を言うべきではないだろう。
いつの頃からだろうか。ランガの唇にリップクリームの皮膜を感じるようになったのは。気になるというほどではなかったが。
そんなランガが、唇の荒れが気になると訴えてきた。確かにここのところ唇がガサガサであることが見てとれた。聞けば手入れをしなければと荒れ予防にリップクリームを使い始めたという。どうやらキスをするようになって普段無頓着な彼でも唇の手入れに目覚めたということだった。
そんな彼は可愛いし、その気持ちは嬉しくもある。でもそれは逆効果だった。リップクリームを乱暴に塗ることでむしろ唇を傷つけてしまっていたのだから。
そこで愛之介は、ランガに唇に刺激を与えないようにという注意を添えて、自分が愛用している高保湿のリップクリームを渡した。傷がきちんと癒えるまでキスはおあずけと一言添えて。
シンプルに焦らしてみたというだけの意地悪だった。ランガはそんな愛之介の本心に気づくはずもない。
会えない間、ランガとはメッセージや電話でやり取りをしていた。唇の状態は改善しつつあるという。「今度会うまでに治りそうだよ。あなたにもらったリップクリームのおかげだ。ありがとう」と感謝された。「キスができるようになるまで気を抜かないように」と念を押す。「わかった」と返事をする声は嬉しそうに弾んでいた。
通話を切ると同時に口元が綻んだ。
それにしてもランガはキスが好きだ。はじめてのキスこそ愛之介がリードしたものの、それからはランガの方がむしろ積極的だといえる。人目がなければ軽いキスを仕掛けてくるのは彼の方からなのだ。それもぎこちなさの欠片もない自然体で。唇と唇でのキスは、ごく幼いころの身内以外では初めてだと言っていた。その言葉に嘘はないだろう。
もっとも性的な印象は希薄だった。それ以上の接触を求めるような素振りも見られない。だからそのまま肉体関係へと進んでしまう雰囲気は皆無なのだ。
ランガの中でキスはいったいどういう位置付けのなのだろうか少々悩むところだ。
そんな取り止めのない思考を中断し、愛之介は引き出しを開けた。中から唇が完治したときに渡す予定のあるものを取り出した。それを手のひらに乗せじっと見つめる。前に渡した保湿目的とは違う効果効能を持ったリップだ。そしてこのプレゼントは自分にとっても大きなメリットがある。
「治ったよ」
ほら、とランガは顔を近づけてきた。そんな彼の輪郭を両手のひらで包んで覗き込んだ。
「どれどれ。確認させてもらおうか」
血が滲んで痛々しかった唇は明るい桜色を取り戻していた。
「どう? もう痛くなくなった」
「そうだね。よかったよ。あのリップがダメなら皮膚科で診てもらったほうがいいかなって思ってた。荒れた原因はただのいじりすぎ。過ぎたるは及ばざるが如しだ」
「過ぎたるは? 何それ?」
「何ごともやり過ぎはダメってこと」
「そう。じゃあキスしよう」
その唐突な“じゃあ”はどこからきた“じゃあ”なんだ? などと突っ込む隙も与えず首に腕がするりとまわされた。チュッというリップ音とともに唇が触れる。その一瞬でわかる柔らかな弾力、しっとりとした潤い、心地よい人の体温。ランガの唇だ。
すぐに唇は外される。澄んだ青い虹彩が揺らめいていた。
愛之介の口元からふっと笑みがこぼれた。
「君は本当にキスが好きだね」
目を細めランガの頭に手を置いた。
すると彼はパチパチと何度か瞬きをして「え?」といった面持ちで目を丸くした。
この反応、自覚はなかったのか。
「違うの? 君は会うなりキスをしたがるから」
長いまつ毛がそっと伏せられた。
「そっか、俺キスが好きだったんだ。ごめん迷惑だった?」
少々焦る。
「迷惑だなんて、そんなことあるわけない」
「本当はいやなのに無理していない?」
「僕は無理する性格じゃないよ」
「うん。なんでだろう。キスしたいって思ったからした。それだけ。愛抱夢がいやがっているのかも、なんて考えなかった」
そう言ったきり、彼は黙り込んでしまった。
ランガは自分の感情を言語化することが苦手だ。日本語が不慣れという理由もあるだろうが、たとえ英語でと促したとしても論理的に話すことはできない。
「いいよ。無理に説明しなくても。僕は君からキスをされることが好きだよ。君から愛されているとまで言わないけれど、君は僕のそばにいてくれると実感できるから。君を愛していいんだって安心できるんだ」
「最初にあなたがキスしてくれた。多分それで抵抗がなくなったのかな。あなたにキスしていいんだって思っちゃったんだ」
「君は僕がキスしても大丈夫だと思ったからキスをしてくれたの?」
「きっとそう」
それならば、少しだけ気になっていて、でも訊くことが怖かったことがひとつある。大きく深呼吸をして覚悟を決めた。
「もし……もしだよ、キスしてもいいよって言われたら、キスしたい人って僕の他にいるの?」
そう、たとえばあの赤毛の親友とか。
ランガは目を見開いて愛之介の顔を見た。
「それはどうだろう。考えたこともなかった」
ランガは顎に指を当て眉を寄せた。即否定することもせずに思い出そうとしているような仕草に少しばかり気鬱になる。
「おかしなこと訊いちゃったね」
彼は首を左右に振った。
「ちょうどいいから、ちゃんと考えてみる。たとえば、暦——俺、暦のこときっと愛しているんだ。初めてできた友達だしずっと親友でいたい」
なんの迷いもなく「愛している」と断言してしまうのか。わかっていた。君の一番は彼だったね。理解しているはずなのに胸が強く痛んだ。
「でも、だからこそ暦とキスをするなんて想像できないし、したいとも思わない。どれだけ愛していても母さんや父さんとキスしたいと思わないのと一緒だよ。もし暦からキスしたいと言われたら俺どうしていいかわからなくてパニックになりそうだ。そんな心配絶対にないけどね。だって俺たち一番の親友だから」
ランガは晴れやかに笑った。
では、僕は君にとってなんなんだろう?
そんな愛之介の心を読んだように彼は続けた。
「父さんと母さんは、いつもキスしていた。おはようのキスから始まって、いってらしゃい、おかえり、おやすみなさいと、目と目が合えばキスしていて、それが普通のことだったんだ。俺の両親が特別だったんじゃなくて仲のいい夫婦や恋人、パートナーだとよくあることだから。母さんはキスの習慣がない日本人だったから最初は戸惑ったみたいだけど『郷に入れば郷に従えで慣れた』って。子供の俺にも伝わってきたよ。父さんと母さんが愛し合い、どれだけお互いを大切だと思っていたのか。でも母さんにはもう……」
青い瞳が潤んでいることを見て取り、ランガを抱き寄せた。
君を泣かせたいわけではないんだ。
愛之介の首に顔を埋めたランガの頭を撫でた。
「悪かったね。それ以上何も言わなくていい。考えなくていいから」
言葉にする必要はない。だって僕は既に知っているんだ。君がわかっていなくても理解してしまったから。
「うん」とくぐもった声が響いた。襟元にかかる布地越しの吐息があたたかい。愛おしさが込み上げてくる。
体を離したランガが少しだけ低い位置から愛之介の目をじっと見つめてきた。
「俺、愛抱夢を利用していたのかな。本当は気づいていたんだ。あなたが俺に何を求めているのか」
愛之介は微笑み、ポケットから渡す予定だったリップエッセンスを取り出した。
「君にこれを上げよう」
「リップクリーム? この前のと違うの?」
「前に上げたのは唇の荒れを防ぐ高保湿のリップクリームだったから、毎日お手入れに使うものなんだ。これはキスの前に使うリップエッセンスだ」
そうこれはキスが好きなランガにおあつらえ向きだと思った。
「キスで唇が荒れないように?」
「まあそれもあるけど……別の効果もある」
「別の効果って?」
「リップクリームと違って、キスしたとき気持ちいい。何よりも……」
それ以上の説明をどうするか少々悩む。
「どうしたの? 教えて」
「聞きたい?」
「うん」
彼の耳元に唇を寄せた。
「エッチな気分になる」
一瞬ランガの表情が固まる。やがて手元のリップエッセンスと愛之介の顔を交互に見た。
「エッチの意味わからなかった?」
「わ、わかる。そのくらい。学校でもよく聞く言葉だから」
ランガの頬にさっと朱がさした。この反応。どうやら正しく伝わったらしい。
「そう、日本語たくさん覚えたね」
もっとも実際どの程度の効果があるかは怪しい。たかが化粧品でそんな効果効能があってそれを表記したら薬事法違反だ。でもまあ触れて気持ちのいい官能的な感触であることは保証する。
「これからキスの前にこれつけるの?」
「ん? いや、ランガくんの中でキスの意味が前と変わってきた、と思ったときに使って欲しいな。いつ使うかは君に任せるよ。それまで大切に取っておいて」
「キスの意味?」
「いくら鈍感な君でもそのときになればわかるはずだ。それとも今説明して欲しいかな?」
ランガはふるふると首を横に振った。
「大丈夫。俺、そこまで鈍くないから」
「僕はね、気は長いんだ。焦らなくていいから」
君のキスが今はまだ喪失感を埋めるものであったとしても、それを僕に求めてくれた幸運に感謝しよう。
「ハグとキスしていい? いつものやつ」
「もちろん」
両腕を広げれば、ランガは胸の中に収まり背中に腕をまわしてきた。チュッと唇が軽く触れるだけのキスを交わしてから、ぎゅっと抱きしめる。
背中にまわされた腕に力が込められ、彼は言った。
「キスの意味が変わるまでに、きっとそんな時間はかからない」
返事の代わりに彼の頭をポンポンと軽く叩いた。
「さて、そろそろ滑ろうか」
愛之介は立てかけてあったスケートボードを掴みいきなり走り出した。「負けない」ランガも前を走る男の背中を追う。
ふたりだけのスタート地点はすぐそこだ。
了