キスはおあずけ

久々のスケートデート。なぜかランガは落ち着かない様子で、しきりに唇を舌で舐めたり指で触れたりして首をかしげていた。

 気になった愛之介は訊いてみる。

「どうかしたのかな?」

「最近、唇がボロボロなんだ」

 ああ、確かに気になっていた。

「いつから?」

「最近かな。荒れる前からリップクリームでケアしていたんだけど、最近は塗っても塗っても皮が剥けたりして治らない。血が出ることもある」

「前はそんなにリップなんて塗っていなかったよね?」

「うん。手入れくらいしたほうがいいのかなって」

「どうして、そんなこと気にしはじめたの?」

 ランガは妙に落ち着きのない様子で視線を宙に泳がせはじめた。

「それは、えっと」

 微かに彼の頬に朱がさしたのを認めて、大方察したが一応本人の口から言わせてみることにした。

「それは?」

「あ、あの……キ……」

 ああ、やはりね。

「き……って?」

 助け船は出してあげない。ここは本人の口から言わせたい。いやらしい笑みが浮かびそうになっている口元をグッと引き締める。この意地悪さにランガは気がつかないだろう。

 彼は決心したように顔を上げ愛抱夢に視線を向けた。

「キスするときに気になるんだ」

「そうなの?」と驚いたふうに目をまるくしてみせた。我ながら白々しい。

「リップクリームは、一日何回くらい塗っているのかな?」

「暦から教えてもらったこのリップだけど結構塗っている。ガサガサが気になりだしてから特に」

 言いながらランガは、ポケットから取り出したリップクリームのキャップを開けた。ああ、それはドラッグストアで五百円しないくらいで売っているリップクリームだ。男の子が買いやすいデザインの医薬部外品。

 そして彼はゴシゴシと塗ったくりはじめたのだが、なんというか乱暴で雑な塗り方だ。

 リップをポケットに入れたのを見て、彼の顎を掴んで持ち上げ唇を注視する。荒れていることはわかっていたけれど、確かにこれは酷い。皮がボロボロと剥がれ血が滲んでいる。

 まったく。君はもっと自分の肉体を丁寧に扱ったほうがいい。自分の容姿を美しく保とうとする意識があまりにも希薄だ。

「痛そうだね」

「ヒリヒリする」

「話を聞いている限り原因は二つほど考えられるね。君はもともと唇の手入れなんてしていなかったよね。昔はリップクリーム使っている様子はなかったしね」

「うん。本当はあなたとキスするようになってから気になり出してリップクリーム使うようになったんだ。それなのに荒れちゃって。もしかしてキスが原因だったりする?」

「それはないな。だってそこまで頻繁に会えていないしそんなハードなキスをしているわけでもないから」

 未成年相手にそんな激しいことをするほど分別がない大人ではない。キスに関しては、むしろランガの方が積極的なのだ。どちらかというと自分は押し切られている方だと思う。多分。

「じゃあ、どうして?」

「考えられるのは、たまたまそのリップが君に合わなくてかぶれた。あるいはリップの使用回数が多く、かつ塗るとき強く力入れ擦っていていることが刺激になった。君の塗り方かなりぞんざいだったから、おそらく後者かな。もっと唇は優しくソフトに扱わないと」

「詳しいね」

「僕も昔同じようなことで悩んでね」

「キスで?」

 どうしてそうなる?

「いや、冬の東京は乾燥して唇も荒れやすいんだ。仕事柄テレビに映ってしまうことも多い。唇が荒れ放題だとみっともないだろう? それでリップを塗ったりしたんだけど治るどころか悪化してね。今の君とちょうど同じだ」

「それでどうしたの?」

「別件で皮膚科に行ったとき診てもらったよ。そうしたら擦りすぎだって注意された。リップは一日三回くらいで十分。多くて五回までって言われた。それもそっと塗って決して擦らないようにと指導されたんだ。医者の言いつけを守ったらすぐに治ったよ。だから君も塗る回数と塗り方を考え直したほうがいい」

「知らなかった。リップは今まで使っていたのでいいのかな?」

 愛之介は、ポケットからリップクリームを取り出した。

「君が今使っているものも悪くないと思うけど硬そうだから少し擦れそうだね。僕の使いかけで悪いけどこれをあげよう。高保湿のリップで滑らかだから塗るときに負担がかからないよ。嫌でなければ試しに使ってみて」

 手渡されたリップクリームをじっと見ていたランガが顔を上げる。

「これ無いと愛抱夢が困るんじゃない?」

「買い置きはちゃんとあるから大丈夫だよ」

「じゃあ、使わせてもらうね。ありがとう」

 言うなり、ランガは愛之介の首にするりと腕をまわし、顔を近づけてきた。いつもならそのまま唇が重なるところなのだけど愛之介はランガの肩を掴みそっと押した。

「だめ。そんな傷だらけでキスするなんて。悪化するだろう」

 頬に手を添え親指の腹で少年の唇にそっと触れた。少々の傷が彼の美貌を損なうものではないのだが、やはり勿体無い。あらためて彼の唇に意識を向けた。

 ランガを女性的だと感じたことは一度もない。それでもこの唇はイメージの中にある可憐な少女のようだと思った。淡い桜色。厚くもなく薄くもない、ふっくらとした綺麗な形。しっとりとして柔らかい弾力と心地よい温度。愛之介の唇に、記憶されているその感触が蘇った。

 ランガはむっと唇を尖らせた。

「少しくらいなら大丈夫だよ」

 その拗ねたような表情がなんとも言えず悲しそうで、思わず口元が綻んでしまった。触れるくらいのキスなら問題なんてあるわけない。でもだからこそ今は、少し焦らしてみたくなった。

「ランガくん、目を瞑って」

「え?」

「僕の言うとおりにして」

 素直に目を閉じた少年の唇に自分の唇を近づけ、触れるか触れないくらいの距離で熱い吐息をそっと吹きかけた。ピクリと震えた彼の頭を撫でながら、髪に額に目尻に瞼に頬にと、唇以外のありとあらゆるところにキスの雨を降らせる。

 そして最後に耳をぺろっと舐めてやれば、小さく息を吸う音が聞こえた。

「次に会うときまでに治してきて。それまでキスはおあずけだよ」

 自分の肩に頭を乗せこくりとうなずいたランガを愛之介はきつく抱きしめた。

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