悪戦苦闘 | |
願望としては結婚生活を続けたい面はあったのですが、今回は厳しいかなっと思っていた面は確かにありました。 でも、その喧嘩の翌日に子供が主人の実家に泊まりたいとのことを認め、二人で映画に行きました。今までとなんら変わらない会話。今までと同じように腕を組んで歩いたりしました。 自分のひとつの希望としてこのまま時間を過ごし、主人の離婚願望にひと段落するのを待とうかと考えました。 けれども、子供たちが寝ると主人の口からは「離婚についてはどうするつもりや。お前の両親にも連絡しろや」と言われました。 両親の元を離れての生活も人生の半分にも達していたこと、そして、遠方だけに無駄な心配はかけたくないことなどもあり、「連絡は私の心の整理がついてからしてほしい」とお願いしました。 「いいよ」と主人。 今から考えるとその言葉を信じたことが間違いでした。 主人はその後の休日に会社に出社するといい、帰りに主人の実家に行き、私の知らない間に私の両親に連絡していました。 そのことを聞いて「えー、なんで」と私。その後仕方なく自分の両親に連絡をしました。 |
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自殺までのステップ | |
主人との結婚生活が続かず、毎日考え通しの日々でした。 それと同時に100%死亡できる方法もネットから調べていました。 薬物・・・風邪薬を300錠ほど飲むと自殺できる量に達するというページを読みました。しかしここでの問題点として最悪3日間かかることもあり、、肝臓系統で死ぬことが多いとのことでした。昏睡死亡ならいいのですが、二日目に意識を回復することもあると言うことでしたので、この時主人への感情から生きていたいと感じたとき取り返しのつかないことを考えると、この方法に関しては決心がつきませんでした。 飛び込み自殺・・・近所の踏み切りは自殺者が年に数名いるところでした。ところが鉄道関係への飛び込み自殺は後から多大な請求書が来るということから決心がつきませんでした。 主人の車に飛び出す・・・この方法も考えましたが、比較的安全運転の多い主人。また、人身事故ということで仕事に支障を来たすと、残された子供たちへの負担も多いため、これはあまり良い選択肢ではないとあきらめました。 高所からの飛び降り自殺・・・落ちたときの自分の姿、万が一、下に人がいた際にはその人も巻き込んでしまうこともあり、これは没。 車からの飛び降り・・・ネットによるとこれは比較的成功率が高い、と言うことでこの方法をとろうと決心できていました。< 主人の電話により、私の両親がきました。 一連の話をして「離婚は仕方ない」という結論。主人の実家への訪問。この時の言葉については、人生において気持ち的には結末を決心していましたので、とてもとてもひどいことを言ったと思います。 明確な点まで覚えていませんがストレスもたくさんあり、無茶なことを言っていたと思います。 主人にどんな形で頼んでも今回の離婚の結論にしか結びつきませんでした。もちろん自分の反省の気持ち主人に対する正直な気持ちなどを話しましたが、主人の離婚という気持ちには変化はありませんでした。 もともと30歳で人生終わりという気持ちもあったので、後は自殺の決行という思いも固まってきていました。 |
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自殺の決行 | |
「あなたとの約束の中で、私への愛情があるうちは自殺しないと約束してたけど離婚ということは自殺してもいいってことなんだね」と質問したところ 「しない癖に言うな。ご自由にどうぞ」この主人からの言葉が自殺実行への大きな動機となりました。 ある日主人がもらっていた睡眠薬を7錠ほど飲みました。それがばれてしまい病院へ連れて行かれそうになりました。 今までの経験からしても自殺関連で入院してしまうと退院に大変なことなどを思い出し、自殺決行の決心がつきました。「救急車じゃなくあなたに病院まで連れて行って欲しい」と頼み主人の運転する助手席へ。 今考えると正気じゃないとしても飛び降りたときの心境はしっかり覚えています。そして言い方が適切であるかは不明ですが、「自分の人生がやっと終わりにできる」というある意味で安心感のような気持ちもありました。 「20キロ、まだ死ねない」 「40キロ、これもきっと失敗の確率が高い」 「70キロこれならいいかも」と思いました。 「横からのバイクの走行がないことを確認」しました。 飛び降りた私にバイクが当たってしまうと予想外の加害者を巻き込むことになってしまいます。 そして、後続車との車間距離。多分私が飛びありたと同時に急ブレーキが予想されてましたので、後続車との車間距離が短すぎると私の自殺に他者を巻き込むことになってしまうので後続車との車間距離の確認。 そして心の中で「あなた、今までほんとにありがとう」と思い、約70キロと思っていた車から飛び降りました。 けれども、主人から後に聞いた話では、多分30キロ前後とのことです。本当のことは今となっては不明です。 その後主人の説明によると、飛び降りた後の私を車に乗せ目的の病院へ行ったそうです。胃の洗浄をその病院で済ませたそうですが、治療はその病院では不可能ということで**病院に運ばれたそうです。 レントゲン等の検査、脳挫傷ということで二日ほど意識不明。その直後の生活については一部しか覚えていません。 そして、意識こそ回復したのですが記憶は戻っていません。**病院でのでの行動があまりにひどかったようなので精神科への転院で記憶の回復そして退院までの日々を過ごしたそうです。 |
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意識の回復とその後 | |
約2ヶ月ほどで意識は回復しました。 その間のことはほんの少しの時間、覚えていることもあるのですが、自分で途切れることなく意識を回復するまでには2ヵ月ほどかかりました。 主人について、記憶に残っている部分では2回ほどお見舞いに来てくれました。 その頃から私の思い出す部分は楽しかったときのこと。でも、主人の離婚の意志はかわっていません。 一度目の面会の際は涙がいっぱい出ました。 でも、その後の主人との電話で「泣かれると・・・」と聞きました。 二度目の面接の際はできる限り泣かずに面会が終了しました。でも、それは精一杯の努力でした。 ですから、主人に笑顔で「お見舞いありがとう、じゃあね、ばいばい」と別れの後、号泣しました。 泣かずに面会できたという点では合格なのですが、その間の緊張感とこんなに大好きで愛しているのに残された道は離婚のみという感情が切羽詰ってしまったのだと思いからあふれた涙だったと思います。 その後の主人との連絡に関しても、極力連絡をとらないようにしました。今まで子供の入院などで、生活が離れたときなどは一日に数回連絡を取っていたのが事実です。 けれども、今回は自分の考える精一杯の努力として、主人に必要以上に連絡しないというぐらいしかできませんでした。 入院の初期には、数回子供たちもお見舞いに来てくれていたようです。そのことを知ったのは退院後しばらくしてからでした。 意識が戻ってからは子供たちに、手紙は書いてきました。その際に注意していたことは手紙の最後には必ず「あなたたちのことを真剣に考えてくれているのはおじいちゃん、おばあちゃん、そして誰よりお父さんです。感謝の気持ちをあらわしてくださいね」というような内容を必ず付け加えていました。感謝の気持ちを忘れて欲しくないということが、心の中で常にありました。 たぶん、私がそんなこと言わなくても大丈夫な子供たちだとは思うのですが、主人や主人の両親が手紙を見る可能性もあったので、気遣いもあったことは確かです。 記憶が戻って初期の頃、時々電話もしていたのですが、 電話をすると懐かしさがグーっと込み上げて来て「ごめんね・・・」と言いながら涙が出てしまうことも多かったので、電話が必ずしも良い結果ではないと思い、手紙が多かったと思います。 でも、退院近くになってくると電話でも泣かずに話ができるようにもなっていたので、子供たちのことはできる範囲でしてきたつもりです。 その際にも主人が間違いなくいないであろう時間帯をねらって電話していました。主人の両親のどちらかが電話に出た際も「お詫び」と「お礼」は忘れなうようにしていました。その頃の私にとってできることと言えばそれぐらいのことでした。 |
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入院中の思い出 | |
いつの頃からが自分が喫煙者ということを思い出したのでしょう。初期には喫煙はしていなかったようですが、いつの頃からが喫煙を始めました。 喫煙は男性が多く、病院での生活の大きな支えとなりました。 精神病院の入院ということもありいろいろな患者さんはいましたが、この当たりでは今まで自分が心理学や精神学に関心が強かったという点が、苦労の面を大きく減らしてくれたと思います。 喫煙者に男性が多かったこともあり、患者さんへの不満等は喫煙中に男性の患者さんに愚痴ることで大部分が解消されました。精神病院に入院している方々ですので日によって状況の変化は確かにありましたが、それに関してもあまり負担とはなりませんでした。病室の患者さんにも恵まれていたのでしょうね。 |
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多少困難を覚えた点は自分が仕事としていた「講師」という仕事は病院で言うなら医者や看護婦の立場の仕事です。意識が戻ってからは、自分の口出ししてもいいことと、看護婦サイドの仕事との点で、ずいぶん頭を悩ませました。「それは看護師の仕事よ」と注意をされることもしばしばありました。でも、段階的にわかってきて、あとになればなるほど要領はつかんできたつもりです。 ある時期の入院中に自分の心の葛藤として差別意識がありました。学生の頃ボランティアをしていたこともあって「精神病患者だから」と思うことが妙に差別意識ではないかという点が心に違和感を感じさせました。「大切にしてあげたい」という気持ちの原点には「精神病患者さんだから」と思っていた面が確かにあったと思います。けれどもこの意識は別な面から見ると差別意識だと思います。ここでの心の葛藤は予想以上でした。 |
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ある患者さんが入院してきたとき、この話をすることができました。その方はいとも簡単に差別意識を感じさせずに「精神病院だから」と言われました。私が根本的に言うのを嫌がっていた表現です。でも、その方の言葉のおかげで決して強い差別意識を重視していないということがわかり、この私の心の葛藤にも一応終止符がうてました。ともに入院している患者さんたちに差別と言う意味ではなく必要以上に負担をかけない自分なりの工夫と言う見方でいいんだと思うようになりました | |
両親とのあれこれ | |
意識が戻ってからお見舞いに来た両親や、両親との電話の際に喧嘩することが多くなりました。 精神科へ入院させられたことに関しては自分の状態からして仕方ないし、自分の関心の深かった精神病の方々の実際の姿を見られたことに対する貴重な体験から、ストレスは親が考える以上に少なかったと思います。 でも、なぜか電話等で話したり、面会に来てくれた時、喧嘩になることが多かったです。まぁ、小さい頃から両親との喧嘩が多かったことも否定的することは出来ませんので、仕方ないのかもしれませんね。 記憶喪失の間の両親の苦労は思い出すこともできない状況なので、不満の気持ちでいっぱいでした。 母に用事があり電話した際に父しかいませんでした。この時、「あまり心配かけては申し訳ない」という動機から元気のいい声を出したのが災いして父から「反省していないな」という言葉。 「元気になってきていることを伝えたかったからやん。反省してるよ」と私。 「そんなことない。声を聞いたらわかる」と父。 多分、私の心の中では子供の頃からの父に対する警戒心のようなものが思い出されたのだと思います。それと同時に確かに「心配している両親の心」にも想像がついていたので、動機としては両親のための元気そうな声でした。 でも、それをそんな風に言われたら「悔しい」という思いとともに、勝気な面の私が出ました。 いろいろな思いで、父と会話をしているうちに、親子の縁を切ると言い出しました。 「どうぞ」と答える私。 「ごめん」という言葉を欲しがるっているのだろうという父の気持ちもわからないこともなかったのですが、 「電話切るぞ」という何回かの父の声。 私の中の警戒心は、心情的には父の気持ちはわかるものの、「どうぞ」と一言の私。 翌日、母に電話した際に、母も昨日の父と同様のくどい内容。 「父の希望通り、親子の縁断絶で結構です」と電話を切る私。 その後何の連絡もないため「あー、やっぱり、私の考える通り意思の疎通の難しい人たちだったんだ」と思いました。 このころから、「過剰の期待をして裏切られた」と思う私自身の感情の処理に困難や否定を感じ出した私はある意味「冷酷」に両親との会話をこなしてきたと思います。 それが退院直前まで続きました。 私、「退院決まったんだけど」 母 「よかったね」 私 「さぁ、あなた方が私を迎えに来るか、退院を肯定してくれるか、私にはわかりません」 母 「迎えに行くよ」 私 「期待して、裏切られると、自分をkeepする力がないので、期待なんてしていません」 退院の日の前日も電話でも 「今、来てるよ、これで信じられた?」と母。 「さぁ、あなた方の行動にかかっているのではないですか?」と答えました。 その時も、裏切られて腹を立てそんな自分の感情を立て直す余裕がないのでそう答えたと思います。 今から考えると主人とのどうにもならない関係等もあり、 自分で負担をを増やしたくない逃げ道だったのでしょうね。 それに電話の途中で両親から主人の言ったことが出てくると、 「あなたたちがあの人を信じたかったら、どうぞ御自由に。どうせ私の言葉など信じられませんでしょうから」と言ったこともしばしばありました。これももしかすると私の逃げ道のひとつだったのかもしれません。 とにかく「期待して裏切られることの負担」はその頃の自分にとって予想以上の重圧でした。 ただ、この際に私の主義(もしかするとこだわり)なのかもしれませんが、両親と喧嘩をしたことなどに関しては必ず隠さずに先生に報告していました。都合よく隠すという人間性に関してはもともと好きではありませんでしたので、先生には忘れることなく受診の際に話したつもりです。 |
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退院当日 | |
「主人に迎えに来てもらいたい」という願望こそあったものの、 そのことが「主人にとって負担にしかならない」ということもわかっていたので、 結果的に両親が迎えに来ました。その際も喧嘩。 退院当日の病院の中での会話です。 父「何にもわかっていないお前はまだつれて帰れない」 私「どうぞ、退院させるのがいやなら、ここで一生暮らさせていただきます」 母「お父さん・・・そういうことではなかったでしょう」 父「いや、今の様子を見ていると反省もしていないし、ぜんぜんわかってない」 私の心「あーやっぱりね。過剰な期待しなくて良かった」 でも、半面、心の中で「あー、もしかしたつれて帰ってもらえないかもしれないな」と思っていました。 先生がまだこられていませんでしたので、早く担当の先生が来てくれないかなと思っていました。 先生が来てくださると我慢していた感情が噴出し、涙があふれました。 「先生、親がぜんぜん私の気持ちなんて理解してくれない。反省しているところなんてぜんぜん認めてくれない」と心の底の言葉が出ました。 自分自身との葛藤も正直に先生にも話してきたので、ある意味で先生は私の反省や今後のことを理解してくださっていたと思います。先生にはその治療の途中も正直に話していることも多かったので、しばらく、先生と両親と私とで話していたのですが、 先生 「あなたに抜けてもらってもいい?」と私に尋ね 私 「はい」 結局、担当の先生が両親を説得してくれ、退院可能となりました。 その頃の自分を振り返ってみても、考え方があまりにも偏っていることが気になります。 自分に精神的な余裕がないので、自己中心的な考え方が多く、 少し時間がたてば言った事がおかしいとわかるのですが、 会話中はあまり余裕もなくたくさんの逆説的な理論で話していたと思います。 記憶喪失からの回復までの一時的なものなのか、自殺失敗への後悔なのかは不明です。 |
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