Recollections under marriage1

出合った頃の思い出
私にアタックしていた人が親友を含めたコンパを提案。
「まぁ、いいけど」とコンパをすることにしました。
このとき、主人とのはじめての出会いです。
特別な印象はなかったのですが、
あまり
人のテンポにあわせることをしない人だなーっという印象でした。
主人に心引かれた理由
決定的なものとして、当時も意識していたのですが、
「かわいい」という言葉の褒め方は一切しませんでした。
これが、私にとってはとても印象的。
それとともに、たいていの男の子は下宿の前まで送ってくれるのですが、
主人の場合、阪急電車の駅が私の利用の京阪電車より市街地付近だったので、
あった後の別れは、私を見送るわけではなく、「じゃぁね」といって、主人の利用の駅へ。
私の中ではこの当たりが一方的に私へ感情を告白してきた人との
大きな違いでした。
出合ったころ
付き合いはじめて、とにかく「大事にしてくれているなー」っということを
比較的早い時期に感じました。
最初の頃は、直前に前の彼との失恋があったので、
そのことを根気良く聞いてくれました。
そうこうしている間に、私の心はその人のところに傾きました。

主人と出会いの直前にある男性との一回限りの性関係、その後生理がこなかったので妊娠が心配されました。主人への関心は深まってはいたのですが、いざ、本格的に付き合おうと考えたときその前の一回限りの性関係からの妊娠が心配されました。主人にそのことを告白すると、「僕の子供として育てていってもいいよと予想外の返事。「この人、本当に私のことを愛してくれているんだ」ということが確証できました。'>結果的には妊娠はしていませんでした。そのときの「生理が来た!」と喜びながら言った姿は今でも覚えてます。

中でも印象深く残っているのは、
失恋した彼のバイクが、偶然にもデート中の車の直前にいました。
すごく内心ショックで「あれが、前の彼」と私。心境的には憎いということを伝えると、
「ひいてやろうか?」と一言。
確かある意味、以前の彼に憎しみのような気持ちは持っていましたが、
「そんなことしたらあなたが犯罪者になっちゃうよ。今の気持ちだけで十分うれしい」と
答えた覚えがあります。
また、前の彼がマザーコンプレックスのような面を持っていたので、
同じような人は「絶対にいや」という拒否感が私の中にはありました。
でも、これに関しても私のことが一番大切という感じで接してくれていたので、
問題が生じることはありませんでした。
その後の付き合い1
短大の卒業も近くなり私の親の希望としては実家での就職。
主人の希望としては私の性格からして遠距離の恋愛は不得意であろうとの想像から、実家へ帰ることには否定的。

その話の最中、最初の
意識不明。多々の不安は感じましたが若干の時間で意識の回復。

心理学等が好きであった私にとっては主人が倒れることはあまり負担とはなりませんでしたが、裏を返すと私への思いが現実的なものとの確証と考え、在住を決心する大きな理由となりました。

その後の話でわかったことなのですが、主人はあまり人に信頼を置かない人だったようです。だから、人生最初の信頼関係(恋愛関係)だったようです。そのことが今まで主人が外見的に強く見せていた自分では考えもしかなった状況のようです。本当の気持ちが・・・と言う場面で自分の行き場がなくなると、倒れるという状態につながっていたようです。

ですから、考えようによってはあまり深く感情的にかかわりたくない人には、冷たい言葉や無視という行動で現し、自分を無意識のうちに保護していたと思われます。ですから、もしかすると、本当の愛情がなければ、冷たい言葉や無視で行動していたパターンに近いものがあったと思うのですが、愛情が伴ってしまったばっかりに自分の行動や言葉の使い方がある意味「パニック」になってしまい、倒れるという無意識の自衛策だったのかも知れません。
その後の付き合い2
以前の失恋の結果もあって、すぐに結婚という決心がつきませんでした。
「生活してみないとその人の根本はわからない」という私の心を尊重してくれ、同棲生活に入りました。

その間も全体的に楽しいことが多かったように思えます。一緒に休日を楽しんだり、買い物にいったり、また、映画にも行きました。前回の失恋のトラウマとも言えるような付き合っているときのみ、やさしいのかなって思っていたのですが、同棲してみて主人の優しさは印象的でした。その頃から一人でいるのがあまり得意でない私、仕事を始めたということもあり、生活は不規則。けれども毎朝主人の通勤時間よりも私のほうが一時間半程度早かったのですが、毎朝私を会社まで送ってくれました。

私と主人の共通の考え方の根本として望んでいなかったのは「できちゃた結婚」、避妊に気をつけていました。でも
親類への顔合わせ等々あり結婚式を挙げる決意をしましたですから、結婚式を挙げたといって相手の行動が変わったということもお互いになかったと思います。
結婚式から出産まで
結婚かもしれません
子供を作るということはその後の生活が大きく変わるということを前提に二人で数日間
話し合いました。結果的に自分自身が嫌いな私ですが、万が一主人が何かの事故等で死んでしまったとき、何も残されないということが出産への大きな理由となりました。多分子供は嫌いではないであろうということもあり、不安感は少なかったのですが、はじめての体験です。
予想もしていなかったことは
「つわり」ひどかったことです。出産直前まで続きました。正直言ってまさか自分がつわりで入院をすると思っていませんでした。そんな時でも、私の体のことを一番に考えてくれ、愚痴ひとつことなく口から出る言葉といえば「大丈夫か?変わってあげられるなら、変わってあげたいよー」と何回となく言ってくれたことが印象に残っています。

遠隔地に嫁に行っている人は、実家に戻って出産という人も多いようですが、わたしの場合、生まれてきた子供を一番最初に会わせたいのは主人でしたので、実家に戻ることなく出産しました

また、二人目が出来た時、一番心配だったのは上のこのやきもちでした。誰に教えてもらったわけではありませんが、二人目の子が病院から自宅に戻る際にこんなことを言いました。
一番にお兄ちゃんに妹を抱かせ 「今日から家族になる子だよ」 と紹介する方法をとりました。長男の基本的に優しい性格、年齢的に1歳5ヶ月ほどしか離れていないことも幸いして不安感のひとつであった兄弟の関係についてはあまり問題もありませんでした。

いろいなことがありましたが、主人に支えられて3人の子供を出産して、育てる生活をしていました。
子育て中に感じたこと
外出への不安!!

子供がいたということもあって
神経性大腸過敏症になりました。駅まで5分弱という住宅に住んでいながら、3から5回は家まで腹痛のため帰るという外出への不安がつのりました。

主人はその点に関しても私を攻めることなく、車での外出中も「トイレ」というと、近くの公園などなど回ってくれトイレに行かせてくれました。この行動は外出に対して不安感を増し、できれば外出は避けたいという気持ちを持ちながらも外出しなければならないときなどは不安感を最小限にとどめることに大きく役に立ちました。今考えても感謝の気持ちでいっぱいです。

心療内科へ行き始めたのはこの頃だと思います。自分では「~したい」と思うこともいろいろあるものの、心の中でそれって自分勝手な感情という反抗心が発生する私に、別な観点からの物の見方をアドバイスしてくれ「保育園に入れてみるもの良いかも」とアドバイスしてくれました。

兄弟間の関係に関しては、それなりに相手のことを大事考えていたようで、一般的に言われるような殴り合いの喧嘩は皆無に等しいぐらいでした。3人い子供のうち3番目の子は、上の子供たちと多少年齢が離れているため、家の中では
甘やかされる方が多い状態でした。小学校入学の際に、そのことがどんな風に影響されるかが心配でしたが、幸い、自分のしてもらったことを他人にしてあげるという面で捉えたようです。
仕事への移転   
最初に仕事としてしたのは、テープ起こしでした。テープ起こしをしてしばらくすると、パソコンの便利さをとても好きになった私。人にもこの面白さを教えてあげたいと、思うようになりました。

幸い、インストラクタのバイト先が決まりました。他の講座に聴講生のような形で入り、自分のインストラクションのできる講座を開拓して行くというというパソコンスクールのやり方でしたので自宅でのパソコンの確認等が必要となりパソコンに向う時間がだんだん増えてきました。
小学校の先生にパソコンを教える教育委員会嘱託のこの仕事も約一年半しました。
それに、自分では無縁とも思っていた大学で大学生に教えるということまで出来たのは、離婚という結論が出た際には役に立つ面だったかもしれません。

若い頃、普通の会社に勤めて、大きな挫折感があって、会社勤めは無理かとも思ったけど、パソコン関連の仕事に関しては違和感も少なく、もしかすると「天職」と思いました。

でも、後々の生活を考えてみると、この仕事に燃えたこおと事態が、後々主人との離婚までの過程に大きく影響してくる面でもありましt。

主人の心の問題
主人が倒れることについては、回数こそ減ってはきているものの年々倒れ方がひどくなってきました。

簡単に言うと
「倒れるまでの行動の激しさ」「倒れてから回復までの時間の長さ」などです。万が一のことがあって私を殺したり、主人が予想もつかない怪我でもしたら、家族全体に影響が及ぶので主人の体の安全がいつも課題となっていました。

そんな中でも印象に特に残っているものは、喧嘩をしていて自分の状態が切羽詰った時に家の中を走り回り、柱に頭をがんがんして倒れたときのことです。通常は次に意識を戻したときにはおとなしい子供の頃の主人にかえり、私を否定的に見ることは少なかったのですが、そのときは幼児のようになった際に、風呂場に逃げ込み、ほんの少し濡れていた浴槽に座り込んでしまいました。
寒かった時期もあり、
早く濡れているところから出してあげたいという思いで、いっぱいでした。主人の成長期だと、たぶん小学生の低学年のころの主人だと思います。まず、触れると嫌がることが多いので、「大丈夫?寒くない?」といった親切な接し方で、接します。だんだん慣れてくると、おびえているという様子が少なくなります。体に触れるときには必ず許可を得た方がその状態の悪化を防ぐことは経験から学びました。

「寒いから風邪ひいてほしくないなー」
「あっちに行こうか」
「はい、手をつないでいこう」
といった幼児期の
子供への接し方の基本のような会話で畳の部屋に戻し、まるで小さい子の着替えのように
「パンツとズボン持ってくるから、待っててね」
持ってくると、
「はいズボン脱いで」「次、パンツね」「はい、これはこうね」といった感じで濡れている服を着替えさせました。
それから、何歳頃の主人に戻っているのかが気になるので、「何歳?」とか「お友達の名前は?」と聞きました。

その状態からの脱出方法として経験的に学んだことは、その時の出現した子供とはあまりにも違う年代のことを話し「パニック状態」を引き起こすことでした。そうなると、正常な状態から混乱するときのような暴れる状態はなく、
通常意識を失いました。そして次に目覚めたときには、頭痛は残っていても通常の主人の状態に戻ることがほとんどでした。
そのときにも、同じような方法で通常の主人に戻りました。

ただ、いつも以上に家の中を混乱させ倒れていましたので、意識を取り戻した後に、家の中を見て
びっくりしていました。そして、それとともに自分の意識が無いうちに柱でがんがん頭を打っていたので、頭の瘤と、それを止めるために私の手が入りましたので、私の手にできた青あざなどを見て「これぼくがしたん?」といったほどです。

でも、基本的には必要以上に主人にそのことで劣等感などの感情を持ってほしくないと思っていたので、私から出る言葉と言えば
「気にしなくていいよ、しかたないもん」と言う言葉でした。
診断等
主人の症状が繰り返されると共に、病院に何回か行くことになりました。
でも、大抵の先生が一番に心配されることは、
「てんかん」ではないかということでした。
そのために、脳波を取ることも数回ありました。

でも、いつでも結論的に出るのは、「てんかんではありませんね」と言うもので、具体的な病名は不明なことが圧倒的に多かったです。
また、いつでも主人がそんな症状が出るというわけではありませんでしたので、結局、先生の前では症状も出ることがなく、先生の側に立っても病名の結論には達しにくかったと思います。

某社に入社して、最初は中途採用ということで社員研修のようなものが多かったようです。

その間に関しては自分の好きな分野の音楽などのスピーカー等の研修もあり、そんなに苦痛ではなかったようですが、しばらくたって会社から「あのー御主人は御自宅におられますか?」、私「えー出勤からまだ戻ってませんけど」、会社「すみません、3日ほど出勤されてないんですけど」この言葉で私は愕然としてました。

けれども、ある面で精神的な弱さも知っていたので、「明日に、またご連絡させていただきます。」ということで電話を切り、主人の帰宅を待ちました。帰宅後、「会社から電話があったんやけど・・・」というと「実は」という言葉から主人の心の現状を話し始めました。要点としては
1. ノルマが厳しく出勤できなくなったこと
2. 心配をかけるのも主人自身の意には反していたので私にそのことを話せなかった。
というのが今覚えている主な内容です。

案の定、翌日の出社直前に倒れました。救急車で運んだかどうかは覚えていませんが、会社には電話しました。その後、精神科に行くと、うつ状態であること、そしてそれに伴う注意事項等を教えていただきました。

この場面においても、私の中の精神的な面や心理的な面に関心が多いことが幸いし、そのことを原因として私から
別れたいという気持ちには一切つながりませんでした

多分この時一番心配だったのは主人の両親の「主人に対する見解だった」と思います。あまりにも現実的過ぎる主人の両親にとって主人の状態というのは理解し難い状態だという予想がついていただけに、心配しました。
そして私の知っているうつ病についての知識を惜しむことなく伝えました。そして主人の御両親には「、一生続くものではないので、少し時間を与えるつもりでやさしくしてあげて欲しい」ということ、そして、「一番の心配は回復期に入ったとき、人によっては自殺願望を抱くということ」をしっかりとお伝えしました。

治療が数ヶ月続いた時点で「やはり継続して某社に行くことはできない」ということで退社しました。この件に関しても主人の意向を大切にしたいと思う方でしたので大きな反対もせずに、わかってあげたつもりです。
その後、いろいろな情報を調べるようになり、ある入社試験、合格ということで勤め始めました。
病気の理由
主人の心の問題が重なるにつれて数回、私どうしたらいいのかなって考えることも多くなりました。
その後、一度「胸が苦しい」と言うことがありました。

そのときばかりは自分の家の車で医者に連れて行くのが不安だったので「救急車よぶ」と言い、救急車で病院に運ばれたことがありました。

救急車が来るまでに、案の定、意識を失いました。病院到着後、意識を取り戻しました。でも、このときの様子はどう見ても
幼児期に帰っているときの視線でした。「ぼーっ」としがちで医者等からの質問に答えはしているものの、通常の様子とは異なるので、記憶に残らない時の状態だと思いました。

心電図、MRI等の検査をしました。言葉こそ話しますが顔の表情はいつもの表情とは明らかに違っていました。これらの検査の後に救急外来室へ戻った時点で瞬きを「パチッパチッ」私は直感的に
いつもの主人に戻ったと思いました。顔の表情がいつもの主人に戻ったからです。

するといつもの話し方で「ここどこ?」と質問。その後お医者様もいくつか質問しましたが救急車を私が呼んだことや、検査をしたことは一切覚えていませんでした。
その時の先生はやはり今までの先生と同じように翌日は会社を休んで精神科の外来に来るようにとアドバイスをくれ、帰宅しました。

主人は翌日、同病院の精神科へ私とともに行きました。しかし、その先生も診断が不明のようで、以前某大学付属病院で勤め、その後、開業したある医師の下へ行くことを進めてくれました。午後から予約以外でも外来可能と言うことでしたので午後から外来へ行きました。

先生の下で今回のことを最初に話、今までのことも話しました。先生の結論から言うと正式な名前は忘れてしまいましたが、症状としては
多重人格の一種のようなものと言うことでしたので、その先生自体が脳波の測定は必要ないでしょうということでした。

ただ、注意点としてそのとき現れた人格とはあまり長時間過ごさない方が良いということで、睡眠導入剤をくれました。そして、そんなことの後はできる限り寝かして上げなさいという、アドバイスもくれました。一番の心配要因だった脳事態への影響について聞いたところ、「その心配はないと思います」ということでした。
対処の仕方(失敗になってしまった)
今までの経験から考えても、「主人を倒れさせたくない」という願望が私の行動を大きく左右させる要因となりました。

結果として、私に出来ることという視点で考えた時、
喧嘩をしないのが一番いいと感じました。
ですから、その先生の診断以後、極力喧嘩は避けました。
仮に何かで意見の食い違いがあっても、「ごめん、私間違ってた」と言い、自分自身の悔しさよりも主人の様態の維持に努めました。

でも、その反動で私は社会的に認められていない方法を選択してしまいました。主人を愛する気持ちに関しては変わりなかったので、浮気ではないことはここに書いておきたいと思います
けれども、生活はとても
不規則になりました。
具体的な離婚の話まで
主人の帰りが人員削減などの会社の都合上、遅くなることが増えました。
あるとき主人の財布の中をこっそり見ました。

「あれ・・・?」と思ったものの会社のお金を預かっていることもしばしばあったので、そんな種類のお金かなと思いました。
朝、出勤前に「お金いくら持ってるの?」と聞くと「****円ぐらいかな」と主人。
「ふーん」と私。
帰宅後、主人の就寝後、財布を見ると****円でした。そっか、やっぱり預かりのお金だったのかと安心感。でも、もしかすると・・・と言う不安。免許証入れの方を見てみると、小さな紙の袋。あけてみると
女性の写真が入っていました。以前の私だったらそのとき主人を起こし「何この写真!!!」と言うところでしたが、毎日勤務時間が長いため睡眠は確保して上げたいという気持ちが優先しました。

朝、主人の目覚ましがなってから、「あの写真はなに?」と、私。「なんのことや」と主人。携帯見せてと、半分無理に取り上げてメールを確認したところ、女性からのメール。内容的には
「会いたいよー」みたいな内容でした。「なによこれ!!」と私。

主人の気持ちは怒りへと変わりました。「いろいろ**してるくせに何いってんねん」
私「**してるのは私が悪いけど、女がいるならあなたと一緒にはやっていけません」
主人「俺も人のもの勝手に見るやつは嫌いや」
私「じゃぁ、区役所に離婚届取りにいってこさせていただきます」
ここで子供の通学までの時間もあって一時中断。

子供が登校の後
私「区役所に離婚届とって来ます」
主人「どうそ」
その後区役所まで取りに行き、自分の記入の必要な部分を記入し車で外出しました。
動機は自殺したい願望がとてもたくさんでてきたのでそれを実行するつもりでした。

このときも主人の倒れることが私との喧嘩が一因となっていたことを話すと主人がかわいそうと思う気持ちが優先して
直接の原因について主人に言えずじまいでした。

でも、運転の途中でいつもほど自殺願望が優先してこない自分。
たまたま午後から電話した際に子供が電話にでました。
子供は泣きながら「お母さん帰ってきて、どんなに貧しくてもお母さんと暮らしたい」と、子供の声。

一応帰宅の約束をしましたその後主人からの電話。
そして今回のことを主人の両親に報告したこと、そして、主人の御両親が私の意見も聞きたいとのことを伝えられました。
その後主人の両親に電話。「今から伺います」と返事をし電話を切りました。

主人の両親とあったとき一連のことを説明しました。もちろん、お詫びの言葉とともにです。
主人との離婚の話が日に日に進んでいきました。
離婚はいやだと言って主人の心を乱すよりも今までの経験から言っても離婚の話も最終的な部分になると、たいていは許してくれ、元の鞘に納まることが多かったので、離婚の話を進めていたものの、最終的な希望としては、いつものように復縁できることを願望として持っていました。

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