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タイトルRe: アメリカの対北朝鮮政策 by 北の狼
投稿日: 2004/07/15(Thu) 09:52
投稿者旧〜転載
URLhttp://www8.tok2.com/home2/aramar88/
/Subject:「情報」について /From:北の狼 /Date:2003/01/04 18:16


以前に「i勝手支部掲示板」で、「民主主義制度」が健全に機能するためにはマスコミによる権力チェックが不可欠である、という趣旨のことを述べましたが、これについてちょっと述べます。


マスコミのパワーの源泉は、もちろん「情報力」(収集力、分析力、訴求力、影響力、など)です。この「情報力」について、漠然とではありますが、最近の出来事からいくつか想起されるものがありますが、1900年前後の東欧の変革について述べます。



1989年、ベルリンの壁が崩壊した翌月(12月)、ルーマニアで、チャウシェスク大統領が夫人とともに処刑され独裁政権に幕が下ろされました。一地方都市(ティミショアラ)から起こったデモが、またたくまに(ほんの数日間)首都ブカレストに飛び火し、さらに大規模化、先鋭化させていきました。当時、私は、あの事態の激変ぶりに驚くとともに、では、何故いままであのようなことができなかったのか、とちょっと考えたものです。
背景(外部要因)には、もちろん、ゴルバチョフ政権の誕生とそれに伴う東欧の変革(ポーランドやハンガリーにおける非共産党政権の樹立)いうものがありましたが、内部要因としてなにか大きな変化がなければあそこまで急激な行動は不可能であろうと思ったわけです。
その内部要因としては、例えば、国民の不満の鬱積が頂点に達し限界まで来て、わずかのところで崩壊を免れていた積み木細工(独裁政権)が音をたてて瓦解したのだ。それを瓦解させるためには、誰かの「ティミショアラ万歳!」−−−−チャウシェスク大統領自らの支持集会で演説中に投げられたひとつの野次、「ティミショアラ万歳!」の声がきっかけとなり、大統領が演説をしている建物に向かって群集が殺到し、騒然とした雰囲気の中、自らに対して浴びせられる罵声に驚きたじろいだチャウシェスクは口をつぐみ、バルコニーから逃げるように去った。それから激しいデモや市街戦が繰り広げられ、旧体制は崩壊したーーーーの一言で十分だった、という「物語」があります。

この「物語」は、2000年のユーゴのミロシェビッチ体制崩壊の際には、一人の男の子に受けつがれています。
毎日新聞の福井記者は、「ティミショアラ万歳!」の役割を今回ユーゴで果たしたのは一人の男の子だった、と報じています。
ベオグラードの連邦議会正面入り口、睨み合う民衆と警官の間の緊迫した空間を一人の男の子がするすると駆け抜け、議会入り口に向かいました。警官がその男の子の後を追った直後に、民衆が議会入り口になだれ込んだのですが、その時、警官隊はもはや彼らを押し止めるすべを持たなかった。「男の子はどこから来たか、どこへ行ったかもわからない」と福井記者は書き、「だが……この出来事が市民蜂起成功につなdがったとみられている」との感想を述べています。歴史の転回点で、最後のひと押しを決めたのは小さな男の子の”無邪気”な行動だった。向い合う民衆と警官隊、その間を駆け抜けた男の子−−−−絵になる「物語」だと思います。

その「物語」の腰をおるつもりは毛頭ないのですが、歴史が「偶発」によって変わる場合には、偶発を「偶発」たらしめる「必然」が背後に存在するものです。
その必然とは、ひとつには「情報力」であったろう、と私は考えています。

ルーマニアでチャウシェスク政権が崩壊する直前、チェコで共産党政権が崩壊しています。共産党政権打倒の中心勢力となったのは「市民フォーラム」という団体ですが、しかし、この打倒行動(その象徴が「11.27デモ」ですが)は、学生や一般市民が自由に集まり、凡そ統率性がなくリーダー不在という状況で進行したところに大きな特徴がありました。そもそも、「市民フォーラム」が結成されたのは、「11.27デモ」のわずか8日前だったのです。きっかけは、11月17日にプラハで起きた、学生デモと武装警官の衝突でした。
チェコは、1968年の「プラハの春」事件以来、民主化運動は反革命運動であるとして徹底的に弾圧されてきました。チェコは、「プラハの春」以来、国内をがっちり固め、経済的にも成功をおさめ生活が豊かになり、国民の多数が保守化し、政治的不満はあまり存在しないといわれていました。党や国家の指導層は、「他の東欧諸国には民主化が必要であっても、わが国には必要ではない」と自信のほどをのぞかせていたのです。実際、国民の大半は、他の国に民主化の波がおよんでいても、沈黙を守っていたのです。
当時のチェコでは、デモが禁止されていましたが(集会、結社の自由もありませんでした)、例外的にデモが許されている日が何日かあり、そのひとつに国際学生記念日(11月17日)がありました。例年ですと、この日にデモがあったとしても「お祭り」ですんでしまうのですが、民主化を要求する学生たちが、このデモをチェコの民主化と政治的自由を求める場として利用することにしました。それを阻止しようとする警官隊と衝突したのです。それをきっかけとして、”自然発生的”に各地でデモやストが頻発し、11月27日のゼネストへと発展することになりました。
この「ビロード革命」の経緯をおってみます。

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1989年11月17日、チェコの国際学生記念日、二万5千人の学生が集結してデモ隊を組織しパーツラフ広場に向けて行進しようとした。それに対して、警察の治安部隊(対テロ用のスペシャルコマンドも投入されたという)が棍棒をふりあげて襲いかかり、三八人の学生が頭から血を流すなどしてその場に倒れ、数百名の逮捕者がでた。この流血事件によって、チェコの政治状況は一変することになった。

学生はこの弾圧に抗議して連日デモをくり返し、それに市民が加わり、その数日のあいだに数十万人規模にふくれあがった。
この運動に呼応するように立ち上がった市民によって結成されたのが「市民フォーラム」だった。フォーラムの活動は、当初は演劇人が学生に呼応してストに入り、美術家、音楽家(チェコフィルのメンバーすべてを含む)などの芸術家たちが続いた。フォーラムが結成されたのは、11月19日、すなわち学生の流血デモからわずか二日後だった。
フォーラムは政府に対して民主化・自由化要求を提出し、それが実現されない場合は、11月27日にゼネスト(すでに学生たちが掲げていた方針)に入ると宣言した。フォーラムは自然発生的な市民運動団体で、何の公的資格も権限もなかった。頼りは実力だけ、すなわちデモやストの実行力のみであった。しかし、フォーラムを中心とした反政府運動のあまりに急激な拡大を目にした政府は、たまらずフォーラムとの交渉のテーブルにつくことになった。
1977年に果敢に抵抗を試みる知識人によって結成された地下組織「77憲章」が起こっており、弾圧を受けながらも人権を守る運動を続けていたが、共産党独裁を倒すにいたる道のりを踏み固めたのは「77憲章」と認めた国民は、その中心人物であるハヴェルすなわち「市民フォーラム」の代表者を、チェコスロヴァキア連邦大統領に選んだ。
1993年1月、チェコとスロヴァキアが無血で分離(ビロード分離)し、旧チェコスロヴァキア連邦は解体して2つの共和国になった。ハヴェルはチェコ共和国の大統領に就任し、98年に再任している。
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この「市民フォーラム」なのですが、市民側の代表として政府と交渉したとはいえ、殆ど組織の体をなしていなかったというのが実情でした。そもそも、このような急ごしらえのフォーラムに、組織する力なぞありえなかったのです。実態は、あくまで、流血の弾圧に怒った市民が自然発生的に集合して生まれた、「勝手連」のようなものだったのです。ですから、古典的な運動組織のように、各地にオルグを派遣して啓蒙したり働きかけたりするといった活動はまったく行っていません。

では、国家が報道メデイアを独占しいていたチェコで、なぜ運動が全国規模にひろがり「ビロード革命」が達成できたのか?


1968年の「プラハの春」事件以来、「プラハの春」に参加したメンバーは皆社会的地位を奪われ、社会的活動を禁じられていました。「ビロード革命」――――暴力なしに無血で、ビロードのように滑らかに進行したのでこう呼ばれています。おかげで、チェコの文化遺産は破壊を免れることができたわけですーーーーで劇的に表舞台に再登場したドブチェク(元共産党第一書記)は役所の平職員でしたし、作家だったハヴェル(後のチェコの大統領)は執筆が禁じられビール工場の労働者でした。また、マルタ・クビシュバというチェコを代表する女性歌手は21年間も歌うことを禁じられていました。
もちろん、放送、新聞、雑誌などの基本的メディアはすべて党によって独占されていました。

ここで、話がそれますが、チェコの映画事情について紹介します。


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 チェコにおける映画の伝統はきわめて古く、その最初の作品は1898年にさかのぼる。組織的なドキュメンタリー映画の製作は20年代半ばに始まり定期的なフィルムによる記録(ニュース映画)が次々と現れだした。1930年代の初めには早くもドキュメンタリー映画において作家たちは独特のスタイルを持つようになり、ドキュメンタリー映画は、映画産業においても映画芸術においても、次第に完全な一分野としての評価を獲得していった。
 しかし戦後、チェコのドキュメンタリーの運命は政治に大きく支配されることになった。専門的な映画製作はすべて1945年にいち早く国家の下で行われるようになり、1948年の共産主義政変以後は、共産主義イデオロギーに基づく無慈悲な統制が敷かれた。その結果、チェコの長い国家的伝統に培われた価値感、特に両大戦間の民主主義国家、チェコスロヴァキア人民共和国時代に創られた価値感は、急速に荒廃していった。チェコ映画の発展は、継承されることなくそこで途切れた。国家に独占された中央集権的なドキュメンタリーの製作は、政治的なプロパガンダの領域に追いやられた。必然的に劇映画もまた深刻な主観的、道徳的な立場の危機に陥ることになり、その主たる役割は多かれ少なかれ、洗練され隠蔽された共産主義のイデオロギーへの追従に過ぎなくなった。
 1950年代を通じてチェコの文化は何度か深刻な打撃に見舞われたが、もちろん映画もその例外ではなかった。その後共産主義政権は世界における甚だしい悪評を多少とも回復しようと試みたが、民主化への明確な歩みは60年代半ばまで見られることはなかった。しかしやがてこの民主化の波は60年代末にかけて頂点を迎える。共産党はまだ全盛を誇っていたが、同時に文化的および社会的な生活も著しい復興を遂げようとしていたのである。
 比較的自由であった期間は短かったにも関わらず、チェコスロヴァキアでは様々な方面の芸術家集団によって、即座に衝撃がもたらされた。それまで自分の作品に公然と取り組むことができなかった様々な世代のグラフィック・アーティストたち、第一線に立つ舞台芸術家や劇作家、そして最後に決して軽んじることができないのが、チェコのヌーヴェル・ヴァーグの映画作家たちの出現である。彼ら、プラハ国立映画学校(FAMU)の卒業生の多くは劇映画の監督(ヴェラ・ヒティロヴァ、イェルジー・メンツェル、エヴァルド・ショーム、その他)で、1960年代のドキュメンタリーにさほど大きな影響を発揮したわけではない。にもかかわらず、ヌーヴェル・ヴァーグの映画作品は、全体として、映画史上に稀に見る解放的で示唆的な貢献を残した。これはいわゆる「プラハの春」、つまり「人間の顔をした社会主義」の短い季節の一種の象徴と見られることが多いが、そのことは、特別に賞揚すべきことでも貶めるべきことでもないだろう。

このようなチェコの情況にあって、1960年代のドキュメンタリー映画は大衆にとって大変人気の高い、魅力的な表現形式になっていった。一般的な社会批評の風潮にのっとり、ドキュメンタリー作家は社会の状態やそのトラウマ、あるいは関心について、より深い分析へと乗り出していった。主としてこの点には、社会的感受性の強さが如実に表れており、これはチェコのドキュメンタリーの重要な特徴のひとつにもなっている。チェコのドキュメンタリー作家は、若者の生活態度や考え方により強い興味を示すようになり、映像言語によって与えられる幅広い機会を利用し始めた。
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 国家によって押しつけられたマルクス主義的イデオロギーは、多くの話題をタブーにした。それは、支配政権やその指導者たちの直接的な賛美に加担したくないと考える芸術家たちに、現実逃避的な主題を選ばせることを強いた。例えば、ソビエトによる占領後に初の長編劇映画を完成させたドラホミーラ・ヴィハノヴァ監督は、何年もの沈黙を強いられた後に、ようやく映画製作の仕事に復帰することができた。それも「単に」ドキュメンタリー製作に限っての話である。彼女のドキュメンタリーは、例えば、炭坑の主任技術者の仕事(『主任技術者の一日』(1981))や、原子力発電所の食堂の運営(『ドゥコヴァニ、沸騰する大鍋』(1987))や、あるいは収穫機の運転手たちの一団などについての作品である。しかしヴィハノヴァは、これらのそれほど魅力的とは思えない課題にも、十分な責任と偉大な映画的才能をもって臨んだ。彼女はまず最初に彼女の「主人公たち」と共に多くの時間を過ごし、その後今度は編集室での作業に長い時間を費やした。話題が何であれ、彼女は自分の映画に対して常に出来うる限りの最大限の努力を払った。その成果として、人間の努力や仕事にまつわる強迫観念、さらには人間同士の関係の脆さについての、今日でもなお生き生きと感じられる証言を描き出している。

『断続的な時間の目撃者たち、チェコのドキュメンタリー』(ミハエル・ブレガント)
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チェコのドキュメンタリー映画について引用したのは、他でもありません。
「ビロード革命」において、このドキュメンタリー映画が極めて重要な役割を果たしたのです。
同じく『断続的な時間の目撃者たち、チェコのドキュメンタリー』から引用します。


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1989年の民主化動乱は、チェコ人のみならず、全ヨーロッパ人にとっても、共産党政権が次から次へと倒れていく、特別な輝かしい瞬間であった。チェコのドキュメンタリー作家たちはちょうどその場に居あわせた。転換点となった、平和的なデモ学生たちと国家警察との対決からは、珍しいドキュメンタリーのショットがいくつも生まれた。「ビロード革命」の間、ストライキをしていた学生たちはビデオによる証言を多数複製し、それを全国にくまなく配布した。テレビはまだ共産主義の支配者の手中にあり、発作的な情報操作に躍起になっていたので、事は一刻を争った。この瞬間、誰もが、メディアの持つ心理的な力や、時宜を得た映像による報道のインパクトが、きわめて実用的であることに気がついた。
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11月17日の学生デモにおける流血の現場が撮影されたビデオは、次々にダビングされてコピーが沢山つくられました。国内各地にこのビデオ上映用のテレビが設置され、流血の様子を繰り返し〃放映したのです。つまり、ビデオが国営の新聞やテレビを圧倒したのです。それまで、国家がメデイアを独占している国では、国家が国民をいかようにもだますことができるので、革命なぞ起こせるはずがないといわれていたのでした(動乱で中央を掌握した側が、まず最初にやることはメディアの制圧です)。

私は、民主主義制度が健全に機能するためには、マソコミが常に権力をチェックしていなければならない、といいました。
さらに、マスコミが権力と癒着していたり、問題の重要性にマスコミが気がつかず報道されないような問題、さらには、そもそもマスコミに馴染まないような問題については、マスコミに期待することができず、そのようなケースではネットがどれだけマスコミの代わり(つまり「ビロード革命」のビデオの役割を)を果たせるのか、というふうにも述べたことがあります。

今回、「つくる会」教科書の「3割削減」問題を「i勝手支部掲示板」で扱いましたが、私見によれば、マスコミはもとより、ネット全体を見回しても、本掲示板では、もっとも充実した見解や情報が提供され、またもっとも有意義な論議が交わされたと思います。


その他、現代的な意味で「情報」や「マスメディア」を考えるばあい、先の湾岸戦争や「9.11テロ」は結構示唆に富む題材を提供してくれているのですが、これらについては、またの機会にでも。
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