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タイトルアメリカの対北朝鮮政策 by 北の狼
記事No8
投稿日: 2004/07/15(Thu) 09:45
投稿者旧〜転載
URLhttp://www8.tok2.com/home2/aramar88/
アメリカの対北朝鮮政策

 投稿者:北の狼 投稿日:2003/11/03(Mon) 14:16 No.12


/題: アメリカの対北朝鮮政策  :名前: 北の狼 /2003年01月06日 21時46分


本日(2003年1月6日)の読売新聞に以下のような記事がのっていました。

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米誌ニューズウィーク、タイム新年号の表紙は金総書記

 【ニューヨーク=河野博子】6日発売の米誌ニューズウィーク、タイム新年号はそれぞれ、表紙に金正日・北朝鮮総書記のアップの顔写真を組み、北朝鮮の核開発問題を特集した。ニューズウィークは、「かんしゃくを起こしている7歳児を扱うように、泣き叫んでも押し入れからは出さない」との米政府高官のたとえを引用し、米政府が目下、国連安全保障理事会による「武器輸出入の禁止」「航空機の出入りを禁止」「北朝鮮政府高官の出入国制限」などの制裁を求めていると報じた。
 さらに、2000年10月に平壌を訪問し、金総書記と対談したオルブライト前国務長官の評価を紹介。オルブライト氏は、「彼はばかではない」「孤立しているが、情報は持っている」とし、総書記が自分のパソコンを見せ、インターネットやCNNで世界の情勢にアクセスしていると説明したという。
 ニューズウィークは、ブッシュ政権が北朝鮮情勢の急な進展にまごつき、確固たる方針を立てられずにいる、と分析したが、軍事戦略としては、攻撃の準備をしていたクリントン前政権よりも穏健、と指摘した。
 一方、タイムは昨年11月に平壌を訪れたジャーナリストのドン・オーバードーファー氏の寄稿を掲載した。同氏は、「北朝鮮は、(攻撃されないという)安全が確認されれば、妥協するのではないか」とし、顔をつぶさずに核開発をやめさせるのが現実的と論じている。
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これを読みますと、アメリカは、イラクと並行して北朝鮮に多大なる関心をよせていることが分かります(当然ですが)。
アメリカは、イラクに対しては軍事攻撃を決心していると思いますが、北朝鮮に対しては揺れているようですね。以下は、アメリカの対北朝鮮政策がいかに揺れ、それに対して日本がいかに翻弄され、また、「拉致事件」がそれらにどう関与してきたかについて某掲示板に投稿したものですが、ここに再掲します。

**************

『諸君』(2002年7月号)に「アメリカはテロ(拉致)国家を許さない」(ラリー・ニクシュ[米議会調査局朝鮮問題担当調査官]、島田洋一 訳・解説)という論文が掲載されています。これを読みますと、クリントン政権がとった対北朝鮮政策の変遷が概括的に把握できますし、同時に、それに及ぼした「(北朝鮮による)日本人拉致問題」の影響も分かってなかなか面白いです。以下、主として同論文を参考にして。


クリントン政権の対北朝鮮政策の基本は「ペリー構想」と称され、これは、核・長距離ミサイル分野で北が「自制」する度合に応じて米側も経済制裁の緩和や援助拡大を行う、というものです。そして、「ペリー構想」は、韓国の金大中政権の「太陽政策」と密接な関連があり、両者はいわば対をなすものだったといっていいでしょう。

一九九四年十月、「米朝枠組み合意(核合意)」が調印されています。この合意にはさまざまな矛盾が内包されてはいたものの、その矛盾が顕在化する前に北朝鮮は崩壊する、というのが当時のアメリカ(さらには他の多くの国々)の判断でした。ところが、二年後の一九九六年、アメリカは、北朝鮮の崩壊は阻止せねばならないシナリオとみなすようになりました(この辺の経緯については、ラリー・ニクシュ論文に記載はありませんが)。そして、崩壊阻止のためにとられた手段が、食料支援です。四者協議に北朝鮮を参加させるため、米朝ミサイル協議を実現させるため、地下核施設の査察を受け入れさせるためなどとして、一九九七年以降、アメリカは北朝鮮に数次の食料支援を行いました。
一九九七年四月、「橋本・クリントン会談」の席上、 アメリカは日本に対北朝鮮食糧支援の協力を要請しましたが、この時の共同記者会見で橋本首相はかなりの時間を割いて「人道的というなら、北朝鮮にやってもらいたいことがある」、「ほぼ間違いないケースだけで九件。疑いが非常に濃いケースでは、二ケタに上がる人が姿を消している」などと拉致事件について説明をしています。しかし、この時点ではアメリカ側の関心は低いもので、事実認識にとどまっていたといっていいでしょう。つまり、北朝鮮の崩壊阻止と拉致事件の問題は切り離しておく、つまり崩壊阻止を優先する、という方針をアメリカはとったということです。そして、アメリカにとって、それで大した不都合は生じなかったわけです。

一九九九年十月、(「ペリー構想」を具体的にまとめた)「ペリー報告」というものが公表されましたが、同報告ではミサイルと核問題に焦点をあて「北朝鮮がミサイルおよび核計画を解体していくことに同意するなら、米側もそれに応じて一連の代償措置を講じる」ことを骨子としていました。この「一連の代償措置」の意味するところは、従来の食糧支援という枠を越えた大規模な援助つまり資金援助を行うということです。対して北朝鮮は、ミサイル輸出停止の代償のみに限っても「三年間、毎年十億ドルを米側が支払う」という強気の要求を出したりもしています。この「三年間」という期限は、資金援助が三年間(すなわち総額三○億ドル)で終了するという意味ではなく、三年後には援助額を増加させると解するほうが妥当でしょう。
しかし、このような大規模な資金援助は、アメリカ議会(特に共和党)がまず承認しない。そこで、例によってといいますか、アメリカは日本に目をつけ、一九六五年の日韓国交正常化の際の”経済協力金”になぞらえて、「ペリー報告」を公表する前にあらかじめ日本に資金提供を打診・要請してきていました(一九九九年春)。

そして、ここから事態が錯綜してくるのですが、まず一九九九年八月、北朝鮮は日本と直接「国交正常化」の交渉に乗り出しました。ラリー・ニクシュ論文においては、北朝鮮によるこの「対日攻勢」は、アメリカの関与抜きで北朝鮮が単独に行ったものとされており、北朝鮮の動機を「日本から補償金を取れれば、その分、アメリカとの交渉で得られるであろう資金に上乗せできる。要するに、同時に二つの方面から、より多くの金を引き出す得がたい機会というわけだ」と説明しています。しかし、「ペリー報告」公開直後、アメリカ議会スタッフに対する説明会の席上、ペリー自身が一九六五年の日韓合意を引き合いに出して「数十億ドル」という金額に言及して(この金額は誤りで実際には五億ドル)資金供与の実現性を担保していることからも分かるように、北朝鮮の「対日攻勢」の背後には、アメリカからのなんらかの指導、そこまでいかなくとも示唆ぐらいはあったと考えるのが自然でしょう。そして、アメリカの保守党や国防族グループあたりが、(結果的には金正日独裁政権を肥らせるだけになる)「ペリー構想」に反対して、日本側と連動・協力して日朝交渉を頓挫させたというシナリオもありそうに思います。

さらに、二○○○年二月に、北朝鮮はアメリカに対してテロ支援国指定の解除を求めていますが(その理由は、世界銀行やIMFが、アメリカの指定したテロ支援国に融資を行おうとした場合、アメリカ政府はそれを支持してはならないというアメリカ国内法の規定があるから)、アメリカはそれに答えて北朝鮮がとるべきいくつかの具体的措置を示した。そのなかに「過去に支援したテロ活動の精算に取り組むこと」という項目があった。つまり、ここにおいて、北朝鮮の崩壊阻止と拉致事件(「テロ活動」)の問題は切り離しておくというアメリカの方針は、北朝鮮自身の要求によって転換を余儀なくされることになったわけです。

「すなわち、北がテロ指定解除を米側に要求した結果、拉致問題を米朝交渉の枠外にとどめおき、また資金協力をめぐる日米協議にも絡ませないというクリントン戦略の行方に、もう一つ新たな暗雲が立ちこめる結果となったわけである。」(ラリー・ニクシュ)

ここに至って「拉致問題」は日朝二国間の人道問題という枠をこえて、アメリカの「ペリー構想」、北朝鮮が求める「テロ支援国指定の解除」、日朝間の「国交正常化交渉」、さらには韓国の「太陽政策」実現の重要な鍵を握る国際政治的マターとして急浮上してきたことになります。
日朝国交正常化交渉において、北朝鮮側はこの点を軽視していたのではなかったのか?
それとも、重視していたからこそ、北朝鮮なりに精一杯譲歩して、「拉致問題」について「問題そのものが存在しない」から「調査する」という態度に”軟化”したのか?

「拉致問題をオルブライト訪朝の際取り上げるというクリントン政権の決定は、金正日に対し、『ミサイル合意』の一環として、多少なりとも意味ある金銭的補償を受けようと思うなら、日本との間でテロ問題を決着させなければならない、というメッセージとなった。
それはまた、ソウルとピョンヤンに対し、米政府は、『よほどの政策的利益がもたらされることが確実でない限り、日米同盟にひびを入れる危険を冒してまで、北をテロ支援国・リストから解除するつもりはない』とのメッセージともなった。」
「北朝鮮は、日本との間のテロ問題解決に向け動こうとしなかった。そのため、補償の問題も、行き詰まったままとなったわけである。
先にも触れたとおり、拉致問題は、日本から資金を確保して、北朝鮮に約束した大規模インフラ支援を実行するという金大中政権の希望も打ち砕いた。国際金融機関から北への融資を引き出すという戦略も、日本の姿勢によって挫折せざるを得なかった。」
(ラリー・ニクシュ)

ここで、金大中大統領の就任当初の「対日宥和政策」と「対北太陽政策」について、ちょっと見てみましょう。
一九九八年一○月、金大中大統領の”主導”のもと「日韓共同宣言」が発表されましたが、そのなかで日本側が植民地支配に対する「謝罪と反省」を明記し、それを受けて金大中氏は「韓国政府は今後、日本に対し過去を問題にすることはない」、「自分の日本訪問で過去は精算された」と発言し、一九九九年二月には、韓国を訪れた高村外務大臣に対して「謝罪は一度でいい。韓日関係の過去は自分の訪日で精算された」とも語っています。
この「対日宥和政策」推進の背景としては、金大中氏がもともと対日国交正常化を持論としていたこと(金大中氏は、野党時代、一九六五年の日韓国交正常化に際して、野党や国民の大勢が反対していた時、自分だけは賛成したとしばしば語っており、一九六五年の国交正常化は国民感情を無視した半分の正常化であり、残り半分を自分が完成したと考えていたようです)、当時の韓国は金融危機による経済破綻から「IMF危機」下にあり、危機脱出のために継続した日本の支援が必要であったこと、を私は当時考えていました。そして、同時に、私は、「韓国政府は今後、日本に対し過去を問題にすることはない」という言葉は守られることはないだろう、と某掲示板で予想しておきました。その理由は、日朝国交正常化問題、そして歴史教科書問題が近い将来に予想され、その際必ず韓国側が口を挟んでくるであろうという確信に近いものがあったからです。もちろん、歴史教科書問題でそれは現実のものとなったわけですが。
その後、韓国は「対日宥和政策」の仕上げとして天皇訪韓の実現に熱をあげるようになりました(対して日本は、終始慎重な姿勢を貫きましたが)。既に、その手始めとして、一九九八年の金大中氏訪日の前に「天皇」呼称問題について「相手国の呼称を尊重するのは国際慣習だ」として正式呼称として「天皇」を使用することを確認していますし、実際、天皇在位一○周年に送られた祝電も「天皇陛下」を使用しています。
そして、一九九九年十一月、ソウルを訪れた日本の外務担当記者団に対して、韓国の洪淳瑛外相が以下のような興味深い発言をします。
「韓国としては(天皇訪韓に)いつでも門戸は開いているが、ご訪問の意義を高めるためには、北朝鮮を含む周辺地域国の祝福を受ける雰囲気で行われるのがよいと思う」
一九九九年十一月というのは、北朝鮮が国交正常化で「対日攻勢」に出、さらに「ペリー報告」が公表された直後ですね。つまり、ここにおいて、「天皇訪韓」問題が、日本と北朝鮮の国交正常化問題、さらには「太陽政策」にリンクしていることを韓国側が認めたに等しいといってよいでしょう。もちろん、これらに共通する目的は、日本による北朝鮮への資金援助です。

アメリカや韓国が目指した食糧・資金援助を通じた金日生政権との「平和的共存」は、(今や地上最悪の)金正日独裁政権の延命を助けるのみで事態をさらに悪化させるという意味しかなかったと思いますが、「拉致問題」の存在に対する日本側の強硬な態度は、結果的にこの事態悪化を阻止したことになりました(金大中政権などは、450人ともいわれる韓国人の拉致については「不問にふす」という立場をとっています)。というより、逆に、日本側(およびアメリカの一部の勢力)は、金正日独裁政権の延命を阻止するという思惑のもと、「拉致問題」を”利用した”のかもしれません。
もっとも、「日本側の強硬な態度」とはいっても、当時の外務大臣の一人はあの河野洋平、また今も変らぬ外務省の実態を考えると、独裁政権の延命を阻止した功績を日本の外交当局のみに帰するのは「贔屓の引き倒し」ということになるかもしれませんが。現政権にも、「拉致疑惑を追及すると、北朝鮮からテポドンが飛んでくるかもしれないから」「怖いです」などと平気で言ってのける塩川正十郎・財務相のような閣僚がいるくらいです。ちなみに、塩川氏についてですが、昨年、国会で「機密費」に関するテレビ発言を日本共産党から追及された際、「忘れました」、「覚えていません」などというとぼけた答弁をして問題になりましたが、それ以来、私は塩川氏は政治家失格だと思っています。その後の当の共産党の追及も甘かったですし、他のマスコミの態度にいたっては何をかいわんやです。

ラリー・ニクシュ氏は、昨年夏の「歴史教科書問題」について、韓国政府が激しく反応した背景には「北のテロに関する日本のスタンスに金大中大統領が抱いていた不満」があったと分析していますが、そうだとすれば韓国側の「逆恨み」というものでしょう。
ともあれ、「ラリー・ニクシュ論文」によって、「ペリー報告」、「太陽政策」、「対日宥和政策・天皇訪韓」、「日朝国交正常化」、「対北テロ支援国解除」の連動性、ならびに「拉致問題」が果たした国際政治的役割がある程度理解できました。

ちなみに、クリントン政権のあとを受けたブッシュ政権も、二○○一年の政権発足にあたり、「拉致問題」を重視する態度を鮮明にしています。二○○一年二月二六日、トマス・ハーバード国務省次官補代行が、訪米した拉致被害者家族らと面会した際、「ブッシュ政権としては、北朝鮮をテロ支援国リストからはずすつもりはない。北との交渉では、拉致問題を含め日本の懸念する事項を継続的に取り上げ『北朝鮮のテロ被害者』に関する情報収集に努めるつもりだ」と述べたとされています。
そして、「拉致問題」は「9.11テロ」との関連で新たな意味・重要性を帯びてきたことにも留意すべきです。

「^C・・・拉致問題を含む日朝間のテロ関連案件は、北のテロ支援国指定を最終的に解除するに当たり、中心テーマであり続けるだろう。
日本人拉致問題は、別の意味でも、九月十一日の事件と関連性をもっている。どちらの事件も、テロ暴力集団が一般市民に危害を加えたとき、民主社会がいかに強い反応を見せるか示している。一九九七年、日本人は、九月十一日以来のアメリカ、あるいは一九八○年代、イランととレバノンで米国民が拉致され人質となった際のアメリカと同様、非常に強く情緒的に反応した。
日本人拉致問題の重要性に疑問を呈する人々に対し、私は常に次のような質問を発してきた。もし、キューバがフロリダに工作員を送り込みアメリカ人を拉致したとしたら、アメリカはどう反応するだろうか、と。この問いに対し、まともな反応が返ってきたことは一度もない。」(ラリー・ニクシュ)


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タイトルRe: アメリカの対北朝鮮政策 by 北の狼
記事No9
投稿日: 2004/07/15(Thu) 09:52
投稿者旧〜転載
URLhttp://www8.tok2.com/home2/aramar88/
/Subject:「情報」について /From:北の狼 /Date:2003/01/04 18:16


以前に「i勝手支部掲示板」で、「民主主義制度」が健全に機能するためにはマスコミによる権力チェックが不可欠である、という趣旨のことを述べましたが、これについてちょっと述べます。


マスコミのパワーの源泉は、もちろん「情報力」(収集力、分析力、訴求力、影響力、など)です。この「情報力」について、漠然とではありますが、最近の出来事からいくつか想起されるものがありますが、1900年前後の東欧の変革について述べます。



1989年、ベルリンの壁が崩壊した翌月(12月)、ルーマニアで、チャウシェスク大統領が夫人とともに処刑され独裁政権に幕が下ろされました。一地方都市(ティミショアラ)から起こったデモが、またたくまに(ほんの数日間)首都ブカレストに飛び火し、さらに大規模化、先鋭化させていきました。当時、私は、あの事態の激変ぶりに驚くとともに、では、何故いままであのようなことができなかったのか、とちょっと考えたものです。
背景(外部要因)には、もちろん、ゴルバチョフ政権の誕生とそれに伴う東欧の変革(ポーランドやハンガリーにおける非共産党政権の樹立)いうものがありましたが、内部要因としてなにか大きな変化がなければあそこまで急激な行動は不可能であろうと思ったわけです。
その内部要因としては、例えば、国民の不満の鬱積が頂点に達し限界まで来て、わずかのところで崩壊を免れていた積み木細工(独裁政権)が音をたてて瓦解したのだ。それを瓦解させるためには、誰かの「ティミショアラ万歳!」−−−−チャウシェスク大統領自らの支持集会で演説中に投げられたひとつの野次、「ティミショアラ万歳!」の声がきっかけとなり、大統領が演説をしている建物に向かって群集が殺到し、騒然とした雰囲気の中、自らに対して浴びせられる罵声に驚きたじろいだチャウシェスクは口をつぐみ、バルコニーから逃げるように去った。それから激しいデモや市街戦が繰り広げられ、旧体制は崩壊したーーーーの一言で十分だった、という「物語」があります。

この「物語」は、2000年のユーゴのミロシェビッチ体制崩壊の際には、一人の男の子に受けつがれています。
毎日新聞の福井記者は、「ティミショアラ万歳!」の役割を今回ユーゴで果たしたのは一人の男の子だった、と報じています。
ベオグラードの連邦議会正面入り口、睨み合う民衆と警官の間の緊迫した空間を一人の男の子がするすると駆け抜け、議会入り口に向かいました。警官がその男の子の後を追った直後に、民衆が議会入り口になだれ込んだのですが、その時、警官隊はもはや彼らを押し止めるすべを持たなかった。「男の子はどこから来たか、どこへ行ったかもわからない」と福井記者は書き、「だが……この出来事が市民蜂起成功につなdがったとみられている」との感想を述べています。歴史の転回点で、最後のひと押しを決めたのは小さな男の子の”無邪気”な行動だった。向い合う民衆と警官隊、その間を駆け抜けた男の子−−−−絵になる「物語」だと思います。

その「物語」の腰をおるつもりは毛頭ないのですが、歴史が「偶発」によって変わる場合には、偶発を「偶発」たらしめる「必然」が背後に存在するものです。
その必然とは、ひとつには「情報力」であったろう、と私は考えています。

ルーマニアでチャウシェスク政権が崩壊する直前、チェコで共産党政権が崩壊しています。共産党政権打倒の中心勢力となったのは「市民フォーラム」という団体ですが、しかし、この打倒行動(その象徴が「11.27デモ」ですが)は、学生や一般市民が自由に集まり、凡そ統率性がなくリーダー不在という状況で進行したところに大きな特徴がありました。そもそも、「市民フォーラム」が結成されたのは、「11.27デモ」のわずか8日前だったのです。きっかけは、11月17日にプラハで起きた、学生デモと武装警官の衝突でした。
チェコは、1968年の「プラハの春」事件以来、民主化運動は反革命運動であるとして徹底的に弾圧されてきました。チェコは、「プラハの春」以来、国内をがっちり固め、経済的にも成功をおさめ生活が豊かになり、国民の多数が保守化し、政治的不満はあまり存在しないといわれていました。党や国家の指導層は、「他の東欧諸国には民主化が必要であっても、わが国には必要ではない」と自信のほどをのぞかせていたのです。実際、国民の大半は、他の国に民主化の波がおよんでいても、沈黙を守っていたのです。
当時のチェコでは、デモが禁止されていましたが(集会、結社の自由もありませんでした)、例外的にデモが許されている日が何日かあり、そのひとつに国際学生記念日(11月17日)がありました。例年ですと、この日にデモがあったとしても「お祭り」ですんでしまうのですが、民主化を要求する学生たちが、このデモをチェコの民主化と政治的自由を求める場として利用することにしました。それを阻止しようとする警官隊と衝突したのです。それをきっかけとして、”自然発生的”に各地でデモやストが頻発し、11月27日のゼネストへと発展することになりました。
この「ビロード革命」の経緯をおってみます。

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1989年11月17日、チェコの国際学生記念日、二万5千人の学生が集結してデモ隊を組織しパーツラフ広場に向けて行進しようとした。それに対して、警察の治安部隊(対テロ用のスペシャルコマンドも投入されたという)が棍棒をふりあげて襲いかかり、三八人の学生が頭から血を流すなどしてその場に倒れ、数百名の逮捕者がでた。この流血事件によって、チェコの政治状況は一変することになった。

学生はこの弾圧に抗議して連日デモをくり返し、それに市民が加わり、その数日のあいだに数十万人規模にふくれあがった。
この運動に呼応するように立ち上がった市民によって結成されたのが「市民フォーラム」だった。フォーラムの活動は、当初は演劇人が学生に呼応してストに入り、美術家、音楽家(チェコフィルのメンバーすべてを含む)などの芸術家たちが続いた。フォーラムが結成されたのは、11月19日、すなわち学生の流血デモからわずか二日後だった。
フォーラムは政府に対して民主化・自由化要求を提出し、それが実現されない場合は、11月27日にゼネスト(すでに学生たちが掲げていた方針)に入ると宣言した。フォーラムは自然発生的な市民運動団体で、何の公的資格も権限もなかった。頼りは実力だけ、すなわちデモやストの実行力のみであった。しかし、フォーラムを中心とした反政府運動のあまりに急激な拡大を目にした政府は、たまらずフォーラムとの交渉のテーブルにつくことになった。
1977年に果敢に抵抗を試みる知識人によって結成された地下組織「77憲章」が起こっており、弾圧を受けながらも人権を守る運動を続けていたが、共産党独裁を倒すにいたる道のりを踏み固めたのは「77憲章」と認めた国民は、その中心人物であるハヴェルすなわち「市民フォーラム」の代表者を、チェコスロヴァキア連邦大統領に選んだ。
1993年1月、チェコとスロヴァキアが無血で分離(ビロード分離)し、旧チェコスロヴァキア連邦は解体して2つの共和国になった。ハヴェルはチェコ共和国の大統領に就任し、98年に再任している。
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この「市民フォーラム」なのですが、市民側の代表として政府と交渉したとはいえ、殆ど組織の体をなしていなかったというのが実情でした。そもそも、このような急ごしらえのフォーラムに、組織する力なぞありえなかったのです。実態は、あくまで、流血の弾圧に怒った市民が自然発生的に集合して生まれた、「勝手連」のようなものだったのです。ですから、古典的な運動組織のように、各地にオルグを派遣して啓蒙したり働きかけたりするといった活動はまったく行っていません。

では、国家が報道メデイアを独占しいていたチェコで、なぜ運動が全国規模にひろがり「ビロード革命」が達成できたのか?


1968年の「プラハの春」事件以来、「プラハの春」に参加したメンバーは皆社会的地位を奪われ、社会的活動を禁じられていました。「ビロード革命」――――暴力なしに無血で、ビロードのように滑らかに進行したのでこう呼ばれています。おかげで、チェコの文化遺産は破壊を免れることができたわけですーーーーで劇的に表舞台に再登場したドブチェク(元共産党第一書記)は役所の平職員でしたし、作家だったハヴェル(後のチェコの大統領)は執筆が禁じられビール工場の労働者でした。また、マルタ・クビシュバというチェコを代表する女性歌手は21年間も歌うことを禁じられていました。
もちろん、放送、新聞、雑誌などの基本的メディアはすべて党によって独占されていました。

ここで、話がそれますが、チェコの映画事情について紹介します。


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 チェコにおける映画の伝統はきわめて古く、その最初の作品は1898年にさかのぼる。組織的なドキュメンタリー映画の製作は20年代半ばに始まり定期的なフィルムによる記録(ニュース映画)が次々と現れだした。1930年代の初めには早くもドキュメンタリー映画において作家たちは独特のスタイルを持つようになり、ドキュメンタリー映画は、映画産業においても映画芸術においても、次第に完全な一分野としての評価を獲得していった。
 しかし戦後、チェコのドキュメンタリーの運命は政治に大きく支配されることになった。専門的な映画製作はすべて1945年にいち早く国家の下で行われるようになり、1948年の共産主義政変以後は、共産主義イデオロギーに基づく無慈悲な統制が敷かれた。その結果、チェコの長い国家的伝統に培われた価値感、特に両大戦間の民主主義国家、チェコスロヴァキア人民共和国時代に創られた価値感は、急速に荒廃していった。チェコ映画の発展は、継承されることなくそこで途切れた。国家に独占された中央集権的なドキュメンタリーの製作は、政治的なプロパガンダの領域に追いやられた。必然的に劇映画もまた深刻な主観的、道徳的な立場の危機に陥ることになり、その主たる役割は多かれ少なかれ、洗練され隠蔽された共産主義のイデオロギーへの追従に過ぎなくなった。
 1950年代を通じてチェコの文化は何度か深刻な打撃に見舞われたが、もちろん映画もその例外ではなかった。その後共産主義政権は世界における甚だしい悪評を多少とも回復しようと試みたが、民主化への明確な歩みは60年代半ばまで見られることはなかった。しかしやがてこの民主化の波は60年代末にかけて頂点を迎える。共産党はまだ全盛を誇っていたが、同時に文化的および社会的な生活も著しい復興を遂げようとしていたのである。
 比較的自由であった期間は短かったにも関わらず、チェコスロヴァキアでは様々な方面の芸術家集団によって、即座に衝撃がもたらされた。それまで自分の作品に公然と取り組むことができなかった様々な世代のグラフィック・アーティストたち、第一線に立つ舞台芸術家や劇作家、そして最後に決して軽んじることができないのが、チェコのヌーヴェル・ヴァーグの映画作家たちの出現である。彼ら、プラハ国立映画学校(FAMU)の卒業生の多くは劇映画の監督(ヴェラ・ヒティロヴァ、イェルジー・メンツェル、エヴァルド・ショーム、その他)で、1960年代のドキュメンタリーにさほど大きな影響を発揮したわけではない。にもかかわらず、ヌーヴェル・ヴァーグの映画作品は、全体として、映画史上に稀に見る解放的で示唆的な貢献を残した。これはいわゆる「プラハの春」、つまり「人間の顔をした社会主義」の短い季節の一種の象徴と見られることが多いが、そのことは、特別に賞揚すべきことでも貶めるべきことでもないだろう。

このようなチェコの情況にあって、1960年代のドキュメンタリー映画は大衆にとって大変人気の高い、魅力的な表現形式になっていった。一般的な社会批評の風潮にのっとり、ドキュメンタリー作家は社会の状態やそのトラウマ、あるいは関心について、より深い分析へと乗り出していった。主としてこの点には、社会的感受性の強さが如実に表れており、これはチェコのドキュメンタリーの重要な特徴のひとつにもなっている。チェコのドキュメンタリー作家は、若者の生活態度や考え方により強い興味を示すようになり、映像言語によって与えられる幅広い機会を利用し始めた。
・・・・・・・
 国家によって押しつけられたマルクス主義的イデオロギーは、多くの話題をタブーにした。それは、支配政権やその指導者たちの直接的な賛美に加担したくないと考える芸術家たちに、現実逃避的な主題を選ばせることを強いた。例えば、ソビエトによる占領後に初の長編劇映画を完成させたドラホミーラ・ヴィハノヴァ監督は、何年もの沈黙を強いられた後に、ようやく映画製作の仕事に復帰することができた。それも「単に」ドキュメンタリー製作に限っての話である。彼女のドキュメンタリーは、例えば、炭坑の主任技術者の仕事(『主任技術者の一日』(1981))や、原子力発電所の食堂の運営(『ドゥコヴァニ、沸騰する大鍋』(1987))や、あるいは収穫機の運転手たちの一団などについての作品である。しかしヴィハノヴァは、これらのそれほど魅力的とは思えない課題にも、十分な責任と偉大な映画的才能をもって臨んだ。彼女はまず最初に彼女の「主人公たち」と共に多くの時間を過ごし、その後今度は編集室での作業に長い時間を費やした。話題が何であれ、彼女は自分の映画に対して常に出来うる限りの最大限の努力を払った。その成果として、人間の努力や仕事にまつわる強迫観念、さらには人間同士の関係の脆さについての、今日でもなお生き生きと感じられる証言を描き出している。

『断続的な時間の目撃者たち、チェコのドキュメンタリー』(ミハエル・ブレガント)
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チェコのドキュメンタリー映画について引用したのは、他でもありません。
「ビロード革命」において、このドキュメンタリー映画が極めて重要な役割を果たしたのです。
同じく『断続的な時間の目撃者たち、チェコのドキュメンタリー』から引用します。


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1989年の民主化動乱は、チェコ人のみならず、全ヨーロッパ人にとっても、共産党政権が次から次へと倒れていく、特別な輝かしい瞬間であった。チェコのドキュメンタリー作家たちはちょうどその場に居あわせた。転換点となった、平和的なデモ学生たちと国家警察との対決からは、珍しいドキュメンタリーのショットがいくつも生まれた。「ビロード革命」の間、ストライキをしていた学生たちはビデオによる証言を多数複製し、それを全国にくまなく配布した。テレビはまだ共産主義の支配者の手中にあり、発作的な情報操作に躍起になっていたので、事は一刻を争った。この瞬間、誰もが、メディアの持つ心理的な力や、時宜を得た映像による報道のインパクトが、きわめて実用的であることに気がついた。
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11月17日の学生デモにおける流血の現場が撮影されたビデオは、次々にダビングされてコピーが沢山つくられました。国内各地にこのビデオ上映用のテレビが設置され、流血の様子を繰り返し〃放映したのです。つまり、ビデオが国営の新聞やテレビを圧倒したのです。それまで、国家がメデイアを独占している国では、国家が国民をいかようにもだますことができるので、革命なぞ起こせるはずがないといわれていたのでした(動乱で中央を掌握した側が、まず最初にやることはメディアの制圧です)。

私は、民主主義制度が健全に機能するためには、マソコミが常に権力をチェックしていなければならない、といいました。
さらに、マスコミが権力と癒着していたり、問題の重要性にマスコミが気がつかず報道されないような問題、さらには、そもそもマスコミに馴染まないような問題については、マスコミに期待することができず、そのようなケースではネットがどれだけマスコミの代わり(つまり「ビロード革命」のビデオの役割を)を果たせるのか、というふうにも述べたことがあります。

今回、「つくる会」教科書の「3割削減」問題を「i勝手支部掲示板」で扱いましたが、私見によれば、マスコミはもとより、ネット全体を見回しても、本掲示板では、もっとも充実した見解や情報が提供され、またもっとも有意義な論議が交わされたと思います。


その他、現代的な意味で「情報」や「マスメディア」を考えるばあい、先の湾岸戦争や「9.11テロ」は結構示唆に富む題材を提供してくれているのですが、これらについては、またの機会にでも。
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