PC用眼鏡【管理人も使ってますがマジで疲れません】 解約手数料0円【あしたでんき】 Yahoo 楽天 NTT-X Store

無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 ふるさと納税 海外旅行保険が無料! 海外ホテル


[記事リスト] [新着記事] [ワード検索] [過去ログ]
タイトルRe: 仮想空間としてのネットの特性
投稿日: 2004/12/19(Sun) 22:22
投稿者北の狼(おちょくり塾)
/題:ネットでは演じております
          氏名:あきんど兄さん 日:2004/12/06(Mon) 19:10 No.1381

私は実はネットではある自分を演じております。
それは自分とかなりかけ隔てたものとしてではなく、理想と言うものの中に価値を求めてそれを行っております。
ですから北の狼さんがおっしゃる部分はとても理解できます。

「幻想性」という言葉の意味がイマイチ私にはよく理解できませんが、私にとっての「演じる」という意味とちかいものとして理解します。
ただし「演じる」と申しましてもけして理想だけを追いつづけられるかどうかは疑問点が多々ありますでしょう。
その意味でネットも実社会も同じ部分での困難さを持ち合わせているのではないでしょうか。
そして結局は実社会の自分を何らかの形で鍛え上げ様としてネットも利用されるべきなのではないでしょうか。

うまく表現できませんが、私はとにかく「演じる」ことによってもたらされる制限も実社会には共通して生まれている課題なのではないかと思うのです。
具体的に言いますと、私は日々仕事を通じてお客さんと接します。
そこでは売り子としての私が「演じる」努力をしているわけです。
それは私にとっての理想への道筋の中に存在しています。
ですから私にとってネットは「演じる」努力と似たものを感じ取っています。

その点において私にとってのネットは何の無駄も生じません。
少し他の方たちとは違う理念が私にはあるのかもしれませんが・・・。


--------------------------------------------------------------------------------

/題:>あきんどさん
             氏名:北の狼 日:2004/12/06(Mon) 20:57 No.1383

「演じる」と「幻想性」の違い、ジェンダーで考えてみてはいかがでしょうか。

ここでは灯理さんを例にあげて考えてみましょう。
灯理さんは肉体的には男ですが、精神的には女です。そういう灯理さんは、現実社会(職場)においては男性として振舞っているわけです。つまり、本来の自分からすれば女性であるにもかかわらず、職場では男性を「演じて」いるわけです。

そういう現実的な制約からすると、灯理さんが純粋に女性として活きうる生活というのは「幻想」に過ぎません。しかし、その「幻想」をかなえてくれる世界もあるわけです。そのひとつがネットです。
灯理さんは、ネットにおいては現実というしがらみなしに、心置きなく「本当の自分=オカマ」として活きることができるのです。

つまり、ネットにおける「幻想性」の意味を理解するためには、現実世界における制約と、それから解放された世界の【違い】を比較することが必要なのです。
現実世界とネット(仮想空間)の【共通点】に注目しても、ネットによってこそ実現されうる「幻想性」に関して理解がすすむことはありません。


--------------------------------------------------------------------------------

/題:ネットが生まれ変わるには
          氏名:あきんど兄さん 日:2004/12/07(Tue) 10:36 No.1386

>北の狼さん
何年もネットでご活躍されている方に説教じみたことを述べるかもしれませんが、私はネットがどう実社会で役立てられるかが近い将来のネットの目標の一つだと思っています。
しかし現実はどんどん離れて行っています。
それどころかネットと実社会が出きる限り近い場所にいることを望む余り、実社会の方からネットに近づこうと意識が働きすぎているのではないかと思えたりもします。
世に言う引きこもり症といわれている人間は実社会とネット空間の分け隔てすら使い分けられないと思われていますよね。
確かにそういう判断はしかたが無い部分多いでしょう。

そこで問題なんですが、狼さんが仰る・・・
>つまり、ネットにおける「幻想性」の意味を理解するためには、現実世界における制約と、それから解放された世界の【違い】を比較することが必要なのです。
現実世界とネット(仮想空間)の【共通点】に注目しても、ネットによってこそ実現されうる「幻想性」に関して理解がすすむことはありません。<
という部分ですが、それが現実だとしてもそれを人間は100%受け入れることに問題は生じないのでしょうか。
簡単にいえば実社会でもネット社会でも自分を見失わず両方使い分けられれば何か予想外のプラスを生むかもしれません。
たとえばフドーさんが日々書き込んでいる「独り言」などは、ネット空間で出きる限り実社会に沿った生き方を貫こうとする現われです。
つまり実社会とネット空間に自分なりの繋がりといいますか、逆の理論でいうと空間の中で埋没しないようにするための歯止めを見つけ出さないと、逆影響を及ぼす事はないでしょうか。

そういう理論から私はネットプロの方々にいいたい事はネットリーダーとしての役割と存在感と責任感の認識をより強く持っていただきたいと言う事なんです。
とかくネット理論から生まれる・・・私の勝手な視点で言わせていただくと・・・人間の弱さを助長する部分も利用させてしまう、意図しない誘導を成してしまってはいないだろうかと危惧します。

確かにネットは実社会から開放された(違い)を比較する面白さはあれど、それが必要枠だという認識は私にはありません。
ここが狼さんが訴え様としているとても繊細な神経を要する拘りの部分だと私は認識しますが、とかくそれは誤解されやすいものでもあると思われませんでしょうか。
つまり最後に理解できた人間が結局はそれを成し得ようとした人間しか出来えないという不幸な結果を生みませんでしょうか。

万人が皆同レベルの能力を持ち合わせているわけではなく、唯一実社会とネット空間の共通性を言えば、人間には能力の差というものがあることをネットリーダーがもっと認識すべきではないかと私は思うのです。

年上の長谷川さんはそれをたぶん意識されています。
いや狼さんが意識していないと言っているわけではないですよ。
私は狼さんが目指そうとしていることが誤解されやすいのではないかと言っているだけです。
ですから私はそれぞれ役割があった旧日録のサイトは私にとって理想に近かったと思うわけです。
たぶんこの広いネット空間で偶然に生まれた太陽系のような存在だったのではないかと思っています。


--------------------------------------------------------------------------------

/題:>あきんどさん
              氏名:北の狼 日:2004/12/07(Tue) 17:49 No.1387

実は、私は、あきんどさんが何をおっしゃりたいのかよく分かりません。

まず、私が、なぜ「幻想性」という言葉を持ち出したか、私の投稿を読み直したうえでその意味をきちんとお考えください。
そうすれば、以下のような言葉は出てこないはずです。

================
そこで問題なんですが、狼さんが仰る・・・
>つまり、ネットにおける「幻想性」の意味を理解するためには、現実世界における制約と、それから解放された世界の【違い】を比較することが必要なのです。
現実世界とネット(仮想空間)の【共通点】に注目しても、ネットによってこそ実現されうる「幻想性」に関して理解がすすむことはありません。<
という部分ですが、それが現実だとしてもそれを人間は100%受け入れることに問題は生じないのでしょうか。
================

そもそも、「100%」とはどういう意味でしょうか?
「幻想性」とは、人間の行動や志向などに潜むモチーフ(つまり本質)といってもいいもです。
なんか、この点からして認識のズレがあると思います・・・・・。

その後も、ネットプロとかネットリーダーとか、意味不明の語がありますが、何なんでしょうか、これらは?


--------------------------------------------------------------------------------

/題:イメージするものが違うのでは
          氏名:あきんど兄さん 日:2004/12/07(Tue) 18:51 No.1388

表現が難しいのですが、結論から言うとそれぞれにそれぞれの思い入れがあると思うんです。
私の場合は幻想性というものの意味というか価値を理解しようとは思いません。
ただ私はネットでは演じることによって実社会との差を無くせる手段だと認識していますから、私にとってはそちらの方が理解しやすいという認識です。
狼さんは常に本質を求めていることは以前から認識しています。
たしかご自身のホームページでも本物を求めたいという表現で仰られていたはずです。
それが幻想性というものとどう関連するのか私の足りない頭ではとても理解できません。
もし理解するとしたらそれは私にとってはとても我侭な世界に映ります。
そこまでしか私は幻想性という言葉からイメージを描く事は出来ません。
ですので100%という理解はできないのではないかと表現しました。

つまり狼さんがその領域までをもしも自分のみならず他の方にも求めるものだとしたらかなりの困難さが生じると感じます。
幻想性を研ぎ澄ましてどんな価値を得られるのかが理解できないと受け止めて頂いても宜しいでしょう。
そして私がイメージするものはたぶんその領域ではないと思います。
卑怯な言い方をすれば本当のところは自分でも良く判らない。
ただ私に限っては演じるということに自分なりの解釈を得ているということです。
それは狼さんには理解されない物かもしれませんが、それでもかまわないと言う認識が私にはあります。

時間がきましたのでこれにて失礼します。

--------------------------------------------------------------------------------

/題:共通の土台は困難ですか
              氏名:北の狼 日:2004/12/07(Tue) 19:05 No.1389

>私の場合は幻想性というものの意味というか価値を理解しようとは思いません。

了解しました。
灯理さんを例にあげて「幻想性」について分かりやすく説明したつもりですが、理解なさろうという気がないのでしたら、私のほうからはこれ以上なにも言うことはないと思います。

その後もコメントされていますが、「分からないし、説明されても理解するつもりがないこと」については沈黙する、というのも一つの賢明な現実的態度ではないかと思います。お互いに、時間を無駄にすることもありませんから。


--------------------------------------------------------------------------------

/題:>あきんどさん。
          氏名:灯理 日:2004/12/08(Wed) 20:58 No.1393

あきんどさんは客観世界の実在を信じてるでしょう?。
だからネットの世界がヴァーチャルに思える。
でも、ネットの世界も所謂実社会も変わりませんよ。
この世界はその人がそうだ、と思いこんでいるだけのものだからです。

ペルソナ(仮面)というものがあります。
銀行員には銀行員の、商人には商人の、政治家には政治家の、ヤクザにはヤクザのそれがあって、わたしやあきんどさんも、仕事中にはその仕事にふさわしい役の仮面をかぶっているわけ。
わたしの場合にはそれを脱ぐと灯理が現れてくるわけですね。
するとネットの世界や家に帰ったときのほうが“本当の自分”還れるわけですよ。

物事の本質(もの、そのもの)に、人間は直接触れることが出来ません。どこまで行ってもその人の中に生成された“イメージ”しか見ることが出来ないからです。そこで、本質に触れるためには比喩とか直観によるほかは無い。その精神の働きを狼さんは「幻想性」と仰ってるんじゃないか知ら?。
あきんどさんは多分、外向的な心の構えお方だと思いますから、周囲の世界を“実在する”と感じてらっしゃると思いますけど、哲学的に言うと、それは正確ではないのですね。

- 関連一覧ツリー (★ をクリックするとツリー全体を一括表示します)