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タイトル仮想空間としてのネットの特性
記事No14
投稿日: 2004/12/19(Sun) 22:18
投稿者北の狼(おちょくり塾)
/題:仮想空間としてのネットの特性
              氏名:北の狼 日:2004/12/06(Mon) 18:28 No.1380

ネットというのはやはり仮想空間にすぎないですね。
この仮想空間に、HNという仮面をかぶった人間たちが、何かを求めてBBSに集まってくるわけです。

では、皆が求めているその「何か」とは何でしょうか?
これは一言でいえば「幻想性」といってよいのではないでしょうか。

「幻想性」は人間の弱みであるとともに、人生の価値(意味)の源泉でもあります。

ネットという仮想空間にHNという仮面をかぶった人間たちが集う、そういう空間には現実のしがらみというものがありません。それゆえに人間はネットにおいては”純粋”になれるのです。
つまり、ネットにおいてこそ人間は「幻想性」たる人生の価値(意味)、すなわち「ほんとうの自分」を高らかに掲げることができるのではないでしょうか。

以前にある人が、「ネットは純粋に趣味の世界だ。しかし、純粋に趣味であるからこそ、自分というものにあくまで誠実であるべきだ。現実世界では、まずは生活するという要請が優先されるから、止むを得ない理由で自分自身を裏切ることがあったとしても、頭からそれを非難する気にはなれない。しかし、ネットでは違う」という趣旨の発言をしていました。まったく同感です。

ネットでよく生じる事象(揉め事)というのは、結局は以下のようなことと関係があるのではないでしょうか(誰のどの著書からの引用であるかは、あえて言いません)。


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自尊心のない人間は怒りを知りません。人生において何らかの高い「価値」を掲げて生きている人は自尊心もそれだけ高い。心の中で自分と他人を区別し、他人を軽蔑してでも自分に固有の価値を強く信じている人であって、そういう人だけが本当に怒るということを知っているのです。だから非凡な人の怒りは、凡人には分からないことがあります。非凡な人は、たとえ怒りで身を滅ぼしても、他人には理解の及ばない孤独な自分の価値を貫こうとします。
・・・・・・・・
真に高潔な人間は怨みとか焦りとか妬みとかを知りません。ただ怒りだけを知っている。神のみがなし得る正義の怒りを、人間があえて倣慢になそうとすることがあります。たいがいそれで自他を傷つけ、友情をこわし、自分の人生の航路にも深い傷手を負います。しかしそれでもやはり、誰にも理解されないこの怒りによって、自己の真実に賭けようとする心の動きがあり、それを危険だからといって否定することはできない。
現代では残念なことに、人はみな小利口に生き、ほどほどすべてをやりすごし、自分の「価値」を掲げているがゆえに自尊心を深く傷つけられる、というような人は、少なくなりました。自尊心を深く傷つけられないですむように互いに社交的にごまかし、「価値」と「価値」をぶつけ合うことをしない。
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タイトルRe: 仮想空間としてのネットの特性
記事No15
投稿日: 2004/12/19(Sun) 22:22
投稿者北の狼(おちょくり塾)
/題:ネットでは演じております
          氏名:あきんど兄さん 日:2004/12/06(Mon) 19:10 No.1381

私は実はネットではある自分を演じております。
それは自分とかなりかけ隔てたものとしてではなく、理想と言うものの中に価値を求めてそれを行っております。
ですから北の狼さんがおっしゃる部分はとても理解できます。

「幻想性」という言葉の意味がイマイチ私にはよく理解できませんが、私にとっての「演じる」という意味とちかいものとして理解します。
ただし「演じる」と申しましてもけして理想だけを追いつづけられるかどうかは疑問点が多々ありますでしょう。
その意味でネットも実社会も同じ部分での困難さを持ち合わせているのではないでしょうか。
そして結局は実社会の自分を何らかの形で鍛え上げ様としてネットも利用されるべきなのではないでしょうか。

うまく表現できませんが、私はとにかく「演じる」ことによってもたらされる制限も実社会には共通して生まれている課題なのではないかと思うのです。
具体的に言いますと、私は日々仕事を通じてお客さんと接します。
そこでは売り子としての私が「演じる」努力をしているわけです。
それは私にとっての理想への道筋の中に存在しています。
ですから私にとってネットは「演じる」努力と似たものを感じ取っています。

その点において私にとってのネットは何の無駄も生じません。
少し他の方たちとは違う理念が私にはあるのかもしれませんが・・・。


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/題:>あきんどさん
             氏名:北の狼 日:2004/12/06(Mon) 20:57 No.1383

「演じる」と「幻想性」の違い、ジェンダーで考えてみてはいかがでしょうか。

ここでは灯理さんを例にあげて考えてみましょう。
灯理さんは肉体的には男ですが、精神的には女です。そういう灯理さんは、現実社会(職場)においては男性として振舞っているわけです。つまり、本来の自分からすれば女性であるにもかかわらず、職場では男性を「演じて」いるわけです。

そういう現実的な制約からすると、灯理さんが純粋に女性として活きうる生活というのは「幻想」に過ぎません。しかし、その「幻想」をかなえてくれる世界もあるわけです。そのひとつがネットです。
灯理さんは、ネットにおいては現実というしがらみなしに、心置きなく「本当の自分=オカマ」として活きることができるのです。

つまり、ネットにおける「幻想性」の意味を理解するためには、現実世界における制約と、それから解放された世界の【違い】を比較することが必要なのです。
現実世界とネット(仮想空間)の【共通点】に注目しても、ネットによってこそ実現されうる「幻想性」に関して理解がすすむことはありません。


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/題:ネットが生まれ変わるには
          氏名:あきんど兄さん 日:2004/12/07(Tue) 10:36 No.1386

>北の狼さん
何年もネットでご活躍されている方に説教じみたことを述べるかもしれませんが、私はネットがどう実社会で役立てられるかが近い将来のネットの目標の一つだと思っています。
しかし現実はどんどん離れて行っています。
それどころかネットと実社会が出きる限り近い場所にいることを望む余り、実社会の方からネットに近づこうと意識が働きすぎているのではないかと思えたりもします。
世に言う引きこもり症といわれている人間は実社会とネット空間の分け隔てすら使い分けられないと思われていますよね。
確かにそういう判断はしかたが無い部分多いでしょう。

そこで問題なんですが、狼さんが仰る・・・
>つまり、ネットにおける「幻想性」の意味を理解するためには、現実世界における制約と、それから解放された世界の【違い】を比較することが必要なのです。
現実世界とネット(仮想空間)の【共通点】に注目しても、ネットによってこそ実現されうる「幻想性」に関して理解がすすむことはありません。<
という部分ですが、それが現実だとしてもそれを人間は100%受け入れることに問題は生じないのでしょうか。
簡単にいえば実社会でもネット社会でも自分を見失わず両方使い分けられれば何か予想外のプラスを生むかもしれません。
たとえばフドーさんが日々書き込んでいる「独り言」などは、ネット空間で出きる限り実社会に沿った生き方を貫こうとする現われです。
つまり実社会とネット空間に自分なりの繋がりといいますか、逆の理論でいうと空間の中で埋没しないようにするための歯止めを見つけ出さないと、逆影響を及ぼす事はないでしょうか。

そういう理論から私はネットプロの方々にいいたい事はネットリーダーとしての役割と存在感と責任感の認識をより強く持っていただきたいと言う事なんです。
とかくネット理論から生まれる・・・私の勝手な視点で言わせていただくと・・・人間の弱さを助長する部分も利用させてしまう、意図しない誘導を成してしまってはいないだろうかと危惧します。

確かにネットは実社会から開放された(違い)を比較する面白さはあれど、それが必要枠だという認識は私にはありません。
ここが狼さんが訴え様としているとても繊細な神経を要する拘りの部分だと私は認識しますが、とかくそれは誤解されやすいものでもあると思われませんでしょうか。
つまり最後に理解できた人間が結局はそれを成し得ようとした人間しか出来えないという不幸な結果を生みませんでしょうか。

万人が皆同レベルの能力を持ち合わせているわけではなく、唯一実社会とネット空間の共通性を言えば、人間には能力の差というものがあることをネットリーダーがもっと認識すべきではないかと私は思うのです。

年上の長谷川さんはそれをたぶん意識されています。
いや狼さんが意識していないと言っているわけではないですよ。
私は狼さんが目指そうとしていることが誤解されやすいのではないかと言っているだけです。
ですから私はそれぞれ役割があった旧日録のサイトは私にとって理想に近かったと思うわけです。
たぶんこの広いネット空間で偶然に生まれた太陽系のような存在だったのではないかと思っています。


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/題:>あきんどさん
              氏名:北の狼 日:2004/12/07(Tue) 17:49 No.1387

実は、私は、あきんどさんが何をおっしゃりたいのかよく分かりません。

まず、私が、なぜ「幻想性」という言葉を持ち出したか、私の投稿を読み直したうえでその意味をきちんとお考えください。
そうすれば、以下のような言葉は出てこないはずです。

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そこで問題なんですが、狼さんが仰る・・・
>つまり、ネットにおける「幻想性」の意味を理解するためには、現実世界における制約と、それから解放された世界の【違い】を比較することが必要なのです。
現実世界とネット(仮想空間)の【共通点】に注目しても、ネットによってこそ実現されうる「幻想性」に関して理解がすすむことはありません。<
という部分ですが、それが現実だとしてもそれを人間は100%受け入れることに問題は生じないのでしょうか。
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そもそも、「100%」とはどういう意味でしょうか?
「幻想性」とは、人間の行動や志向などに潜むモチーフ(つまり本質)といってもいいもです。
なんか、この点からして認識のズレがあると思います・・・・・。

その後も、ネットプロとかネットリーダーとか、意味不明の語がありますが、何なんでしょうか、これらは?


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/題:イメージするものが違うのでは
          氏名:あきんど兄さん 日:2004/12/07(Tue) 18:51 No.1388

表現が難しいのですが、結論から言うとそれぞれにそれぞれの思い入れがあると思うんです。
私の場合は幻想性というものの意味というか価値を理解しようとは思いません。
ただ私はネットでは演じることによって実社会との差を無くせる手段だと認識していますから、私にとってはそちらの方が理解しやすいという認識です。
狼さんは常に本質を求めていることは以前から認識しています。
たしかご自身のホームページでも本物を求めたいという表現で仰られていたはずです。
それが幻想性というものとどう関連するのか私の足りない頭ではとても理解できません。
もし理解するとしたらそれは私にとってはとても我侭な世界に映ります。
そこまでしか私は幻想性という言葉からイメージを描く事は出来ません。
ですので100%という理解はできないのではないかと表現しました。

つまり狼さんがその領域までをもしも自分のみならず他の方にも求めるものだとしたらかなりの困難さが生じると感じます。
幻想性を研ぎ澄ましてどんな価値を得られるのかが理解できないと受け止めて頂いても宜しいでしょう。
そして私がイメージするものはたぶんその領域ではないと思います。
卑怯な言い方をすれば本当のところは自分でも良く判らない。
ただ私に限っては演じるということに自分なりの解釈を得ているということです。
それは狼さんには理解されない物かもしれませんが、それでもかまわないと言う認識が私にはあります。

時間がきましたのでこれにて失礼します。

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/題:共通の土台は困難ですか
              氏名:北の狼 日:2004/12/07(Tue) 19:05 No.1389

>私の場合は幻想性というものの意味というか価値を理解しようとは思いません。

了解しました。
灯理さんを例にあげて「幻想性」について分かりやすく説明したつもりですが、理解なさろうという気がないのでしたら、私のほうからはこれ以上なにも言うことはないと思います。

その後もコメントされていますが、「分からないし、説明されても理解するつもりがないこと」については沈黙する、というのも一つの賢明な現実的態度ではないかと思います。お互いに、時間を無駄にすることもありませんから。


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/題:>あきんどさん。
          氏名:灯理 日:2004/12/08(Wed) 20:58 No.1393

あきんどさんは客観世界の実在を信じてるでしょう?。
だからネットの世界がヴァーチャルに思える。
でも、ネットの世界も所謂実社会も変わりませんよ。
この世界はその人がそうだ、と思いこんでいるだけのものだからです。

ペルソナ(仮面)というものがあります。
銀行員には銀行員の、商人には商人の、政治家には政治家の、ヤクザにはヤクザのそれがあって、わたしやあきんどさんも、仕事中にはその仕事にふさわしい役の仮面をかぶっているわけ。
わたしの場合にはそれを脱ぐと灯理が現れてくるわけですね。
するとネットの世界や家に帰ったときのほうが“本当の自分”還れるわけですよ。

物事の本質(もの、そのもの)に、人間は直接触れることが出来ません。どこまで行ってもその人の中に生成された“イメージ”しか見ることが出来ないからです。そこで、本質に触れるためには比喩とか直観によるほかは無い。その精神の働きを狼さんは「幻想性」と仰ってるんじゃないか知ら?。
あきんどさんは多分、外向的な心の構えお方だと思いますから、周囲の世界を“実在する”と感じてらっしゃると思いますけど、哲学的に言うと、それは正確ではないのですね。

タイトルRe^2: 仮想空間としてのネットの特性
記事No16
投稿日: 2004/12/19(Sun) 22:25
投稿者北の狼(おちょくり塾)
/題:やや堅い話になりますが(灯理さんの投稿に触発されて)
                氏名:北の狼 日:2004/12/09(Thu)00:31 No.1397

「幻想」については、竹田現象学・欲望論・エロス論をよくご存知の灯理さんや龍子さんにとっては、釈迦に説法だなあと思いながら書いておりました。ただ、せっかく灯理さんがいらっしゃったのですから、ちょっと詳しく論じたいと思います。
以下は『現代思想の冒険』(竹田青嗣、ちくま学芸文庫)より。


===============

わたしたちの欲望は、日常世界の中でつねに新たな存在可能を開こうとするときに現れるエロス性を求めている。それが実存的な欲望の意味である。しかし、この欲望は、日常性がそういった挫折の反復しかもたらさないという「体験」(フッサールの言う)の積み重ねによって、この日常性それ自体を破る可能性として予感されるようなエロス性(=”超越的”なエロス性)を求めることになるのだ。そして重要なのは、<社会>や<歴史>や<真理>に対する人間の欲望とは、まさしくそのような超越的なエロス性を意味しているのではないかということだ。
つまり、ここでわたしが言いたいのは、もし実存論的な観点で欲望の意味、つまり人間の存在の意味を追っていけば、自分の生は一度だけしかないというところから現れるような”世人”としての欲望も、<社会>や<真理>へ向かおうとする”抽象的”な欲望も、じつはただ挫折した人間の<実存>が新しい存在可能としてつかみとろうとするエロス性への欲望という、同じひとつの本質においてしか存在していないのではないかということである。
もしそうだとすれば、それはまた次のような見方を導くことになるであろう。
近代思想が<社会>という項を最も中心の課題として設定したとき、そこでは、多くのひとびとがこの日常世界の中からどうしても豊かなエロス性をつかめないことによって(こん世の中では決して幸せに生きることができない)<社会>への欲望が必然的なものとなっていたのであり、そうである限り、人間が<社会>の構造を思い描いてそれを改変しようとする欲望は、なんら観念的なものではなくむしろ普遍性を持っていたということである。つまり<社会>という観念(あるいはそれへの信)は、ほんとうはそれ自体が、人間の日常的な生き難さにとってその乗り越えの可能性として現れたようなエロス性だったのにほかならない。
・・・・・・・・・・
いまある日常に対してより素晴しい日常を見出したとき、その場面でエロス性はやってくるが(この意味でエロス性とはいまある日常性を破るときに生じる「陶酔」[ニーチェ]だと言える)、しかしどんな意味でも完全な日常というものは決してあり得ない。人間が<社会>という信憑を手放せないのは、それがつねにいまある日常性に対して、人間が本来決して超え得ないものである日常性それ自体を超え得る可能性としてエロス性を持つからである。そしてそれは、ちょうど人間の性のエロティシズムが、人間が本来超え得ない<死>を「乗り超えうる」可能性の幻想として現れるのと全く同じ原理なのである。
・・・・・・・・・・
人間はどんな時代(社会)の中でも、必ずその社会の形式性から自己の存在可能の夢(=欲望)、つまりライフ・スタイルの夢を与えられる。それはじつに本質的にエロス的なものであり、人間が<死>という”絶望”を抱え込んだ存在であるということに根をもっている。ところがそれにもかかわらず、社会は、決して十全なかたちではこの欲望を実現する機会を人間にもたらさない。このことが現在の社会では、いつも人間の生き難さの中心をなしているのだ。つまり、この社会を改変したいという欲望が現実的なものとして根拠づけられるのは、原理的に、社会が人間にもたらすエロス的欲望の可能性と、それがじっさいに与えるその機会の誤差においてである。

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人間というのは欲望的な存在です。欲望とは「本来的な自分でありたい、ほんとうの自分としてふるまいたい」という「自己の存在可能の夢」のことです・・・・・ここでは「欲望」を、生理的、肉体的、物質的な満足を求める「欲求」とは区別しています。

上は実存的な欲望ですが(灯理さんの例がこれにあたります)、社会に向かう欲望もあるわけです。

例えば、「つくる会」の会員たちが活動を行うのも、(自虐史観が蔓延している)いまある日本に対してより素晴しい日本の像を見出し、いまの日本を改変したいという欲望があるからです。

そこで、上で竹田氏が述べていることですが、要するに、自分自身の生を充実させたいという【実存的な欲望】も、日本を改変したいという【社会的な欲望】も、本質は同じであるということです。
その本質とは、欲望とはつまるところ「挫折した人間の<実存>が新しい存在可能としてつかみとろうとするエロス性への欲望」である、ということです。つまり、【実存的な欲望】はもとより【社会的な欲望】も、両者の原理はともに<実存>に還元できるということですね(だから実存主義なのです)。
そして、エロス性とは、挫折を「乗り超えうる」という可能性を感じた時に、心の底から湧き上がってくる「幻想性」とのことです。

このような意味で、日常のしがらみや制約や障害を緩和して【実存的な欲望】にしろ【社会的な欲望】にしろ、実現可能性を高めてくれる、そういうエロス性への期待があるからこそ、人はネットに向かうのではないでしょうか。
ただし、これらの欲望の実現はネットでなければ期待できない、ということではありませんので誤解なきように。あくまで、ある局面においては、ネットは確実にその可能性を高めくれている、ということですね。


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/題:BBSの凋落と「ブログ」の勃興
               氏名:北の狼 日:2004/12/19(Sun) 19:22 No.1467

『山椒庵』で荒間さんからアナウンスがあったように、当サイトは、「南京事件」関連を新たに加えてリニューアルする予定で、いまその作業のまっ最中です。それで、「南京事件」専用の掲示板(BBS)も当然視野に入れています。
「南京事件」関連の掲示板といえば、最近までは、2chと並んでかつての松尾さんのサイト(『電脳歴史掲示板』)がもっとも盛んに議論が交わされていたところでしょう。最近では、グースさんの掲示板ぐらいでしょうか(http://www.geocities.jp/nankin1937jp/index.html)。

ただ、昨今のネット状況をみてみると、歴史認識論議に限ってみれば、BBS形式の掲示板はもはや”旧い”ようにも思えます。
歴史認識論議はもともとニフティで盛んに行われたもので、その延長でWWWのBBSに移行してブレークしたものです。そして、そのBBSの隆盛は今は一段落したとえいますし、そこで交わされている論議内容を吟味してみますと、むしろ停滞気味であると私は判断しています。

BBSがなぜ停滞するようになったのか? と問われれば、私は投稿者の「悪平等」と「無責任」に原因があったと答えます・・・これについては、機会があれば述べましょう。
そして、(停滞気味の)BBSにとって代わるように登場してきたのが「ブログ」です。実は、「ブログ」では「悪平等」と「無責任」がさして問題にならないうえ、「プログ」の主催は自立した者でないとつとまらないという現状があります。つまり、BBSの一参加者と、「ブログ」の主催者とでは、言説内容の充実度や、言説をなす覚悟において、雲泥の差があるといっていいのです。

かつて、『西尾幹二のインターネット日録』というサイトが震源地となり、「空白の10分間」をめぐって激烈なる論争が交わされました。その論争をトレースしていた私を驚かせたのは、西尾幹二氏という保守系著名人を抱くサイトの「BBS」が、ある一人の”無名人”(gori氏)の「ブログ」に完敗してしまったということです。
「BBS」側は、コメントやトラック・バックを禁止したり、掲示板を数度にわたって移動したり、投稿を削除したり、IPを晒したり、果てはgori氏等を投稿禁止にしたり,遂には「BBS」自体を実質的に閉鎖したりと、手をかえ品をかえ対策を講じたようです。対して「ブログ」側は終始、言説のみで対抗するという正攻法一本槍でした。
それにもかかわらず、私がみた限りでは、「BBS」においてなされた膨大な”論議”からえられた収穫・成果はゼロでした。対して「プログ」側は、要所〃で確実にポイントを稼いでいましたね。
結局は、(たぶん、『西尾幹二のインターネット日録』側の主導で)裏でgori氏と”手打ち”を行って事をおさめたようですが、もしgori氏がその裏の提案を蹴っていたら、『西尾幹二のインターネット日録』は危ないところだったと思います。私の知人(保守系、右派です)などは、『西尾幹二のインターネット日録』側は「恥の上塗り(表の論争で敗北したうえに、裏で取引をして問題を有耶無耶にした)」をやったと憤慨しておりましたが。
ともあれ、「ブログ」の威力というものを見せ付けられた一件でした。

ただ一人が主催する「ブログ」が多人数が参加し管理する「BBS」に勝利した・・・・この「事実」をどう解釈し、「南京事件」関連が新たに加わる今後の当サイトの運営にあたってどう参考にするかですね。