タイトル | : Re^2: 仮想空間としてのネットの特性 |
記事No | : 16 |
投稿日 | : 2004/12/19(Sun) 22:25 |
投稿者 | : 北の狼(おちょくり塾) |
/題:やや堅い話になりますが(灯理さんの投稿に触発されて) 氏名:北の狼 日:2004/12/09(Thu)00:31 No.1397
「幻想」については、竹田現象学・欲望論・エロス論をよくご存知の灯理さんや龍子さんにとっては、釈迦に説法だなあと思いながら書いておりました。ただ、せっかく灯理さんがいらっしゃったのですから、ちょっと詳しく論じたいと思います。 以下は『現代思想の冒険』(竹田青嗣、ちくま学芸文庫)より。
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わたしたちの欲望は、日常世界の中でつねに新たな存在可能を開こうとするときに現れるエロス性を求めている。それが実存的な欲望の意味である。しかし、この欲望は、日常性がそういった挫折の反復しかもたらさないという「体験」(フッサールの言う)の積み重ねによって、この日常性それ自体を破る可能性として予感されるようなエロス性(=”超越的”なエロス性)を求めることになるのだ。そして重要なのは、<社会>や<歴史>や<真理>に対する人間の欲望とは、まさしくそのような超越的なエロス性を意味しているのではないかということだ。 つまり、ここでわたしが言いたいのは、もし実存論的な観点で欲望の意味、つまり人間の存在の意味を追っていけば、自分の生は一度だけしかないというところから現れるような”世人”としての欲望も、<社会>や<真理>へ向かおうとする”抽象的”な欲望も、じつはただ挫折した人間の<実存>が新しい存在可能としてつかみとろうとするエロス性への欲望という、同じひとつの本質においてしか存在していないのではないかということである。 もしそうだとすれば、それはまた次のような見方を導くことになるであろう。 近代思想が<社会>という項を最も中心の課題として設定したとき、そこでは、多くのひとびとがこの日常世界の中からどうしても豊かなエロス性をつかめないことによって(こん世の中では決して幸せに生きることができない)<社会>への欲望が必然的なものとなっていたのであり、そうである限り、人間が<社会>の構造を思い描いてそれを改変しようとする欲望は、なんら観念的なものではなくむしろ普遍性を持っていたということである。つまり<社会>という観念(あるいはそれへの信)は、ほんとうはそれ自体が、人間の日常的な生き難さにとってその乗り越えの可能性として現れたようなエロス性だったのにほかならない。 ・・・・・・・・・・ いまある日常に対してより素晴しい日常を見出したとき、その場面でエロス性はやってくるが(この意味でエロス性とはいまある日常性を破るときに生じる「陶酔」[ニーチェ]だと言える)、しかしどんな意味でも完全な日常というものは決してあり得ない。人間が<社会>という信憑を手放せないのは、それがつねにいまある日常性に対して、人間が本来決して超え得ないものである日常性それ自体を超え得る可能性としてエロス性を持つからである。そしてそれは、ちょうど人間の性のエロティシズムが、人間が本来超え得ない<死>を「乗り超えうる」可能性の幻想として現れるのと全く同じ原理なのである。 ・・・・・・・・・・ 人間はどんな時代(社会)の中でも、必ずその社会の形式性から自己の存在可能の夢(=欲望)、つまりライフ・スタイルの夢を与えられる。それはじつに本質的にエロス的なものであり、人間が<死>という”絶望”を抱え込んだ存在であるということに根をもっている。ところがそれにもかかわらず、社会は、決して十全なかたちではこの欲望を実現する機会を人間にもたらさない。このことが現在の社会では、いつも人間の生き難さの中心をなしているのだ。つまり、この社会を改変したいという欲望が現実的なものとして根拠づけられるのは、原理的に、社会が人間にもたらすエロス的欲望の可能性と、それがじっさいに与えるその機会の誤差においてである。
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人間というのは欲望的な存在です。欲望とは「本来的な自分でありたい、ほんとうの自分としてふるまいたい」という「自己の存在可能の夢」のことです・・・・・ここでは「欲望」を、生理的、肉体的、物質的な満足を求める「欲求」とは区別しています。
上は実存的な欲望ですが(灯理さんの例がこれにあたります)、社会に向かう欲望もあるわけです。
例えば、「つくる会」の会員たちが活動を行うのも、(自虐史観が蔓延している)いまある日本に対してより素晴しい日本の像を見出し、いまの日本を改変したいという欲望があるからです。
そこで、上で竹田氏が述べていることですが、要するに、自分自身の生を充実させたいという【実存的な欲望】も、日本を改変したいという【社会的な欲望】も、本質は同じであるということです。 その本質とは、欲望とはつまるところ「挫折した人間の<実存>が新しい存在可能としてつかみとろうとするエロス性への欲望」である、ということです。つまり、【実存的な欲望】はもとより【社会的な欲望】も、両者の原理はともに<実存>に還元できるということですね(だから実存主義なのです)。 そして、エロス性とは、挫折を「乗り超えうる」という可能性を感じた時に、心の底から湧き上がってくる「幻想性」とのことです。
このような意味で、日常のしがらみや制約や障害を緩和して【実存的な欲望】にしろ【社会的な欲望】にしろ、実現可能性を高めてくれる、そういうエロス性への期待があるからこそ、人はネットに向かうのではないでしょうか。 ただし、これらの欲望の実現はネットでなければ期待できない、ということではありませんので誤解なきように。あくまで、ある局面においては、ネットは確実にその可能性を高めくれている、ということですね。
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/題:BBSの凋落と「ブログ」の勃興 氏名:北の狼 日:2004/12/19(Sun) 19:22 No.1467
『山椒庵』で荒間さんからアナウンスがあったように、当サイトは、「南京事件」関連を新たに加えてリニューアルする予定で、いまその作業のまっ最中です。それで、「南京事件」専用の掲示板(BBS)も当然視野に入れています。 「南京事件」関連の掲示板といえば、最近までは、2chと並んでかつての松尾さんのサイト(『電脳歴史掲示板』)がもっとも盛んに議論が交わされていたところでしょう。最近では、グースさんの掲示板ぐらいでしょうか(http://www.geocities.jp/nankin1937jp/index.html)。
ただ、昨今のネット状況をみてみると、歴史認識論議に限ってみれば、BBS形式の掲示板はもはや”旧い”ようにも思えます。 歴史認識論議はもともとニフティで盛んに行われたもので、その延長でWWWのBBSに移行してブレークしたものです。そして、そのBBSの隆盛は今は一段落したとえいますし、そこで交わされている論議内容を吟味してみますと、むしろ停滞気味であると私は判断しています。
BBSがなぜ停滞するようになったのか? と問われれば、私は投稿者の「悪平等」と「無責任」に原因があったと答えます・・・これについては、機会があれば述べましょう。 そして、(停滞気味の)BBSにとって代わるように登場してきたのが「ブログ」です。実は、「ブログ」では「悪平等」と「無責任」がさして問題にならないうえ、「プログ」の主催は自立した者でないとつとまらないという現状があります。つまり、BBSの一参加者と、「ブログ」の主催者とでは、言説内容の充実度や、言説をなす覚悟において、雲泥の差があるといっていいのです。
かつて、『西尾幹二のインターネット日録』というサイトが震源地となり、「空白の10分間」をめぐって激烈なる論争が交わされました。その論争をトレースしていた私を驚かせたのは、西尾幹二氏という保守系著名人を抱くサイトの「BBS」が、ある一人の”無名人”(gori氏)の「ブログ」に完敗してしまったということです。 「BBS」側は、コメントやトラック・バックを禁止したり、掲示板を数度にわたって移動したり、投稿を削除したり、IPを晒したり、果てはgori氏等を投稿禁止にしたり,遂には「BBS」自体を実質的に閉鎖したりと、手をかえ品をかえ対策を講じたようです。対して「ブログ」側は終始、言説のみで対抗するという正攻法一本槍でした。 それにもかかわらず、私がみた限りでは、「BBS」においてなされた膨大な”論議”からえられた収穫・成果はゼロでした。対して「プログ」側は、要所〃で確実にポイントを稼いでいましたね。 結局は、(たぶん、『西尾幹二のインターネット日録』側の主導で)裏でgori氏と”手打ち”を行って事をおさめたようですが、もしgori氏がその裏の提案を蹴っていたら、『西尾幹二のインターネット日録』は危ないところだったと思います。私の知人(保守系、右派です)などは、『西尾幹二のインターネット日録』側は「恥の上塗り(表の論争で敗北したうえに、裏で取引をして問題を有耶無耶にした)」をやったと憤慨しておりましたが。 ともあれ、「ブログ」の威力というものを見せ付けられた一件でした。
ただ一人が主催する「ブログ」が多人数が参加し管理する「BBS」に勝利した・・・・この「事実」をどう解釈し、「南京事件」関連が新たに加わる今後の当サイトの運営にあたってどう参考にするかですね。
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