夢を見ているようだった。
目に映る景色は霞がかっていて。まるで世界の全てを白い靄が覆っているようだった。
誰かに声を掛けられ、適当に相槌を打つ。ここはどこだろう。今まで何をしていたのかもよくわからない。
頻りに何かを話しかけられ、その都度適当に話を合わせる。不安そうな顔をしていた相手は、オレの言葉を聞いて安堵しているようだった。
何気なく鼻をひくつかせると薬品のきついにおいがした。
早くここから出たいんだけど、と告げると今日はまだダメだという。
こんなところにいつまで押し込められるのかと更に文句を言うと、検査して何もなければ明日には帰れるだろうと返ってきた。
帰れると言っても、どこに帰るんだっけ。そんなことをつぶやいたら、さっきまでニコニコしていた相手が血相を変え、慌ただしく質問を始めた。
いつまでこの夢は続くのだろう。夢だというのに、疲れてきた。
* * *
あの薬品くさい部屋からやっと解放された。あのにおいはしばらく嗅ぎたくない…。嗅いでいると頭が痛くなってくる。
何でもオレは記憶障害があるそうで、少し不便があるかもしれないと言われた。
相変わらず周囲は靄がかかっている。大分長い夢だがまだ覚めそうにない。
とりあえず帰ろう。そう、自宅に。場所は先ほど誰かが教えてくれた。道のりは覚えがある。
そうだ。あそこはずっと帰りたかった場所だ。
それを思い出すと急いで向かう。なぜこんなに帰りたいと思っていたのかはよく覚えてないが、とにかくドアを開ける。
すると、誰かがオレに飛びついてきた。
誰だ?
それを聞いて飛びついてきた金髪の少年が不安そうな目でこちらを見つめている気がした。
気がしたというのはまるですりガラスに隔てられているようで、顔がぼやけてはっきりわからないからだ。
なぜ見知らぬ人間がオレの部屋にいるんだろう。もしかしてルームメイトだろうか。聞いてみるとそうだと言う。
でもなぜか悲しそうな顔をしている。
名前は何といったっけ。思い出せそうな気がしたのに後少しというところで波のように引いていってしまう。
頭が痛い…。
こいつの側にいるとあの薬品くさい部屋のことが頭に浮かんで来て何だか気分が悪い。
オレはそいつを残して部屋を出て行った。
* * *
あの頭痛にはもううんざりだ。しばらく自宅を離れよう。
どこへ行くでもなく歩いていると本社のエントランスに着いた。受付にいる女の子に声を掛けられたので、そちらへ向かう。
「しばらくぶりですね」
…そうなのか。この子とはいつ会ったのだろう。
ああ、そうだ。名前を思い出した。クレアだ。
「そうですよ。どうしたんです?」
名前を確認すると不思議そうな顔をされたので記憶喪失だと教える。大したことはないと話しているとクレアの後ろからブルネットの髪の女の子が声を掛けて来た。この子は誰だったかな。
「久しぶりー。どうしたの?」
「記憶喪失なんですって」
「うそー、あたしのこと忘れちゃったの?」
何だか騒がしい子だな。この子は名前が浮かんで来ない。
「やだぁ、あたしベッキーよ」
そのベッキーが妙に騒ぐものだから女の子たちが次々やって来て「私は?」「私のことは?」と矢継ぎ早に問い質してきてうるさい。
「これ新しい遊びなの?」
「バカね、記憶喪失なのよ」
「ねえ、最近全然遊んでくれなくなったでしょ。久しぶりにどこか行きましょうよ」
「ずるい、抜け駆けはやめなさいよ」
「じゃあみんなで快気祝いしよ?」
いつの間にか話が進んでいるが、飲みに行くのは好きだからまあいいか。
ベッキーが更衣室へ向かうと制服を着ている他の子もそれに続いた。
受付に残ったクレアが心配そうに見つめてくる。
「いいんですか?まだ身体本調子じゃないんでしょう…」
大丈夫と返事をしようとしたら、また誰かから声を掛けられた。
明るい栗毛の男…。こいつのことは、知っているはずだ。そう…カンセルだ。抜け落ちていたピースが一つ埋まったような気がした。
忘れてたのかと問われ、顔を見て思い出したと言ったら軽くどつかれた。
これから女の子たちが快気祝いしてくれるから一緒に来るかと聞くと、なぜか渋い顔をする。
「家に戻らなくていいのかよ」
もちろんさっき戻った。何を気にしているのだろう。
部屋にいると気分が悪いから退散して来たことを告げるともっと怪訝そうな顔をする。
「…お前、何言ってんだ?」
カンセルこそ何を言ってるんだ?
女の子たちの呼ぶ声に従い、オレはエントランスを後にした。