「何でオレの部屋にいる?」
一体何が起きているのだろう。
目の前にいるのはザックスのはずだ。それなのに、オレを誰だと訊ねてくる。同居していたのに、同居したいと望んだのはザックスなのに、なぜこんなことを言うの?
「ああ、オレのルームメイトか?」
…ルームメイトなんかじゃない。
でも恋人だと告げるのが怖かった。またあの冷たい瞳を向けられそうで。
「……そう、です」
返事をすると部屋にいたのが見知らぬ人物ではないとわかったからか、ザックスは顔を和らげた。
こちらを見つめてくるザックスに覚える違和感。
ザックスなのに、ザックスじゃない…。
何の根拠もないけど、そう感じた。
「悪かったな。オレちょっとばかし記憶喪失みたいでさ」
記憶喪失…昨日カンセルさんがメールに書いてた後遺症とはこれのことなんだろうか。それ以外、後遺症らしい後遺症は見当たらなかった。
「そういうわけでしばらく迷惑かけるかもしれないけど、よろしくな?…えーと」
「…クラウド」
名前まで忘れられて、あからさまに不貞腐れた物言いをしてしまった。
しまったと思った時にはもう遅くて、ザックスの機嫌が悪くなっているのが見て取れた。
「あー、そうそう。クラウドね…」
受け返す言葉が更に冷たく感じて、ゾクっと悪寒が走るのを感じた。思わず顔を反らすと、ザックスは更に面倒そうな口調で続けた。
「記憶喪失になっちまったんだからしょうがねえだろ」
多分これが実験の後遺症…。
容態が悪化していたら、ここに帰って来れなかったかもしれないんだ。こうして元気に戻ってきてくれたことを喜ばなければいけない。
だけど…忘れられてしまったことが悲しくて、理性的に考えることが出来なかった。労ってあげたいと思っていたのに、そんな心の余裕はなくなっていた。
…違う。最初からそんなこと考えてなかったのかもしれない。
労いたかったんじゃない。本当はザックスに縋りたかったんだ。そしてこの数日間の不安を打ち消して欲しかったんだ。
どれだけ疲れ果てて帰って来ても、出掛ける前と同じあの笑顔を見せてくれると思っていた。腕の中に抱き入れて、包み込んでくれると信じていた。
――でも現実はそうではなかった。
頭の中で思い描いていた都合のいい妄想は砂で出来た城のようにぽろぽろと崩れて行った。
ザックスの顔を見ることが出来ず、床に視線を落としていると、ザックスが声を張り上げてこちらに呼びかけていることに気付いた。
「おい、聞いてんのかよ」
「え…?」
何度も声を掛けられていたようだけど、すっかり放心していたせいでそれに気付くことが出来なった。
呼びかけを無視されたことが気に食わなかったのか、ザックスはこちらをにらみつけながら舌打ちをする。
「…っち。愛想ねえな」
無下に言い放たれた言葉が胸にぐさりと突き刺さった。出会った時からザックスはいつでも優しかったし、こんな言葉を浴びせられたこともなかった。
こちらがまた黙り込むと、ザックスは不快そうな…何かの痛みを堪えるような表情をしながらため息を吐いた。
「…ちょっと出て来る」
「え…どこに…」
「どこだっていいだろ」
それだけ言って、こちらを見向きもせず玄関から出て行った。
あれだけ焦がれたザックスとの再会はものの数分で終わってしまった…。
ザックスが出て行ってしまい、どうしたらいいのかわからず、しばらく玄関に一人で立っていた。
どれだけ待ってもザックスは戻って来てくれない。追いかけた方がいいんだろうか。…そんなことしたら、何で来た、帰れと追い返されるかもしれない。あの瞳の冷たさに凍りついてしまったかのように身体が動かなかった。
このまま待っていても戻って来ないだろうと諦めて、ふらふらともたつきながらリビングに向かう。ケガをしたわけでもないのにそこへたどり着くのにひどく時間を要した。まるでオイルの切れたロボットのようだ。
もたもた歩いていたせいで足のバランスを崩し、床に倒れ込んでしまった。僅かに痛む足を引きずりながら目の前のテーブルに突っ伏すと、声を殺して泣いた。
無事に帰って来てくれたのに。それだけでうれしいはずだったのに…。
どうしてオレのことを忘れているの?
オレはザックスにとってその程度の存在だったの?
そしてザックスの中にあんな凄然とした一面があったことへのショックも大きかった。
まるで別人のようだった…。あれも後遺症?
今までザックスから向けられていた愛しいという感情。それを当たり前のように享受していたから気付くことなどなかったんだ。自分はどれだけザックスに大切にされていたのだろう…。
そしてザックスはその情を再びこちらに向けてくれるのだろうか…。