scene.10 天使が還る(前編)






 クラウドが姿を消してどれくらい経っただろうか。日数の感覚がなくなっていた。

 呆然として過ごす日が続く中、ザックスはメンタルチェックの結果について医療部門から呼び出しが掛かり、本社ビルを訪れていた。
 担当医が検査結果の挟まれたクリップボードを見ながら笑顔で結果を告げ始めた。
「前回の数値が少々危険だったんですが、今回はかなり安定してます。1stになられてから一番安定してますね」
 レノが言っていた通りの結果だった。
 前回のメンタルチェックの際に注意勧告がされたのは覚えていたが、まさかメンタルケア行きになる直前だったとはさすがに考えていなかった。メンタルケアが必要と判断されると、ほぼ軟禁に近い形で専用病棟へ入れられ、しばらく療養を余儀なくされる。
「このままの数値をキープ出来れば全く問題ないでしょう」
「そッスね…」
 オレの精神を支えてくれた存在はどこにもいない。もう戻ってこない。次こそメンタルケアのお世話になるかもしれないと後ろ向きな考えになった。


 クラウドがいなくなってからの数日間抜け殻だった。
 正直本社ビルに行くのも億劫で仕方なかった。仕事が入ってないのが幸いだったが、もう休暇も終わるというのにこれで仕事になるのだろうか。
 医療エリアから一般エリアへ続く通路を力なく歩いていると、同僚たちが声を掛けて来た。
「よお、ザックス。暗いな」
「噂の天使ちゃんと何かあったか?」
「……ああ、振られちまったんだ」
 そう告げると鳩が豆鉄砲食らったような顔をして同僚たちは互いに顔を見合わせた。
「え!?マジかよ…」
「お前何したんだ?」
 会話する気力もなく、ザックスは軽く手を振ってその場を後にした。
 寂寥感漂う背を目にし、二人とも何も言うまいとそれ以上は話しかけて来なかった。

 …何をしたのか?確かに強引な行動に出てしまったが、それ自体が原因ではないことはわかっている。
 堕天された理由を思い出したと夢の中で言っていた。そもそも最初からそれを「思い出すまでいていいか」としか言っていなかった。天界に帰ることが許されるのであれば、クラウドはもう戻って来ないだろう。
 なぜなら下界に――オレの元にいる理由などもうないのだから。

 失恋した時はこんな気持ちになるものなのか…。
 これまで振られたこともあるがこんな無気力になったことはなかった。今考えれば本当に恋愛してたと言えるのか怪しい。別に振られてもショックでも何でもなかった。また次を探せばいいことだとすぐに切り替えられた。
 だが、今は違う。代わりになる相手などいない。どこを探しても。
 本社での用はもう済ませたが他にすることもなく、自宅へはあまり帰りたくなかった。帰ってくることなどないのに、もしかしたらクラウドが戻っているかもしれないなどというすぐに崩れるような期待を抱いてしまうから。

 本社ビルを出るとザックスは繁華街へと足を向けた。ここ数日はずっとこんなことを続けていた。
 酒を飲んで酔いに任せてそのまま眠る。そうでもしないと眠りにつくことが出来ない気がして。
 ただの現実逃避だとわかっているが、酒の力を借りでもしないとやり切れなかった。それでも女を抱いて発散しようとは思わなかった。
 あの温もりの代わりになり得る女などいないのだから。


 * * *


 いつものように行きつけの飲み屋を梯子しようと思っていたが、その日はなぜか酒を飲む気にもなれず、1軒寄っただけで帰宅の途についた。
 生まれついてのアルコールに強い体質がソルジャーになってからより一層耐性が増していた為、繁華街から兵舎への道のりを歩いているうちに酔いも醒めてしまった。
 ザックスは兵舎のエレベーターホールには向かわず、クラウドと初めて出会ったあの巨木の方へと足を向けた。行こうと思って行ったのではなく、足が自然にそちらへと動いた。
 思い出の場所なんてつらいだけなのに何で向かってしまうのだろうと、いつだったかの朝のように自嘲気味に歩いた。根元に足を取られ、フラつきながら幹の側に腰を下ろす。
 あの日の朝、ここの前にクラウドは倒れていた。あの時散歩をしようと思わなかったら出会うこともなく、愛しい存在に想いを募らせることなく過ごせたのだろうか。その方がいっそ楽だったかもしれない。最初から出会わなければ…。
 それともあの日の夜、全てをぶちまけて引き留めていれば自分の元に留まってくれただろうか?
 今となっては確かめようもないことだが、戻れるならあの日の夜に戻りたい。
 そんなことを考えていると、クラウドと過ごした日々が走馬灯のように脳裏に浮かんで来る。
 初めて出会った時に目を奪われた容姿。眠りから目覚め、顔を合わせた時からあの瞳に囚われた。
 フォークの使い方すらわからずホットケーキを食べさせてやったこともあった。
 何にでも興味を示し、その愛らしさを自分一人で独占したくなった。
 無邪気に自分を慕ってきたあの天使はもう戻って来ないのだ。
 改めて思い起こし、目頭が熱くなった。
 背後に身体を預けると背中にごつごつとした幹の感触がする。
 …そういえば先住のソルジャーはこの木をなんと言っていたっけ。
 ふと気になってその時のことを思い出していると、ちらりと白い羽根が一つ、鼻先を掠めた。

「―――え?」

 その時やっと思い出した。天使の宿り木。そう言っていたんだ。

 そして天使がその木に本当に止まっていた。

 初めて出会った時の姿のまま、巨木の太い枝に腰を下ろしてぶらぶらと足を揺らしていた。
 幻でも見ているのだろうか。もう戻ってくるはずなどないのに。
 クラウドは遠くの空を見上げていた顔をザックスの方へと向けるとにっこりと微笑む。そしてまるで重力を感じさせない動作で地上に降りてきた。
「…クラウド…何で…」
 震える声で問いかけるがそれには答えず、クラウドは静かにザックスに抱き縋った。懐かしいあの日なたのような暖かい香りがザックスを包む。
「ザックス、ココア飲みたい」
 まるでいなくなっていた間などなかったように、二人で過ごしていた時のままの口調で甘えて来た。





material:月の歯車






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