2)
ふと、蘭世が目覚めたとき・・・
その頬にざらざらした感触がしていた。
ぼんやりとした視界は薄暗く・・向こうの方でスタンドらしい灯りがひとつ灯っていた。
「ぐうっ・・!」
突然男の低いうめき声を聞き、蘭世は飛び起きる。
続いて金属の転がる高い音がかすかだが耳に飛び込んできた。
「きゃ・・!」
暗い部屋の隅で机のそばに腰掛け、電気スタンドをひとつともしてZが座っていた。
蘭世からは彼の肩の傷も、彼の苦痛にゆがむ表情もよく見て取れた。
彼は上半身裸であった。
カルロよりももう少し筋肉質なその身体には、無数の傷の痕跡が見え・・
蘭世にさえ彼の修羅を連想させた。
その手には、血にまみれ銀色に光る・・・メスが握られている。
Zはたった今自らの肩にメスを入れ、身体に食い込んでいた弾を取り出した所だったのだ。
多量に出血をしたせいか、心なしかZの顔が青ざめているように見える・・・。
蘭世は自分の置かれた立場について考えるよりも先に、
Zのしていることに衝撃を受けてしまったのだった。
切り開かれた傷口からは、新たな血が再びZの厚い胸板を次々と滑り落ちていく。
Zは額に汗を浮かべながらも・・先程よりは落ち着いた表情を取り戻していた。
「ふう・・自分で処置をするのは数年ぶりだな・・・
火急の用事さえなければこんな嫌な作業は医者に任せたいもんだ」
Zは独り言のようにそれをつぶやいていた。
テーブルの上には応急セット・・と呼ぶには本格的な医療器具が色々と並べられている。
Zは自分の右腕が動くのを確認するように右手首を何度か動かすと、てきぱきと消毒作業から
傷の処置にとりかかっていく。
そのとき ふ、とZの動きが止まった。
目覚めた蘭世に気づき・・ニッ、と笑みを浮かべる。
「・・・お嬢さん、お目覚めか・・・ようこそ我がアジトへ。といってもここも仮住まいだがね」
「あ・・・」
蘭世は声を掛けられあらためて周囲を見回した。
(私 結局連れてこられてしまったんだ・・・)
・・・そこは一般家庭の家屋のようで、その部屋もカルロの屋敷にあるそれに比べると
随分とこぢんまりとしている。
そして倒れ伏していた蘭世の頬にあたっていたのは毛足の短い絨毯の感触であった。
さらには、蘭世は自分の手足がまったく縛られてもなく自由であることに気が付いた。
(手足が自由だからといって この人からは逃げられるわけはないわよね きっと・・・)
蘭世は過去にZに囚われたとき、彼から何度となく逃げ出そうとしていたのだが
ことごとく妨害されていたことを思い出していた。
「ここは砂漠の宮殿じゃ、ないみたい・・・」
ぼうっと 蘭世がそうつぶやくと、Zはおかしそうに ぷっ、と吹き出す。
「あのハレムが気に入ったかい?嬉しいね、今の仕事を片づけたら早速連れていってあげよう」
「いや!ばかっ」
かちゃかちゃと器具同士がぶつかり合う音が響いてくる。
抗生物質などの注射器を手にとっては腕へと運んでいる。
Zは傷を縫い合わせる処置の準備を始めているのだ。
蘭世は思わずZのいる机へと駆け寄っていた。
・・・蘭世は自分でも、半分無意識であった・・・。
「怪我の手当て!私にもなにか手伝えないかしら・・!!」
思いがけないその台詞に、Zは大きく目を見開いた。そして、ふっ、と目を伏せ笑みを浮かべる。
「人質にそんなことを言われるなんて俺も墜ちたものだな・・・
大丈夫だよ優しいお嬢さん、そこのソファにでも座っていなさい」
しかしそんな言葉では蘭世は納得できなかった。
傷を負った人間がそこにいるのに、じっとしてなどいられなかったのだ。
「でも!」
蘭世の真剣な表情を見て、Zは苦笑する。
「やれやれ・・今からまたこの傷を糸で縫うんだよ、そんな作業を繊細なお嬢さんが
平気で見ていられるのかな?」
「う・・・」
しりごみをはじめた蘭世に、フッ、とZは笑みを浮かべる。
「判ったら おとなしくそこへ座っていてくれたまえ。」
「・・・」
それでも蘭世は何かやりたそうな顔をしながらじっとZの肩の傷を見ている。
「痛そうね・・・」
その言葉を聞いてZは再びクス・・と笑う。
「お嬢さん、こんなのは痛みのうちには入らない。
我々はこういう痛みに耐えられるよう訓練されているんだ」
「えっ 何故?」
蘭世は純粋に興味が勝っているようで、身を乗り出してZの話を聞こうとしている。
そんな姿を見てZは再び半分苦笑気味だ。
「何故だって?面白いことを聞くお嬢さんだな・・そうだな、簡単に言うと・・生き残るためだ。」
そう言いながらZはポン、と真っ白なタオルの束を蘭世に投げてよこした。
蘭世は慌ててそれを受け取る。
「向こうに湯が沸かしてあるから、それをみんな絞ってきてくれないか?
熱いから気をつけるように」
「はい!」
蘭世は ぱあっ・・と明るい表情になりそのタオルを握りしめてZの指し示す方へ駈けていった。
キッチンと思われる場所のコンロに、やかんがひとつおいてあった。
「きゃー熱い〜!熱湯みたい!!」
蘭世はそのお湯をボウルに張り、四苦八苦しながらタオルを湯で湿らせ少しずつ絞った。
「ごめんなさい!お待たせしました・・!」
「有り難うお嬢さん。助かるよ」
そう言って微笑むZの右肩は・・すでに縫合が終了していたのだった。
蘭世から熱いタオルを受け取ると、Zは傷の周りを避けて自分の血液を拭き取り始めた。
その様子を見ていた蘭世が・・突然自分もタオルを手に持ちZに近づいていく。
「ん?」
少し身構えるZにもお構いなしに・・蘭世はその男の右側に立ち、
一緒になって彼の腕などにこびりつく血を拭き始めたのだ。
「・・・」
Zは、まさに驚いていた。
「どういう風の吹き回しだ・・?」
「だって・・怪我している人って 私放っておけないよ・・・」
「・・・」
Zは、その蘭世の様子をじっと観察している。
蘭世の方は純粋に、一生懸命その作業に取り組んでいるようだった。
珍しく、Zがそのまま黙り込んでいた・・・。
包帯も巻き終わりZの怪我の手当が一通り終わった。
スーツの上着を着込めば、怪我をしていることなど忘れそうなほどの
彼の振る舞いようだった。
机の上に、黒っぽい赤に染まった銃弾がひとつ転がっている。それだけがZの怪我の証だ。
「やれやれ・・・」
Zはコップにウイスキーを注ぐと、冷凍庫から取り出した氷を無造作に何個か放り入れ
ぐい・・と半分ほど飲み干した。
そのとき・・蘭世はふと我に返る。
「私っ、帰らなきゃ!」
(想いが池の水は!?)
部屋中をきょろきょろと見回すが、水筒が何処にも見あたらない。
思わず蘭世はZの方を振り向いてそれを訊こうとした。
「Zさん!あのっ・・きゃ」
Zはすかさず蘭世の足元を右足で払い・・そばにあったソファへと押し倒した。
あっというまに両手に手錠を掛けソファの手すりに引っかけると口にも猿ぐつわを噛ませる。
「ウゥ・・」
「ここは住宅街の真ん中でね。大声を出されると困るんだ」
そう言いながらZは蘭世の上に馬乗りになってそのおびえる表情を覗き込み始めた。
彼のオッドアイが 蘭世の瞳を冷たく射抜く。
「お嬢さんは本当に甘いな・・カルロも甘やかしすぎだ。」
傷の手当を手伝って貰ったことなど一瞬で忘れ去ったかのような冷徹さだった。
「さて・・お楽しみは後にとって置こう・・私の質問にYesかNoで答えるんだ」
低く、冷たい声が蘭世に降ってくる。
「早速だが・・あの不思議な水のことはカルロも知っているのか?」
蘭世は一瞬ギクリ・・となり、大急ぎで頭を横に振る。
だが、Zにはそんな猿芝居は通用しない。
「お嬢さんは正直で良いな。・・・カルロはあの水について知っている」
Zはひどく冷静に、正確に蘭世の表情を読みとっていく。
「カルロはお嬢さんがあの倉庫にいたことを知っている」
蘭世は努めて表情を殺して首を縦に振った。
「よろしい。お嬢さん、悪あがきは無駄だよ・・答えはNOだな」
それはまさに嘘発見器の正確さだった。
「では、お嬢さんは例の”ファイル”について知っている」
蘭世は力無く左右に首を振る。
「ふうむ、知らない・・そうそう、あの不思議な水、”池”の水だと・・言っていたが、
お嬢さんはその池の場所を知っているな?」
蘭世はぽろぽろと泣きだしてしまった。
もう、YesもNoも言う気力はない。
なんでこんな悪魔を助けてしまったのか。
蘭世は自分を責めるしかなかった。
Zは頭の中でめまぐるしく計算をしている。
(では、何処へ行ってもカルロはいずれやって来るんだろう。
だが 蘭世の誘拐に気づくのは遅れるか・・?)
泣き始めた蘭世にZはもう一度問いかける。
「場所を知っているんだな?」
「・・・」
蘭世は横を向いて目を閉じ無反応になる。答えない、というつもりだった。
Zの目が妖しく光った。
「ならば・・・」
「!!」
それはいつかのデジャ・ヴ。
またしてもZは蘭世の白いワンピースの胸元に手を掛けたのだった。
乱暴に割り開かれたそれは、前あわせのボタンがことごとく弾けていく。
(嫌っ!)
”助けて、ダーク!!”
声にならない声で蘭世は叫ぼうとする。だが彼女の耳元でZは囁くのだ。
「カルロは来ない。お前が行方不明になったことにはまだ気が付いていない・・・」
蘭世もそれに気づき、絶望的な気持ちに襲われる。
いい加減なメモ書きしかカルロのデスクに置いては来なかった自分が心から恨めしくなる。
蘭世の白くすべらかな喉に、Zの赤い舌が光る筋を引いていく。
(あ、あ・・!)
それは蘭世が失ったはずの記憶。
蘭世は不可思議なデジャヴにも苛まれ、頭を混乱させていた。
つづく
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