『a foreign・・・』
(7)
(会社から あのホテルまでは だいたい30分・・・)
事務所の壁に掛けられた無機質な時計を見上げると・・それは18時30分を指していた。
蘭世の胸がきゅうう・・と音を立て締め付けられる。
(もうすぐ あの人に会える・・・!)
定時をまわってからの蘭世はもう心ここにあらず・・といった風で
おちついて席になど座っていられない。
立ち上がっては・・・化粧室で歯を磨き
戻っては・・・パウダールームで化粧直し。
鏡を見ては、落ち着かない・・・。
本当ならば19時に会社を出れば問題なく間に合う。
でも・・・!
”早くあの人と会える場所へ行きたい!”
(この作業は明日に廻しても大丈夫よね!)
はやる心を抑えきれなくなった蘭世は、心が浮つき手がつけられなくなった仕事を放棄して
事務所を飛び出したのだった。
”一歩一歩 あの人へ 近づいていく・・・!!”
蘭世は夜にさしかかったばかりの藍色の空と無機質なビル灯りの風景の中を駅へ向かう。
一刻も早く あのホテルへたどり着きたい。
大人げなくも歩みはどんどん早くなり、やがて小走りになる。
(地下鉄の駅への近道は・・・あっちだわ!)
そうだ。そこの細い路地を左に・・
ところが。
「きゃあっ」
「うわっ」
角を路地の方へ入った途端、蘭世は誰かと正面衝突をしてしまった。
奇しくもそれは。
「筒井君・・・」
「蘭世ちゃん・・・!」
筒井はこの道を来て正解だったと心の中で安堵し、
蘭世は何故よりによってこの大事なときに、この人に出くわしてしまったのだろうと
不運に呆然となる・・・
「筒井君、出張だったんじゃあないの・・?!」
蘭世の声は明らかに動揺していた。
それに対し、筒井はいつもと変わらない調子の笑顔で蘭世に返事をする。
「予定より早く片づいたから、本社に寄ってから帰ろうと思って・・
そんなに急いで何処へ行くんだい?」
蘭世の方は笑顔を返すどころの騒ぎではない。
表情を押し殺さなければこの男は何を言い出すか解らない・・・!
蘭世はそれでも一瞬、努めて笑顔を作ってそれに答えた。
「・・・ふーん、お疲れさま。今からお仕事なんて大変ね。」
「別に僕は大した仕事じゃないさ。それより蘭世ちゃん急いでるみたいだけど・・どうしたの?」
「別に急いでなんか無いわ。それじゃ!」
そう言って横を通り過ぎようとする蘭世の腕を、筒井はしっかと掴んで引き戻した。
「きゃっ・・なにするの!」
「・・・蘭世ちゃん、本当は何処へ行くんだい?」
筒井の表情が、厳しいそれへと変わっていく。
「・・ひょっとしてカルロ氏に会いに行くんじゃないのか?」
その的確な内容に、蘭世はどう取り繕えばいいのかわからなくなり 頭がパニックになる。
「な・・何を言ってるか わからない、わ・・・」
笑顔を保とうと必死だが、蘭世の顔がみるみるうちに青ざめていく。
「そんなことはないだろう?蘭世ちゃん、キミはとぼけるのが下手だね。」
筒井の真剣な瞳が蘭世を射抜く。
「キミの顔がそうだと言っているよ。・・・僕も一緒に行く」
「どうして?!」
蘭世の声は半分悲鳴混じりになる。だが、逆に筒井の声は次第に、不気味に落ち着いていく・・
「蘭世ちゃん。相手は交渉術でも百戦錬磨の男なんだよ。キミを嘘ででも説き伏せて丸め込むのは
赤子の手をひねるよりも簡単だ。キミがまただまされるのを見過ごすわけには行かないよ」
「そんな!」
蘭世は顔を真っ赤にして反論する。
「カルロ様を侮辱しないで!!彼は私にうそなんかついたりしないわ!」
「言っただろう?婚約者がいるかも知れないんだよ?それが本当かどうか確かめなきゃダメじゃないか」
「う・・それは・・・・」
「とにかく行こう。時間に遅れたらいけないね」
「・・・」
そうして、蘭世と筒井は共に地下鉄の駅へ向かうことになった。
会社を出た直後まで羽根が生えているように軽かった蘭世の足に、
今度は重い鉛の玉がつながれているような心地だった。
(どうしよう どうしたら・・・・)
一声叫んで逃げ出せば良いのかも知れない。
だが、それをするほどの勇気が蘭世には沸いてこなかった。
隣にいるのは、会社の 同僚である・・・騒ぎは 起こせない・・・
(このまま、破滅へ 向かうの・・・?!)
やがて二人はホテル最寄りの地下鉄駅に降り立つ。
駅を出てすぐのショッピングモールから、ガラス張りの都会的なエレベーターで一気に該当階へ昇る。
照明が明るい渡り廊下で、そのビルの中程にある広いルーフテラスに出る。
そこは美しくライトアップされて、そこここのベンチで語り合うカップルが見える。
筒井と蘭世は、端から見ればそのカップルのひとつにしか見えない。
蘭世の腕を、筒井がしっかりと掴んでいた。
だが、蘭世の心は・・・その場所にはまったくあり得なかった。
そのルーフテラスの奥に・・・ホテルの入り口は、あった。
そこは地下鉄から来た客がよく利用するエントランスだった。
薄くブラウンのスモークがかかったその壁一面のガラスは、外と中の世界をはっきりと分け隔てていた。
(早く・・中へ・・中へ!!)
ロビーへの入り口を見つけた途端、蘭世の心は激しく泡立ち始める。
”もう、カルロ様に嫌われるかもしれない。でも!”
それでもいい。
今は。貴方の胸に飛び込みたい・・・!
「うわっ」
今まで大人しくしていた蘭世が、突然腕をふりほどいて走り出したのだ。
筒井は不意をつかれ、一瞬唖然となる。
「ら・・蘭世ちゃん!」
人混みの間を真っ直ぐに蘭世は突き進み・・ホテルへ向かっていく。
「わわっ スミマセン!」
筒井は一呼吸遅れ、するすると通行人たちを避けて走った蘭世とは対照的に、筒井は
同じようにしようとして人混みに阻まれ、それを右に左に避けながら遅れて彼女を追いかけた。
7メートルほど先で蘭世がガラスの向こうへ吸い込まれていく。
筒井も・・やがて同じく、後を追った。
蘭世達の入った場所は、そのホテルの裏手に当たっていた。
長い通路を抜けたところに、正面ロビーがある。
そのホテルの客達は、外の人々よりも身につけている物も、振る舞いもどこか高級感が漂う。
静かな雰囲気のホテルの中では、全速力で走る蘭世と筒井は嫌でも目立った。
振り返る客達には目もくれず、二人は駆け抜けていく。
飴色の照明が照らす廊下を抜け・・視界は突然開け数段明るくなる。
そのホテルの広いロビーだ。
高く高く作られた天井からは現代アートを思わせる洒落た照明がいくつも吊り下げられている。
その下を、様々な客が行き交っている。
(カルロ様 どこ・・・!?)
息を切らして、彼を捜す瞳はその空間を泳いでいく。
人波を避けながら、蘭世は彷徨うようにロビーを進み行く。
蘭世の足が、突然 止まった。
(そういえば・・・)
よく考えれば 約束の時間までは まだ30分以上は有る。
空港からの時間を考えても、ここへカルロが到着していない可能性が高いのだ。
(どうしよう・・!)
厳しい現実に気づき、蘭世は顔をこわばらせる。
もうすぐ筒井が追いついてくる。
ゴール手前で底なし沼に落ちてしまったようなものだ。
「きゃっ!」
「蘭世ちゃん、思ったより足が速いんだね。やっと追いついたよ」
筒井が、蘭世の細い腕を再び掴んだ。
「やめてよ 離してっ!!」
もみ合う二人に、周囲はちらちらと好奇の視線を向けてくる。
「だめだよ、まだあいつが信じられるか判らないじゃないか!」
「いや!」
そして、無意識に 蘭世は彼の名を呼ぶのだ。
「いやあっ・・助けて! カルロ様!」
「!」
筒井の肩を 強く掴む力があった。
「あっ・・・」
力の方を振り向く筒井と、見上げる蘭世の視線が向かう先には。
「お前は誰だ」
冷ややかな視線で筒井を射抜く若い長身の男。
金髪で、緑色の瞳が印象的な欧米人であった。
「カルロ様!」
幸運なことに、カルロは予定よりも早くこの場所へ到着したのだった。
・・・感動の再会・・・
安堵と、喜びと。
蘭世は口元をおさえ・・思わず涙を零し始める。
なのに、筒井に阻まれ蘭世は彼の胸にすがることすら出来ずにいた。
カルロの元へ行きたくてもがく蘭世を筒井は再び抑える。
「僕は・・!」
「彼女を離せ」
筒井はその欧米人男性の威圧的なオーラに圧倒され 言われるままに蘭世の手を
離しそうになる。だが・・
「だっ・・・だめだ。」
彼は必死に踏みとどまった。負けまいと、必死にその男をにらみ返す。
「僕は筒井だ。僕は貴方の名前は知っている。TL本社常務のミスター・カルロだね。」
「・・・そうだ。お前は我が社の人間か?」
「僕は蘭世ちゃんと同じ開発部にいる。・・・貴方は蘭世ちゃんの何のつもりなんだ!」
いきなりの筒井の発言に、カルロはいささか眉をひそめる。
「それがお前に何の関係がある?・・・お前はランゼの恋人なのか?」
「そうだ!」
「ばかっ!嘘よそんなの!!」
カルロはいたって冷静な声だが、筒井や蘭世の荒ぶる声に やがてホテルの従業員が近づいてくる。
それに横目で気づいたカルロは、二人へ提案する。
「公共の場で騒ぐのは迷惑だな・・・よかったら私の部屋へ来ないか」
「え・・・」
「ここの最上階に部屋を取って有るんだ。早くしないとこの場を追い出されるぞ」
カルロはそう言うと”ついて来い”といったジェスチュアをしつつ
二人にくるりと背を向け歩き出した。
「お客様・・」
ホテルの従業員が筒井に声をかける。筒井は慌てて、その畏まった従業員に
片手を上げ”なんでもない”という素振りをしてから背の高い男の後ろ姿を追い始めた。
勿論蘭世も 涙を拭きながら一緒に歩き始める。
「・・・・」
「・・・・」
「・・・・」
ガラス張りのエレベータで最上階へ向かう間、3人は終始無言だった。
カルロと蘭世の間には、筒井が立ちふさがっている。
やがてエレベータの扉は開き、3人は通路へと出る。
さらに奥へと カルロは無表情で つかつかと歩き出した。
筒井と蘭世も、無言でそれに付き従う。
「入りなさい」
ある扉の前で、カルロは立ち止まりカードキーでそれを開いた。
言われるままに筒井と蘭世は その部屋へと入っていった。
そして、カルロもそれに続き・・ 扉は、閉ざされた。
つづく
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