『a foreign・・・』
(6)
蘭世がゆりえの家に転がり込んでから数日が経っていた。
朝はゆりえと出勤をし、帰りはかえでと会社を出る。
いつも残業が多いゆりえが帰宅するまでは、なるべくかえでが一緒にいる。
・・・とにかく、蘭世が一人きりになる機会を減らしていた。
それは勿論、筒井から蘭世をガードするためだった。
筒井はそれでもやはり、仕事時間の合間を縫って蘭世に接近する。
会社内の長い廊下を、筒井は歩みを止めない蘭世の横に並んで話し始める。
まず筒井は、蘭世が自分のそばではなくゆりえ達といるのは
何故なのかと詰め寄ったが蘭世の回答は明快だ。
「ごめんね筒井君。今は男の人とよりも女の子同士で一緒にいたいの。
そのほうがずっと落ち着いて 色々悩まずにすむし・・」
「蘭世ちゃん・・・?」
「問題から逃げてるって 思われるかも知れないけど
時間が解決することもあるよね。ときぐすり っていうじゃない」
そう言う蘭世の表情は、以前のように思い詰めたような暗いものではなく
どこか前向きの明るい雰囲気だ。
それは筒井に、蘭世はカルロとのことが吹っ切れているような印象を与える。
「じゃあ蘭世ちゃんは あいつのことをもう忘れることにしたんだね?」
「それは・・・」
蘭世は少し首を傾げる。言いよどんだ彼女に筒井は意外な顔をする。
「まだ、諦めていないの?」
「うん。諦めないよ。私・・・」
筒井もさすがにあきれ顔だ。言葉にため息が混じる。
「でも蘭世ちゃん、あいつには婚約者がいるんだよ?なのに諦めないの?
あいつなんか待ってたって・・・」
それに対する蘭世の返答は真っ直ぐな意志を持った、良く通る声だった。
「うーん、婚約者さんの事はね筒井君。彼に会って直接確かめるから、
それまでは聞かなかったことにするわ」
「待っても帰ってくるか解らないじゃないか・・!」
「だからね、そればかりに気を取られないようにしようと思っているの。
秘書検定の勉強とか、自分のためにするべきこともあるし
待つことは自分の中でウェイトを下げないとね」
「・・・」
最後の台詞は、半分はごまかしが入っている。だが、残り半分は本気の想いだった。
そうだ、私には自分のためにすることがあるじゃない。
いつまでも悲しい思いに捕らわれているべきではないのだ・・・
「蘭世ちゃんて 弱そうで 強いんだね・・・」
そう言って半ば驚く筒井に蘭世は黙ってにっこり笑い返すだけだった。
今の蘭世を支える物。それは誰にも言えないトップシークレット。
”カルロ様が もうすぐ日本へ帰ってくる・・・もうすぐまた会える”
もう、それだけで蘭世はどこまでも強くなれるのだった。
やみくもに待っているのではない。ちゃんと彼は帰ってくる。
そして、会えば自分の心にわだかまる疑問も解決するはず。
たとえカルロに婚約者がいるのが事実だとしても。
納得して、その時は本当に吹っ切れるのだろう・・・。
◇
ある朝。
蘭世がいつも通りゆりえと一緒に出勤すると・・事務所内がなにやらいつもよりも
ざわざわと落ち着かない雰囲気であった。
数人の社員が新聞を囲んで話をしている。
「おいー親会社も大胆に出たなあ」
社員の一人が大きな声で言い放つ台詞が耳に飛び込んできた。
「・・・」
ゆりえと蘭世は事務所の入り口で立ち止まり顔を見合わせる。
「ゆりえさん・・・?」
ゆりえは何かに感づいた表情をしていた。
その表情から、蘭世も何か予感めいたものを感じ始める。
(ひょっとして、”あの人”に関する情報!?)
「蘭世、行ってみましょ!」「うん!」
ゆりえは蘭世の手を引いてその社員達の輪へ近づいていった。
「おはようございまーす・・・何してるの?」
ゆりえと蘭世が挨拶をすると、社員の一人が手に持っていた新聞をこちらへ向けてくれる。
そのトップには大きな文字が躍っていた。
「TL本社、OWen社を産業スパイ容疑で摘発、提訴」
(産業スパイ・・・!?)
蘭世が目を丸くしていると、社員達が話を再開していた。
「前々からスパイされてんじゃないかって噂されてた奴だろう?」
「ああ、そうだな・・OWen社の新製品、うちの開発中のとくりそつって
部長が怒ってたもんな」
「しかしまぁよくもしっぽを捕まえられたもんだなぁ・・
よっぽどしっかり証拠押さえしないと提訴しても無駄だろう?」
「それがさ、親会社のトップが極秘チーム作って調べてたんだとさ」
どきっ。
”トップが極秘チーム”
鈍感な蘭世だが、何故か今回はそのキーワードに惹きつけられる。
(ひょっとして・・・ひょっとして・・・!?)
「へぇ・・極秘で捜査チームを、ねぇ」
「指揮してたのが去年理事に見込まれてヘッドハンティングされた奴らしくてさ、
すっごい切れ者だって」
「おまえやけに詳しいなー」
「あぁ、昨日部長達と飲みに行ってたんだヨ。仕事の打ち上げでさ」
蘭世の胸の鼓動が早くなる。
思わずゆりえを振り返ったら”そうよ”と言わんばかりの微笑みとウインクが帰ってきた。
ああ、なんでもっと早くゆりえに相談しなかったんだろう!
捜査チームを指揮していたのは、おそらくカルロだ。
”極秘チーム”を”指揮”する人物が、消息を話せるわけがない。
そして連絡を取れるわけがないではないか。
『必ず帰ってくる』
そう言ったカルロの言葉は嘘ではなかったのだ。
蘭世をだましたのではない。
純粋に仕事から、消息を明かす事ができなかっただけなのだ。
(信じて待っていて 良かった・・・!)
蘭世の顔はすっかり紅揚している。そして・・うれし涙がこみあげてくる。
熱くなった頬を両手で包み感動に心うち振るわせる。
心の底でもつれ絡まっていた糸が、今ついにほどけ始めたのだ。
ゆりえが蘭世の肩をぽんぽん、と軽く叩く。
「蘭世、蘭世。良かったわね。・・・でも顔が真っ赤よ」
「うん、うん・・・!」
蘭世の涙腺は緩み涙がこぼれ落ちる一歩手前である。
「こら蘭世。今泣いたらヘンに思われるわよ!」
”カルロが帰ってくる”
そのキーワードに、蘭世はあることを思い出した。
「そうだ!人事のファイルが更新されてるかも・・!」
(ひょっとして・・・カルロ様が帰ってくる日が載っているかも!)
蘭世はぱっと身を翻し、社員達の輪から離れ自分の席へ向かった。
はやる心臓を押さえつつパソコンに向かい・・震える手でスイッチを入れる。
・・・人事関連のファイルに・・・あの人の名が記されているかも知れない。
起動するまでの時間がいつもより長く長く感じる。
マウスで慌ただしくクリックを繰り返し目的地へ急いだ。
だが。
日付はまだ古いままで・・・当然名前も載ってはいない。
蘭世はそれでも諦めきれずしばらく目を皿のようにして画面に見入っていたが
名前がないことにがっくりとし、思わずデスクに手をついたままため息を付いた。
(こんな日に限ってまだなんてっ・・もう!総務の鷹羽君に電話で催促しちゃおうかしら!?)
蘭世は思わず受話器を握って総務を呼び出そうとする。
だが。
(だっだめよ蘭世!なんで?って聞かれたときに返事が出来ないわ・・・)
まさかカルロ氏の動向が知りたいからなどと言えるわけがない。
”蘭世、心を落ち着けて・・・!”
蘭世はいちど大きく深呼吸をすると、手にした受話器を元へ戻した。
◇
午後。
はやる心を抑えつついつしか蘭世は仕事に没頭していた。
3時になり、いつものように部長へコーヒーを差し入れしたあと、
蘭世も10分間の休憩である。
蘭世が給湯室へ行ってみると今日は誰もいなかった。
(誰も見てないし・・・)
カルロを懐かしんであの日入れた紅茶と同じ物を手に取ってみる。
(少しぐらいなら・・いいよね)
本来は来客用のそれだが、蘭世はポットも取り出し、その紅茶を
自分のカップに淹れるべく用意を始める。
湯を沸かして・・
カップを暖めて・・
ポットで紅茶を蒸らして。
(・・・)
蘭世は壁にもたれ、思い出に浸る。
(ここで 初めてあの人と キスしたんだっけ・・・)
蜜のように甘く優しく、心に染み込んでくるような極上のキスだった。
あの日、あの瞬間に私はあの人の魔法にかかってしまったのだ。
(いきなりキスだなんて、まともに考えたら遊びとしか思えないはずなのに・・・
なんで私は いまだにあの人に こんなに惹きつけられてしまってるのかしら・・・)
”運命”。
そんな言葉も頭をよぎる。
その後ホテルでも濃厚な時間を過ごした事を思い出し顔が赤くなる。
(あっ いけないいけない。濃くなっちゃう)
蘭世は紅茶を淹れていたことを思い出し、カップに紅茶を注いでいく。
最適の時間よりも少し長く置いたため琥珀の色が濃い。
それでもカップを両手で持ち、立ち上る香りにしばしうっとりする。
口に少し含むと 上等な香りと風味が口に広がる。
喉を通り胸を滑り落ちる熱い感覚が、カルロの唇や手での愛撫に重なり
身体全体に甘い痺れを思い起こさせてしまう。
(ああ・・・)
だが次の瞬間。
蘭世は数日前に起こった筒井との出来事をふいに思い出してしまった。
”嫌・・・!”
思わず蘭世はその場で座り込む。
(カルロ様に会いたいけれど でも・・・!)
筒井に触れられてしまったことが悔しくて悲しくて
彼女の心を苛む。
あのとき、なんで油断してしまったのだろう・・・
(もしカルロ様がそれを知ったら 私が 嫌いに なっちゃうかしら・・・?)
ふいに別れ間際の、カルロの言葉を思い出す。
”お前が他の男にとられるのが辛い”
−もしとられたら・・奪い返すまでだ・・−
まさか。
私が他の誰かとつきあうなどそんなことはあるまいと思っていたから
絵空事だと思っていた台詞が、今の蘭世には救いの言葉に思えてくる。
でも、本当に私が誰かの物になったら あの人は ただのジェスチュアでなく
その言葉を実行するのだろうか・・・?
私がカルロ様を裏切ったと思われたら?私が他の男に抱かれたという事実を
もし突きつけられたら 彼はそれでも平気なのだろうか・・・
(だめだわ・・そんなの、わからないよ)
蘭世はゆっくりと顔をあげる。
そうだ。
私はカルロ様と幸せになりたい。
だから。
筒井君とのことは、絶対にあの人に知られないようにしなきゃ・・・
筒井とのことを隠さなければならない自分が哀しい。
もっと清い気持ちであの人の帰りを 私は待っていたかった・・・
でも。私は 隠しおおさなければ。
たとえあの人が 私を裏切っていたとしても。
相談をしたいゆりえは仕事で忙しく、かえでは休暇で今日はいない。
ひとり給湯室から戻り、ふぅ、と一息つきながら蘭世は自分の席に着いた。
次の瞬間、机上の電話が鳴り出した。
電話の鳴り方は、それが社外からのものであると告げている。
「はい、TL○○支社 開発部 担当江藤です」
蘭世は社外向けの挨拶で電話口に出た。
『私がわかるか?・・・ランゼ』
「・・・え?」
いきなり受話器の向こうの人物に名前で呼ばれて蘭世は困惑する。
そして・・
『私だ・・・カルロだ。 覚えているか?』
「あっ・・!!」
蘭世の息が、止まる。
あのひとだ・・!
あのひとが、帰ってきた・・・
思わず立ち上がりそうになるのを必死でこらえる。
叫びそうになる喉を詰め、震える指先で受話器を支えた。
電話を通した声を聞くのは初めてだった。
そして、その声すら聞くのは1年ぶり以上だった。
見知らぬ人物のような気さえしてくる。
だが、確かに・・・”彼”なのだ。
『・・・ランゼ ランゼ?』
「ははははいっ・・!」
返事をするのが やっとである。
”ランゼ”。
心地よい声が、耳元で自分の名を呼んでいる・・・
『私を覚えているか?』
今度は涙がこみ上げるのを必死にこらえる。
詰まった喉から絞り出すようにして 短く はい、と答えた。
声が聞けて嬉しいとか帰ってきてくれて夢のようだとか
思いははちきれんばかりなのに、”はい”という言葉しか喉から出てこない。
『お前に会いたい・・会ってくれるだろうか』
蘭世は数秒ためらった。
だが。先程の決意は忘れていない。
おのずと姿勢を正し・・はっきりとした口調で答えた。
「はい・・もちろん・・・!」
『今、韓国支社を出て空港に着いたところだ・・。今から日本へ向かう。
・・・20時に、あのホテルのロビーで会えないだろうか』
(あのホテル・・・)
会社近くの高級なシティホテルだ。カルロが日本の長期滞在に使っていた場所でも
あった。
「はい・・行きます!」
『よかった。では待っている』
「はい・・・!」
もっと沢山声が聞きたい。貴方とつながっていたい。
蘭世はカルロが回線を切るまでじっ・・と受話器を握りしめ耳元へ寄せていた。
(いよいよ、今夜 会える・・・!)
受話器を置いた途端、身体全体へ高波のように甘い痺れが押し寄せてくる。
鳥肌が立つような感覚に蘭世は襲われる。
(そそっ そうだ・・・!)
いてもたってもいられない蘭世は、席を立ち、カムフラージュに回覧ファイルを手にとる。
回覧ファイルを届けるふりをしてゆりえに会いに行くのだ。
勿論、今夜のことを報告しに行くのだ。
廊下を歩いている間、ふわふわ、ふわふわと足下は雲の上を歩いているようだった。
タイミング良く、ゆりえは自分のデスクでひとり作業をしていた。
「ゆりえサン・・・!」
「あら蘭世。」
蘭世はどこから言おうか迷い、ひとり顔を赤くして口ごもり目を潤ませていた。
それを見たゆりえは なんとなく雰囲気で蘭世が何をしに来たか察した。
「ひょっとして・・・ついに帰ってくるの?」
いたずらっぽい瞳で蘭世に問いかけるゆりえに、蘭世はこくん、と頷いた。
「よかったね!」
「ゆりえさん、ありがとう」
「喜ぶのはまだ早いわよ、蘭世。やっと勝負が始まったのだから」
そう言いながらゆりえはにこやかに蘭世の肩をポンポン、と叩く。
そしてゆりえは蘭世が今夜20時にホテルで彼と再会することを知る。
「近くまで付いていこうか?」
「ううん!いいの、大丈夫。一人で行きたいんだ。」
「本当に?大丈夫なの??」
実はゆりえも手が放せない仕事があり、蘭世に付いていくのは難しい状況だった。
(確か筒井君は今日は日帰り出張だったわよね・・・大丈夫、よね?)
「うん。いつもありがとう。」
「気をつけてね」
(・・・)
筒井は出張先で会議通知のメールを開いていた。
メールに掲げてある宛先リストに、気になる人物の名を見つけて愕然とする。
”Dirk-Carlo”
カルロが日本の会議開催通知を受け取ったということは・・・?
「あいつが、日本に帰ってくる・・・そしてきっと 彼女に会いに行く」
そう、カルロが 日本へ帰ってくるのだ・・・
つづく
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