『a foreign・・・』
(5)
蘭世はその日、筒井とともに出勤をした。
本当だったら休みたいくらいに昨夜のことでショックを覚えていた。
「ひとりで家なんかにいちゃだめだ」
だが、普通に勤めに行こうとする筒井に半分強制的に連れ出されたのだった。
会社に来れば、だれも自分の事態を知らず、ごく普通の日常が流れている。
(・・・)
蘭世は自分の席に座り、いつものように書類を広げる。
でも、それっきり手は動かなくなる・・
(これから、あの人は私をどうするつもりなんだろうか・・・)
筒井とは同じ部とはいえ、仕事の場所が異なることだけが救いだった。
ずっと、ずっと 呆然とする私の肩を抱えて 電車も 会社の前までの道のりも彼はここまできたのだった。
「帰りも迎えに来るよ」
社の廊下で、そう念押しして私から離れていった。
・・・彼は、私を 守ると言っていたけど なんだか 違う・・・
「らーんぜ。おはようー!」
ふいに屈託のない明るい声が響いてきた。
「かえでちゃん・・!」
笑顔の彼女が目の前に現われたのだ。
「ふうー。蘭世はえらいわねー一人暮らしなのにちゃんと早起きできて。私ったら実家にいるのに今日はピンチだったわー」
なにげない普段の会話。それがなぜか今の蘭世にはとても心地よく思えた。
「・・・かえでちゃあん・・・」
「?どうしたの??蘭世?」
つい、蘭世の涙腺が緩み・・それを見たかえでは慌てた。
「ちょちょちょっと!?」
かえでは立ち上がってささっ と蘭世を抱え込み・・困惑してあたりをきょろきょろする。
「うっく。わたし・・わたし・・・」
「蘭世・・何かあったの?」
かえでがそう問いかけると蘭世は涙にぬれた目で彼女を見上げる。
そのとき、会社のだだっ広い仕事場の向こうで、筒井が出先から戻ってきた姿が蘭世の視界の隅に捉えられた。
「!」
蘭世はあわててくるりと椅子を回して彼から自分の顔を隠した。
彼女のただならぬ様子にかえでは何かピン!とくるものを感じた。
(なにかあったわね・・)
「・・・よくわかんないけど、蘭世、いこっ。話し聞かせて」
かえでは立ち上がり、蘭世の肩肘を軽く引っ張りあげる。
蘭世は小さくコクン、とうなずき彼女に続いて立ち上がり一緒に仕事場を出た。
◇
そこは女子トイレのパウダールーム。備え付けのスツールに座り、鏡の前で横に並んで
二人は座っていた。ここならばあまり人も来ないし、声が外へ漏れることもない。
男性は勿論立入禁止だ。
「・・・」
蘭世は俯いたまま、じっと黙り込んでいた。かえでに話したいのだが、話題が話題だけに
どこから話していいのか判らない。あまり生々しい話はしたくもない。
「蘭世・・昨日、なにかあったの?」
かえでは注意深く蘭世の横顔を覗き込む。
「うん・・・」
「誰と?」「・・・」
かえではここへ来る直前、蘭世のした行動を思い出した。
「さっき・・・筒井君のこと避けてた?」
蘭世の顔色がさっ・・と変わる。
「ビンゴね」
「かえでちゃん・・!」
かえでは腕組みをして眉をつり上げる。
「どうも奴をとっちめてやらなきゃいけないようね・・!」
「待ってかえでちゃんっ」
蘭世は慌てる。
「違うの、筒井君は私のこと心配してくれていろいろやってくれてるの。でも・・」
「でも?」
「私が心配だから ずっと一緒にいてくれるっていうんだけど・・私それがなんだか重くて・・」
蘭世は右手の薬指にはまった指輪へなんとなく視線を落とした。
カルロについてのショッキングな事も頭を悩ませている。
だが、それ以上に筒井の行動は蘭世に負担だった。
昨日の出来事なんて、出来ることならば記憶からキレイに消し去りたい・・・
筒井に心を許した自分が悔やまれて仕方がない。
蘭世の言葉にはかえでが訊きたいことが山ほど隠れている。
「”蘭世が心配”って、蘭世一体どうしたの?」
「・・・それは・・」
蘭世はもごもごと言葉を濁らせる。
「ダメよ蘭世!ちゃんと言わないとわかんないよ!」
「ん・・・ごめんなさい・・それはまた後で話すね」
「もうっ・・蘭世ったら・・・」
かえではため息を付いた。
「そうよ、蘭世、覚悟を決めなさいっ」
そのとき、突然後ろから声が聞こえてきた。
「きゃああ!」
二人とも心臓がとびだすほどドキっとし、振り向きながらドレッサーへとへばりつく。
「ごめんなさいね、全部聞いちゃったわ。」
後ろにいたのは、同僚のゆりえだった。彼女は事務ではなく、一般職で他の男性達と渡り合って
仕事をこなしていた。
「ゆりえサン・・いつから?」
「あなたたちが上の階へ上がっていったから、どうしたのかなと思って付いてきたのよ」
ゆりえも3つ目のスツールへ腰を下ろした。
「水くさいわよ、蘭世。お願いだからちゃんと話して。私たちで出来ることなら何でもするから」
蘭世は観念して、ぽつぽつ語りだした。
「えっ!?蘭世の思い人って、真壁君じゃなかったの!?」
もう二人はビックリ仰天である。だが、やはりさすがに逢って2日だけ・・と言うことは
容易には口に出せなかった。
「スゴイじゃん蘭世・・!ダーク=カルロっていったら去年経営のトップ陣に入った人だよ」
「あの人かっこよかったよねー!」
だが、蘭世が彼を1年以上待っている という事を知ったとき、二人の表情が曇った。
「それはちょっと 辛すぎるよね・・」
「連絡もないなんて・・・蘭世かわいそう・・」
そして、つい筒井にそれを話したところ、カルロの婚約者話を聞いてショックを受けたこと、
やけ酒をして・・・筒井に送ってもらったことなどを話した。
「婚約者ねぇ・・・」
かえでとゆりえは顔を見合わせる。
「なんだか障害だらけの恋だわねぇ・・」「悲劇のヒロインぽいよね・・・」
かえではため息を付く。
「私だったら すぐにあきらめちゃうかなぁ・・?」
「蘭世の今の・・カルロ様に対する気持ちは、どうなの?」
ゆりえの問いかけに、蘭世はつい、と俯いていた顔を上げ背筋を伸ばした。
「ダメかも知れないのに・・・諦められないの」
その答えに、ゆりえはにっこり微笑む。
「だったら、諦めなければいい。そうよね?」
かえではその言葉にすこし困惑する。
「でも、もし・・その不幸な結果になってしまったら?傷は浅い方がいいんじゃ・・」
「それはやっぱり直接彼に聞いてみないとわからないでしょ?」
ゆりえは、強い瞳で二人へ語りかける
「蘭世がまだ彼を想っているんなら、その気持ちは大事にした方がいいと思う。
・・・たとえ無理だとしても、それでもあきらめられない気持ちって 私 わかるもの・・」
ゆりえは、かつて自分の経験した恋について想いを馳せていた。
そして蘭世にウインクをする。
「婚約者というのは筒井君の話であって・・ほら、筒井君が見聞きしたのも
単なる噂かも知れないじゃない?」
「そうよね・・やっぱり本人に聞いてみないと始まらない・・・。」
「でも、1年経ってもまだ帰ってこないのよ?」
「蘭世に ”帰ってくるから”って言ったんでしょう?待ちましょうよ。
見習いでも部長秘書の蘭世に、新進気鋭の彼がうそを付いたりしないと思うわ。
新人は信用第一!ですもんね」
ゆりえの言葉と表情には、 自信たっぷりで妙に説得力があった。
再び筒井が話題に上る。
「・・・そして、彼は送り狼になったんじゃない?」
ゆりえはあくまで冷静で的確だ。
「ゆりえサン、それはちょっと・・・」
かえでが慌てて異を唱える。蘭世もこればっかりは表情を押し殺した。
ここはたとえ隔離されているとはいえ 会社の中である。かえでが話題を前へ進めた。
「で・・蘭世、筒井君には一緒にいなくていいって断ったの?」
「・・・筒井君はすっごい気迫で・・なんか断りづらいの・・彼も悪気はないみたいだし・・」
それを聞いてゆりえはダン、とドレッサー台を叩いた。
「嫌がってるのにずっと一緒にいるなんて言うのはっ、それストーカーっていうのよ蘭世!」
「でもね、ゆりえサン・・筒井君に結果として相談持ちかけたのは私だし・・
あんまりもめ事を起こしたくないの・・会社だって辞めたくないし」
この会社を辞めてしまったら、それこそカルロとのつながりも完全に絶たれてしまう。
「穏便に、ねえ・・・」「今日も家まで送っていくって言ってるんだよねぇ・・」
そこでゆりえはぽん、と手を打った。
「そうだ蘭世。しばらく私の家へ身を寄せない?今日はかえでちゃんも一緒にどうかしら?」
それを聞いてかえでは顔を輝かせる。
「そうよ!蘭世。うちは実家で家族がいて部屋も空いてないし無理だけど、
ゆりえさんとこは一人暮らしでさらに完全オートロックの高級マンションだもんね!」
ゆりえはさる財閥の令嬢なのだが、自ら進んで仕事をする道を選び、自分ひとりでマンション住まいを
しているキャリアレディであった。
「そんな・・・いいの?」
「当たり前じゃない、友達よ。」
「私、荷物取りに帰らなきゃ・・」
「そんなのいいの!筒井君と鉢合わせしてもイヤでしょ?
私の服とか貸してあげるから。よおし!決まり!」
ゆりえは上機嫌だ。「今日は私も定時で仕事繰り上げちゃお。女3人で街へ繰り出すわよー」
「ゆりえサン、かえでちゃん・・・私、すっごく元気出てきた・・ありがとう・・!」
蘭世は感極まって涙をぽろぽろとこぼし始める。
かえでは蘭世の頭をよしよしとなでる。
「こらこら、泣かないの蘭世。」
「とっ・・ともだちって、素敵だよぉ・・・!!」
女同士の友情が、これほど有り難く思える瞬間はなかった蘭世だった。
◇
定時、蘭世はゆりえ、かえでとともにロッカールームから着替えて出てきた。
(やっぱりね)
やはり、筒井は少し離れたところで蘭世が出てくるのを待ちかまえていた。
こわばった顔をする蘭世に、ゆりえが助け船を出す。
堂々と、毅然と、でもにこやかに。
「筒井君ひさしぶりね。先週イギリスからこっちへ帰ってきたのよね?」
「うん・・ゆりえさん久しぶり。・・今からみんなでお出かけかい?」
「そうなの。久しぶりに私定時であがったから今日は女同士で飲みに行くことにしたの。
夜も私の家に泊まってもらうから・・・”心配”しないでね。」
最後の一言に毒を含ませるのも忘れない。
「じゃあねー!」
「・・・」
昨日から引き続いての飲み会漬け蘭世だが、今日は昨日よりも心が晴れやかであった。
小粋な焼き鳥屋で食べ物も美味しい。
「蘭世の素敵な彼氏にかんぱーい!」
そうして深夜、3人はゆりえのマンションへ転がり込んだ。
夜更け。ゆりえに借りたパジャマ姿で蘭世はベッドの上で座り込んでいた。
酒に弱いかえでは、起きてる!と宣言したものの簡易ベッドに転がり込んだ途端
爆睡してしまっていた。そして、ゆりえは今日はベッドになるソファを広げて
そこで休んでいた。
「・・・」
昨夜とは大違いの安らぎ。
でも、帰ってこない彼について、どうしても不安が蘭世の心を支配して簡単にはぬぐい去れないでいる。
そうして、蘭世は眠れずにゆりえの広いベッドの上で座り込んでいた。
電気は落とされていたが、街の明かりがほんのりと部屋を青く照らしていた。
目が慣れれば部屋の様子がなんとか見渡せる。
「蘭世、眠れないの?」
ゆりえがそっ・・と蘭世に声をかける。
「うん・・・ごめんね・・・」
ゆりえは蘭世のそばへ歩み寄り、ベッドの端に腰掛けた。
「おちつくまで、いつまでもいて良いからね。勿論家事手伝ってもらうけど」
「ありがとう・・・」
「・・・」
蘭世は少し黙っていたが、ぽつんぽつん、と語りだした。
「昼間ね、信じて待ってよう・・って言ったけど、なんかね、最近私 自信なくなってきたの。
・・・まちくたびれちゃったのかな」
「蘭世・・・」
ゆりえはそれを聞いて、一度押し黙ったが・・向こうを向いたまま口を開いた。
「蘭世。落ち着いて聞いてね。」
「?」
「私は一般職で、ビジネスサイドの話とかよく耳にするのよ。それで・・仕事のトップシークレットに
関わることだからあまり詳しくは言えないけど・・」
「ゆりえサン?」
「カルロ氏はね、もうすぐ日本へ帰ってくるわよ」
「ほ・・本当に!」
蘭世は驚いて思わず四つん這いになってゆりえのそばへ身を乗り出してしまう。
”あの人が 帰ってくる!”
すぐには信じ難く、それでもどきどき、どきどきと胸が高鳴り始める。
「うん。賭けてもいいわ」
「ゆりえサン〜!」
蘭世は感激の余りゆりえに飛ぶように抱きついた。そして、もううれし泣きだ。
「ほんとに、ほんとなのね!?」
「はいはい、蘭世。そうよ。よしよし。よかったわね!」
どおりで昼間ゆりえが”待っていなさい”と自信満々に発言したはずだ。
「私が言ったことは、お願いだから誰にも話さないでね。勿論筒井君にも。」
「うん・・うん!ありがとぅ・・・!」
「まだ喜ぶのは早いわよ、蘭世。」
「いいの!帰ってきてくれて、また逢えると思っただけで 幸せー!!」
おいおい、おいおいとひたすらうれし泣きする蘭世を、ゆりえはよしよし、と
姉のように母のように優しく抱きかかえていた。
つづく
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