「…んっ…」
ジョナサンは唇を震わせた。胸のあたりに少し滲みるような痛みを感じたせいだった。ゆっくり眼を開けると、眼前には、レナードがいて、彼が自分の胸の辺りに、薬を塗ってくれていることが分かった。どうやら、ここは医務室らしい。頭を高くしておくためか、上半身を少し起こした医療用ベッドに寝かされていた。
(…そうか、僕はあのまま大尉に……)
大尉の「誘い」を拒否し、激しく殴られたような気がするが…その後どうなったのかはよく思い出せない。
「あの、自分で…」
ジョナサンがベッドから起きようとしたが、足の辺りがずきっと痛んだ。
「じっとしていろ」
ジョナサンはおとなしく、言われるとおりにベッドに背を預けた。
「足をやられたのか?」
「…どうやら、そうみたいだ。たいしたことはないと思うけど…」
「折れてはいないようだが…コンチネンタルめ、タチの悪い痛めつけ方をしている」
レナードが独り言のように呟きながら、丁寧にジョナサンの体に薬を塗った。
「しみるか?」
「…少し。でも我慢するから」
ジョナサンが笑ってみせると、頬に貼られたガーゼを固定しているテープが引きつった感じがして、手で押さえた。
レナードは彼の仕草を見て優しく笑った。
ジョナサンは、鞭の傷のことを思い出したが、それは薄くなっていて、新たに付けられた傷の方が目立っているようだった。
「口は?切れていないか?」
「…血の味がする」
「見せてみろ」
レナードが親指でジョナサンの下唇を軽く捲(めく)った。
「あ…ん」
言われるまま、ジョナサンは口を少し開けて見せた。何故か、恥ずかしかった。
「血が出ているな…薬を塗るわけにもいかないか」
レナードは水を差しだした。
「これですすいでおけ。口の中は、刺激物を取らないようにして自然治癒を待つしかないな。今包帯を持ってくるから」
ジョナサンは素直にそうした。とりあえず、血の味が薄れた。
(…変だな)
ジョナサンは少し身体を起こして部屋を見回した。この医務室には普段、軍医や衛生官がほぼ常時待機していて、彼らが兵士達の怪我の手当をするはずだ。しかし、見回した限り、軍医はいないようだった。
レナードが薬の瓶やら包帯等を持って戻ってきた。なぜ彼が手当をしてくれているのだろうか、と不思議に思った。
「あの…、レナード、軍医はどこかに出かけているのか?」
「…多分、コンチネンタルの執務室だと思うが」
「…?」
レナードはジョナサンの足をそっと持ち上げた。
「あつっ!」
「すまない、…この辺りだな」
足首に冷たい湿布薬を貼り付けられた。その上から手慣れた様子で包帯を巻きながら、レナードは話を続けた。
「…腹が立ったから、奴に手合わせを仕掛けたら、一発で伸びてしまった。多分軍医はそっちの処置を優先していると思う。…ま、すぐに目が覚めると思うがな」
「…!上官を、殴って気絶させたのか?」
ジョナサンは緑色の瞳を見開いた。
「模範演技の延長だ。第一、奴のお前への仕打ちは度が過ぎていた。あれくらいの事は正当防衛だと俺は思ったんだ」
「でも、レナード!君が、大尉の機嫌を損ねてしまったら、君の立場が…」
「…俺の立場はどうでもいい」
レナードは、声が低く、囁くように微かになった。そして、手をジョナサンの胸の上にそっと置いた。
「俺は…お前を守りたい。何を犠牲にしたって構わない」
ジョナサンは、一瞬、言われたことの意味を理解できなかったが──すぐに彼の意図を汲んだ。
「レナード、君はっ!」
ジョナサンはがばっと体を起こした。彼は、同性愛者で、自分を恋愛の──多分肉体的なことまで含んで──対象として見ている?
「…そうさ、俺は……」
それだけ呟いて、レナードは少し、寂しげに笑った。しかし、すぐにきっとした表情になって、まっすぐにジョナサンを見て言った。
「だが安心しろ。俺はその気のない奴を無理に抱いたりはしない」
「……」
ああ、そうだ。彼は自分と寮の同じ部屋で毎晩となりで寝ている。おまけに、腕力も強い。だから無理に抱こうと思えば、いくらでもできたはずだ。コンチネンタルのように…。
ジョナサンは大尉から受けた屈辱感が蘇ってくるように感じた。それが表情に表れていたらしい。
「どうした?ああ──すまなかった、嫌な思いをさせてしまったな」
「あ、いや…ちょっと、驚いたから……」
「本当にすまない。…それはともかく、手当てをさせてくれないか」
ジョナサンは言われた通り、もう一度、体を横たえた。
レナードは再び、丁寧に薬を塗り始めた。骨張った手だが、傷ついた箇所に気を遣ってくれて、彼の優しさが伝わってくるように感じる。
(…レナードに触られるのは、嫌じゃない)
こうして下から見上げるような格好だと、レナードの体が一層逞しく見える。
胸板が厚く、二の腕が普通の人の大腿くらいに筋肉がついていて…やっぱり憧れを抱いてしまう。
(…憧れ?)
ジョナサンは息を飲んだ。一つ、忘れていた記憶が蘇った。
 
あれは、いつだったか。10歳かそこらだったと思う。過去に父が在籍していた軍の基地を、母により見学に連れていかれたような気がする。亡き父の肖像が飾ってあったのを見て、感動した。自分もこうなれたらいいと感じ、軍人という職業に対し、強い憧れを抱いた。
軍人たちの練習風景を見、休憩をとって地面に寝ころび、汗がひくのを待っていたり、水を飲み、浴びて涼をとったりしていた彼らの姿に…幼いジョナサンはなにか激しい昂ぶりを感じた。──初めての感覚だった。罪深いような、でも何ともいえず、恍惚としてしまうような…。
(そうだ、あの時…)
ジョナサンの未熟なそこは、芯を持って、膨らんでいた。家に帰っても、なかなか納まってくれず、その風景は眼前にちらついていた。
それをどう処理していいか分からなかったが、何かの本で読んだ知識を辿って、自分のそれを服の上から強く、握りしめて圧迫してみた。
「あっ…」
快感に体が熱くなった。服の上からよりも、直(じか)の方がいいのじゃないか、と思ったジョナサンは、床に座って膝までズボンや下着を下ろし、一階の母の気配を気にしながら自分のそこを手できつく圧迫し、扱(しご)いた。
「はあっ…あっ、ああっ……」
体は熱くなり、眼前に理想的な男の肢体を描きながら、一層手の動きを早めた。声を抑えようとしても、どうしても唇から喘ぎ声が漏れてしまう。
「あうっ…はあ、ああっ…ううっ!」
幼いジョナサンは昇りつめて、頭が真っ白になった。味わった事がない快感が体の神経のすみずみまでにスパークを起こした。気づくと、自分の大腿といい、膝にあったズボンといい、白い汚れが飛散していて、とにかく普通には洗濯に出せない状況になっていたが、ジョナサンは脱力感と罪悪感を抱えて、しばらく動くこともできなかった。
 
それがジョナサンの初めての自慰行為だった。なぜあの時、眼前に男たちの逞しいカラダを思い浮かべていたのか…それは「憧れ」故だった。自分が逞しく鍛え上げられた肉体になっているのを想像しながら快楽に耽った。つまり、ある意味ナルシシズムであった。だから…自分は、厳しい訓練に堪え、いつかはそのカラダを手に入れたいと願っていたが。だが、実はそれは違うのかもしれない。
目の前にあるレナードの体は、憧れていた逞しい体そのものに見える。ナルシシズムのせい、と理解したのは、自分への言い訳に過ぎないのではないか。
(本当は…僕もレナードと同じように……?)
 
レナードの体を見上げた。彼の体は、確かにその通りだった。ちなみに現在そういった欲求は、訓練で疲れすぎて縁遠くなっていた。そのため、最初の体験については忘れかけていたのだが…。こうして思い出すと、意識せずにはいられなかった。
 
レナードとはその後も、何事もなかったように振る舞っていた。特に足を怪我させられて何かと不自由なジョナサンの世話をかいがいしくしてくれた。そして夜は普通に自分のベッドで眠っていた。しかし、ジョナサンの方が眠れなかった。あの告白を聞いてから、レナードがもしかして、起き出して自分のベッドに来て…という事を考えずにいられなかった。最初は不安…だったのが、その様子がレナードから見られないのを見て、安心、というよりむしろ、なんとなく「期待外れ」のように感じている自分に気がついた。
しかし、ジョナサンは自分がそういう性癖である、と認めるにはまだ抵抗があった。女性との経験もないジョナサンは、そういった人に見せられない箇所でどうかするということも、とてつもなく恥ずかしい事に思えた。さらに、男性相手だと、女性とは違う場所を使い、勿論そこは本来は受け入れるべき場所ではなくて…という知識はあったので、単純に怖いという思いがあった。でも、それでも…レナードの逞しい腕に、胸に、抱きしめられたい、とは思う。
いっそ、自分から申し出てみようか、とジョナサンは就寝前に思うが、レナードがごく紳士然として、「お休み」と言ってベッドに入っていくのを見ると、自分がなんだかとても変なような気がして、ジョナサンはベッドに入ってしばらく眠れずに悶々と悩むのであった。
 
ある夜、ジョナサンはふと、目覚めた。部屋が真っ暗ではないことに気づき、どうやらレナードが灯りを点けているらしい、と考え、そっと頭の向きを変えて、彼の方を見た。
レナードは、ベッドに跪(ひざまづ)いていた。
昼の彼からは想像できない姿だった。大きな身体を折り、腰を屈めて…。目を閉じて、何かに祈っているようだった。ジョナサンは気づかれないように、もっとよく見てみた。レナードが祈りを捧げているのは、どうやら、木の彫刻らしかった。そうだ、初めてこの部屋に来た時、チェストの上に置かれていて、ジョナサンが一体何だろうか、と思ったあの木の棒だ。よく見ると、その横には手帳のような物が開かれて置いてあった。
(何だろうか…?)
ジョナサンはしばらくその姿を見守ったが、レナードはしばらくしてから、立ちあがった。ジョナサンは頭の向きをさっと変えて寝ているそぶりをした。レナードはそれらのものを片づけて、また眠るらしかった。掛け具を被る衣擦れの音がする。不思議に思いながらも、ジョナサンもまた眠りに落ちていった。
 
翌日、レナードが何らかの用で外出し、部屋に残っていたジョナサンは、隣のベッドの脇に手帳が無造作に置いてあるのを見かけた。ということは、昨夜のことは、夢ではなかったようだ。
──ほんの、出来心だった。レナードが一体何に祈りを捧げていたのか、知りたくなったジョナサンは手帳をそっと、位置を動かさないように気を付けながら、指先でめくった。
 
ごく普通の手帳で、見たところ、殆ど書き込みはないようだった。最後のページは、透明なポケットになっていて、写真が挟まれていた。どうやら、レナードの昔の写真らしかった。金色の長髪と、黒っぽい服装がアウトローっぽい雰囲気を醸し出していた。それはそれで新鮮ではあったが、それよりも気になるものが写っていた。レナードは大型バイクに跨(またが)っているらしかったが、その腕の中に、10歳くらいの少年がいた。少年は、ハンドルを握っていて、屈託もなく笑っていた。それを、レナードが後ろから抱き上げて支えてやってるらしい。彼の表情は、今のような翳(かげ)りや、厳しさがなく、この少年を心から愛おしんで微笑んでいるように見えた。これがレナードの亡き弟、だろうか。にしても、髪が黒色で、瞳は微妙にグリーンがかかったブルー。睫毛がくっきりしていて、目元がきれいで可愛らしい顔立ちだ。ブロンドでいかにも男性的な顔立ちのレナードとはあまり似ていない。…というより、これはむしろ、幼い頃のジョナサンによく似ているといっても良かった。
「………!」
レナードは自分に好意を寄せていると言ったが、それは…この弟らしき人物に、面影が似ている自分を重ねているだけだったのではないか。ジョナサンは殴られたような激しいショックを受けた。そして、ショックを受けた、という事実にまた衝撃を受けた。
(ああそうだ、僕はいつの間にかレナードの事を本気で…。でも、レナードはただ単に僕を…!!)
しばらく後、レナードが帰って来たが、ジョナサンはよそよそしくした。夕食も「食べたくない」と言って拒否した。そんなジョナサンの様子を、レナードは心配して「熱でもあるのか?」と体に触れようとしたが、ジョナサンは思わず振り払ってしまった。レナードは素直に「すまない」と謝って、それきり構わないようにした。
(…違う。君が悪いんじゃない。)
なんて事だろう。本当の事を知ってしまったのがきっかけで、レナードへの自分の気持ちに気づくだなんて…。一人ベッドに転がったジョナサンは何とも言えない喪失感を味わっていた。
レナードはレナードで、思い当たることといえば、やはり自分の感情がジョナサンに嫌悪感を抱かせている、ということだったから、部屋を替わるか、いっそどこか別の部隊にでも移ろうかと考えていた。二人はしばらく、必要最低限の言葉しか交わさなかった。

 

     

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