「は?」
浪岐学園二年C組の教室の一角、窓側の席から挙がった声は『春日由子』のもの。
彼女の視線の先に有る黒板には二人の名前と、投票総数を示す『正』の文字が一画、一画加えられていく。彼女が声を挙げたのは自分の名前が呼ばれ、黒板に書き写された瞬間だ。しかし発した声は己にのみ届く程度の声量。誰も彼女の驚きを聞いてはいないし、聞こえてもいない。
聞こえてはいないが、何人かの視線が自分に向けられた事を由子は察知し『どうかした?』と思われるような表情を作った。
それで自分への視線は幾らか和らいだものの、由子の心中で起こる動揺は和らぐ事を知らない。それもこれも今この場で行われている投票に自分の名前を書いた人間がいるからだ。
──余程の物好きか、あるいは心底憧れを抱く者で無ければ高校生活に必要とされる委員会へ参加したがる者はいないだろう。
保健委員、体育委員、図書委員……上級生になれば卒業アルバム製作委員会なども有るが、とにかく委員会活動というものに参加したがる生徒の数が少ないのは、浪岐学園でも同じだ。だからと言って委員会への参加が無ければ学園全体の運営が成立しない事実も有る。放送委員会がいなければ防災訓練も出来ないし、精を出して疾走する生徒の姿を実況する人間がいなければ体育祭も盛り上がらないだろう。
生徒達にとって面倒くさい代物であっても、学園にとって委員会というのはそれ相応に重要な仕事である。そこで生徒の側から希望者がいない場合取られる方法はただ一つ。民主主義制度に則って執り行われる多数決である。
時と場所によって行われる方法は様々だが、今回二年C組では投票前に事前に約二センチ四方の紙片を生徒全員に配布し、今回の投票で選出される役割に最適な人物の名前を配布された投票用紙に書いて提出。投票用紙回収後にクラス委員長が集計と結果公表を同時に行い、候補者として挙がった名前の内で最も多くの票を獲得した人間が当選する。
衆議院・参議院選など現実に国家単位で行われる選挙とシステムは全く同じだ──選ばれた人間がその役割を喜ぶか否かという違いこそ有りはするが、それは今も続く二年C組の選挙も例外ではない。
「小山内さん」
クラス委員長の『岸中智』が副委員長である『宮本真里佳』の持つ箱から無造作に掴んだ紙を広げ、そこに書かれている名前を読み上げる。
岸中の声を聞き逃さず、書記の『森中旬子』が小さめの、やや丸み掛かった文字で新たに『小山内荊』の名前を書き足し、その下へ『正』の一画目を書き足す。
黒板上にある名前はこれで三人。一人目、『藤原結』。二人目、『春日由子』。そして三人目。先程呼ばれたばかりの『小山内荊』。
しかしこれ以上は増えまい。二年C組の生徒、特に男子は思った。記され、読み上げられる名前には二つの共通点が有る。一つは全員が女性である事。つまり求められる役割は女性で有る事が望ましく、女性で有るべきだという事。
二つ目。一つ目の共通点よりも実際はこちらの要因が大きい。ここで求められる役割は常に人の目に付き、加えて人の目を引き付けねばならない──つまり選ばれる人間の容姿は人並み以上に良くなくてはならないと言う事。
“可憐”や“美麗”など女性の魅力を表現する言葉は数有るが、分類は問わない。問われるのは品質ただ一点。外から見てその女性を魅力的に思えるかどうかという事だけ。
故に男子は思ったのだ。これ以上候補者は増えないだろう、と。
「小山内さん」
また一画。『正』の文字が完成に近付く。現在までに三人が集めている票数は藤原結が三票、春日由子が二票、小山内荊が二票。クラスの生徒総数が四十二人。残る票数は三十五票。
「春日さん」
春日由子、有効投票数三。残り票数は三十四。
「小山内さん」
小山内荊、得票数三。残り票数三十三──ここから暫く由子、荊、結の順に投票が集中し、二十三票を消化。男子の予想通り、それ以上に女子の名前が新たに候補者として挙がる事はなかった。
残り票数は十票。三人の獲得票数は結が八票、荊が十一票、由子が十三票。
残る十票が結に投票されれば逆転もあり得るが、これまでの勢いから考えるとそれも無さそうである。事実上、荊と由子。二人の候補者に票が集中するだろう。集計を行っている三人は口にこそ出さなかったがそう考えていた。
さて、渦中の人物となっている由子は更新されていく投票結果を見て机に顔を伏せていた。
「このクラスには物好きしかいないのかなぁ……」
また何処か遠くで自分を呼ぶ声が聞こえて、『あああ……』などと呻きながら耳を塞ぐ。とてもじゃないが聞いていられない。
春日由子、得票数十五票。小山内荊、得票数十四票。藤原結、得票数十票。残り三票。
この時点で結が勝利する確率は消失し、由子か荊のどちらかに勝負が絞られている。由子が勝利するためには最低二票、荊が勝利するためには三票全てが必要。引き分けは無い。この投票で必要とされるのは勝者ただ一人。
「小山内さん」
残り二票。
「小山内さん」
教室の空気に二つの感情が入り交じる。驚きと、落胆。驚きは荊に二票の内の一票が投じられたため、落胆は仮に残りの一票が由子に投じられたとしても由子が勝利者と成り得ない事に。
繰り返すがこの投票に引き分けと言う概念は無い。由子に投票され得票数では同票となっても必ず一人、代表を選出する必要が有る。用意される表彰台に記される数字と、勝利者に与えられる役割はたった一つっきり。今か今かと一人箱の中、開封を待つ紙片に岸中が手を伸ばし開封する。読み上げるのに必要な時間は僅か一刹那。その口調に淀みも揺らぎも感じさせず淡々と名を告げるだろう。
荊か由子か。結果は、勝者は果たして。
「最後の一票は──」
どこからともなく皆の心中でドラムロールが鳴り響く。あるいは生唾を嚥下する音が。由子は黒板を見ていない。彼女以外の全員が岸中の答えを待つ。
この時岸中は当事者の春日と小山内の二人に視線を配っていた。緩慢に、焦らすように。ここに書かれている名前は貴女達のどちらかだよ……視線で語るように。
やがて──ようやくと言うべきか、岸中の顎が下がり、開口する。紡がれる名は小山内か、春日のどちらなのか。
「春日、由子さんです」
教室にどよめきが走った。
旬子が黒板に白チョークで『正』の一画を書き足し、続けて赤チョークで『小山内荊』と『春日由子』の名前の上に『◎ 小山内荊』、『◎ 春日由子』と二重丸を描いた。投票総数四十二票、投票方式、匿名投票。無記名投票は無し。各人の最終各得票数は以下の通り。
小山内荊、十六票。春日由子、十六票。藤原結、八票。最初にして最後の『学園祭の演劇ヒロインを決めまSHOW!』の結末は荊と由子のサドンデスのゴングを鳴らす事となった。
***
「春日さんと小山内さんかぁ」
「どっちも同じ票数だぜ」
「どうするんだろう……」
教室のあちこちで結果について、それぞれの感想が語られる。投票で一位となった由子と荊の周囲に座る生徒は彼女達に声を掛け、当の本人達はさながらインタビューを受ける芸能人の如き対応を迫られた。惜しくも三位となった結の周囲でも彼女の友人だろう、複数の女子が『残念だったねー』とか『名前書いたんだけどね』などと話している。
しかし皆一様に知りたいと思うのはこの投票の結末だ。今回の投票で決まったのは十一月の上旬から二日間の間に開催される『浪岐学園祭』の出し物として行われる演劇のヒロイン候補から結が外れたという事だけ。
実際問題、決着は付いていない。
「先生、どうします?」
壇上でざわつく教室の喧騒を止めることなく岸中が問いかけた。教室の隅で静観していた──学園祭の実施主体は学生でしょうという理由から──『須崎由紀江』は、岸中に視線と答えだけを返すものの自分から行動を起こそうとはしないようだ。
「春日さんと小山内さんが同票で決着した。じゃあ再投票するか、あみだ籤かで決めるしか無いでしょうね」
「そうですね……」
「本人に聞いてみるのが一番良いんじゃないかなぁ?」
ちょいちょいと岸中の制服の袖を引っ張りながら副委員長の真里佳が尋ねてくる。語尾が常にふにゃふにゃと張りがない。しかし実際の行動は中々どうして機敏で、先程の投票の際にも投票用紙を回収する時も立ち止まることなくてきぱきと動いて見せた。
浪岐学園の委員長は通年なので岸中、書記の旬子と共に十月も様々な会議や活動に参加しているのだが岸中は幾度か彼女に助けられる場面に出会った。今回の件も、後々そうした場面の一つに含まれるのだろう。
──話は戻るが、確かに投票の主役は彼女達なのだから、彼女達の意思を無碍にする訳にもいかない。岸中は咳払いを一つ、教室の注目を一度こちらに注目させる。
「皆さんが気になっているように、演劇のヒロイン役を決める投票結果は──このようになっています」
視線を黒板に映し、結果を再確認。皆がうんうんと深く頷き、その目に『で、どうするのさ?』という疑問を映す。
「二人の票数が同じで且つ演劇のヒロインという関係上、何らかの形で二人の内のどちらかを選ばなければいけないのですが……春日さん、小山内さんはどうすれば良いと思いますか?」
「どうするって言っても、ねぇ……?」
ちらりと荊に視線を向ける。見れば荊の方も、ネコ科の動物を思わせる切れ長の黒瞳で由子に視線を向けていた。見事な柳眉に僅かな歪みを見せつつ。その瞳から窺える感情は由子が見る限りあまり好意的では無さそうだった。どうして自分と争う者がいるのだろう、と語っている。
敵意でも悪意でもなく本当に意味が分からないと言った、まるで子供が『怪我をすると何故痛いのか』と問いかけるような純粋さが、彼女には有った。
「ぶっちゃけると私じゃ演劇……ましてやヒロインなんて無理だと思うんですが」
「そうですね。春日さんに出来るなら、あたしでも出来るでしょうし」
荊の皮肉で投票終了後とはまた違ったどよめきが生徒達の口から漏れる。
由子の予測通り、彼女は人の機微に対して興味が無い。相手が出来ると言っても、出来ないと言っても納得する。だが肯定や否定をする訳でもない。相手の意思を“認める”のではなく、くみ取るのを積極的に“放棄”する。
由子の友人にも同じような性格をしている少女……神崎蓉の事だが彼女の場合は快、不快を相手に返すだけ──それだって良いとは言い難いのだが──まだまともと言える。
「春日さんが“出来ない”と言うのなら、あたししか出来ないんじゃないですか?」
由子から岸中に視線を移す。視線の鋭さは由子に向けた時のまま変わらない。
岸中は迷う。荊の言葉は真実だ。同票を獲得した候補者の一人が出来ないと言ったのであれば残る一人を採用する、簡単な消去法。荊の発言に関する善し悪しを別にすればクラスの溜飲は下がるだろう。
「春日さんは小山内さんの話しに異論は有りませんか?」
「……ああも自信タップリに言われたんじゃ、決定で良いと思うけど」
頬杖と溜め息を付きながら由子は返答した。当事者がそれを望むのなら自分達に語る言葉は、もう無い。真里佳、旬子、由紀江の三人と少しの相談をして、岸中は教壇に手を付いて結末を述べる。
「では今回の演劇でヒロインを演じて貰う人は小山内荊さんに決定します。異議の有る人はこの場で挙手を」
小さな囁き声こそ漏れるものの、岸中が望む挙手をするものは誰一人としていなかった。
***
「残念会って訳じゃないけど、とりあえずお疲れ様」
『まぁ食いなせぇ』と言わんばかりに哲哉が由子に向けてセットで付いてきたポテトを差し出す。
<浪岐駅>自体は、それほど規模の大きい駅ではない。だが以前に行われた駅周辺の“大”改築の際、幾つかの居酒屋やファミリーレストラン、ファーストフードなどを主な商業とする大手フードメーカーがチェーン店を開店させた。
哲哉達の『残念会』の会場となっているのもそうした時期にオープンしたファーストフード店だ。黄色地にアルファベットの『M』がでかでかと記された、知る人ぞ知る有名店の窓側、道路に面する四人座りの席に哲哉、その隣に康平、向かいの席に由子、蓉が座っている。
ビターチョコを思わせるシックな色のトレイには各々が注文したハンバーガーとドリンク、ポテトやナゲット──女性二人のトレイに最後の品は乗っていない──が置かれてあって、見れば、それぞれ違う品を頼んだ事が包装紙の色と文字で分かる。
哲哉と康平は数日前から発売が開始された鶏肉をフライした物が挟まれた新商品のセットメニュー、由子は最も安価で、最もシンプルなハンバーガーと炭酸ジュース、蓉はハンバーガーを頼まず白身魚を一口サイズにカット、やはりフライしたものにアイスティーをそれぞれ注文していた。
「残念会ねぇ……私は残念になんて思ってないんだけど」
言葉とは裏腹に差し出された箱から二、三本のポテトを摘まみ口に運ぶ。
「注文しといてなんだけどカロリー高いよ、これ」
「頻繁に食べる訳じゃないから気にするなよ、そんなこと」
「そうだけどさぁ……」
『それでも取らずに済むなら取りたくないよ』──文句を言いながら塩の付いた指をぺろりと一舐め。
「意外では有ったな。私もお前の名前を書きはしたが、あれほど接戦になるとは思わなかった」
マイペースに閉じられた箱を開き、フィッシュフライを口に運ぶ。こちらは注文した時に用意された紙ナプキンで丁寧に油を拭き取った。
「蓉よ、おまえもか! 河本君といい、哲哉といい……なんで私なんかにいれるかな」
──ガサガサとハンバーガーの包装紙を開け、小振りな口で甘噛みするように食する。
「理由はただ一つ」
──もう一つフィッシュフライを口に。
「春日さんが演じる所を見たかったから、かな」
──かぶりついた際に付いたマヨネーズをナプキンで拭きながら。
「何だかんだでネタとしてはおいしいと思ってな」
──大口開けてハンバーガーを一齧りする。四分の一は既に口の中。
「ネタの渦中にある人間はそうでもないんですけどねぇっ! 何だい、皆して。私に何か期待しすぎじゃございませんか?」
勢い良くドリンクを啜り、三人に恨めしそうな視線と表情を見せつけるようにぐるりと首を動かす。
「誤解されても困るが、少なくとも私はお前が舞台でヒロインを演じている所を見てみたいと思ったから投票したんだぞ? お前の容姿はなかなかどうして馬鹿に出来ない物が有るからな──それこそ小山内にも引けを取らないだろうと思っての事だったのだが」
──春日由子の容姿は、確かに。蓉の話す通り万人に劣る物ではない。最近、手を加えたのか僅かに栗色に染まる長髪は胸に下がるまでに長いが一切の乱れなく、ほつれすら無く下りている。目尻はやや下がり気味だが、はっきりと開かれた瞳は見事なまでに黒瞳。映る色の明暗を明確に映し出す鏡のように美しい。ここまでで終わる魅力ならば、ある意味普通の美少女と変わりは無い。
彼女が他と違うのはその身長。如何なる作用か、彼女の身長は百七十を──ほんの僅かだが──超える。男性である哲哉が百七十センチの後半だから、二人が横に並んで経てば目線の高さはほぼ同じである。
女子高校生の平均身長が約百五十七センチだから、これは相当なものであろう。少し着飾って<汀>の駅前で立っていれば、下手をすると何処かの事務所からスカウトされかねまい。
「容姿に関してはノーコメントだけど、これだけ身長有ると相手選んじゃうでしょ。あの時は此処まで考えてなかったけど──改めて考えると小山内さんの方が……何て言うのかな。相手を“立てられる”と思うよ。演技をした時なんかは特に」
──時には身長が有り過ぎると困ることもある。由子の身長の高さは平均と比べてみてもやはり異例であって、彼女の演技に男性を合わせるとなると候補者も自然と絞られてくる。
演劇と言うものは観劇している人間から見て栄える人選を行うものだ。主演男優とほぼ同程度であるならばまだしも、男優よりも上背の有る女優では男優の面子というものも立つまい。
昨今、男女同権が叫ばれてはいるが、演劇やドラマ、小説、漫画に代表される夢を提供する世界では未だに背の高い男性と、男を見上げる様な背丈をした可憐で華奢な女性が看板を張る物の方が大衆受けする。こればかりは何時の世も変わらない不変の心理であると言えるだろう。
「でもその逆もアリ、なんじゃないか? 男よりも女の方が背の高い奴とか。漫画なんかで有りそうだけど」
「それを高校生が公衆の面前で披露するの? あくまで清く正しくをモットーに進めていくんじゃないかなぁ……」
今後の学園祭において哲哉達のクラスの出し物を、どのような方法で制作していくかを彼らは詳しく知らない。
追々明らかにされていく事だろうとは思っているが、いずれ背景の作成など、必要な物を調達したり制作したりする雑用を任される事になるだろう──裏を返せば演劇の内容などの根本……台本や誰がどんな役をするのかといった演劇の根本に関わる事は無いと言う事にもなるのだが。
「どんな演劇になるんだろうね」
食べ終わった後の包装紙を一つまた一つと折り畳み、小さくしていく作業を行いながら康平が呟いた。
「……さぁー……?」
茜色の西日がテーブルだけでなく店内を眩しく照らす。外を歩く人の影は入店した頃よりも増えてきていた。
籠の中にスーパーのナイロン袋を詰め込んでゆっくりと信号を待つ人。日々少しずつ強くなってきた寒風に身を震わせながら脇に止めていた車へと駆け寄る作業員風のつなぎを着用した人。入り口の前に自転車を止めて友人らしき、同年代の子供達が学習塾のあるビル内へと入っていく姿。
数分後には四人も彼らの中に溶け込んでいく。
***
夕焼けの沈む反対側──東側の空にはうっすらと宵月が姿を見せている。あと一時間もしない間にこの辺りも夜の帳が降りるであろう世界の中、哲哉と由子が自転車を押しながらゆっくりと歩いていた。一昔前までは美しかったであろう河川。誤ってそこに落ちぬ様に設置されているガードレールからは短い影が伸びており、由子は影をなぞる様に哲哉の横を歩く。
「寒いねぇー」
「十一月だしな……これからまた寒くなるってニュースでも言ってたぞ」
「ホントに? 次の休みに冬物出そうっと……でも新しいコートも欲しいんだよねぇー?」
邪な笑みを浮かべて哲哉に向き直る。彼女が浮かべた表情の意味に、哲哉は直ぐに察しが付いた。
「そういうのはちゃんとした彼氏に買って貰いなさい」
「いないし! っつーか目の前にいるのに! “心の友”ならぬ“心の恋人”がっ!」
「期待する方が間違いだろうが!」
『ちぇー』とわざとらしく頬を膨らまし、溜め息を一つ。吐息が白く染まる季節にはまだ少しばかり早いが、彼女は“彼ら”を歓迎しないだろう。
「大体だな。こっちが何処か行かないかと誘っているのに尽く断る相手に“恋人”だ何だと言われても説得力無いぞ、コラ」
「あっはっはっはー。それはそれで色々と……乙女の事情というものが有りまして」
「じゃあその“事情”とやらを聞かせて貰おうじゃないか。自分の体調に関する事以外で」
微笑を浮かべ由子が哲哉の目を見た。
「教えようか?」
「おう。どんと来い」
すぅ──と。周囲には聞こえない呼吸音の後。
「私ね、人に触れられないから。手も繋げない相手と出掛けてもつまらないでしょ?」
彼女の口から放たれたのは言葉の筈なのに、まるで一つの単語のようにそれは聞こえて。哲哉は一瞬意味が分からず、しかし、口は頭に浮かんだままの一言を伝える為に開く。
「はぁ……?」
由子の目が細まり、また微笑。
「──なぁんて理由は駄目? 乙女っぽく無い?」
微笑が消える。代わりに笑顔が表面に。
「って、冗談かよ?」
肩透かしを食らって哲哉は何時も彼女と話す時の口調で呆れた。
「冗談に決まってるじゃなーい。何処の世界に相手に触れないのに告白する人がいるっていうのさ。私の言葉、あんまり真に受け過ぎるのも駄目だよ、哲哉。いい加減私という人間の性格を理解してくれなきゃ。最後には嫌いになるよー?」
「お前が変なことしなきゃ周りが助かるって事を学習して貰えると嬉しいよ、俺はっ」
「いや、それは面白くないないから駄目」
──そうだった、そうだった。こいつはこういう奴だ。自分とは違って、生粋の快楽主義者ということを改めて理解した。口に出してはまたしても笑われるか、苦笑いされるか、冷笑されるか──要するにこちらには良い事は一つも無いのだから口にはしない。
山中哲哉、また一つ彼女の事を学んだ十一月の夕暮れ。背中に注がれる夕日の温かさが『気にするな』と励ましてくれていると思いたい哲哉だった。
しかし『目に見えない場所に有る物ほど……』と、人の言う。
「冗談、か」
耳に届かない声。それは万人に理解される事実に── 一生成り得ない。
[第七話]
[第九話]
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