ただいまと一声。ドアを開けて自宅への門を康平はくぐる。手には<福永書店>の文字が入った紙袋。サイズはA4よりも僅かに大きく、加えて分厚い。
袋の中身は月刊の漫画雑誌。世間では週刊で出版される雑誌の方が売れ行きが良いが、康平にとってそれらの雑誌は立ち読みする物であって、定期購読するものではない。
自分に与えられる資金は有限だ。今日日珍しいかもしれないが、月に一度の小遣いの最高限度額は二千円。春になると共に別の高校になる友人達に聞いた話では自分よりも数百円、中には数千円多く貰っている者もいた。
自分が欲しい物を苦もなく買い漁る友人達の姿は、それはそれは羨ましい物であった。何せ年頃の男子。好きなアーティストのCDは有るし、今も手に持つような雑誌や単行本なぞ次から次へと発売される。正直な所、たったの二千円では全くと言っていいほど流行りの物に着いていくことなど出来ない。その中で、康平は与えられた小遣いで買うことの出来る“自分の一番欲しいもの”を厳選して購入してきた。
決して誇張表現ではない。書店において女性の裸体が数多く掲載された雑誌を買う時など恥を感じつつも、外れを引きたくない一心で数ページ見ては棚を離れ、暫くしてからまた確認するといった具合に命を──ここでは主に学内での評判を──賭けて、今に至ってきた。
──それも今月まで。来月からは自分も晴れて高校に入学する。
高校に入学すると流石に二千円では足りないからと、母親も月の小遣いを五千円に値上げしてくれると言う。河本家では高校一年の間は五千円だが、二年になると七千円、三年になると一万円と徐々に増額されていく事になっているから、康平の期待も自然と高まる。
『子供の時は足りないくらいが丁度良い』とは彼の両親の言葉だ。今は分からなくても後になれば分かると続けて話す両親に何度か増額をねだった事も有るが、その都度突っ張られ臍を曲げた事も数知れない。
今の康平には先の両親の言葉の真意を理解できるだけの経験は無い。しかし、金銭は人生において実に容赦ないものだという物は分かる。
「店かな」
帰宅した旨を告げた声に返事が無かった所を見ると、母親は"店"の方にいるようだ。ひとまず自室へ紙袋を置くと、自宅と地続きの"店"へと顔を出す。
「あら、お帰り」
"店"へ入ると薄いポプリの香りが鼻に付く。部屋のサイズは十坪に届くか届かないかと言った所。入り口から続く部屋には鏡面が有り、数は三面、内一つの最奥の鏡面には近所に住む沢村が座って静かに音を立てるスチーマーに自身の髪を委ねている。
「ただいま。沢村さんもいらっしゃい」
「おかえりなさい。お世話になってるわ」
スチーマーを使っているため首を動かせぬ沢村は、鏡の中で互いに挨拶を交わす。
「今ちょっと手が離せなくて。お腹空いてるなら冷蔵庫の中から適当に食べて」
「……手が離せない?」
スチーマーを動かしている間と、今の様に客が一人しかいない状況では基本的に──掃除や事務関係の仕事を除けば──美容師がする仕事は無い筈だが。
「今から二人予約入ってるから。出来れば康平も手伝って頂戴」
「ああ、そういうこと」
レジのあるデスクで顧客のリストか何かのバインダーを広げ、視線を落としたまま『河本納華』──康平の母が話すが、康平本人は表情を渋る。
「無免許の息子を働かすのはどうかと思うよ。毎度の事だけど」
「そこらの下っ手くそより、あんたの方が上手いんだから良いのよ」
お客さんの前ですかーさん。暴言は控えて下さい。思う康平の心中とは逆に沢村が言葉を継いだ。
「納華さんの言う通りよぉ。私も康平くんになら任せても良いって思うし、今日も康平くんが帰って来てから来れば良かったってちょっと後悔してるぐらい」
「素直に喜べないですよ……」
美容院<Prunus>。そこで働く長男坊の洗髪を目的に来る客の数は決して少なくないようだ。勿論、そうした彼の活躍を耳にして<Prunus>を訪れる客ばかりでもない。
これから訪れる一組の客も、その内の二人。
***
「納得した訳じゃないからな」
「分かるわよ。家を出る時からずっと同じ顔してるもの」
<Prunus>に向かう国道を走る車中。運転席に座るのは首に沿うように下る髪に緩やかなウェーブが掛かる、妙齢と思わしき女性。その瞳は助手席に座るのは運転手をそのまま幼くしたかの様に瓜二つな少女。
二人で違う部分は髪の長さと目元の厳しさ。少女の髪は自身の首の後ろで一纏めにしているものの、運転席の女性よりも長く、目元の厳しさは少女がやや厳しく猫科の動物を連想させる。女性の方も細筆で引いたかのような鋭さは変わらないが、幾分頬に寄っており少女に比べて纏う空気が大人しい。
初見の人間には歳の離れた姉妹と思われるかもしれない二人の関係はしかし親子である。
運転席に座る『神崎ツツジ』は先の視界からほんの一瞬視線を外して、娘の『神崎蓉』を見る。膨れた顔をして助手席のドアの取ってを肘掛け代わりに外の景色を眺めている。口調や性格は容姿と違い、自分とは正反対だが、髪を切りたがらない所は女性らしくて自分の若い頃とそっくりだ。
「だけど学園の校則で決まってたでしょう? “髪の長さは肩口までが望ましい”って。最初だけ我慢して、それからなら破っても文句は言われないんだから……現に入学前の話しを聞きに行った時に見た上級生の人たちの中にも髪の長い人はいたじゃない」
それとも、と一度話を落ち着かせて。そしてもう一度、
「それともお祖父さんの話を真に受けているから? 貴女が神崎の人と結婚するなんて決まっている訳じゃないのよ」
蓉が一瞬黙り、ツツジは図星かという思いと共に『やっぱり』と短い嘆息。しかし娘の口から出た言葉は、否定だった。
「……愛着のある物を切られるのと、校則を破るのは嫌だから切る事にしたんだ。それ以外に理由なんて無い」
“──神崎の姓を名乗る女にとって自身の髪は特別な意味を有する”とは、ツツジが神崎家に嫁いだ時に義父母から言われた台詞だ。
<浪岐市>から二駅の場所に<祥工>という街がある。その次の駅、<汀>が、かつては第一次産業──工業、建設業などを主な産業として発展し、<祥工>はその影響を強く受けて発展した町だ。ある時代では<汀>以上に発展したとも言われる、近辺では<汀>に次ぐ巨大な街である。
しかし時代の移り変わりと共に<汀>が主産業を第一次産業から第ニ次産業へ、第三次産業へと姿を変えていくと共に、<祥工>の町はかつての産業の恩恵で繁栄を得た者達が私利の為に用いていた資産を自分達の暮らしの為に用いるようになった。結果、<祥工>は近辺において裕福な者の街へと変化を遂げる事となる。
神崎もそうした裕福な者の家系の一つ。
過去の主人、先程の話題に上がった蓉の祖父である『神崎太七』の父があらゆる産業── 一次の頃は農業に、二次の頃は船舶──に手を掛けて多くの利益を上げて一代で富を築いた。そうした家柄の、恐らくは多くに存在する慣習に当たるのが神崎家では女性の髪の毛なのである。
“神崎家に嫁ぐ者は自身の命である髪を相手に預け、一生をその相手に捧げよ”
神崎の家に嫁ぐ事になると、婚礼の折に自らの髪を切り、それを夫に──より正しくは神崎という“血”に、かもしれない──捧げる事とする。そんな古めいた慣習を幼い時から祖父母に聞く事の多かった蓉だ。今の性格も祖父母、特に祖父の性格を色濃く受け継いでいるのは態々考えるまでもない事だった。
口では自分が嫌だからとか、校則を守るためと言ってはいるが、素直に親の言葉を認めたくない見栄のような物も有るだろう。そういう年頃だしね──彼女と同じような時代を遠い昔に過ぎたツツジとしても、蓉の考えには苦笑いを浮かべるより他は無い。
「最初だけよ」
「分かっている」
そうね、と答えて車を走らせる。<Prunus>に駐車場は無いので一番近くにある有料駐車場に車を停車させる。車から降りて、『少し歩くわよ』と蓉に告げてツツジは歩き出す。<Prunus>は既に目と鼻の先だ。
***
ドアの上方、来客を告げる為にベルがその鳴き声を店内に響かせる。ガラスの扉をくぐって現れたのはよく似た容姿の二人組。予約していた二人だろうと、一度部屋に戻り手伝いの準備(間食含む)をして戻ってきた康平は思った。
「予約していた神崎ですが」
「お待ちしていました。カットの前に二、三お聞きしたい事が有りますので、こちらにどうぞ」
レジの横に配置されている焦げを思わせる濃い木目状のテーブルの上にはカット後のイメージを伝えるためのモデル写真や、ヘアカラーをする人のためのカラーサンプルなどが記載された冊子や雑誌が広げられている。
美容院というのは理容院に比べて客のニーズを重要視する。美容院、サロンとも言うが──店名の前にそうした肩書が付く店の殆どでは初めて訪れる客に対して自身の髪質などについての質問をして各人毎に最適なサービスを提供する。髪は太い方か、細い方か。量は多い方か少ない方か。洗髪の時に使ってはいけない物があるかなど、実に細部に渡って質問をしてその客にだけ適用されるリストを作成する。
そうする事で次回にカットをする時にも役立つし、何より客の方もそうした丁寧な対応を見て少なくとも悪い気はしないだろう。『どうしてそんなに細かい所まで聞くの!』と逆に怒りを露にする人間を<Prunus>の開店後、一度も康平は見た事がない。仮にいたとしても康平の母親の事だ。『文句があるなら余所でどうぞ』と切って捨てるに違いなかった。
幸い、今回の客は納華の質問に怒る所か納華以上に真面目に応答しているようで──その右隣、ゴムで纏めた少女の方は対照的で、事務的に答えていたが。その姿と態度に康平は無意識に視線を送る。最初に思ったのは可愛いな、ということ。次に思ったのは二人がよく似ている所から姉妹だろうかということ。容姿に関してはほんの二週間前に卒業した中学にはいなかったタイプだ。
『立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花』。
昔、国語の授業中に教師が話してその音調の気持ちよさと意味から耳に残っていた言葉を思い出す。まさにその通りの出で立ちだと、康平は率直に思った。
「では、あちらでシャンプーを」
納華に促され二人が立ち上がり、康平のいる洗髪台の方へと移動する。
「こんにちは」
すっかり上手くなった営業スマイルを浮かべて挨拶をする。相手も目を弓なりに細め挨拶を返してくれる。
女性、ツツジの方はそのまま奥の洗髪台へ。どうやら納華が洗髪を行うらしい。必然的に康平が少女の方──蓉の洗髪を行う事になる。
「いらっしゃいませ、こちらにどうぞ」
椅子を勧めて腰掛けて貰い、その首にタオルを巻いてから臀部の乗っている部分をスライド。洗髪台の水場に首を固定して貰う。
「苦しくないですか?」
「ああ」
短い、しかし感情が伝わるには十分な言葉でもって蓉は肯定する。
康平はと言えば蓉の言葉に外見とのギャップを感じて僅かに戸惑うも、そこは慣れたもの。自分に任された事をしようと思い直し、コックを捻ってお湯を出す。水で温めて少し髪を濡らして、
「熱くないですか?」
「ああ」
同じような質問に同じような返答。そういう性格なのかなぁと心中で呟いて、まずは髪の表面の汚れをお湯で流していく。あくまで意識は洗髪をする指先に集中しつつ、自分の後ろでツツジの洗髪を行う納華の話しに耳を傾けてみる。他意は無いが。
「あの子は息子さん?」
「康平と言います。……妹さんですか?」
「ええ、よく似てるでしょ?」
「え!?」
納華お得意の“お世辞”のジャブを回避し、カウンター。少しだけ意識が向こうに行ってしまう。それは納華も同じだったらしく、見てはいないがその表情が間違いなく驚いていると康平は確信する。
「嘘ですけど」
「は!?」
「でも、本当かも」
「母さん!」
自分の手元から蓉が抗議の声を挙げるも、小さく笑ってツツジは受け流す。
「本当は親子です。貴女と同じに」
からからと笑ったままツツジは冗談の成功に更に気をよくした素振りを見せた。納華は『はぁ』と小さな溜め息を漏らし、
「でも本当によく似てらっしゃいますね?」
「もしかして息子さんと歳も近いんじゃないかしら。娘は十五歳だけど」
「そうなのか?」
蓉の言葉は康平に向けられたものだ。ツツジのいう通り、康平も十五歳。
「そうですね。俺も十五歳です」
「──なら普通に話してくれないか。敬語で話されるのはこそばゆい」
……こう言っているが良いのだろうか。納華の方に視線を送って問うてみると分かっているのか一つ頷くだけ。『お客様は神様です』。納華の目が言っている気がした。
「分かった」
髪が長いと洗髪するのは難しい。来る時にまとめ役をしていたゴムは外されて彼女の左手首に付けられているため、今は水を張った洗面台で自由に漂っている。
「助かる。では高校は? そこまで同じなら私は偶然を疑うが」
一頻り髪をお湯で流して大まかな汚れを落としてからシャンプーを手の平で伸ばし、ゆっくりと髪に撫で付け、泡立てる。あくまでも傷つけぬ様に静かに流れに逆らわぬ様に、指の腹を使って洗髪というよりはマッサージをするような気持ちでカットに向けて髪の状態を整えていく。
「<浪岐学園>だけど」
「疑っても良いか?」
「良いんじゃないかな。……確かに凄い偶然だから」
洗髪台で用いている照明は蛍光灯の味気ない白光ではなく、間接照明の日向色。その日向が照らす蓉の髪は天使の輪を生み出すほどに美しい。
当然の事だが、洗髪をするということは相手の髪に触れるという事で、康平も母の手伝いをするようになって数百人の髪に触れてきた。機会が増えるという事は自然、質の善し悪しも分かってくる。綺麗な髪の人は洗髪をしているこちらも楽しいというか、嬉しいというのか……“洗わせてくれてありがとう”。そういう気分になる。悪い人は、悪い人で『もっと良くなるように』という気持ちで洗髪をする。
──蓉の場合は前者だ。
殆ど手を加えていないのだろう。ヘアカラーやブリーチをしている人間は触り心地は雑で、見た目では絶対に分からない起伏すら感じる。つまり痛んでいる。道路で言えば未舗装の砂利道。より良く見せようと手を加えて道が荒れるのだから、皮肉な話しだと康平は毎回のように思う。
そんな中、蓉の髪は久し振りに洗髪をしていて“気持ちが良い”。こちらの動きに逆らわず──逆らう事すら知らないのかもしれない──合わせる様に水を吸って輝く髪を見るのは、嬉しい。
「……楽しそうだな」
「うん?」
「楽しそうな顔をしているなと言ったんだ。人の髪を洗うのが好きなのか?」
前々から言われている事だ。一部の──康平が良いと思う髪の持ち主が──蓉と同じように洗髪中の康平の顔を見て“楽しそう”、“嬉しそう”と評してくれる。どうやら自分はそういう時、分かり易いぐらい顔に出るらしく……おまけに隠せない性分らしい。直さなければいけないとは思う。将来サービス業を仕事に選ぶのなら、特に。
「そうだなぁ……たぶん、好きかな」
「はっきりしないな」
「"嫌いじゃない"っていうよりは良いと思わない?」
シャンプーを流し、次にリンスを。シャンプーの時と同じようにあくまでもゆっくりと髪に馴染ませ、マッサージ。
「今度は何をしてるんだ……?」
「ツボ押し。痛かったら言って」
「大丈夫だ……これはこれで気持ちの良い物だな」
頭だけでなく、耳の裏に首の後ろ……それらの部分を先程までの洗髪とは逆に親指の腹で力を加えて揉みほぐす。ツボを刺激して身体を軽くするだけでなく頭皮のケアも兼ねたマッサージ方法は母直伝である。
自分の髪を切って貰う時にもされるのだが、あれには当分敵わない。それでも少しは近付ける様に、近付いた証を伝えたいと丹念にマッサージを続ける。
「……」
蓉は静かだ。横目で一瞬だけ表情を見てみると、目を閉じている。眠っているのだろうか。自分の後ろのツツジも母のマッサージの前にあえなく陥落したらしい。蓉と同じように目を閉じて安らかに眠ってしまっている様だった。
──残念だが、眠ってしまわれては続きが出来ないので康平は再びシャワーからお湯を出してリンスを流す。ゆっくりと蓉が目を開いた。
「……眠っていたのか」
「寝てたの?」
逆に問い返す。『自分は集中していてそんな事気付かなかった』と言う様に。
「どうかな……少し記憶が飛んでいる気がするから、眠っていたんだろうな」
「そっか」
最後の仕上げだ。リンスを流し終えるとタオルで大まかに水分を取る。
「起こすよ」
音もなく椅子がスライドし、椅子に座っている体勢に蓉の身体が起き上がる。二枚目のタオルを取り出し、今度は水滴が垂れない様に全体を押さえる様にして水気を拭き取る。頭頂部から毛先まで。拭き残しがない様、丹念に。最後に首に巻いたタオルで首の周りの水分を拭き取って洗髪は終了。
「お疲れ様、こちらにどうぞ」
立ち上がり、康平の案内する三面ある内の中央に位置する鏡面の席へと移動し、座って貰う。
衣服に髪を付けないために、<Prunus>と筆記体で書かれたロゴが入った象牙色のカットクロスを蓉の周りに一巡りさせて、全身を覆って康平の仕事は終わり。これ以上は母の仕事だし、自分には必要な技術も資格も無い。
「じゃあ、ちょっと待ってて。直ぐにかーさんが切ってくれると思うから」
「お前がやらないのか?」
蓉の言葉に苦笑いを答えとして、康平は納華に仕事を引き継いだ。
***
洗髪の最中、蓉は不思議な感覚を抱いていた。突然頭を強く押された時は驚いたが、それも無理らしからぬ話だ。蓉にとって美容院を利用するのは今日が初めてなのだから。
今までは母に髪を切って貰っていた。その母と父以外の人間に髪を触られたのも今日が初めてで。その初めての機会が蓉にとって気分の悪くない、正直に言えば心地よいものであるならば幼少の頃から伸ばしている自分の髪も『切っても良いかもしれない』と思うのも道理だ。こんなに気持ちよくしてもらえるなら──言葉にするとそんな心理。
それもあの少年──確か康平と言ったか──彼になら、と。その思いが如何なる類の物なのか、何故そう思うのかは蓉には見当が付かない。
鏡面に映る顔を覗く。頬を通り、胸の前に垂れ下がる黒髪。長さだけを揃えて今の今まで伸ばしてきたこの髪には一方ならぬ愛着が有る。
『それとも、お祖父さんの話を真に受けているから?』
……無いとは言い切れない。祖父の話を聞かされる度、女性にとって髪の毛というのは好いた人間の為に有る物だと思ったし、その為に有りたいとも思う。母に言った、校則を守るためというのも嘘ではない。嘘ではないが、真実だと断言することも出来ない。
鏡面から視線を外し目の前の髪に落とす。
「お別れ、か」
蓉は静かにその時を待った。
「彼に切って貰えないのは少し残念だがな──」
***
『新入生、入場。拍手をもってお出迎え下さい』
連続した風船の破裂を思わせる快音が体育館中に木霊する。拍手の海の中、まずはA組の男子から体育館の中へ移動。一列に並んで歩く列の最後、康平の姿が有った。
浪岐学園の体育館に入るのはこれで二度目だ。入学するに当たっての話を聞きに言った時が一度目、そして今日の入学式で二度目。これから卒業までの間に何度も出入りする事になる体育館に、初めて学園の生徒としてその門を潜る。それはとても特別な事のようである。
A組の男子の次は同じクラスの女子が入場を始め、後ろのクラスが倣ってその後ろに付く。康平のクラスは一年B組。次に入場するクラスだ。
B組の女子の移動が早いのか、男子よりも僅かに先に前へ出る。その時康平の視界に見覚えのある横顔が目に入った。蓉だ。しかし一瞬の違和感を覚える。その正体にはすぐに気が付いた。あの時店で出会った時と髪の長さが違っている。肩を超えて、葉先から地面に落ちる雨露のように真っ直ぐに伸びていた黒髪はうなじが見える程に短くなっている。
あの時に切ってしまったのだろうと思うと同時、髪を切った事であの時の凛とした空気は洗練さを増していると思った。
「同じクラスか……」
それでどうこうという訳ではないが、知っている人間がいると分かると人間は不思議と心が軽くなる。後で声でもかけてみようか、相手はこちらの事を覚えているかな──拍手の海が康平の思いを励ましている様に聞こえてくる。
***
移動の遅れていた男子より早く女子が移動を再開した。開け放たれた門からはまさしく拍手喝采と呼ぶに相応しい、祝福の歌が耳朶に届く。あの日に切った首が隠していたうなじに当たる春風は暖かく、否が応にも自分があの髪を切った事、そして新しい生活の始まりを教えてくる。
後悔はしていないが、一抹の寂しさはあった。切った翌日、目覚めて顔の前に下がる髪を耳の後ろに掻き上げようとして何時もの手応えがない事に気付かされて、思わず惚、となった。
あれから一週間弱。未だに短い髪には慣れていないが、無いものねだりをしても仕方がない。いずれまた伸ばせば良いだけの話だ。それが在学中なのか、卒業してからなのか、ずっと先なのかは、分からないけれど。
ただその時は──。
「同じクラス、か」
一瞬前に通り過ぎた人間に任せる事にしよう。遠く聞こえるだけだった拍手は今は鼓膜に刺さるかの様に激しい。
四月一日、<浪岐学園>入学式。それは始まりを告げる式典──。
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