悪いのは誰かと言われたら自分だと答えるだろう。
“こう成った”のは私の意思。
“こうなってしまった”のは私の運命。
運命。そう、言い切れれば。その言葉を認めれば、数分前に時間が戻せる?
また二人で笑い合える?
***
『第二十八回 私立浪岐学園祭 〜縁束〜』。
書道部顧問が書いたと言うキャッチコピーのアーチの下を潜り、多くの人々が学園内へと足を運んで行く。入り口から校舎のスペースは普段、職員の駐車場として用いられる事も有って、決して広くこそないものの、客人を迎えるには十分なスペースが有る。今はひしめきあうように最上級生が屋台を出して前を通る人々にお好み焼きやら焼きそばやら、飲み物やらを破格の値段で振る舞っていた。開場当初でこれだけ人が集まっているのだから閉場までは更に賑やかになりそうなのは明白だろう。
『浪岐学園祭』は学園に関係の無い一般人も参加することが出来る公開型の学園祭で、数年前の学園祭ではとある老人ホームの利用者を招待したことも有るのだと言う。そうした経過も有ってか、学生として二回目の参加となる哲哉の目から見ても今年の祭りは中々の賑わいのようだ。
哲哉の立つ校舎のA棟二階──二年生のクラスが集中するフロアは今のところ一般客よりも生徒の制服姿が目立つ。高校の学園祭は上の学年順に人の目を引き易い物を取り扱うから、この現状も無理らしからぬ事だろう。それに一部の二年生の出し物は午後から体育館を利用して行われる。哲哉や由子、康平や蓉が所属する二年C組のクラスもそう。上着ポケットの中に折り畳んでいたパンフレットを取り出しスケジュールを確認する。
午前の部に行われる出し物は二つ。最初は一年D組による、流行曲のアカペラによる合唱。次に吹奏楽部によるコンサート。これが終わると午前最後の部となる、三年生による寸劇。その後昼休みを挟んで午後の部最初のプログラムに、自分達のクラスの出番が来る。
必要な資材の一部は既に館内に運び込んでいるので、小道具や実際に演じる役者の用意が出来れば準備は完了する。
今回の出し物において哲哉は背景の作成に携わっていた。脚本家、演出家の指定された物を他の面々と共に作成していたのだが、それらから推測されるのは舞台が現代ではなく、また日本の話でもない事。内装などは大道具を用いて表現するので殆ど描かず、煉瓦が積み上げられて作られた剛健そうな家屋など、凡そ和風とは程遠い背景ばかりを作成し、現代を連想させる様な近代ビルなどは一切無かった事から先の推測に至った。
だが肝心要の脚本の内容に関しては俳優以外の人間が知る所では無かった。どういう話なんだと背景を指定してきた演出担当に聞いても『当日まで秘密』という答えしか返って来ない。当日に驚かせたいのか、それとも出来が良くないのか──それら全ては今日明らかになるのだが、開演までは時間が余っている。
時間にして約三時間。ぼんやりとするには長過ぎる時間だ。かと言って、一人で校内を巡るのも同上なので、哲哉は由子達に声を掛けて開演までの時間を潰す事にしていた。が、康平と蓉の二人は各々でやる事があると言って申し出を断り、最終的には由子と二人で、ということになった。
ホームルームが始まる前に声を掛けて、終わったら此処、つまり、哲哉が立つC組の教室前で待とうと言っていたのだが、由子は化粧直しに行くと言って──言うほどしていないくせにと言ったら一笑に付された──まだ帰って来ない。
「お待たせー!」
何でこうも時間が掛かるんだろうか。聞こえた声から該当する相手を想像しながらそちらに振り向くと、想像通り由子がいた。しかし見える姿は由子一人だけだ。
「神崎は?」
「出てきた所で別れた。なんか待ち合わせしてるみたいだったよ。珍しく髪の毛の手入れしてたし……案外河本君と二人で回るんじゃない?」
「二人で──か」
対称的なあの二人が一緒に校内を見て回る姿と言うのは──。
「別に変じゃないか」
「意外に違和感無いしね、あの組み合わせ」
女子高生の平均身長ほどの蓉と、それより頭一つ半ほどの身長しかない康平が二人並んで歩く姿。美術部や文学部が教室で展示している数々の作品を見て冷静に評価を下す蓉に、相槌を打ちつつ、しかし逆の見方も有る事を述べる康平。『ふむ』と言いながら一頻り考えを巡らし、また別の見方を指摘する蓉──日常から想像できる二人のやり取りが頭を掠めた。
「……確かになぁ。俺らと知り合う前から、お互いの事知ってそうだったし」
「私らの知らない所で、良い仲だったりするかもよ?」
「だけどそれを聞いたら不思議そうな顔すると思う」
「あはは……そうかも。言葉にすると『へ?』って感じでしょ」
「そうそう」
仮にあの二人が所謂“彼氏彼女”の関係で有ったとしても、認める事も、否定する事もしない気がするのは考え過ぎだろうか。本人がいない所でそういう事を考えるのも野暮というものなのだろうが。
「ま、理由も無く行動する様な二人じゃないでしょ。こっちはこっちでゆっくりしようよ。今更だけど、初めて二人っきりで遊ぶんだし」
「帰る時のアレは数に入ってない、って事ね」
「あれはお姫様が従者を連れているのと同じだもの」
「言ってくれるな、オイ」
せめてボディーガードぐらい言って欲しいもんだ──ケビン・コスナー程渋くはないが。人が増える前に歩き出しながら哲哉はそう口にすると。
「それこそ、今更の話だよ」
余計にへこまされた。
***
学園祭と言うのは不思議な空間だ。同じ『祭』という漢字が含まれるのに、縁日とも呼ばれる神事以上に活気が溢れている様に感じられるのだから。
出店される屋台の食べ物も、普通の縁日とは殆ど変わらないのに美味しく感じられるし、行き交う人々の表情もずっと楽しげだ。体育祭の時も、これに似た活気が校内をすっぽりと包み込んでしまうが、あれはどちらかと言えば種目別に活躍する選手や生徒を中心に盛り上がる物で──参加しない、参加をしても中心メンバーとならない人達にとっては、どこか蚊帳の外の出来事のように思えてしまう事が有る。
学園祭でも同じ事が言えるが、体育祭と違うのは出し物を催すに当たって企画・進行をしなかった面々でも、客として参加できる楽しみがある。それによって皆が共有できる感動が形成される。
地方で行われる縁日も、性質としては体育祭と同じようなもの。『参加』は出来るが、『共有』する機会は中々無い。祭りを企画するのは県であったり市の役人や、町内会という、生徒である自分とは遠い存在の人達が主だから。『学園祭』というローカル的なものであるからこその活気なのだろうか──。
「と、春日由子は思うのであった」
「お前の屁理屈は分かったら口元についている青海苔を拭け」
「う、ご指摘に感謝します」
正門前に展開する屋台の、更に賑やかな屋台で焼きそばを購入した二人は、A棟の正面入り口の階段に腰を下ろし、少し早めの昼食を取っていた。
示された場所を確認する由子に哲哉がティッシュを差し出しながら自分の左の口角を指す。
ティッシュを受け取り、素早く青海苔を拭い、
「取れた?」
「ああ」
歯磨きの成果を確かめる子供の様な由子に、哲哉は頷いた。
──何分、こうした行事だから、二人とも今日は弁当を所持していない。学生食堂は入り口こそ開放されているが、何時もの様に定食メニューやパンは販売しておらず、休憩所としての役割を担っている。時刻は十一時を過ぎた辺り。屋台で幾つかの食べ物を購入して、友人と分け合っている者などで学生食堂はごった返しになっていそうだ。
他にも校内で休憩所とされている教室なども有るのだが、『ゴミは指定の場所に捨てる事』という決まりさえ守れば、何処で飲み食いしても構わない。
考えてみれば普段の学生生活でも昼食時は教室で食べる者や、部室で食べる者もいるので今日が特別という訳では無いかもしれない。
「これだけ多いと河本達を見付けるのは無理だな」
「本当。何してるんだろうねー。やっぱり二人で回ってるのかな」
一通り校内を一周してみたが、二人とは擦れ違うどころか姿さえ見付けられなかった事を思い出す。開場は九時三十分で、それなりに時間が経過している事も有ってか、人の数は益々増えてきており、<私立浪岐学園>とプリントされた屋台の前の混雑の激しさは目に見えて分かる。この中から知人二人を見つけ出すのは、人探しを本職とする者でも困難を極めるだろう。
去年は一日中教室で展示物の解説や受け付けをやらされていたので、こうして人で溢れる学園の様子というのは哲哉にとって中々新鮮な光景だ。何時もの登下校時でさえ、これだけの人数を校門前で見かける事は出来ない。改めて今日という日が良い意味で非日常である事を実感する。
──いや。隣に異性を連れて歩いているだけで非日常に違いないのだが、その点に関してだけ哲哉は鈍感になっている。元より付かず離れずの相手、哲哉にしてみれば特別な事では無いからだ。たとえ外から見ればただの男女二人でも、この場でそれを指摘する人間がいないのは、有り難いことなのかもしれない。哲哉には今の二人を指して、どういう関係なのかを問われても、的確に説明できる自信は無かったから。
“関係”というその言葉。男女などの異性に限るなら、“それ”には大別して三種類しかない。他人か、友人か、恋人か。例外として“その先”も有るが──考える必要はないだろう。今の自分達には関係ないことだから。
ちら、と由子の座る方に顔を向ける。こんな詮ないことを考えているのは自分だけなのだろうか、隣に座る彼女はどんな顔をしているのだろう──そう思って。
「……お前。その山の様なクレープを何時、何処で手に入れた」
隣を見た哲哉の目に映るのは両手の皿に三本ずつ、巻いても零れ出すほどに大量のクリームと、幾つかの色鮮やかな果実が挟み込まれたフレーツクレープが乗せられていた。
「ふほうひょやひゃいひゃらのへいひょうらっへ」
「『向こうの屋台からの営業だって』?」
こくこく頷く由子を見ると正解のようだ。
「営業にしては量が多いな……それに向こうの屋台って」
これだけの量を受け渡すのだから、会話の一つも聞こえてきそうな物だが……気付かない程に考え事に集中していたのだろうか、自分は。周囲の賑わいで小声ならば掻き消されそうだから考えられなくもないが。
……待て待て。『向こう』と言っても目に見える範囲でクレープを販売している屋台は無い。それにこの匂い。焼き立てなのだろう、鼻孔をくすぐるケーキ系の食べ物特有の甘い匂いが隣に座っている為かやけに強く感じる。なのに、やはり近くの屋台からはそれらしい匂いの一つも漂っては来ない。
「──体育館近くでやっているんだって。量が多いのは焼いている途中で失敗したものだから無料で配ってるからで……『どれが良い』って聞かれたんだけど、全部美味しそうだったから、全部貰ったんだよ」
口内に溜まっていたものを嚥下し、ほら、と皿の上のクレープを哲哉に見せる。
なるほど、完成品としては相応しくないであろう焦げ色が面積の大半を占めるものや、逆に殆ど焼き色の付いていないもの、三角形上に折り込まれた頂点の一角からクリームが漏れ出しているものなどばかりだ。
恐らくこうした失敗作の幾つかは店員の胃袋に納められる形になっているのだろうが、それでも捌ききれない幾つかの物に関しては“営業”と称して他の人々に配布しているのだろう。
「上手い商売だなぁ。で、良ければ完成品も食べにきてくださいって事か」
「そういうこと。私には、これでも十分美味しいけど」
三つ目の──今度はバナナチョコが中に仕込まれている──クレープに手を掛けながら、品評する。
「美味そうだから一枚くれ」
「はいよー」
手に取ったのはそれまでのデザート的な物ではなく、中にハムとチーズが挟まれたブランチ的で、シンプルなクレープだった。他の屋台で、昼食と呼べる様な物は食べているので最後の締めには丁度良い。一口齧ってみると、少し冷めてこそいたもののチーズのとろりと溶けるほのかな甘味と、少し分厚いハムの確かな食感が、お互いにバランスを取り合って口も、胃も満足させてくれる。
「準備終わって、まだ売ってたら買いに行くかな」
「ん、そうしましょう、そうしましょう」
あれだけ有ったクレープをあっと言う間に完食し、手を二、三度叩いて粉を落とす。そして立ち上がり、
「そろそろ行こっか。余裕持って行った方が良いだろうし」
二人は演劇の準備の為、体育館へと向かう事にした。
***
何人かの女子が舞台裏で騒いでいる様だったが、準備自体は滞り無く終了した。今は舞台中に作業を担当する人間だけが、舞台の袖で待機し、それ以外のクラスメイトは闇色の帳が下ろされた館内の適当な場所に座るなり、立つなりして開演の時を待っていた。哲哉と由子、そして準備の始まる時間までついぞ見つからなかった康平と蓉の四名は、舞台から見ると正面の位置に有る中二階の通路から舞台を見下ろしていた。
合流した時、二人は何処にいたのかと問うた哲哉達に、共に行動していた事を蓉はあっさりと言ってのけた。
質問により、蓉のあたふたする姿を期待していた由子としては肩透かしを食らった感が否めない。康平に聞いてみても言葉を濁すばかりで、求める答えは得られなかった。
何だかねぇ──お互い顔を見合せ、目の前の煮え切らない二人に由子と哲哉の二人は溜め息を漏らした。
その間に館内の空気が徐々に静まっていく。緞帳が下りてきていたのだ。
「始まるね」
照明が消え、館内だけが夜に姿を変える。僅かなどよめきは周囲の光源が消えたことによる不安か、それとも人間特有の、自身の周囲の状況が不安になった時に沸き起こる──かくれんぼをしていて鬼が近くに来ると笑ってしまう人間がいるという話しを聞いたことは有るだろう──奇妙な興奮を感じてのモノだろうか。もしくはこれから始まる演劇による期待か。
『大変長らくお待たせ致しました。只今より二年C組による演劇『アダルトチルドレン』を上演致します。皆様、どうぞ最後までご覧になって下さい……』
ヅッ、とマイクのスイッチを切る音が僅かに聞こえた。数秒の後、静かに緞帳が上がっていった。
最初に見えたのは──哲哉には覚えが有る光景。そこは酒場。立派な髭を蓄えた店主とカウンターを挟んで杯を交わす客が三人の姿。他に店内には二つのテーブルと、テーブルに座る客が数人、カウンター席に座る男達と同じく琥珀色のウィスキーを傾け酒興に耽っていた。
だがその何れも、その誰もが、動いてはいなかった。背景という平面に収められた人々の笑顔。朱に染まった頬の色。一切合切が時間の制約から孤立して存在している。動いているのは背景の手前に配置されているテーブル二台に座る、四人の男子と、カウンター席の向こうに立つ、やはり男が一人のみ。
皆、声は出さずに身振り手振りだけで酒宴を演出していた。
***
『──ある時代、ある国、ある街で暮らす人々がいました。その国には千人の大人と、一人の少女がいました』
硝子の透明さを窺わせる声量のナレーションが館内に木霊する。少しずつ時間が浸透し、舞台に一つの世界が構築されつつある事を、観客に認識させ、そして期待を抱かせる。次は何が出てくるのか、何が起こるのか。目の前に有る世界が自分達に何を見せ、何を伝えるのか。
『彼女には親も、兄弟も、友人もいません』
スポットライト。舞台裏から髪の長い──観客席、最前列に座る人間でさえ表情を窺えないほどに──女性が舞台に上がる。
『日々路頭を彷徨い、時には物乞いの真似事をして、その日その日を生きていました』
ゆっくりと女性は舞台中央へと歩を重ねる。一歩、一歩、音すら立てず。
『ある時、彼女はとある酒場にやってきました。酒場はそこに暮らす人々にとっての歓楽の場所。現在とは違い、テレビも、ラジオも無い世界に有って、人々はお酒を楽しむぐらいしか娯楽が有りません。ただ一つ──“歌姫”と呼ばれる、歌を生業とする女性達の歌を除いて』
女がカウンター席のマスターの前に立ち、初めて声を発した。その声は、ソプラノと言うには低く、アルトと言うには高い。
「私に歌わせて頂けないでしょうか?」
声を聞き、哲哉の隣に立つ由子が小声で囁いた。
「小山内さんだ……」
一瞬、由子に向けた視線を舞台に戻し観察してみる。以前の投票で彼女が演劇のヒロインとなったことは未だ記憶に新しい。何せ隣に立つ相手と最後まで主役を演じる権利を争っていたのだから。
舞台から最も遠く離れた今の位置では、勿論表情を窺う事など出来はしない。投票の時の記憶を呼び出してみても、当時の彼女の出で立ちと舞台に立つ女性の出で立ちは……哲哉にしてみれば合致しない。普段から接することの少ない、否、殆ど接しない相手というのも要因の一つではあるだろうが。
「何で分かる?」
「声」
視線は舞台に固定したまま由子に問うと、簡潔に即答してきた。声? それだけで舞台に立つ相手が誰か分かったのか、こいつは?
由子、蓉、康平。など、日常的に話す相手であるならば声を聞いただけで誰かを推測するのは容易いが、件の投票以降、由子と荊が会話をした様子は無いと哲哉は思う。
「人の声なんて良く覚えてるな……お前と小山内さんって、そんなに話す相手でもないのに」
「特別意識してる訳じゃないよ。哲哉でも、蓉や河本くんでも、誰の声でも……普段生活してて、なんとなく耳に入ってきて、それで自然に覚えちゃうっていう感じだから」
そう由子に説明されても、彼女の言うような体験をしたことが無い哲哉にしてみれば『ふぅん』と頷くだけの感想しか生まれてこない。彼女にとって、それが良いことなのか悪いことなのかなどと言ったことに考えが及ぶ筈も無い。
雑談をしていた間にも舞台は起承転結の内の“承”に進んでいた。今で言うアルバイトをさせてくれないかと頼んだ女性に冷淡に突っ返したのは酒場の主。駄目だ、の一言は彼女の肩を僅かに揺らした。
「お願いします、一度だけでも良いのです」
こうした場面、映画などでも良く見かけるが従来のものと違うのは客のただ一人さえ、彼女を揶揄する事もしなければ、彼女を擁護する事もしない所だ。皆、そこに女などいないかのように振る舞い、目の前の相手との会話に集中している。
結局彼女は依頼を断られ、酒場を後にした。照明が落ち、また別の酒場に場所を移しても結果は変わらない。行く先々で女は時には暖かく、時にはぞんざいに扱われた。
『──大人が少女を拒絶した理由は一つ』
顔さえ見えない女は再度移る背景──今度は真夜中の森の入り口らしき、木々の乱立する場所で一人、煌々と照る満月を背に歩いていた。楕円に広がるスポットライト。周囲の照明は限りなく闇に近付けられ、彼女の存在が嫌でも強調され、物語の象徴として観客に訴える。
『日々を生きる為の糧を求めた彼女を断った酒場の主も、そこにいた客も、彼女の事が嫌いだった訳では有りません。いえ、むしろ──魅力的だと思うからこそ、相手をしなかったのです』
スポットライト、僅かに動き。彼女の上半身だけが闇の中、光に切り取られたかのように見せる。女は月を見上げた。
零れる前髪。初めて見える、その素顔が明らかになると館内に、ざわめきが走った。広大な草原を風が駆け抜ける時、こんな音が聞こえるだろう。そこにいた誰もが舞台中央に立つ、一人の“少女”に眼を奪われた。
『彼女は、ただ美しかったのです』
完全に窺えた表情を見て、先の由子の呟きが正しかったことを哲哉は思い知る。あれは確かに、小山内荊だ。だが記憶にある彼女とは──先程、彼女の出で立ちが舞台の彼女とは同一とならなかったのと同じように──まったく違っていた。
小山内荊の容姿は同年代の女子と比較しても、大分大人びていると十人の内、八割が答えるだろう。それを加味しても、舞台上の彼女はその容姿の数倍は美しかった。
柳眉の整った眉に、弓の弦のようにしなやかに張りつめた瞼。眼窩に納まるのは黒曜石の如き黒瞳。鼻梁はなだらかに下り、その下に有る唇は照明を反射し、砂に埋もれるルビーのように赤い。──そうした例えでさえ、今の彼女は陳腐なモノに成り下げてしまう。
由子の推測とは言え、彼女の名前を聞いていなければ相手が誰か分からなかったに違いない。現に観劇する観客がどよめいていた事がそれを証明している。ある程度の化粧をしているとは言え、これは最早魔法の類ではないか。自分と年の変わらない少女が、館内一杯の人間を魅了するのだから。
脚本家は今頃舞台裏でほくそ笑んでいるに違いない。自らの仕掛けで大多数の人間を罠に嵌めたのだから。脚本家冥利に尽きるという奴だろう。
『美しかったものの、彼女は少女だった。大人である自分達に彼女は魅力的にこそ映るものの、彼女の価値の本質が分からなかったのです。男性であるならば普段目にする女性の美しさしか知らない、女性からすれば何故自分達が持ち得ない魅力を持っているのかが分からない。分からない物を、その街の人々は受け入れることが出来なかった』
月を見上げていた彼女は何時しか膝を付き、地に伏せた。聞こえるのは吹き荒ぶ風の音。暗転していく舞台。雪──だろうか。まるで本当に吹雪き、彼女の姿を隠していくようにスポットライトが萎んでいく。
『彼女の不幸は、彼女を理解できない街に生まれたという事実。ただ、それだけの事でした』
やがて舞台の全てを暗闇が覆った時、彼女の声が聞こえてきた。同時に、この世界の終りを意味する言葉を。
「どうして私は生まれてきたの? どうして私は此処にいるの? どうして私は、私として生まれてきたの?」
世界、緞帳の下りと共に終焉する。聞こえるのは吹雪。彼女の慟哭を掻き消す為か、彼女を拒絶する世界から守護する為か──観客には分からない。やがて荊の素顔が窺えた時のように、少しずつ拍手が波となって館内を席巻していく。
『以上を持ちまして、二年C組による演劇『アダルトチルドレン』を終わります。最後までご覧頂き誠にありがとうございました』
***
「小山内の登場には驚かされたが、全体を見れば二流だった」
旅行は帰宅するまでが旅行という言葉も有るように、演劇は本番が終わっても後片付けという物が残っている。まして今日は学園祭。次の三年によるバンド演奏に備えて上級生のスタッフが右へ左へ駆け回る中に混じって、哲哉達も先の演劇に使用した道具類を上演前に比べてやや手荒に舞台裏から運び出していた。
上演が終われば感想を話し合いたくなるのは人の性か。自分達の周囲から聞こえてくる声に感化されて自然と感想を言い合っている内に蓉が漏らしたのは辛口の批評だった。近くに脚本家がいないのは不幸中の幸いだった。蓉以外の人間にとって。
「何を伝えたいのかも抽象的で観念的だったし、演出も稚拙。小山内だけで劇を完成させようとする狙いが明白過ぎた」
「でも小山内さんがいたからこそ、神崎も“二流”だと思ったんでしょ?」
康平の感想に思い至る部分が有ったのか『まあな』と素直に応じる蓉。
「あれが無ければ三流だ。見る価値も無かった──逆に彼女がいたからこそ、見た甲斐も有る」
「脚本担当に会ったらそう言ってあげなよ。喜ぶと思うよー。──あ、哲哉ぁ。こっちのダンボール一個持ってー。教室に持っていくから」
「はいよー」
由子が指差したダンボールには使用したグラスや花瓶など、硬く、重量の有る物が詰め込まれている。対する由子の方は、主に舞台裏で使用した物か。タオルやブラシなど、軽い物が梱包されていた。
「結構重いだろうから気を付けてね」
「ん……これなら大丈夫だ。じゃあ後は宜しくな、二人とも」
残る荷物は数少ない。もう一度体育館に戻ってきても仕事は残っていないだろう。事前の打ち合わせで上演後の片付けが終わった者は各自、再度の自由行動をしても構わないことになっているから、この荷物を教室まで運べば本日のお役目は終了ということになる。
「二人はどうするの?」
「──さてな。終りまでには時間が有るから、何処か廻ろうと思っているが。午前は共に行動できなかったから、午後はお前達と……と考えていたのだが」
「俺達もこの荷物片付けたら教室に行くつもりだから、そこで待ち合わせで良いんじゃないかな」
「りょーかーい。んじゃ、先に行ってるねぇ」
教室までの距離はそれほど有る訳ではない。荷物を持っているとは言え、五分も掛からないだろう……廊下に人が溢れていない限りは。
「そこ、段差有るぞ」
「助言感謝ー」
果たして二人は運良く渋滞に引っ掛かることなく、A棟二階、二年C組の教室まで無事荷物を移動出来た。
「後は二人を待ってれば良いよね」
「そうだな。俺、今の内にトイレ行ってくるわ」
「あ、じゃあ私も」
言うが早く由子が教室を出ようとする。
──が。
「お前、そこ段差が有るって──!」
「え?」
健忘症かお前──哲哉がツッコむよりも早く、由子の爪先が素材として利用していた木材が生み出す段差に引っ掛かる。前のめりに倒れていく由子の身体。哲哉から見て最も近い部位は──左手!
すかさず右手を延ばし、その左手首を掴む。
「さっき言っただろうがっ」
寸でのところで倒れるのを阻止できた──哲哉が安堵を感じようとしたその刹那、
「──……ッ!」
その手が、払われた。一瞬、何をされたのか分からない。
馬鹿のように先程の記憶を呼び起こし、回想する。
あいつが段差に躓いて倒れそうになった。
何をやってるんだお前、と思った。
それで一番近くに有ったあいつの腕を掴んで、倒れないようにした。
そこまでは良い、その後こいつは──掴んだ手を、叩いて、離した……?
「──、ご、ごめん。その、なんか、急にこけそうになって、それで……急に掴まれたから、びっくりして──ね? だから、えっと……」
自身の行動を信じられないのは由子も同じか。弁解する様子は“必死”という言葉以外では説明できない。しかし哲哉も未だ冷静にはなれず、
「ああ……驚かせたんなら、悪かった。こけるよりはマシだと思ってくれると、助かるけど」
「そ、そりゃぁもう! この美顔が傷付くのは私としても嫌だからねぇー! あはははは!」
渇いた笑いが耳朶に届いても、哲哉は呆然としたまま回復できない。──脳裏の何処か。勝手に鍵が開いて中身が飛び出してきた。
──私ね、人に触れられないから。
あれは冗談ではなかったのか? まさか本当の事で──勝手に思考する脳が、更に一つの疑問を哲哉に提示した。
──触れられないと言うのなら、どうして春日は……俺に告白なんかしたんだ?
触れられぬと分かっている相手を好きだと言う。言うだけならば簡単だ。伝えることも同じ。しかし、その先は?
恋をすれば相手の全てを求めたくなる。その全てとは、文字通り全てだ。心も、身体も、何もかも。目に見えるもの、見えないもの全部を引っくるめて欲しくなる。時には奪いたくなる。それで育まれるモノも有れば、壊れるモノも有る。哲哉の考える恋愛とはそういうものだ。
もしも彼女の言葉が真実なら彼女が得られるのは相手の気持ちだけだ。『好きだ』とか、『愛してる』とか……目には見えない不確かなモノしか、彼女はその手に出来ない。哲哉に抱いている感情が恋慕であるならそれは──“それ”しか得られないというのは、哲哉の考える“恋愛”と矛盾している。
決定的な矛盾は、前より哲哉の心中にて温められていた卵に最後の熱を与え、孵化させ、その中身を産み落とした。
人はその生まれたモノをこう呼ぶ。人心に産まれ、不信を餌に育つ魔物。
“疑心暗鬼”──と。
【第八話】
【第十話】
|