開け放した窓からは近所の田んぼで去りゆく夏を惜しむかの様な蛙の鳴き声が聞こえてくる。八月も既に下旬。残暑は尚厳しく、日が落ち月が夜の明かりとなっても涼やかな風は吹かず哲哉は自室の扇風機のスイッチを『弱』から『中』へと切り換えた。ぶぅんとモーターが加速し、送られてくる風の勢いが増す。シャツを掴みぱたぱたと仰ぐと胸の隙間に風が入り込み身体の熱が冷まされていき、ようやく哲哉は一息ついた。
哲哉の自室は至ってシンプルな作りで家の北側と東側に一つずつ、今は開けている窓が有り、西側の物置兼客室とベランダで繋がっている。
家具の配置は西側の壁に勉強の為の机と現代ではすっかり馴染みの四段構成の鉄製棚。東側の壁にベッドと衣類を納めるタンスが配置されており、アイドルや歌手のポスター等は貼られていない代わりに壁には画鋲で一週間の時間割や夏休みの予定表、出題されている課題の一覧表などが貼られていた。その内の夏休みの予定表には既に済ました集団登校日の部分が赤ペンで線を引かれている。
学習机の上には広げたままの英語のテキストが置かれ、扇風機の風で一枚、また一枚とめくられていく。めくられても哲哉は一向に気にする様子が無い。今の彼はテレビに視線を移していて、流行りのバラエティー番組を見て腹筋を鍛えている。漫才師の片方が相方のボケに突っ込んで、観衆がどっと沸いた時、机の上で充電していた携帯がくぐもった着信メロディを鳴らした。
哲哉は相手によって着信メロディを指定しており、聞こえたメロディで誰から着信したのかが分かる様にしていた。今聞こえているのは彼にとって仲の良いグループから着信した時になるメロディ。テレビから視線を外し携帯を手にすると電話ではなく、メールで有る事を確認する。
二つ折りの携帯を開き、液晶を見る。差出人は由子だった。
メールの画面を開き、本文を開く。題名には『デートとかいかがでしょ』と最後に音符記号を付けて書かれていた。
『今週末にプールに行こうって話が出たんだけど一緒に行かない? 河本君と蓉には連絡済で、二人とも行くって言ってる。ちなみに誘ってくれたのは先生です』
先生。その言葉に哲哉ははて、と考えるが以前彼女を病院まで送って行った日に話をしていた人物の事だろうかと思い、返信した。
『行くのは良いけど、先生って前にお前が言ってた人の事?』
簡素ながら、しかし他に書く事も思い当たらないのでそのまま送信する。一分も立たない内に再度メロディ。
『そうそう。斎藤先生ね。この前診察に行った時に、“よかったら使って下さい”って無料招待券を貰ったんだけど、貰ったままだとやっぱり色々あるじゃない。それで私が先生も一緒に行きましょうって誘ったの』
なるほどと納得する。
『じゃあ参加させて貰うわ。詳しい事は決まってる?』
『オッケー。まだちゃんと決まってないけど、決まったら連絡するね。それじゃお休み↓』
互いに必要な事項は確認し終わったのでメールはこれで終わりなのだが、哲哉は文末の『↓』が気になり、画面がスクロール出来るか試してみた。一行、二行、三行……更にスクロールしてみると、続きの文章が書かれていた。
『悩殺系の水着で行く予定なのでティッシュを用意しておく様に』
一瞬窓から携帯を放り投げようかと思うも、思い止まり、深呼吸を三回。内、二回目に差し掛かろうかと言う時、以前友人──康平とは別の──に見せられた水着と言うより下着、下着と言うより紐の水着を着た女性の姿が頭を過り、哲哉は頭を抱えた。
思春期の男性の脳という奴は、事、『下』な事柄に関してはどんな高速コンピューターよりも素早く解答やイメージを処理する術に長けている。
哲哉とて例外ではない。そう、これは自然現象なのだ──頭の中で紐を身につけた女性の顔が由子に切り替わり、哲哉に向けて熱い視線を送ってきて。それを感じた下腹部のなお下の部分に血液が集まるといった事は。
そう思わないとやってられない。しかし溜まった熱を発散する方法を実施しようにも相手が相手なので思う様に行かずに……悶々としたままベッドに突っ伏して哲哉は夜を過ごした。
***
目的のプールはそれ単体で運営されているレジャー施設の様な場所と違って、大学の構内にあるスポーツクラブの中にあるプールだった。そのプール、もとい大学のある場所は<浪岐市>ではなく、<浪岐>から北に向かって三駅目にある<汀>に有り、駅から更にバスを乗り継いで大学まで移動する事になっていた。
<汀>は関東で言う所の東京、関西で言う所の大阪といった大規模──東京や大阪とは比べるべくもないが──の街で、<浪岐>に暮らす人々からすれば都会と言われるような場所である。
駅から一歩外に出れば見上げる様なビルが立ち並び、街を歩いていても、ちらほらと海外から来たと思われる人々を見かける事が出来る。<浪岐>から来た人はたった数十キロ離れただけでこんなにも変わる物なのかと驚く事が殆どだ。
哲哉達は年頃とあって、<汀>に行く事も多い。
<浪岐>で手に入らない様な物や<浪岐>には無い遊戯施設が<汀>には有るので、それらを目的に遊びに行く事が多かったが、今回の様に駅から離れた場所になると土地勘なんてものは殆ど無くなってしまう。
『先生が場所知ってるから大丈夫だよ』
<浪岐駅>で待ち合わせという事を後日のメールで知らされた本文の末にそう書いた由子は、待ち合わせの時間に余裕を持って出た筈の哲哉よりも先に待ち合わせの場所に来ていた。
時は朝と昼の境目の午前十時十五分。数年前に大規模な改築が行われ駄々っ広かった駅前の広場は小規模でありながら立派なターミナルへと変貌し、外から見れば安っぽい市電が走るとしか思えなかった線路は二階構造となった駅の上部へとコンクリートの階段で押し上げられた。
一階部分にはATMや<浪岐>の歴史を写真や文章で説明した郷土館が置かれるようになってすっかりローカルな雰囲気は影を潜めていた。
<浪岐駅>の昔を知る人はこの変貌にどんな感傷を抱いたのだろうか。駅の改築が始まり出した頃に電車という交通機関を利用し始めた哲哉には想像もできない。そうそう──想像もできないと言えば。
「随分早いな。まだ時間有るのに」
「誘った本人が遅刻しちゃまずいっしょ」
薄い赤色の花柄をプリントしたブラウスの下に水色(こちらは単色だ)のシンプルなキャミソール。その下は歩きやすそうな黒いパンツルックに、服と合わせたのだろうか、黒いサンダルを履いていた。春日由子という女性の印象をそのまま表したかのよう──哲哉は思った。
「そういえば哲哉と私服で会うの久し振りかな」
「大半は制服だしな」
「それもそっか……どう、似合ってる?」
目の前で由子がくるりと回る。よくドラマで見かける場面だが実際に目の前で見せられると実に可愛らしく見えるのだから女性というのは不思議な存在だ。
一周を綺麗に回って再び哲哉の正面で視線を合わす由子を見て哲哉は『悪くは無いと思う』と一言で感想を述べた。
「似合ってるか、似合ってないかで言うとどっち?」
「そりゃぁ──」
哲哉だって色恋沙汰に対して全くの朴念仁と言う訳ではないから、由子が自分にどういった評価を求めているのかは想像がつく。由子だって、哲哉に、哲哉の口から直に言ってもらいたいからわざわざ二つに一つの答えを用意したのだろう。
それならば言ってやろうじゃないか。
「似合ってるぞ。うん」
はっきりと。
「あははっ、ありがと。実は結構迷ったんだよー」
「何を」
「服。色の組み合わせの善し悪しって有るじゃない。私の中では赤と黒って結構好きな組み合わせだったから、それに合うようにと思ってコーディネートしたんだから」
「苦労の産物な訳だ」
「当然。貴方様の一言でその苦労も報われましたわ」
おほほほほ──まるで何処かのセレブリティー夫人の如く口元に寄せた掌を相手に見せながら高笑いをして、
「まあ、哲哉様の為にもう少し私の白磁の肌を見せて差し上げても宜しかったかもしれませんが」
「後で嫌って言うほど見せてもらうから良いよ」
哲哉としてはプールに着いた時に水着を見せて貰えるからという意味で、彼女に合わせて言ったつもりの一言。ところがどうだろう。由子は『えっ』と驚いて、俄かに顔色を曇らせて何やら深刻そうに考え始めた。
突然の変化に哲哉も不思議に思う。
「どうしたんだよ?」
「……まずいわ、これは」
何がまずいのか。自分が言った一言、そこに自分でも気付かない様な、相手を傷つける言葉が混じっていたりしたのだろうか。
「服の事を考えるあまり、下着の事を考えていなかった……なんて落ち度!」
「そこまで考えて言ったんじゃねぇ!」
その後、準備を怠った女性がコトに及んだ時にどれだけの恥を感じるかに始まり、哲哉の好きな下着の色やら、果ては胸の大きな女が好きか、嫌いか、好きなプレイは何かと学生には似つかわしく──男女がする会話として適当かは別だ──時間的には全く似つかわしくない不毛な会話をしながら残りのメンバーが来るまでの時間を潰す事になる。
康平や蓉、果ては遥羽にまで話が飛び火したのは、言う迄もない。
***
ガラス越しの日光が降り注ぐ水面の上では反射した光が夜闇を彩る星のように瞬いている。
「夏休みって言っても、こんなものなのかな」
水色に白のストライプのビキニにパレオを腰に身につけた由子が目の前の光景を見て驚いたような、それでいて人の少なさに喜んでいるような声で呟く。
<浪岐市>から電車で二十分、到着駅の<汀>から更にバスで十分ほどの距離にある、<国立汀大学>。
その構内に併設されているスポーツクラブの温水プールは『泳ぐ為』だけに用意された競技用と言っても差し支えない物で、ウォータースライダーや流れが生まれるプールなどと言った主にレジャーランドにあるプールとは建造目的からして異なっている。
駅から十分ほど移動しただけで車の排気音や人々の喧騒さは、蝉時雨や葉擦れにとって代わり、近代的な様相を見せる大学とのアンバランスさを際立たせている。しかしそれは違和感を感じさせず、むしろ不思議と調和のとれた感覚さえ抱かせた。
<浪岐学園>に比べれば多い、立ち並ぶ巨大な学生棟の隙間や構内の各地に植えられた緑がそうさせているのかもしれない。実際、移動したプールの壁一面に配置されたガラスの向こうも山の木々が顔を見せている。
道中、遥羽が、このスポーツクラブは大学が設置を要請し、運営はスポーツクラブの職員が独自に行っている少し変わった施設であると一行に説明した。今の時期は学生の大半も夏休みで、利用者も一般客が少数いるばかりなので絶好の穴場である、とも。
「まあ良いじゃないですか。数少ないスペースを見つけて楽しむより、少しでも自由に泳げる方が楽しいですし」
遥羽が『ね?』と微笑みながら言った。
白のパーカーに同じく白いハーフパンツを着ており、その下に水着を着ているのかどうかさえ分からないが、裾から覗く二の腕や太腿は健全な男子である哲哉と康平には光輝く水面よりも眩しく見える。だが、決して由子や蓉が彼女に劣っているわけではない。
由子は由子でバストやヒップなど出るべき箇所はきっちり出て、引っ込むべき所はきっちり引っ込んでいるので、まるでグラビアのアイドルのよう。
そうして同年代の女子と比較するとアンバランスに思う反面、実際に現物を目の前で見てみると彼女のモデル並に高い身長のおかげで不思議とバランスの取れた体型に見えて、少女的な可愛さと、女性的な煽情さ──同年代の男子の言葉を借りれば“エロい”となるような魅力がある。
「上から88、55、94。黄金比まで後一歩!」
「自慢せんでも良いから」
蓉も由子ほどでは無いにせよ、存在を確かに主張するバストと細すぎるのではないかと心配する程に締まったウェストに、程よく膨らんだヒップが競泳水着というワンピース型の水着のおかげでくっきりと浮きでていて、直接見るよりも想像を掻き立てて悶々とさせる。
だから彼らが彼女たちの水着姿を見た瞬間、思わず目を逸らして二人の不満を買った事は彼らからすれば多大な誤解であり、遥羽がこの場にいて彼らを弁解しなければ、貴重な懐に余計な痛手を加えていただろう。
──そんなこんなで。
水泳前にきっちりと準備体操を行い『他人に迷惑をかけないように』というルールの下、ほぼ貸し切り状態のプールへと飛び込んでいく。
「意外に深いな……」
「蓉は大丈夫ー?」
「案ずるな。泳ぎは心得ている」
「じゃあ勝負する? 神崎」
時間と場所はたっぷりと有った。各々、それぞれの方法で水と戯れる。
***
「ふーっ……」
最初由子と水掛けをし、既に何本か勝負を終えていた康平と蓉に交じり二十五メートル自由形で三本ほど続けて勝負をした後、哲哉と康平は一旦プールから上がる事にした。
「情けないぞー、男の子ー!」
「勘弁してくれー。もう年なんだ」
「あーあー、やだやだ。じゃあ蓉。もう一本行く?」
「望む所だ」
飛び込みは周りに迷惑が掛かるとの事で水中からのキックで二人はスタートする。競泳水着の蓉と普通の水着の由子では水着の時点で差が有るのか、スタートダッシュでは蓉がやや有利のようだ。対する由子も引けは取っていない。
水中での抵抗を減らし、スムーズに泳ぐ蓉。パレオという水中では障害となるアイテムをものともせずに自身の体格が生み出すパワーで水中を突き進んでいく由子。
全く異なるアプローチで泳ぐ二人の速度はほぼ互角。
「あんな水着でよくあれだけ泳げるな」
「神崎の泳ぎ方も綺麗だけどね」
水から上がり、遥羽が荷物番をしている場所に移動し、座し、観戦を再開。
「何か飲みます? スポーツドリンクしか有りませんけど」
「あ、頂きます」
四人が泳いでいる間に買ってきたのだろうか、遥羽の隣には人数分のペットボトルが置かれていた。
「お金は……」
「良いんですよ、そんなこと。気にせず奢られて下さい」
そう言われては断るのも逆に悪いので二人は一言感謝を述べて、ありがたく頂くことにする。
「斎藤先生は泳がないんですか」
「“先生”?」
「……春日がそう呼んでたんで、そう呼んだ方が良いかなって……駄目っすか?」
哲哉が疑問を浮かべた表情を見て遥羽は『駄目じゃないですよ』と言って、『患者でもない人にそう呼ばれるのは可笑しかったから』と笑った。
「普段は貴方達ぐらいの男の子と話す機会なんて有りませんから余計にです」
「そうなんですか?」
「ええ。山中君や河本君は私ぐらいの歳の人とよく話しますか?」
問われて考える。遥羽の実年齢は知らないが、自分達より一回り年上の人間……それより上に行けば学校の先生や両親など思い当たる節が有るが。
「……無いっすね」
「それと似た様な物ですよ、きっと」
プールでは先にゴールしたであろう蓉が二位に終わった由子に『もう一戦!』とでも頼まれているのだろうか。不敵に笑って、再度スタートの体勢を取る。この様子では後何戦することやら。嘆息を漏らし、スポーツドリンクを一口含む。
「──春日さんは普段でもあんな風に?」
哲哉と康平、二人のどちらに問うたのか。早くもプールの半分近くまで泳ぐ二人に視線を注ぎながら遥羽が呟いた。
医師としてなのか、彼女の友人としてなのか。そこに含まれた意味の深浅を、哲哉達は推し量る事が出来ず、自分達が思うまま答える。
「別に変わらないよな、今も、普段も」
「哲哉が一番分かってる事だと思うよ、俺は」
プールに視線を固定したままの遥羽に、今度は哲哉から質問を投げかけた。
「先生から見て、病院での春日と今のあいつ……何か違う所でも有るんですか」
──違わない。違いはないと思った。診察の際、自分が触れる事に抵抗を覚える事や、哲哉に対して彼女が感じている感情や悩みなど──彼に話せぬ事を除いては。例え医師としても、知人としても、今の彼らに自分の本心は答えられない。
「いいえ……何も変わりませんよ。私が知っている春日さんも、貴方達が知っている彼女も、何も変わりありません」
だから一人の"大人"としての無難な答えを返すしかない。彼らに気付かれぬ様に、医師になってから──大人になってから──上手に作れる様になった笑顔を浮かべて。
気付かれは、しないだろう。“彼女”なら、あるいは。
「──何を話してたの?」
水滴を髪から落としながらプールサイドに立つ由子が三人に声を掛けた。続けて蓉もプールから上がってくる。
「お帰り。随分と熱い戦いだったな」
「うう、結局全敗だった……慰めてくれい。そなたの膝枕で」
先程の哲哉達と同じように遥羽からスポーツドリンクを受け取り、哲哉達からは少し離れた位置に蓉と並んで座り込む。濡れた犬の様に首を振り、髪から水が飛ばされると煉瓦色のゴムに染みを作った。
「素直にタオルを使いましょうね、春日さん」
「はーい」
まるで母親のように遥羽が鞄の中からタオルを由子に手渡す。
「それで、先生と何話してたの?」
長い髪を拭くのは大変だろう。両手でタオルと髪を挟む様にして水気を取りながら先程の疑問を口にする。
「別に普通の話。あんなによく泳げるなーとか」
「若いですから!」
「あの程度で、疲労するお前達が情けないんだ」
「……言われたぞ、康平。ここは意地を見せるべきではないか」
「そうだね。休憩も終わったし……一丁、やろうか。哲哉」
由子達と入れ替わりに哲哉達がプールに向かう。身体に水を掛けて、静かに入水。
「二十五メートル?」
「いや、五十で行こう」
スタート位置まで、水に慣らすかの様に平泳ぎでゆっくりと移動する。その背に『勝ったら頬にキスしたげるよー』との声援を浴びながら。
「だってさ」
「……とりあえず頑張るよ」
『よーい、ドン』。ピストルを真似て哲哉が開始を呟くと同時に壁を蹴り、勢い良く泳ぎ出す。水を掻き、水を蹴る音だけが耳に聞こえる最中、遠くで由子の声援が聞こえてきた。
泳ぐ。泳ぐ。泳ぐ。我武者羅に、隣を泳ぐ康平の姿さえ見ようとせずに、肩を回し、肺の中の酸素を交換し、ぼやけた視界の中、二十五メートルを一気に泳ぎ切る。
ターン。ぐるりと世界が周り、まさにこの時の為に溜めていた酸素を回転すると同時に鼻から吐き出し、壁を蹴り、身体を捻る。一瞬水の流れに任せての休息。ここで初めて隣を見る。
自分が僅かにリード。水面に身体が露出する。背に感じる空気の冷たさ。再びキックし水面を進む。もう一度隣を見る。上半身一つ分、自分が先を泳いでいた。
『何も変わりませんよ』
どうしてだろう。こんなに必死に泳いでいて、他の事を考える余裕なんてない筈なのに。遥羽が答えた一言をふと思い出すなんて。
──残り半分。
何も変わりがない。それは良い事だと思う。自分達の前では明るくて、馬鹿な事ばかりをする由子が、遥羽の前では訥々と自身の事を語る様な、大人しい人間だとは──思いたくない。
──残り十メートル。まだ十メートル?
自分の願望だと思う。身勝手な。彼女はこうあって欲しい、こうあるべきだだと……そう思いたい自分の妄想にも似た欲求。
──残り五メートル。
それでも思ってしまう。初めて彼女が自分に、彼女自身の気持ちを告白した時に交わされた抱擁の時。体温や柔らかさ、髪の匂い。それらから与えられる胸の高鳴りはあった。戸惑い、恐れ、不安、混乱といった──彼女の身体から伝わってくる物の影に隠れて。
"あれ"は、何だったのだろう。壁に手が触れる。勝ったのは──自分。肩を上下し、労働の報酬としての酸素を身体に配りながら天井を見上げる。
──"あれ"は、"何"だったのだろう……?
靄がかかる記憶は哲哉に明確な解答を教えてはくれない。
***
<浪岐>に帰った頃には時刻は午後四時を回っていた。<汀>からの電車の中では早めに仕事が終わったのだろうか、スーツ姿のサラリーマンや部活をしていたのか、ジャージや制服を着た学生の姿が多く、<浪岐駅>でも哲哉達がそうであるように多くの人間が電車から降りて帰路に着こうとしていた。
「じゃあ、ここで解散だね」
「ええ。車があれば皆を送って行けたんですけど……」
「構いません。皆、徒歩で一時間も歩く様な場所には住んでいませんから」
「そうですか……じゃあ、私はお先に失礼しますね」
四人に手を振りながら、遥羽が最初に駅を出る。
「では、私も帰る事にする」
「あ、送ってくよ、神崎。俺も方向同じだから」
康平と蓉は駅の南側に、哲哉と由子は駅の北側にそれぞれの家が有る。夏場で、夕方ともなれば日は高い方だが用心に越した事はないだろう。
『そうか』。短く答えて康平と蓉も並んで駅から帰宅していく。
「私達も帰ろうか、哲哉」
「ああ」
態々口にする事もなく。二人もまた、先の三人と同じように駅から離れた。
確かに日はまだまだ高い。東の空からは白い月が昇ってこそいるものの、二人が歩く道を照らすのは赤い夕日だ。影は長く、昼間に聞く程には力の籠もっていないつくつく法師の声に混じって鈴虫だろうか? 秋の虫達の歌唱がまるでBGMのように風景に流れる。
「今日は楽しかったねー。久し振りに遊んだ、って感じがする」
「俺は疲れたよ……結局、あの後、お前とも勝負したし」
「疲れたのは一所懸命に泳いだからじゃない。青春の汗、って言うの? 良い物だよ」
「そうだな」
ぐぅ──背を伸ばすと、身体から疲れが染み出して、地面に流れていく様な錯覚を覚える。
「夏休みも、もう終わりかぁ……宿題やらないと」
「この前のテストの時みたいに“見せてくれ”ってのは無しだからな。俺だって終わってないんだから」
「そこで協力プレイだよ、哲哉。一人よりも、二人。二人よりも三人、四人。三本でさえ折れない矢なら、四本束ねれば絶対に折れないっしょ?」
「頼りにされるのは嬉しいが、当てにされても断るぞ。俺は」
とは言ったものの。
「……最終日で無ければ、できる限りの事はしよう」
「それでこそ、我が愛しの哲哉! ……でも、そうだなぁ」
先程の哲哉と同じように腕を、背を伸ばして言葉を続ける。
「贅沢かもしれないけど──またどこかに行きたいね」
何気なく呟いた一言に哲哉が答える。こちらも何気なく、他意は含まずに。
「だったら行くか?」
「? 哲哉にしては珍しいね。自分から遊びに行こうなんて」
「そうか?」
「うん。──とすると。今度は何処に行く? 皆が楽しめる所が良いよね」
「そうじゃなくて……二人で、だよ。恋人──じゃあないだろうけど、それに近くは有るんだろ? 今の俺の立場は」
由子が振り返った。驚きを、ほんの一瞬だけ、顔に貼り付かせて。哲哉は見逃さなかった。見逃せなかった。いつもの軽口。何時もは言われる立場の自分が、ほんのたまたま口にしただけの一言。
それなのに。どうしてそんなに驚く?
「……嫌だったか?」
予想もしていなかった表情を見て、慌てて哲哉は付け加えた。由子はそこに至ってようやく──時間にしてみれば、瞬き一つの暇もないだろう──元の表情に戻って、哲哉の少し先を歩く。
「──考えといてあげる!」
笑顔、だった。見慣れた笑顔。楽しそうでもなく、苦笑いでもなく。哲哉のよく知る、彼に向ける彼女の揶揄するような笑みだった。
「……なんだそりゃ。立つ瀬がないな、そう言われると」
「まあまあ。嫌だって言うんじゃないんだからさ。そう気を落とすない、少年」
誰が少年だ──反論するより先に、哲哉の少し先を歩いたままの由子が走り出す。
「おーい? 本当は嫌なんじゃないのかー!?」
「違う違うー! もう直ぐ近くだからー!」
「逃げんのか、コラー!」
「あはははははっ!」
随分と距離が開く。彼女の顔に浮かんだ表情が読み取れないほどに。
「じゃーねーっ! またメールするからー!」
最後に大きく手を振って曲がり角を折れる。哲哉からはもう由子の姿を見る事は出来ない。
「……全く」
仕方なく、今まで歩いてきた方向へ歩を進める。やはりまずかったのだろうか……そう思いはするものの、彼女の答えも、また何時もの彼女らしくて、哲哉は溜め息しか着く事が出来ない。
もう一度振り返る。視界の中に由子の姿は既に無く、蜻蛉が赤い空に混じって飛んでいるだけだった。
曲がり角を曲がれば自分の家までは何メートルもない。その短い道すがら、走って乱れた呼吸を整える為にブロック塀に由子は背を預けて休息する。昼間に吸収した余熱が背中を焼く。服は──まあ汚れないだろう。少し払えば砂利も落ちる。
「──行きたいね」
帰路の途中、寄れば、近付けば、直ぐにでも触れたであろう肩や、掌。そのどれもに、今の自分は触れられない。夢にさえ見る程に彼を切望する。一度や二度の事ではない。
彼の掌に頬を包まれてキスをしたい。彼の胸の中で、笑い、時には泣き、彼の体温に包まれながら、彼の優しさと、彼と共感出来る幸せを感じたい。彼と繋がり、自身の全てを預けて愛されたい。
何度願った? 何度も願った。何度も、何度も。彼への想いに気付いてからずっと。自分が眠る回数よりも、遥かに多く、その夢を見た。
手を広げて、胸で包む。ずきり、ずきりと心が傷む。恋をするまでは“嘘臭い”と斜めに見ていた、ドラマや小説でよくある言葉の一節。
──本当に、胸が痛くなるなんて。
歯を食いしばり、痛みに耐える。涙は流れない。その事実に腹が立つと同時に安心した。自らが抱いた想いなら、肯定されるか否定されるまで、抱き続ける。泣くのはそれからだ。それからでも、十分に泣ける。痛いと言う事は、本当に彼が好きなのだと実感できるから。
「行きたいよ──二人で。一緒に」
独白を聞くのは黒ずんだブロック塀と、夏の風。空は変わらず赤く、赤い空に向けて由子は、吐いた。
「哲哉ぁ──」
さっきは誘ってくれてありがとう。本当に嬉しかったよ。
「大好きなんだよ、本当に」
だから、今は。貴方に答えられない私を許して──。
[第五話]
[第七話]
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