衣替えをして夏服に着替えようが、全裸になろうが、この暑さは凌げないだろう。例え自転車に乗っている事で受ける風を全身に浴びていたとしても。アスファルトからは陽炎がもうもうと立ち上がり、感じる暑さを少しでも軽減させようと身体からは汗が吹き出してくる。その汗が半乾きになってくるとシャツがべたついてきて余計に暑苦しい。
哲哉、蓉、康平の三人は学園を出てから見舞いの品を買いに商店街に行ってから由子の家を目指していた。全員が全員、自転車登校だったのは全くもって僥倖だった。
これで全員が、あるいは誰か一人、二人が徒歩だったのならもっと苦しい見舞いになっていたかもしれなかった。行く先が病院だったのなら、見舞われる立場になる所だ。
「春日さんの家まではどれくらいだったっけ?」
自転車で哲哉の横を並走しながら康平が聞いてきた。
「学園からだったら、そうは掛からなかった。何にしてもそんなに遠くない」
筈だ、と語尾に付けかけて、押し黙る。大まかな位置しか知らないとは、ここで言うべきことではないと思ったからだが、それも杞憂に終わりそうだった。哲哉自身も覚えのある屋根と外観が十数メートル先に見えたからだ。
住宅街と言うほど家屋が密集しているわけではなく、田舎を思わせると言う程には廃れていない。周囲に見える青々とした田園風景と、その遥か先に見える工場地帯の風景が確かにここが『街』の一部である事を実感させた。適当な位置に自転車を置いて、呼び鈴を鳴らす。数秒の間。
『はい、どちらさまですか』
インターホンから女性の声が届く。由子とは違う、声からも生きてきた年月を感じさせるような深くて柔らかい声だった。
「私、春日さんの同級生の神崎と申します。学園を休んでおられるようでしたので、良ければお見舞いさせて頂きたいと思いまして──友人もいるのですが」
ああ、とインターホンの向こうで思い当たる節があるような声で返答が来る。
『神崎さんね。友人というのは、山中君と、河本君……かしら?』
「はい。覚えてくださっていたんですね」
『あの子もよく貴女たちの事を話すから……今、開けますから少し待ってて下さいね』
ぶつりと音声が途切れてから、玄関のドアの鍵が開く音がすると共にドアが開き、声と同じく『優しさ』という言葉を擬人化したかのような人物がそこにはいた。
『春日紀美』。以前会った時の姿のまま、ほとんど変わらず、三人を出迎えてくれた。
「わざわざごめんなさいね。今日は特に暑かったでしょう? 直ぐに冷たい物出しますから」
「お構いなく。長居するのも何ですから」
すっかり蓉に任せっきりだったので、哲哉と康平は躊躇いがちに『お邪魔します』と断ってから春日家の玄関を上がる。
「春日さんは?」
「今は起きているわよ。でも、気分は悪いみたい」
蓉が哲哉を見る。蓉の言わんとする事を哲哉は汲み取って、言葉を続けた。
「去年の時と同じですか?」
「……ええ。最近は大人しかったんだけど、そのツケがいっぺんに来たみたい。先生の話だと少し長引きそうだって言ってたわ」
通されたリビングから続いているキッチンの冷蔵庫から麦茶を取り出し、グラスに注ぎながら紀美が話す。よくよく注意して聞いてみればその声にもどこか疲れが滲んでいるようだった。
なんと言えば良いのだろうか。言葉尻に重しが掛かっているような、そんな感じだ。
「先に部屋に行ってあげて。用意に少し時間がかかるから」
紀美の言葉に哲哉たちは素直に応じる事にした。由子の部屋は二階にある。広く、傾斜の緩い、使う人の安全を考えて作られたであろう階段を三人は言葉も無く昇っていく。階段を昇りきると四つのドアがある。一つはトイレ、一つは寝室、一つは物置、最後の一つが由子の部屋。階段からもっとも遠くにあるドアまで移動し、派手にはならないようにドアをノックする。
「春日」
『──哲哉?』
やや間があって声が返ってくる事に三人は少しほっとする。話せる程度には健康らしい。
「後、神崎と河本もいるけどな。入っても大丈夫か?」
『良いよ。どうぞ』
何時もと口調が違うことに抱いていた考えが正解で有ったことに、三人、同時に納得しながら部屋に入る。ベランダに面した床まで下った窓が一つ、もう一つ、腰より少し高い程度の規模の窓が一つ。
その二つ、今は開け放たれて数少ない風を部屋に取り込もうとしていたが、カーテンが全く揺れていない所を見ると果たして効果があるのか疑わしい──が、部屋の中は外に比べるとさほど暑さを感じさせなかった。
それは部屋の通気性の高さだけでは、ないかもしれなかった。
「よう。サボリ魔」
「酷いなぁ。こっちは体調不良っていう、ちゃんとした理由があって休んでるのに」
ベッドの上で小説を広げていた由子が哲哉の方を見ながら微かに笑った。“何時もの由子なら”それを見ている人間さえもつい笑ってしまうような明るい笑みを浮かべる筈なのに、今の笑みは違っていた。どこか、乾きを相手に感じさせる笑み──去年に会った時と同じだった。
「体調不良ねぇ……去年もそんな事言ってテスト休んでただろ、お前」
「まあね。追試は辛かったよ」
外見は変わらない。ただ中身が違う。今の由子は、どこかズレが有る。
「座ってよ。立ったまま話されると、落ち着かないから」
促されるまま哲哉は机の椅子に、蓉と康平は手近にあったクッションを尻に敷いて床に座る。
「しっかし参ったなぁ。これだとまた追試だよ」
「ぼやくな。ただの風邪ならともかく、そうじゃないんだろ?」
「……自分で望んで、こうなったんだから受け入れるしかないんだけど。それでも追試をしなきゃならないのは別問題だよ」
「協力はする。良い機会だと考えて、今はゆっくり休めば良い。私達はそうもいかないからな」
「ありがとう、神崎」
今の由子はズレがある。その原因は彼女が服用している【GTM(性別改変薬)】にある。
【GTM】は服用した人間の性別を内部から"改築"していく薬物だ。【GID(性同一性障害)】の治療薬として数年前に使用が認可されてから希望する者たちに対して、処方されてきたが、この薬物には一つ副作用があった。
服用した人物の過去の人物、人格とも言い換えられる物が不定期に表に出てくるという副作用だ。多重人格……【解離性同一性障害】のようなものかと言えばそうではない。
【解離性同一性障害】は、例えば『春日由子』という人格の他に『山中哲哉』と呼ばれる、オリジナル人格とは多くの部分で異なる部分を有するホスト人格といった二つ、場合によっては複数の人格を有している状態の事を指す。
だが、【GTM】を服用した場合の副作用は『春日由子』の元の性別──旧名では『春日織矢』という"男性"が『春日由子』という"女性"に変わって表に出てくる部分が、【解離性同一性障害】との決定的な違いである。
副作用の原因ははっきりしていない。専門の研究員は実験結果から次のような仮説を提示している。
“薬物の服用の際に男性・女性ホルモンのバランスが交換される境界線が有り、その境界線上で溝──山と谷で言う所の谷──が出来る瞬間が有り、その瞬間に到達した場合に、このような現象が起こり易い”
気分にも浮沈がある。それとよく似た事だと考えてもらえれば良い。
「で、今回のテストはどんな問題だった?」
「別にどうって事は無いよ。何時も通り」
「解けない問題の方が多かったんだ」
「そんな事言ってねぇーし!」
今の由子の話し方がおかしいのは、彼女の男性部分が前面に出ているからだ。
今の彼女の状態は【GTM】を服用する以前に感じた、自身の精神が自分の身体に感じる違和感を常に感じ続ける状態──【性同一性障害】の最も根源的で、最も苦痛を感じている状態である。
それはとても不安定で、今でこそ落ち着いてはいるものの、何が切っ掛けで均衡が崩れるか分からない。テストは元より、登下校をするなど到底受けられる状態ではない。
──しかしこうした副作用が有るにも関わらず何故【GTM】は変わらず処方されているのだろうか。一の短所より、九の長所を魅力とするからだろうか。それとも──副作用の苦しさに目を瞑っても、自分の身体を変えたいと願う人々が多いからだろうか。
服用される前にこうした副作用があると聞いても【GTM】を服用している由子という人物を前にしても、哲哉達には真偽の程は分からない。自分達は生まれ持った今の身体に対して何の疑問も抱いていないのだから。
『空が青いのは何故か?』と疑問に思うようなものだ。元から青い空に対して『何故赤くないのだろう?』と問う人間はいないだろうし、赤くしようとする人間もいないだろう。
答えは由子だけが知り得る事であって、彼女が【GTM】を服用している以上、哲哉達に彼女の行動の真意を問う権利は無い。
知っている──いや、感じ取れるからだ。彼女の性格が全て真実では無いと。
由子が普段、他人が笑えるような話をしたり行動を起こしたりするのは、彼女が女性の身体を手に入れてから獲得した性格であって、本来の彼女は今、話をしているように物事に対して乾いた一面を持っている。
その事を彼らは去年、今と同じように彼女の家を訪れた際に本人と紀美の口から聞かされた。
聞かされた当初は驚いたものの、自分たちを友人だと思ってくれているからこそ話してくれた紀美と、何よりも由子の言葉を聞いて決心した──もとい、納得したと言った方が正しいかもしれない。
何故なら、彼らにとっては“ただそれだけの話”だったから。
『俺は専門家じゃ有りませんから何とも言えません……けど、今の話を事実として聞く事の出来るだけの力はあるつもりです。少し驚きましたけど、春日が"そういうやつ"で、使用している薬が"そういう物"であるという事ぐらいは分かります』
でも、それだけです──当時の哲哉は言った。
『俺にとっても、こいつらにとっても春日は……その、少し言い難いんですけど。馬鹿な事を話したり、馬鹿な事をして笑い合う者同士ですから。──何も変わらない、っていうのは難しいかもしれませんけど。出来れば、そう在りたいって思います』
──その後の彼らを見れば、哲哉の言葉が嘘ではない事は明らかだ。優しくする訳でも、嫌いになって離れるわけでも無い。どちらか一つでも無ければ、どちらも選んだ訳でもない。
彼らからすれば答えや結果しか求めない、機械的な人間に見える大人たち。その大人達からすれば何とも中途半端な結論の結果は、一年前に比べて彼らをより近くに結びつけていた。
「楽しそうね、みんな」
お盆に人数分のグラスと茶菓子を載せて紀美が部屋に現れる。
「由子、身体の調子はどう?」
「大丈夫。話してる内に大分良くなってきたから」
「そう言って貰えると来た甲斐が有るね」
「ああ」
冷えた麦茶が喉を通っていく。あまり一気に飲むと翌日大変な事になるので、少しずつ胃に流していく。普段の由子なら『これが粋ってもんだね!』とか何とか言っている所だろうが、幸か不幸か今は織矢である。
静かにこくこくと喉を鳴らしながら麦茶を飲んでいる。
「でも来てくれて嬉しかったよ。一人じゃ、もうすることなくてさ」
ベッドの上の小説に視線を落として、暗に本を読むのも飽きたと言った。
「本なら他にも有るじゃないか」
「何?」
「生物の教科書とか、数学の教科書とか、古文の教科書とか辞典とか」
「それは……ちょっと違うだろ……?」
苦笑いを浮かべる由子を見て、皆が一様に笑い出す。窓の外は蜃気楼さえ見えそうな暑さにも関わらず、由子の部屋の中は春のように暖かだった。
***
「はあぁぁぁぁー……」
教室から出てきた由子の溜め息は、もはや溜め息というレベルではない。溜め息に混じって疲労がて、魂と一緒に口から出てきそうな位に──むしろ深い、深い怨嗟すら込められたような溜め息だった。
──"風邪"の方が一段落して、すっかり元の『春日由子』に戻った彼女を待っていたのは当然の事ながら欠席した事で受けられなかったテストである。
今日は土曜日。昼までに授業が終了した生徒達は、さっさと自宅に戻り土曜の放課後を、部活を行っている者は一週間の中でも、有効に使える時間帯として部活動を堪能している事だろう。
それがどうだ。夏休み辺りに補習組と一緒にテストすれば良いものを『終業式までに成績表を作成しなければいけない』とかいう理由で、自分は授業終了後たっぷり二時間、問題用紙と睨み合いだ。
「これを体罰と言わずして何と言おう」
「我慢しなさい。貴女みたいに受けさせてもらえるだけ、マシなのよ? 中には受けさせてもらえずに、問答無用で補習コースに入る生徒だっているんだから」
「先生、私としてはそこに山中哲哉の名前は含まれている事を期待しているのですが」
「担任としては、嬉しい事に含まれていないわ」
試験官を担当していた由紀江が由子の後に続いて教室から出てくる。手には先程まで由子が“睨み合い”をしていたテストの解答が有る。
「ちっ」
「そういう舌打ちは先生のいない所で打ってね。それじゃ、お疲れ様。後は夏休みを楽しんでね」
にこりと笑うと職員室へと戻る由紀江を見送り、由子も自宅へ戻るために階段を下りていく。<浪岐学園>には下駄箱が無いので、階段を下りて由子達二年生の教室が有る<A棟>から出れば直ぐに校門が見える。
しかし由子も他の生徒の大半と同じく自転車登校組。校門に向かう前に自転車置き場へと足を運んだ。
──その先にいた。
「おう。お疲れ」
ひらひらと手を振っているのは哲哉だ。その横に蓉と康平の姿も有る。
「あれー、どうしたの皆ー?」
小走りに彼らの元へと走り寄り、当然の疑問を口にする。哲哉も蓉も康平も部活には所属していないので、授業が終わったら学校に用は無い筈だ。
「先延ばしにしてた打ち上げしようって話になってな。お前のテストが終わるの待ってたんだよ」
「周囲には妙な目で見られたがな」
「自転車置き場に三人、何をするでもなく立っているだけだもんねぇ……変な顔されるのも当然だ」
「ううっ、持つべきものは心の友だね。由子さん、もう嬉しくて嬉しくて思わず財布の紐も緩むね!」
『ようし今日は私の奢りだ、付いてこい若者よー!』と高らかに宣言する由子に対して苦笑いを浮かべながら哲哉が。
「心配せんでも、割り勘だよ」
「え、哲哉の奢りでしょ」
「こいつ言ってること無茶苦茶だー!」
哲哉の言葉を受けて彼以外の人間は口を揃えて言う。
「何時もの事だ」
夏の日差しは夕方になっても変わらず四人を照りつける。──テストという戦争は終わった。そう。きっと楽しくなるであろう“夏”は、もうそこまでやって来ているのだ。これまでの苦しい事も、辛い事も考えなくても良い。
こんなに楽しい事は他に無いじゃないか。口に出す事は無かったが、校門に向かう四人の気持ちは同じだった。
[第四話]
[第六話]
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