注:一部、『いじめ』等を連想する表現が有ります。そうした描写に嫌悪感を抱く方は読むのを控えてください。
読後のそうした描写・表現に関する苦情・批判といったご意見はお聞き出来ませんので予め御了承ください。
<浪岐市>の住民にとって、梅雨の季節に降る雨が長雨になる事は周知の事実である。六月も半ばに差し掛かろうとする今日も、午後を回った辺りから雲行きが急に怪しくなり、今にも雨が零れてきそうだった。朝に放送されていたテレビの天気予報では、午前中の降水確率は二十パーセント、午後の降水確率も午前とほとんど変わらない三十パーセント程度であると放送されていた。
しかし<浪岐学園>に通う生徒の多くは登校時点での空が雲こそ少々多いものの、大きくは崩れないだろうと予想する程度に晴れていたため、大半が折り畳みも含めた傘を持ってきてはいなかった。
四月の席替えで窓に面した、前から二番目の位置に席が決まった由子は既に青色が見えなくなった灰色の空を憂鬱な気分で見つめていた。彼女も今朝の天気に騙されて、傘を持ってきていないクチで、出来ればこのまま雨が降らないでほしいと願う一人でもあった。
その理由は放課後、<浪岐市>の大学病院に行かなければならないからで、向かう場所の関係上──予約を取っているので、機会を逃すと何時になるか分からない──出来れば今日中にお邪魔しておきたかったのだ。
──【性同一性障害(GID)】である彼女は月に一度、定期検診を受ける必要が有る。服用している【性別改変薬(GTM)】はそれまでに存在していたホルモン注射の発展形とも呼べる代物であるが、根本の所はホルモン注射と殆ど変わりが無い。それぞれの効果こそ違えど、要は注射器を使って女性ホルモンを身体に循環させるか、カプセルとして摂取するかの違いだけで……摂取することにより起こる問題もほぼ共通している。
そうした問題は服用している個人では解決できないものであり、【性同一性障害】で【GTM】を服用している人間は一カ月に一度、担当医によって定期検診を受ける必要が有る。
この定期検診は学生が春に行う身体検査などとは違って、また次にやれば良いという物ではない。異性のホルモンを身体に加え、身体を変化させるという事は数多くの副作用を抱えているためである。それらの中には自身の生命を危険に晒す物もあって──定期検診はそうした副作用の兆候が無いか、現れていた場合はどのような治療法を取るか、患者と相談するために絶対に必要な行為だからだ。
だからこそ由子も今日の予約を守りたいと思うと同時に、雨に降られてほしくないと願っていた。【GTM】を服用し始めて既に四年近くが経過し、今の状態で安定してきたが服用する事による副作用も暫くすると起こるかもしれないため、新たに薬を受け取らなくてはならない。
「傘持ってくるんだったな……」
由子の呟きが雨を溜めたバケツの底に穴を開けたのだろうか。ぽつぽつと小さな雨粒が窓ガラスに次々と透明の点を穿ち始め、由子は盛大な溜め息を吐いた。
***
由子は雨ですっかり黒くなったアスファルトを見つめながら、期待半分、諦め半分の気持ちで雨が止むのを待っていた。
携帯電話で時間を確認する。十五時四十五分。学校から病院までは徒歩で二十分程度。予約をしている時間は十六時三十分だから、まだ少し余裕はある。しかしこの雨が止まない事にはどうしようもない。
「哲哉でもいれば傘借りられるのになぁ」
「それで、俺を濡れて返す訳か。お前は」
「用が済んだらちゃんと戻ってくるってば」
突然後ろから声を掛けられても驚いた様子を見せず、由子は言葉を返す。余裕のある由子とは逆に彼女の言葉に気を悪くしたのか、哲哉は目を細めて由子を睨む。もっとも本気では無いだろうが。
「もう帰ったんじゃないかと思ってたけど」
「“須崎先生”に呼ばれてね。お前の方こそとっくに帰ったと思ってたよ」
「傘持ってないからねー。帰るに帰れなくて」
由子が曇天に目をやるのを見て、哲哉も一つの事項を残して納得する。
「──"用"って?」
別にプライベートに踏み込むつもりは無かったが、雨が地面を叩く音だけを聞くには少し気まずい気がして、哲哉は由子に問うた。
「病院。定期検診と薬取りにいかないといけなくて」
「ああ……何時もの奴ね」
「そう。もうね、脱がされて身体のあちこちを」
「言わなくていい」
哲哉が言葉を遮るのを聞いて、由子は軽く笑う。それを見て、何でそんな楽しそうに話をするんだ──言い掛けて哲哉は口を閉じた。口調ほどに由子が楽しんでいないだろう、と考えての事だ。
考えてみろ。自分が彼女のように定期的に病院へ通わねばならない身であったなら、そんな事を言われたいか?
「本当の事なんだけどなぁ。斎藤先生、丁寧な話し方しながら聴診器を私の胸に当ててくるんだけど、それがくすぐったくて。『そんなつもりでやってるんじゃないですよ』って言うけど、あれは絶対狙ってやってるね。間違いない」
……どうやら由子にとっては"楽しい話し"であるらしい。少なくとも哲哉にそう思わせる程度には。
「……けど、この雨でどうするんだ? 傘持ってないって言ってたろ」
「止んでくれると良いんだけど……半分諦めてる」
ざあざあと雨足は益々強くなっているように思える。加えて“浪岐の長雨”──今日一日は降り続けることだろう。哲哉には彼女が病院に行くにせよ、行かないにせよ、濡れずにここから帰る算段は無いように思えた。
そう考えて──持っていた濃紺色の傘を由子に差し出した。
「使えよ」
「え……」
「『え』、じゃなくて。病院行かないとまずいんだろ? なら使えよ」
「……さっきのは冗談だよ。本気で言う訳無いじゃない」
それは彼にも分かっている。
「あいにくと、こっちは本気なんだ。俺は濡れても家に帰るだけで良いけど、お前はちゃんとした用が有るだろ。ならお前が使った方が良い」
「そんなの屁理屈じゃない。それに私の用事も日を変えれば済むんだから」
「それでも家に帰るまでに濡れるだろ? ……それにだ」
会話の調子から並行線を辿りそうになるのを哲哉は予測して、由子に傘を貸す理由を告げた。
「この前の弁当の分」
「へ?」
「──やられっぱなしは気分が悪い、って言ってるんだよ」
理由を聞かされ、由子は黙ってしまう。先日、由子の作戦第一段階として哲哉に弁当を振る舞ったことがあった。哲哉はその借りを返すと言っているのだ。由子としても哲哉にそう言われては断るのも悪い気がしたが、やはり彼にも濡れて帰って欲しくはない、という気持ちが完全に消え去るわけでも無かった。
「……じゃあ、さ」
一拍開けて提案する。二人が共に濡れない方法を、同時に、彼女としてはあまり実行したくはない方法を。
「二人で帰らない?」
***
「濡れてないか?」
「大丈夫……って、哲哉の方がびしょびしょじゃない。もうちょっとそっちに傾けてよ」
強まる雨足の中、二人一つの傘に入って歩を進める。既に学校を出て十数分。病院までは目の前の信号を渡って直ぐという所まで、二人は相合い傘をしつつ移動していた。
普通なら気恥ずかしさの一つもあるかもしれないが、今はそんなことに構っていられない。それに──気恥ずかしさの理由の一つも、授業も終わって随分と時間が経っていたから誰にも見られる心配をする必要が無かった。
「そうは言っても、もう目の前なんだから気にすんな」
「そういう事じゃないんだけど……あ、病院まで行ったらもう良いからね。傘ぐらいなら借りられるから」
「分かった──正直、病院には長居したくないしな。お世話になっている人には申し訳ないけど」
「誰だって嫌だよ。必要無いなら行かないもの、病院なんて」
信号が赤から青に変わる。この信号を渡ると<浪岐大学病院>は直ぐそこだ。目に付くのは大病院らしい、広々とした駐車場とそこから続く入り口。晴天の日光の下であったなら、目に痛いぐらいに白々と映える壁も今は雨に晒されてくすんで見える。雨が似合う建物というのは少なからず有るだろうが、病院ほど雨が似合わない建物も無いだろうなと哲哉は思った。
「今日はありがと」
エントランスまで訪れた二人の内、由子だけが哲哉の傘から離れ、礼を言ってから由子は続けて『ばいばい』と言い、それを見届けた哲哉も『また明日』とだけ言って雨が生み出す闇の中へと姿を消した。哲哉の後ろ姿が完全に消えると由子は入り口に向き直り、病院の中へと歩を進める。
入り口から数歩の距離にある受け付けで予約と自分の担当医である先生がいるかを確認し、もはや通い慣れた診察室への道のりを歩く。『斎藤』と書かれた下に『在室しています』の文字が記された、木製のプレートが掲げられている部屋の前に立ち、ノックを二回。
『どうぞ』
中性的な声色が入室を促し、由子は部屋のドアを開く。
「いらっしゃい」
「こんにちは、先生」
きぃ、と椅子を軋ませながら『斎藤遥羽』が由子に振り返る。
黒のシンプルなワンピースの上に白衣を着込み、肩先まで伸びた髪を、これも黒いゴムで纏めた姿は彼女に医者以外の職業を考えさせない程に似合っていた。おまけに細身のフレームの眼鏡を掛けているのだから、ある意味ステレオタイプの医者とも言える。
「久し振りですね。元気にしてましたか?」
「はい。先生は如何です?」
「医者の不養生……なんて事もなく元気にさせてもらってますよ」
レンズの奥で大きめの目がにっこりと微笑む。男性ならばその微笑みに胸の高鳴りの一つでも覚えるかもしれないが、"彼女"にとってその高鳴りには苦笑いを返すに違いない。
何故なら彼女も由子と同じ。元は男性として生を受け、現在は女性として生きているのだから。
「学校は?」
デスクに広げていたカルテを取って、由子に問う。
「そっちも変わりありません」
「……楽しい?」
「はい」
間髪入れず答える由子の言葉に遥羽も少し安心する。医者として彼女の過去を知っているからこそ尋ねてみたのだか、この様子だと大丈夫そうだと遥羽は思う。その気持ちを心の中での独白に止めて、遥羽は診察を始める旨を由子に告げる。
「何時も言ってますけど、無理はしなくて良いですよ。気分が悪くなったりしたら直ぐに言ってください」
「……分かってます」
由子の言葉を聞いて首に引っかけていた聴診器を耳に付け、わずかに視線を逸らす。診察の為とは言え、他人の前で服を脱がなければならないのだから恥じらいが有るだろう──と、考えて視線を逸らした訳ではなかった。
もちろん、そうした意味も含めて視線を逸らしたのだが由子の場合は彼女の"持病"の事もある。意味の割合としてはそちらの方が大きい。
「良いですか?」
声はせず、振り返ると制服を近くにあった籠に入れて上半身だけ下着になった由子の半裸が視界に入る。若者らしい、血色の良い肌色が白い下着に映える。
「深呼吸して……そこで止めて」
酸素を取り込み、肺の容量一杯まで吸い上げて由子が呼吸を止める。ゆっくりと、慎重に。遥羽は聴診器を彼女の胸部に当てる。
「……っ」
冷えた聴診器の感触に驚いた訳では無い。それが彼女の"持病"なのだ。
***
遥羽が初めて由子の診察を行った時、彼女は検診の為に衣服を脱ぐ事を酷く躊躇った事があった。その様子に医者としての直感から理由を尋ねた遥羽に由子が答えた内容は、要約すると“自分の身体にあまり触れられたくない”という内容だった。
潔癖症かと言うと、そうではない。
潔癖症は、自分の目の前に存在する物体(人も含む)が不潔である等の理由から直接触れたくない、あるいは全く触れようとしない症状の事だが、対象の多くは自分以外の物に集中している。
由子の場合は逆に“自分自身の身体”が対象となってしまっていて、その身体に誰かが触れようとするのは大きな苦痛を伴うらしいのだ。こうした症状は【GID】を有する人々ならば多かれ少なかれ有り得る話だが、遥羽から見て、由子は極端とも思えるほど、自分の身体に対して強い嫌悪感を抱いていた。
何故そうなったのかという疑問と、その理由が分からない以上、診察を行う訳にはいかないという事実を告げて、自分が話せる範囲で良いから答えてくれないかと由子に尋ねてみた。
──そうして由子が話した内容から、症状の原因が彼女の過去にある事を遥羽は理解した。自身の性に違和感を感じ始めたのが小学校の前半からである事。違和感が苦痛に変化して、【GTM】を服用しようと決意、両親に相談したのが中学入学前であること。入学してから服用をするに当たっての必要な診察を受けながら日々を過ごしていた事。
そして最後に──服用を始めて、こちらに引っ越してくるまでの日々が自分にとって地獄にも等しい、いや、地獄以上だったという事を、遥羽は聞いた。その頃の様子を彼女はこう言った。
『人間が一人もいなかった』
彼女が中学生の時代には【GID】の存在こそ多くの人間が知るところとなっていたが、その存在を百パーセント認知する所までは到達していなかった。
小学校から卒業して、ようやく“大人になる為の準備をする為の準備”を始めた彼らからすれば、【GID】の存在などは『大人の社会』の話であって自分たちにとってはある一面を除いて──【GID】という症状が“普通ではない”という事実──関係のない存在だった。
そんな社会で暮らす由子という"男子"は、まさしく彼らにとっては異物であり、自分たちが理解出来ない存在だったのだ。
嫌悪、蔑視、罵倒、嘲笑、中傷、凌辱。──そして消される自身の存在。
生徒は言うに及ばず、教師や近所に住む人間の記憶から、自分がいなくなった。周囲の人間にとって春日由子という人物は既に人ではなく、物であり、異物だった。そう考えなければ彼らは納得出来なかったのだ。何故なら彼女は自分たちとは違うのだからと。異物と呼ばれ、異物に分類される人間はこの世に一人もいないからと。
誰一人として味方にならず、誰一人として敵にもならない。孤独という灰色の絵の具が染み出した雨は彼女に降り注ぎ、結果として、彼女は自らが生まれ持った肉体も、変化しつつある肉体さえも汚れていると感じるようになった。
自分を認めて欲しかった訳じゃない。ずっと『気持ち悪い』と、『頭のおかしい奴』と否定してくれても構わなかった。ただ自分のような存在もいると知って欲しかっただけだったのに、現実はそれすらも彼女に許してくれなかった。
彼女は一人雨の中。濡れる彼女を救う目的で傘を差し出す者は無く、自分の傘に入れようとする人間も、彼女の周囲にいなかった。
……遥羽も由子と同じ【GID】であるが、彼女のように子供の頃から【GTM】を服用を始めたわけではない。そもそも遥羽が由子と同年代の頃と言えば、初めて公に【性別適合手術】が行われたような時代である。【GTM】といった物も無ければ、人々からの理解が有った訳でも無かった。
いや。無かったからこそ、誰にも理解されないと思えたからこそ諦める事で納得できた部分が有るのかもしれない。彼女の場合は違う。なまじ周りの人間に【GID】に関して知識があった為に、向けられた視線は歪み、彼女の心は回避する事も、まともに受け止める事も出来なかったのではないか。
その後も自身の身に刻まれている記憶──“治療”の名目で彼女に行われた数々の行為にまつわる話は特に遥羽の気分を害させた──等を自虐的に話すでも無く由子は話し続けた。
『まだ聞きたいこと、有りますか』
そう告げた由子の表情は遥羽にしてみれば愕然となると共に、その他の複雑な感情を抱かせた。無表情と言うには足りない。まだ無表情には"無"という色が有るが、由子が浮かべている表情にはそれすら無い。とても十代の少女が浮かべる表情の類ではなかった。
『いえ──ありがとうございます』
自分が感じる感情を医者としての仮面を被って隠し、短く答える。医者である以上、そして彼女と同じ【GID】であるからこそ、今の話の中で聞いた“人間の汚い部分”は数多く聞いてきた。
彼女と同年代の人間の話も聞いた事が有る。中には由子の話した内容とよく似ている物もあった。それでも彼らは話している途中で涙を流したり、自嘲の笑みを浮かべたりするなどして、かすかであっても、人間が本来持っている人間味を遥羽に感じさせてくれた。
おかげで、と言うと不謹慎だが──遥羽は彼女たちの悩みの根源となる問題を客観視する事が出来て、必要な助言も行う事が出来た。由子はそれとは対極。自分の身に起きた事実を既に自分自身で整理し、記憶の引き出しに納めてしまっている。
涙を流したり、笑みを浮かべたりしている内は“記憶”の整理が出来ておらず、医者と話をしながら記憶を片付けていく事が出来る。そうして徐々に自分の過去を受け入れていき、最終的には自己の一部としての"部屋"を完成させる。
由子はその工程を一人で片付けてしまった。誰の手も借りず、たった一人で。
彼女と同年代の人間では恐らく誰も有していない、本来ならばもっと時間を掛けて得るその能力を既に彼女は身につけてしまっている。だから遥羽は驚き、恐怖したのだが──逆に希望も抱いた。
今は確かに不相応な能力かもしれない。しかし、その能力は今後彼女が生きていく中で絶対に必要となる──いつか彼女が誰かに触れたいと思い、実際に触れる事が出来るようになる為に。
その為には彼女自身がそれに気付くようにしなければならない。
『──分かりました。では今日の診察は止めて、別の事をしましょうか』
遥羽の言葉に驚く由子を尻目に、診察に必要な道具を片付けながら、遥羽は思った。この子とはきっと長い付き合いになる。ならば今は焦らず、ゆっくりと関係を深めていこうと。
備え付けのコーヒーメーカーからコーヒーを二人分注ぎ、由子に手渡した。
コーヒーの香りが今の話を暫し忘れさせ──。
***
──カップの中でコーヒーを背景にミルクがゆらゆらと踊る。遥羽と由子の二人は共にブラックは好きでは無いらしく、ミルクを一つ、砂糖を数杯入れて飲む事にしている。
「どうぞ」
「ありがとうございます……やっぱり診察が終わった後は、これ飲まないと」
「コーヒーを飲みに診察を受けに来ている訳じゃ無いのに?」
「あはは……まあ、そうですけどね」
診察を終えて服も着替えた由子がカップを手に笑う。
初めての出会いから二年近く。遥羽の努力か、彼女自身が望んだ結果かどうかはさておき、由子はすっかりと明るくなり──過ぎたかと思うほどに、心の健康を取り戻していた。確かに診察をする時に、嫌がる事は有るがそれも初期に比べれば随分改善されてきている。
今もコーヒーを飲みながら笑う由子の表情を見ていると遥羽はほっとする。もう二度とあの顔は見たくないから。
「それで今回の結果は?」
「異常無し。他の細かい部分は精密検査をしてみないと分かりませんが、大丈夫でしょう。ただ……」
「ただ?」
「何時も言っていますが、薬を飲む時は量に気をつけて下さい。身体の方の変化も安定期に入ってきてますから、過度に服用すると身体を壊し兼ねませんから」
「ようは何時も通り、って事ですね」
「そういう事です」
微笑を浮かべると、由子に背中を向けてカルテに彼女の状態を書き記す。
「じゃあ今日の診察は終わりにしましょう。帰りは大丈夫ですか?」
「その事なんですが……」
遥羽の言葉を聞いて由子が言い難そうに、病院の傘を貸してくれないかと言葉を続けた。遥羽は当然の疑問を口にする。
「それじゃあ今日はどうやってここまで? お母さんか誰かに車で?」
「いえ。友達と一緒の傘に入って」
「それって……もしかして何時も話してる山中君?」
「はい」
「──」
彼女を診るようになってから、何度か話しに登場する少年の名前が出てきた事に遥羽は驚いた。一緒の傘に入って来た、と由子は言った。そうなると必然的に相手との距離が小さくなる。
加えて相手は男性だ。異性との距離が近付く事は彼女にとって──大分良くなってきてはいる事だが、辛い事では無いのか。
「今ここにいるという事は、大丈夫だったみたいですけど」
「ええ……一緒に来たと言っても腕を組んで密着した訳じゃ無かったですし。それに──たぶん、まだ無理です。先生みたいに私の病気の事を知っている人や、強要されるとか、余程の事じゃない限り何も起こりません」
「そうですか……」
遥羽は知らない。彼女が持病の状態を確認する為に哲哉と一度触れ合った事を。その結果が由子にとって、好きな相手に触れられない絶望と失望を与えただけだった事、そして、分かっていたその結末に絶望を感じた理由を由子は理解してしまった事を。
「──まだ、無理なんですよ」
その答えを独り言として呟いて、由子は残りのコーヒーを胃に流し込んだ。冷めたコーヒーは、砂糖の甘さと相まって酷く不味く感じられた。
[第二話]
[第四話]
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