短い春休みが終われば新しい学年での生活が始まる。今年も滞り無く入学式が終わり、哲哉達にとっての始まりの儀式である始業式が校長の話を最後に終わりを迎えようとしていた。
男子は黒、女子は濃い藍色のブレザータイプの学生服を着込んで体育館の無機質な空間を厳かに彩っている。
壇上では新学期を迎える学生たちに向かってありがたい話を続ける校長の話が続く。入学式の時に新入生には用意されたパイプ椅子も彼らには用意されず、皆一様に眠そうに、苦しそうに、少なくとも見た目の上では校長の話に静かに耳を傾けていた。
『二年生の方は自分の進路についての展望を、三年生の皆様は希望する進路に向けての努力を惜しまぬように――』
該当する人々なら誰も彼もが考えている事を校長は語る。ちなみに入学式の時にも新入生に対して、
『あなた達が進む進路についての希望を叶えられるよう職員一同、精一杯努力します』
──と話している。
進路、しんろ、シンロ。漢字であろうと平仮名であろうと片仮名であろうと、今年二年生の哲哉達には、まだまだ実感の沸かない言葉である。校長の話にも何ら説得力は感じられない。今はまだ遊びたい盛りの高校生の彼ら。常に自分の進みたいと願う未来を考える事は重要であるかもしれないが、今大事なのは始業式の後の放課後を如何に面白おかしく過ごすかという事。
既に算段の付いている生徒もいれば、式が終わった後に話をしようという事で約束を取り付けている生徒もいる。哲哉はそのどちらにも属しておらず、壇上から視線を外して『さてどうしようか』と考えて視線を自分の前に送った。
生徒は名前順に整列し、“や行”の哲哉はかなり後方に位置している。“か行”の由子は哲哉から見ると随分と前だ。
女子用の制服を着て、女子と同列に並ぶ彼女の後ろ姿は普段からよく目立つ長い黒髪――腰に届きそうな程に長く、おまけに身長が男子並に高いので尚更目立つ――が見える。
『風吹くと大変なんだよー? 長い髪って男の人が思うほど、良いものじゃないんだから』
彼女の髪形について話をした時、確かそんな事を言っていた。だから何時もは三つ編みで一本にまとめているのだ、とも。しかし今日の彼女の髪形は何か思う所があるのか、特に手入れをした様子は見られず、お手本みたいなストレートヘアだった。
何か。さて、何かとは何だろうかと校長の話を右から左へ抜かしながら、哲哉は自問してみる。
春休みに入る前の出来事で彼女はこれまでより少しだけ積極的になると言った。短い付き合いながら由子が何の理由も無く物事を行うような人間でないことは熟知している。
だとするなら今の彼女の髪形にも何かしら理由があるに違いない。
まさか自分に対しての行動だろうかと哲哉は思う。物事に関わらず彼女の起こす事件──決して誇張ではない──に関しては哲哉の『まさか』は、ほぼ百パーセントの的中率を誇る。具体例を一つ挙げるなら、去年の夏の水泳の授業の時だ。
***
その具体例というのは、学校側からも許可を得ている彼女が男子用の更衣室に堂々と踏み込み、彼の隣で着替えを始めた、という物だった。当日の朝に『良いなー。私は見学だよー』と言っていたのだが、顔に浮かんでいたのは参加出来ない事への沈痛の思いでは無く。
それどころか、見学するからにはそれ以上に“釣り合いの取れる事をしなければ”、という笑みが浮かんでいた。
当時の哲哉も思った。この頃の危険予測の的中率は三割程度だったが、見事に的中。ずかずかと分かり易い足音を立てながら入り口中程に立っていた哲哉の隣のロッカーを開けて、おもむろに制服に手をかけた。
これには周りの男子生徒も驚いた。驚くと同時に期待して、
『止めるな哲哉!』
『今夜のおかずをもう一品頼む、哲哉!!』
『スルーしろ! むしろ値千金のスルーパスを俺達の股間にっ!』
――なんていう、思春期真っ盛りの男の子らしい素直な欲望に満ちた視線を哲哉に向けた。
頭が痛かった。同時に自分はそう思わない事に対して枯れてるかなーと思ったが、彼女の友人としての善意から由子を止める事にした。
「なぁ、春日さんよ。お前今日は見学するって言ってなかったか」
この瞬間、更衣室の中は男子生徒の殺気で二度ほど温度が上がった。加えて何かフェロモンっぽい物の分量が増えた……同じ男としては感じたくはなかったが。
「見学するけど、気分の問題でしょ……それに暑いもの。幾ら日陰にいられるって言っても夏だよ? 摂氏三十四度だよ? そんな中で哲哉達が楽しそーに水の妖精と戯れる姿を何で制服着て見てなきゃならないの?」
「そんな事知らんが、着替えるなら女子更衣室で良いだろ。許可も貰ってるんだし」
「あー、もー、五月蠅い。もう入っちゃったんだから良いでしょ、一回ぐらい。脱ぐよ、もう。時間無いんだから」
「あ、待っ」
制服のボタンを外し終えて、ばさぁっと勢いよく制服を脱ぎ捨てる。健康的な裸体が皆が注目する中、晒され――
「――な」
――なかった。制服の下に着ていたのは白地に何処かの兄ちゃんがデザインしたイラストがプリントされたTシャツ。ふぅーと何処からか生暖かい溜め息が漏れた。
そりゃあそうである。脱いだら見える白い肌、なんてアダルトビデオぐらいのもんだ。まがりなりにも女として生きている彼女がそんな事をする筈が無い。更衣室の中の緊張した空気が一旦弛緩するものの、再び引き締まる。
少し驚かされたが、次こそ間違いない。あのTシャツの下は間違いなく彼女の素肌だ……! 先程以上に更衣室の中が熱気でむせ返る。
だと言うのに。
「ほら。着替える前からこんなに暑いんだから外に出たらもっと暑いでしょ。だから愚痴々々言わないの」
その熱気の一番の原因である彼女は意にも介さず、今度はスカートに手を掛けて下に降ろした。哲哉の抗議はあっさりと無視。音もなくスカートが地に落ち、『おおっ……!?』と男子生徒から感嘆の声が漏れて、最後に疑問系に変わっていった。
スカートの下から姿を現したのは学年ごとに色の違う、紫に近い青色のハーフパンツだった。男子生徒が期待していたショーツや太股はまったく見事にハーフパンツに隠されて、殆ど見えない。いや、まだだ。まだ終わった訳ではないと男たちの目が語っている。
そう、太股だけが足の魅力ではない。まだ残っている部分が有る……! 男たちの視線が即座に移動する。
目標視認、距離一メートル、ターゲットロック──後はスイッチを押すだけ。それも彼女自ら押し込むのだ。
さぁ、早く、早く、早く、早く、早く、早く──!!
「よいしょ……っと」
そしてスイッチは押し込まれた。それは彼らの“視線”を発射させ、しかし同時に──ミサイルを打ち落とす迎撃システムを起動するためのボタンでもあった。
例えるなら彼女の言葉は対空砲。飛来する数々の視線を学園指定の体操服(長袖)のズボンを履く事で完膚無きまでに、一発残さず撃墜した。その後、当然のように上半身にも長袖の体操服を着ると床に置いてあったスカートと制服をロッカーの中に仕舞う。
「――どしたの?」
とりあえずそれ以上の事はしそうにない由子を見て、ロッカーに手を付いて息を整えようとしていた哲哉に彼女は言ってのけた。期待していた光景は何一つ見られず無言を持って沈んだ彼らは既に屍。
触れる事なく、総勢二十二名の男子生徒の“期待”を奪った女は哲哉と周囲の光景を見ながら更衣室を立ち去った。後日その事を問い詰める哲哉に彼女はこれ以上無いってぐらいに『にやり』と笑いつつ言ってのけた。
『期待してたのなら、今度目の前で着替えてあげようか?』
以後も彼女の蛮行(としか思えない)は繰り返され、その都度彼の危険予測率は信頼のおける物となっていったのである。
『――以上です』
校長の話が終わった。何時の間にか終わっているのなら最初からこんな風にしていれば良かったかな、と哲哉は少し後悔した。……思い出した内容は別にして。
***
始業式が終われば新しいクラスで初めてのホームルームが行われる。席替えは後日行われることになっているので、皆自分の知り合いと隣や向かいに座って担任の話を聞いていた。
哲哉は縦に七、横に六有る座席の内、教壇が目の前に来る列の真ん中辺りに座りながら他の者と同じく担任の話に耳を傾けている。
その隣には由子。体育館から戻ってきた後、極々自然な動作で哲哉の隣に座り、特に何かを話すわけでも無く哲哉と同じように担任の話を聞いていた。担任の自己紹介、今後の予定を記したプリントの配布、最後にこれから一年間宜しく、とだけ言ってホームルームもすぐに終わる。時刻は十一時三十分を回った頃。ホームルームが終わった後の教室は本当に最後の春休み――彼らにとっては始業式まで含んで春休みと言うのだろう――を謳歌する為に息巻く生徒たちの喧騒に包まれる。
机の上に広げていたプリント類を手持ちの鞄に詰め込み哲哉も席を立つ。結局友人たちからは午後の予定を埋めるような誘いは持ちかけられず、午後の予定は今のところ無い。
ちらりと視線を横に送り、由子を見る。始業式だけだと言うのに彼女の鞄はいやに膨らんでいて、何を詰め込んでいるのかと哲哉の興味をそそった……が口にはせずに帰宅しようと教室の出口に足を向ける。
「あ、哲哉。ちょっと待って」
背中から由子に声を掛けられて哲哉は足を止めた。周囲の生徒達からも数こそ少ない視線が向けられる。
外見の容姿は平均以上の由子が哲哉に声を掛ける。分かり易いその光景は人一倍……きっと人生の中で最も恋愛に興味を抱く年代の彼らからすれば、十二分に興味を抱かせるのに事足りる。そんな教室の雰囲気に少し戸惑いながら、哲哉は『何だ?』と答えた。
「ちょっと付き合ってくれる?」
哲哉の返答を待たずに由子は、『こっちこっち』と退出を促した。特に逆らうこともせず哲哉は教室を出て尋ねる。
「付き合う、って何処へ」
「すぐそこ!」
詳しい内容を由子は話そうとしない。哲哉が聞こうとするよりも早く由子は学校の階段を登っていく。彼女の言葉からてっきり市内へ付き合え、というような内容かと予想していた哲哉はますます彼女の行動の意味が分からなくなる。
階段を進む。途中、これから帰宅するであろう生徒たちの視線を浴びて再びほんの少しの気まずさを感じるも由子は止まらない。
そうして数分。三階建てのA棟の最上階まで上がると由子は立ち止まり、哲哉もその先を見る。前に立つものを無表情で威圧しそうな雰囲気を醸し出しているのはやけに明るいクリーム色をしたシャッターだった。
階段はまだ続いている。その先にあるのはこの校舎の屋上への階段だ。さしずめシャッターはその道を塞ぐ門番のよう。
「屋上に用でもあるのか?」
「うん」
なるほど、屋上に用があるならこのシャッターを超えなければいけない。シャッターの高さは低く見積もっても二メートル程。哲哉と由子。二人とも多少の差は有れど、共に百七十センチ近い身長が有る。これだけの身長を持つ二人なら、二メートルのシャッター等ほんの少し力を込めてジャンプすれば楽に届くだろう。
しかし、シャッターの前にあるのは階段。踏み込みの足を支えるための足場は不十分で、踏み切り方を間違えれば着地したとき足の捻挫を土産に階下へ転げ落ちそうである。
それを由子は分かっているのか。鞄を哲哉に手渡してシャッター前の階段を登っていく。哲哉も理解しているのだろう。受け取った鞄を持って由子の後に続く。
シャッターの直前まで登り、由子は『よし』と気合を一つ。そして階段の手すりに足を掛け一階上の手摺りに手を掛け、跳躍した。
「せーの……っ!」
手摺りを蹴る力と持ち上げる力が軽々と彼女の身体を浮遊させ、由子は素早く足を一階上の別の手摺りに掛ける。
「上見るなよ?」
「見ないっつーの」
本気で見ているとは思っていなくても彼女はそういう風な事を哲哉に言う。そういう性格をしているのだから。
「鞄、ちょうだい」
「はいよ。俺のも頼む」
うん、と言い哲哉の為に場所を開ける。一応用心のために周囲に教師がいないかを確認してから哲哉も手摺りを蹴って上に登る。
人が来ない事を前提としているためだろうか。照明が有るにもかかわらず屋上へ続く最後の階段は薄暗く――おまけに随分な埃と、煙草の吸殻が溜まっていた。
階段を登り切っても、肝心の屋上へ出るために必要な扉が無かったので、代わりに狭苦しい窓を使って屋上へと出た。
──陽光と青空。屋上に出た二人に先ず見えたのはその二つ。
今しばらく続くであろう春の陽気は冬の制服に身を包んだ二人には少し暑かったが、気持ちの良い風が吹いているのでプラスマイナスゼロと言った所だ。
「んー……んっ! うん。気持ちいい。これこそ“春は曙”だね」
「使い方間違ってるぞ」
有名な『枕草子』の一節を引用して今の気持ちを代弁したのだろうが――“曙”とは現代の意味で“朝”とかそういう意味であって、哲哉の指摘通りこの場で用いるには不適切な表現である。
もっとも彼女にしてみれば。
「良いの、良いの。こういうのノリで言ってるような物だから」
「ノリで使われたんじゃ清少納言も嘆くだろうな」
「そうやって人の揚げ足取らないの」
「そうだな。――で? 屋上に何の用だ?」
由子に連れられて、やって来たは良いがそろそろ肝心の内容を聞いても良かろうと、哲哉は本題を口にする。風が止む。まるで彼女の答えを聞きたいがため、風自らが口を遮断したかのように。
「用って程、大層な事じゃないけど」
言って、自らの鞄を漁り一つの包みを取り出した。青地に白の幾何学模様が記されたバンダナで包まれた"それ"は由子の両手から少し余りそうな大きさで、一見すれば正体の分かる代物であった。だが、そこは彼女の差し出したモノ。用心して哲哉は聞き返す。
「何それ」
「お弁当だけど?」
傍から見れば問うた哲哉も間抜けな表情をしているが、答えた由子の表情も大概間が抜けている。言葉にすれば『弁当以外の何かに見えるの?』ってなもんである。
「今日は始業式だけだから帰るまでのお腹の足しにでもなればなと思って作ったんだけど」
「何故?」
「だから家に帰るまでの」
「そうじゃ無くて」
何でお前が、しかも自分の為じゃない弁当を作ってきてるんだと、哲哉は聞くと由子は益々不思議そうな顔をして、しかし僅かな間を置いて哲哉の問いの真意に思い当たったらしく。
「この前言ったでしょ。"ちょっとだけ積極的になる"って。これはその第一段階。名付けて」
「いや、名付けんでも良い」
「聞けよ!」
「聞くか!」
哲哉のあまりに早いつっこみに『ぬぅ、お主出来るな』と何処かの時代劇の剣豪らしい唸りを呟きつつ由子は作戦名を言うのを諦めたらしい。哲哉は哲哉で彼女の行いの早さや実行力に半ば呆れつつ、心の中で嘆息しつつ。
「……まさかとは思うけど第一段階って事は」
「第二段階も考えてるよ。もちろん」
聞きたくなかったその一言。彼女はあっさりと言い放ち、哲哉は深く溜め息を吐いて、始業式の時に考えていた事を思い出した。今も春の爽やかな風に合わせるようになびく髪。積極的になると言った事を証明するかのように差し出されている弁当。
「本気、なんだな」
「本気も本気。でも断っても良いよ。そうする権利も理由も、哲哉にはあるんだから」
「……」
『本当に嫌いになったのなら私は二度と関わらない』。
彼女の言う"権利"と言うのは、つまるところ――先の発言と合わせて――自分のこうした行為が不快ならば受け入れなくても良いと言う事だ。あの告白から数週間程度しか経過していないにも拘らず彼女は作戦の第一段階を実行し、哲哉はその答えを迫られている。
……これは彼女が女性としての好意から行った行動のスタート地点。
「どうする?」
弁当の包みをより哲哉に近付けて由子は確認する。受け入れるのなら受け取り、断るのなら受け取るなという――彼女の意思表示。
そして哲哉の答えは。
「――ほら」
無造作に弁当の包みを受け取るために手を差し出す事だった。
「良いの?」
「良いよ。ああ、いや……良いも悪いも無いか。お前の"提案"を受け入れた以上、答えるのは俺の"義務"だろうし。それに食べ物を粗末にするのは、作ってくれた人間に申し訳ない」
「……前から思ってたけど。哲哉ってそういう古臭い所、有るよね。嫌いじゃないけどさ」
話す内容とは裏腹に笑顔を浮かべて包みを哲哉に渡す。手近な場所に腰を下ろして哲哉は包みを解き、蓋を開く。外から見た大きさとほぼ同じく女性の手には少し余りそうな、しかし男性には少し足りない――彼女の言うように軽くお腹に入れるのに最適な大きさの弁当箱の中身はと言うと、白御飯に中央を境にしておかず……これまた出汁巻き卵にウィンナー、塩焼きしたであろう鮭と、ある意味お約束の食材が並んでいた。
「はい」
「ん」
由子から箸を受け取り、哲哉はさて、と思案する。言うまでもない、何から食すか考えているのである。由子の料理の腕前が如何ほどなのか、哲哉は知らない。目の前で料理を作ってもらったことも、調理実習などで作った料理を試食させてもらった経験も無いので判断する基準が無いのだ。
もう一度食材を確認する。今度はただ見るだけではなく、彼女が調理したものがどれかを判別するためにじっくりと。
おそらく彼女が調理したと思われるものは──白飯、出汁巻き卵、焼き鮭の三つ。と言うより全部。元より調理されたもの、あるいは特に調理する必要のないと思われるものは──ウィンナーのみ。
……分が悪い。背水の陣ってこういう事じゃないか。彼女の料理の腕も知らない癖に、由子が調理したと思われる食材を回避しようとするのは間違いかもしれないが、相手があの春日由子となれば話は違ってくる。
箸を握り、おかずを睨む事数十秒──。
「食べないの?」
そう、視線で促してくるのを感じて哲哉は心を決めた。
──食べられる物ならば最高の賛辞を、食べられぬ物ならば己が死を持ってこの戦に望もう、と。どれ程の効果があるかは分からないが、まず白飯を箸で摘んで口に運び、咀嚼する。
……問題はない。水加減さえ間違えていなければ米の味はそう大きくは変わらない。まず一つ安心する。
次。三種あるおかずの内、もっとも手の掛からない──何せただ焼くだけの代物だから──ウィンナーを食す。作ってから時間が経っているため冷めてはいたが、こちらも問題はない。普通に食べられる。
さて、と一息付く。本当に重要なのはここから。食べていないおかずは残り二種。鮭と出汁巻き卵。双方とも、中々にリスクの高い代物と言える。特に高いのは出汁巻き卵。一流の料理人でさえ完璧に作りこなす事は難しいと言われているこの出汁巻き卵を作るにあたって重要となるのは焼き方もそうだが調味料の分量である。焼き方は火力に注意してじっくりと、しかし手早く焼き上げるだけで良いが、分量の間違いは最早焼き方云々とかいう以前に修正の効かない大間違いとなる。
更に重要とされるのは醤油の分量。多過ぎれば辛くなるし、少なければ物足りない。この微調整が出汁巻き卵の肝であり、最も難しいポイントでもある。
よってこのおかずの中にあって、由子の技量が良い意味でも悪い意味でも発揮されている一品と言う事は間違いない。となれば、ここはやはり鮭を摘む事が正しい──。
「哲哉、哲哉」
「あん?」
「はい、どうぞ」
──だと言うのに由子は哲哉の正論なんぞ知ったこっちゃないと言わんばかりに、放り込んだ。哲哉の口に出汁巻き卵を。それも丸ごと一個。
「──!」
投げ込まれた本人は驚くしかない。と、言うのに。
「あー。口の中に物入れたまま話すの行儀悪いよ? 食べ終わってから聞くから、先に食べちゃって」
『吹き出されたりしたら敵わないから』と言われて哲哉も放り込まれた卵を食べる事にする。……恐れていたような味は全くせず、かと言って特別美味しいわけでも無い。しかし何の違和感も無く食べられるのは何故だろうか。
「どう? 不味かったりしない?」
「……普通に食べられるけど、いきなり人の口に放りこ」
「じゃあ美味しい?」
「いいや、全っ然、普通ですよ。人の話を聞かない春日さん」
哲哉はとりあえず残りの出汁巻き卵と鮭を頬張りつつ、おまけで精一杯に皮肉を込めて言ってみた。
「哲哉君──我が社が期待するのは、利となる結果のみであって言い訳は聞きたくな」
「どこの上役か、己は。……まあ、ご馳走様」
しっかりと手を合わせて食事の終わりを由子に告げる。
「お粗末さまでした」
「いーえー」
哲哉から受け取った弁当箱をバンダナで丁寧に結ぶ由子の姿を横目に見ながら哲哉は空を見上げた。──間抜けなぐらいにゆっくりと、白い雲が流れている。時折、空の青をバックに鳥が羽を広げて空に踊っている。
「後悔してる?」
何気ない口調で由子が囁いた。弁当箱を膝の上に乗せ、哲哉と同じように空を見上げながら。彼女の問いの本質が何であるか、わざわざ確認しなくても哲哉には予想が付く。
彼らにしか分からない、彼らだけが理解することの出来る、単純で、少しだけ重い問い掛け。何気なく聞こえた口調も、彼女の演技だ。その問いに哲哉はわずかに考えこそしたものの、『いや』と否定の意を返した。
彼女の事は嫌いではない。本当に嫌いなら、そもそもあの時点で拒否している。だから後悔はしていない。ただ納得しきれないだけ。
では、何が納得できないのか──彼の考えを聞いた者がいたとするなら、問われるであろう質問に今の哲哉は答える事は出来ない。高校二年生である彼は、世間的に言えば子供以上大人未満の、言ってみれば半端で、ちっぽけな人間の一人に過ぎないから。
どれだけ年月を重ねた人間でも、特定の誰かに対して抱いている感情を上手く説明出来ないように。哲哉もまた、自分自身が抱いている感情を例え自分自身にさえ上手く説明する事が出来ない。だからせめて分かっている事だけを。彼女とこうした関係になったことを悪くは思っていないと言う事だけを伝えた。
「じゃあ、普段は今まで通りで、良いよね」
由子の言葉は疑問を感じての確認ではなく、納得した上での確認だったので哲哉は答えなかった。
雲が流れる。二人の心もしばらくの間、空の雲と同じように空を流れた。
***
登校してきた生徒の群れを横切って教室に入ると、既に何人かの生徒で席は埋まっていた。
「あー、おはよう」
教室に入って行った哲哉に挨拶をしたのは彼の友人、『河本康平』だ。男子にしては少し長いが量が少ないため、女子からは『綺麗』と評される髪が特徴的である。
「ういっす。何だ、随分早いな」
「そう? まあ、改めて言うのも変だけど。また一年間宜しく」
「うむ。苦しゅうない、面を上げい」
康平の言葉に哲哉が冗談めかして答えていると、
「哲哉君は何時からそんなに偉くなったんだろーね?」
「さてな。知り合った頃から考えると随分変わったのは間違いないが」
由子と、その後ろに立っている、女子にしては尊大な口調で話す『神崎蓉』が彼女の言葉に自身の考えを付け加える。新学期になってから哲哉が蓉に会うのは初めてだったが、その口調は健在らしい。
去年も同じクラスだった四人がまた同じクラスになった。康平も蓉も由子がどういう人物なのかを知っている。それでも共にいてくれているその彼らとまた一年、共に過ごす。けれどこれから先、彼らは変わっていくだろう。自らを取り巻く現実と、理想、そうした中で成長し、互いの関係が変わっていくかもしれない。それはまだ、彼らにとっては先の話。まだ一年は始まったばかりなのだ。
「あ、それとも偉そうにするのって河本君への照れ隠し?」
「お前の考えに照れ隠ししたいよ、俺は」
……例外として。哲哉の言う通り、彼女の性格だけは早々に変わった方が良いかもしれない。周りのためにも。
[第一話]
[第三話]
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