何度も言うが時間がない。
朝食など悠長に食うはずもなく、簡単にトーストを一枚ほおばるだけですませてしまった。
せっかく用意した朝食を食べなかった息子、否、娘に母はさんざん文句をいってきた。
申し訳ない気持ちでいっぱいではあるが、だからといって話に耳を傾けていては本当に遅刻してしまう。
そちらのほうが母の逆鱗に触れることだろう。
話半ばで「いってきます!」と言い放ち、無理矢理に家を出る。
明日は絶対に早く起きなさいよ! と背後から叫ばれた。
(多分無理だね…)
無言の返事を肯定ととらせておき、心で本音をぽつりと漏らす。
まぁ、これも何度も繰り返された日常の茶飯事である。
通常は歩いて通学する道を今朝はダッシュで駆け抜けた。
いつもギリギリで起床する自分には確かに当然(?)のことだ。
そう…何度もリピートされてきた生活なのである。
母の抗議を聞いているときもそうだった。走りながらも、そんな感覚が今の雄介からは離れない。
『これが日常である』世界に自分はこうして生きているのだ。無論、雄介にとってはきわめて非日常である。
「こりゃあ、疑うべくもないな」
あえて口にすることで自らの考えを確信へと導いた。バカな頭でもいい加減わかる。
いちいち整理が必要なほどの情報でもない。
ようするに――『なぜだか知らないが、自分は最初から女の子であった』という設定なのである。
なぜだか本当にわからない。まったくもって皆目見当もつかない。わかれば苦労はしない。
疑問をひとたび口にすれば、それは終わりなき永遠のループを紡ぐだろう。で
あれば、最初からそんな言葉は無視したほうがよい。
「なんとか間に合ったか…」
小さな四つ角を右に曲がる。
幾度か出会い頭に自転車とぶつかりそうになった経験などかけらも生かされてはいなかった。
真正面に校門が見えてきた。あとは一直線である。
「とりあえず…学校いってりゃなにかわかんだろ…」
考えたところで何も浮かんではこない。もっと世界を見れば、そのうちなんとかなるだろ…。
自分のこの楽観的性格が時として役に立つことを雄介は知った。
「はぁ! はぁ! し…しんどい…」
いつもよりも呼吸が荒い。女になって若干体力面で低下が見られるようだ。
遅刻を免れた安心感がそんな分析をはじき出す。
たかがこんな直線距離で息が切れてしまうなど普段の自分からは想像もできない。
「ふぅ…」
全力疾走をやめ、少し小走りに学校へと向かうことにした。
実はもうひとつ――予想しなかったトラブルが発生したこともその原因としてあったのだ。
「いててっ…こりゃあ盲点だったな」
痛いのだ。胸が…揺れる胸が少々痛い。
身体の上下にあわせて揺れるのは仕方ないが…意外なほど痛みを伴うものだと感じた。
「たまに痛がってる女見たことあるけど、割と気持ちがわかるな」
かばんを持たない左腕で抱えるようにして自分の乳房を押し上げる。
下着で矯正しきれない弾みはこうするしかないだろう。
念のためにもうひとっ走りすることにしよう。ギリギリで登校しすぎるのもかえって目立つ。
始業ベル直前でもやってくる学生は多くいるが、逆にその人ごみに突っ込むのもあまり喜ばしくない。
「はぁ!はぁ!…走りにくい…」
両腕のバランスが悪いので当然だ。しかし、両腕を開放すれば胸部のバランスが最悪になることも事実である。
「はぁはぁ!ったく…」
朝から怒涛の初経験ばかりだ。ただ走るだけでも、これである。
苛立ちをぶつけるにも相手が自分の身体では仕方ない。
校門の傍らにたつ生徒指導の男性教師が見えた。結局始業ベルの鳴る直前になってしまったようだ。
午前8時20分近くになると彼は――苗木益雄(なえぎ ますお)――そこに立つのである。
やはりもう一度走って正解であった。
今も続々と校門をくぐる学生たちが見受けられる。この時間帯がもっとも登校数が多いのだ。
生徒指導を受け持つものとしてはなおさら目を細める事実であろう。
「うぅ…。やっぱ人目が…多いなあ…」
こんな時間になってしまった自分が一番悪いと知りつつも、やはりこの人ごみは避けたいものだ。
毎日のようにジロリとにらまれる苗木の眼光などすっかり慣れてしまった。
しかしここにきてそれがどうしようもなく気に病まれる。
(ええい!んなこと言っててもしかたねえ!)
だいたい校舎に入ればこれよりはるかにたくさんの人間と出くわすことになるのだ。今からこんな事態でどうする?
校門の10mほど手前からさらに全力疾走で駆け抜けることにした。
戦陣を迎え撃つ、その心はさながら切り込み隊長である。
もちろん胸はまだ腕で抱えあげたままだ。
面倒なことに…これからはこれが全力疾走のフォーマルスタイルになりそうである。
「はぁ! はぁ!」
苗木の横を通り過ぎる瞬間、ちらりと彼の目を盗み見た。
(んなっ!?)
嫌な感じで目が――合うことはなかった。
一瞬とはいえ、こんなときいつも見つめあうことになるものなのだ。
自分も遅刻の常習犯であることは自覚している分、こちらをにらむ教師の行動はごもっとも…。
だが朝から男と見つめあうのはお互い心地よいことでもないだろう。
この瞬間が雄介は嫌いであったが、遅刻する自分が主張する正当性などたかが知れたものなのでどうしようもない。
今日も今日とて不本意なアイコンタクトをすることになるとおもっていたのだが――それが実現することはなかった。
そのこと自体は喜ばしいことであると思える。
いや…違う。確かに生徒指導はこちらをにらんでいたのだ。
ただしその視点はいつもより若干下方向である。つまるところ、雄介の盛り上がった胸なのであった。
(んななななななっ!?)
これ以上揺れることの無いようきつく押し上げていた分、そのボリュームは本人の推し量る域をらくに超えていた。
ブレザーという制服を通して見ているとはいえ、これほどの巨大な女の実が外界の注意をかいくぐることは難しい。
腕に盛り上げられた二つの山が今か今かと開放のときを待っているのである。
(んなに人の胸じろじろ見てんだ!!)
胸中の怒り相当のものである。加えて、それに匹敵するほどの恥ずかしさ。
スピードをあげてさっさと男の視界からはずしてやった。
(くそぅ…やっぱなあ…)
理解できない心情ではない分、一瞬抱いた怒りもたちまちに失せてしまう。残ったものはただ単なる感想のみだ。
走りながら自分の胸を見る。豊か過ぎる頂は予想できないほど眼下に迫っていた。
(……)
この自分とて現に目を離すことができないでいるのだ。乳房を持てない男からすれば宝のような肉体に違いない。
脚を緩めることなく、ついムラムラときてしまった。
だから…
「のぐわぁぁぁ!!」
ドグワシャァァ!
下駄箱でつまずき、盛大にすっ転んだのも当然のことなのだ。
本日二度目の転倒は――たくさんのギャラリーを呼び込むことに成功した。


「いててっ…」
これでもかというほど鼻の頭を強打してしまった。あまりの痛みに涙がでてしまったほどだ。
(踏んだりけったりだ…まじで)
顔面を押さえながらヨタヨタと頼りない足取りで女の子が廊下を歩く。
これでは皆の注意をかわすこともできなかった。
下駄箱であれほど盛大なデビューを果たしてしまったのだ。
いまごろは目撃した生徒たちの雑談トピックとしてネタにされていることだろう。
ようやく痛みが退いてきた。鼻でも曲がったかとおもったほどだったのだ。ほっと一安心である。
(うう…しかし)
痛みが退いても周囲の自分への注意が一向に治まる気配が無い。
今は普通に歩いているはずなのにどうにもこうにも視線を無視できないのだ。
(結局のところ…こうなっちまうのかよ)
いくら目立つことのないように平々凡々を装っても、つまり――無駄なのである。
じろじろと――先ほど校門で出くわした苗木ほどでもないが――痛いほど多くの視線を感じてしまうのだ。
決して自分の思い過ごしなんかじゃない。確信できる。しかも男女を問わず、だ。
周りの生徒をみればほぼ確実に視線があう。要するに実際それだけじろじろ見られているということ…。
皆の視点の集まるところは2箇所。なんのことはない、この顔と…この胸だ。
男のいやらしい目で、そして女の羨望の目がそれらに嫌というほど集中しているのを感じる。
(うううう!!)
ピリピリとして表情を崩すことすらためらわれた。


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