「間に合った…………ふぅ」
整列していたクラスメイトの列に潜り込んだとき、鬼頭先生はまだ姿を見せていなかった。
「危ねえぞ。こっちの心臓に悪い」
整列すると明はぼくの左隣になる。連帯責任は横一列と決まっているので明の心配ももっともだ。
謝罪の言葉を口にしようとするところで、鬼頭先生がやってきた。
「よーし、揃ってるな。号令!」
鬼頭先生の耳をつんざく命令が飛ぶ。生徒の間で俗に『ジャイアンヴォイス』と呼ばれる鋭いダミ声は、毎回思うけど心象に悪い。
「気をつけ! 礼!」
日直が大声を張り上げる。ここで小さい声を出そうものならすかさず怒声が返ってくるのは必至だ。
「やめろやめろ! なんだその声は、子守唄歌ってんじゃねぇんだぞ! どこかにタマでも落としたか!」
……どうやら今回は気に入られなかったようで。
「でも、精一杯……」
理不尽な叱責に日直が反論する。でもこれは逆効果だ。
「黙れ! 俺に何か喋るときは『よろしいですか鬼頭先生』だろうが! そんなことも忘れたのか!?」
「い、いいえ」
「違う! お前らが口でクソたれる前には『はい』を付けろ。否定するときも『はい、いいえ違います』だ!」
こういった『基本的なこと』は最初の授業のときにイヤというほど教え込まれた。
確か最初に言われたのが『俺はお前らを体力がねぇとか上手下手とかそんなんで差別はしねぇ。なぜならお前らは平等に価値がない。地球上で最下等の生物だか らだ』だった。
以来それは続き、何故鬼頭先生がクビにならないのか、は学校の七不思議のひとつに数えられている。
「わかったか!」
「はいっ!」
ようやく言葉責めが終わったらしい。日直は半泣きどころか95%くらい泣いてる。
面と向かってジャイアンヴォイスを一身に受け、横一列の人たち合わせて放課後グラウンドを走ることになるとなれば、それも当然だろう。
可哀想だと思ったけど、この授業に限っていえば戦争中となんら変わりないので、仕方ないで済ますしかない。
せめてトラウマとして残らないように祈るばかりだ。
「よーし、今日はサッカーだ。各自ストレッチ、5分後チームに分かれてキックオフ! 負けたほうはグランド10周!」
「「「はい!」」」
2クラス40人分の声が曇天に響く。同じ轍を踏まないのがこの授業を乗り切るコツだ。
そして悪をなさず求めるところは少なく林の中の象のようにしていれば嵐は勝手にどこかへ通り過ぎてくれる。
二人一組になってストレッチを始める。ケガをしたら本人の責任になるし、時間制限もあるのでみんな黙々と真剣にやっていた。
足首、膝、手首、アキレス腱と各関節を入念に伸ばし、二人でしかできない柔軟に移る。
「じゃ、先に座って」
明に促されるままひんやりとした地面に足を伸ばし、座る。
ぼくの体は硬く、柔軟は痛いだけなので正直やりたくない。
背中に体重がかかる。さあここらあたりで膝裏のスジが痛くな…………あれ?
「すげえ、頭がついたぞ?」
ありえないことに、額が膝とくっついていた。
しかも全然痛くないどころか、まだ余裕さえある。普段なら爪先を持つことすらできないというのに。
女の子のほうが身体は柔らかいというけど、それは本当のことみたいだ。
「なんか、柔らかいな」
明がぽつりと呟く。
「うん、ぼくも驚いた」
「そうじゃなくって。んー、なんか感触が柔らかいんだよ。弾力があるっていうか、見た目も華奢だし。ま、陽はいつもそんなだけどな」
最後は冗談めかしだったけど、言われてドキリとした。途端冷や汗が分泌される。
もしぼくが漫画の登場人物なら服の上だろうが髪の上だろうがかいているところだ。
(鋭い…!)
顔に出さないようにして「じゃあ交代」と明の手から逃れる。これ以上触られていたらバレる可能性が高い。
無理やり座らせて力を込めて押す。
「ちょ、痛い痛い痛い!」
この痛みでさっきのことは忘れてください。

「これで最後っと」
背中合わせになり背筋を伸ばす。
まずは明のを伸ばす。……重い。いつも以上に重く感じる。
「ねえ明。最近太った? すごく重いんだけど」
「そんなことねえよ。毎日体重計乗ってるし、いつもと同じだって」
やはり力も弱くなっているようだ。でも普段は重いものを持つこともないので、特に困ることはなさそうではある。
「次、陽な」
手首を掴まれ逆に担ぎ上げられた。
思い切り伸びをしているようで心地いい。ラジオ体操でも上体胸そらしは好きな部類に入る。
(胸そらしって……。この体勢は…………ひょっとして胸を強調してる?)
予想は無情にも当たっていた。
自然なシワでは再現できない波型の隆起が姿をのぞかせている。
慌てて首を左右に振って状況確認。
今は誰も見てなかったけど、これからどうなるかはわからない。
危険だ。装備なしの鳳天舞の陣の皇帝くらい危険だ。すぐに終わらせないと。
「もういいよ、明。降ろして」
「なに言ってんだよ、まだ上げたばっかじゃん。ほらもっと伸ばさないと」
さらに身体が反る。胸元を見ると、膨らみが自分はここだと言わんばかりに自己主張していた。
明はそれでもまだ伸ばそうと弾みをつけて身体を揺さぶる。
「きゃっ…!」
電流が全身を通り抜けた。そして自分の意思でなく出た変な声。
(な、なに?)
これまで味わったことのない強烈な刺激だった。意識を集中してその発生元を追う。
と、また電流が身体の中を通り過ぎた。
本当に通電してしまったかのように全身が痺れる。
自分でもわけがわからないけど、甘い痺れと形容するしかない。何せまた味わってみたくなるように思えてしまうのだから。
発生元は…………胸の先端。
そこが体操着と擦れてこの現象を引き起こしている。
(……!)
また来た。
3度目の感電。脳を焼ききるような痛烈な衝撃がぼくを襲う。
やたらに身体の芯が熱い。胸焼けとは違う、ただ心地いいだけの熱さが全身を支配…………ダメだ!
このままではまずいことになる。気がする。
「も、もう……明ぁ……いい…から……っ!」
理性が全神経、全感覚器官に冷水を浴びせる。それによって動くようになった喉から声を絞り出す。
同時に縛めから逃れようと足をばたつかせる。
「お、おい! 動くなよ!」
もう何も考えられない。理性と本能が入り混じり混沌とした意識下で逃れることだけを実行する。
その結果を考える余裕もなく。
「うわっ!」
とうとう明城が瓦解した。上にいるぼくもバランスをなくし崩落する。
ドタッ、と閉じた目の向こうで音がした。
「痛え……」
痛い? ぼくはどこも痛くないのに。
目を開ける。明の顔が見えた。それもすぐ側に。折り重なって地面に倒れているらしい。
しかもこの体勢は、ぼくが明に胸を押し付けて…………!?
「ちょ、重い…」
言われるまでもなくぼくは飛び退いた。顔が赤いのが鏡を見なくてもわかる。
触れる指が冷たく感じるほどに紅潮してしまっていた。
「こらそこ! なにやってんだ!」
鬼頭先生の怒号が飛んできた。
「はい、ちょっとバランスを崩してしまって…」
ぼくが口を開こうとしたその直前、明がぼくの言おうとしたことそのままを代弁した。
これではまるで明が元凶みたいではないか。本当はぼくが悪いのに…。
「ケガはないんだな?」
「はい、大丈夫です」
「今回は許してやる。だが次はねぇぞ、いいな!」
言いたいことだけ言って鬼頭先生は行ってしまった。
「本当にごめん」
いたたまれなくなって謝る。
「いいって」
その笑顔に対しても、申し訳なく思ってしまう。ともすれば泣いてしまいそうになるほど目頭が熱い。
「そんな顔すんなよ、いこうぜ」
何も言うことができず、無言のまま頷いた。

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まずいことに、さっきの一連の出来事が尾を引いていた。
(あっ……また……)
胸に意識が行き過ぎるのだ。
走れば体操着も身体も動く→擦れる。
そのたびに刺激を受け紅潮するのだから、サッカーなんてまともにプレイできるわけがない。
「おい、もっときびきび動け! ジジイのファックのほうがよっぽど気合はいってるぞ!」
序盤に1点入ったきり膠着しているのが面白くないのか鬼頭先生がハッパをかける。
ぼくのいるチームは負けていた。スタメンなのは普段だったら嬉しいけど、今のぼくは確実に足を引っ張っている。
ロングボールの応酬で直接的には関係してないけど、実質10対11だ。負けの要因にはなりたくないし、その後の罰ゲームもイヤだ。
そのためには何か対策を取らないといけない。
(そうだ!)
目には見えない電球が閃く。これは無双三段並の思い付きだ。
すぐさま実行に移す。
とりあえずベンチメンバーと交代し、保健室へと急ぐ。先端に触れさせないよう体操着をつまんで浮かしながら。
「失礼しまーす」
入り口の不在表を見て居ないことはわかっていたけど一応。
後ろ手で閉めるなり目的のものを探す。
消毒液のにおいが鼻につく。こういった場所にいると、どこも悪くなくてもどこかが悪いような気がするから不思議だ。
「お、あった」
しばらくして戸棚から目標が見つかる。
絆創膏。
これを患部(?)に貼れば直接擦れることはなくなる。我ながらいいアイディアだ。
きっとドラ○もんのひみつ道具にだってこれ以上便利なものはない。
さっそく体操着をたくし上げ、手を自由に使えるように裾を口にくわえる。
…………
……ひょっとして、これはすごくエロい格好なのではないだろうか。
ぼく以外誰もいない、授業中で耳が痛いほどに静かな保健室。誰も見てないというのに勝手に赤面してしまう。
(いや、その理屈はおかしい)
思い直す。あくまでぼくは男だ。外見が『少し』違うに過ぎない。男がそれを気にすることではない。
とはいえ、
「なんか立ってるし……」
さっきのことを思い出す。不可抗力とはいえあれは恥ずかしい。その結果か、ぼくの先端は見るからに硬くなっていた。
そんなことよりも、と気を取り直す。今はそれどころではない。まだ試合の途中だ。
なるべく刺激を与えないように注意しながら絆創膏の布(?)の部分で先端を覆い隠してゆく。逆側にももうひとつ。
いつからこんなになったのか淡い桜色の突起が絆創膏の下に両方隠れ、ようやく人心地ついた。
これで心置きなく動き回ることができる。
「おっと、早く戻らないと」
こんな恥ずかしいことまでやって負けたら、それこそ救いようがない。
思い付きと行動を無駄にしないためにも、一刻も早く戻らなければ。

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「勝ってるし……」
ぼくが戻ったときにはほとんど勝負がついているようなものだった。
5−1。
何があったんだ。
「半田君。どこに行ってたんだ?」
得点ボードに釘付けになっていると、ベンチメンバーの一人に話しかけられた。
ぼくのクラスの学級委員長の来栖冷一(くるすれいいち)が非難するような目でぼくを見ていた。
「ちょっとトイレに行ってて…」
「行くなら誰かにちゃんと断って行ってくれないか。鬼頭先生に怒られるのは御免だ」
メガネの奥の冷たい眼差しがぼくを射抜く。
名は体を表すというけど、彼はそれが正しく当てはまる。冷静沈着で何事にも動じない。
感情が表に出ず、聞くところによると生まれたときですら泣かなかったらしい。
抜ける時にはちゃんと断りを入れたはずだったけど、どうやら伝わってないらしかった。
かといってここで反論する気にもならない。ここで言い争ってもただ不毛なだけだ。それに先生に怒られるし。
「まあいい。君の抜けた分はサッカー部の多賀君が補ってくれた。おかげで無意味に走らずに済みそうだよ」
興味が失せたのか、ぼくから目線を逸らす。
はっきりいって委員長とは関係が悪い。確か今年の5月くらいに突然、明ともども敵認定された。
以来こっちは不干渉を貫いているのに、何故か委員長は事あるごとに突っかかってきた。
今回もその延長だろうと思うので大して腹も立たない。徳島ヴォルテイスVSザスパ草津の試合くらいどうでもいいこととして処理している。うん、大人だ。
──ピーーーーーッ!
また1点入ったみたいだ。やはり本職の人は凄い。
…………
(ぼくがいなくても全然問題なかったし)
それどころか、いたら負けていたかもしれない。あんなことをしなくてもベンチに下がればいいだけの話だった。
圧勝のうちに試合が終わったとはいえ、報われない気分だ。せっかく努力したというのに。
「集合!」
鬼頭先生の号令に、一目散にみなが整列する。
「負けたほうに言っておく。お前らは『精一杯努力した、だが報われなかった』そう思ってねぇか?
だがそれは違う。努力が報われるんじゃねぇ。報われるために努力するんだ。報われない努力に意味なんかねぇ。わかったか!」
あっさり全否定ですか。
「「「はい!」」」
「じゃあ行ってこい!」
整列していたうちの半分がグラウンドに散る。半数になってより多く先生に睨まれていると思うと居心地が悪くてしょうがない。
「ほかは解散!」
これでジャイアンヴォイスから解放されると思うと晴れ晴れする。
オツトメが終わってシャバに戻ってくるときにこんな気分になるのだろうか。
なにしろ暗に『懲役1時間』なんて言われているくらいだから。
解放と同時にぼくは誰よりも早く教室へと急ぐ。誰も見ていないうちに着替えを終えないと、またトイレに篭らなければならない。
こんな苦労があと最低2日は続くと思うと、気が重い。
心の中は今日の天気のようにどんよりと曇っていた。


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