「はぁ……はぁ……」
知らないあいだに呼吸が荒くなっていた。
行動を起こせばすぐに終わる。ズボンを掴んで下に降ろす。ただそれだけだ。1秒と数カロリーで事足りる。
でもそれをやったら取り返しがつかないような気もした。
少なくともこの状態を維持すれば『ある』と『ない』の確率が混在させることができる。
シュレーディンガーの猫ならぬ『半田陽の下半身』。
「情けない限りの名前だ……」
世が世なら名前が後世に残ったかもしれない。末代までの恥さらしとして。
……何かどうでもよくなってきた。
ちらりとベッドの枕元に置いてある時計を見遣ると、すぐに朝ごはん食べて家を出ないとやばい時間になっていた。
深呼吸をひとつ。

やるしかない。

固く目を瞑ってズボンとトランクスを一緒に爪が手のひらに刺さるくらいの強さで握りこむ。
(3……2……1……)
ゼロと同時に一気に降ろした。
ズボンと下着に包まれ一晩かけて保温されていた下半身が外気に触れ、急速に熱を奪われてゆく。
今の状態を誰かに見られたら家族会議ものだけど。そんなことはもう気にならなかった。
目を開ける。
カーテンの隙間から注ぐ朝日が眼球の中を白く照らす。
数瞬後には焦点が定まる。
伸るか反るか。

「…………ない」

目の前が真っ暗になった。朝日はどこへ消えてしまったのだろう。
頭から血が引いていくのがはっきりわかる。
血の気の代わりに頭の中に入ってきたのは、
(何で? 何故? Why?)
大量の『?』マークだった。
それはまるでコンピュータウィルスのように侵蝕し、判断力と冷静さと理性を根こそぎ破壊して回った。
理解不能理解不能理解不能理解不能理解不能埋解不熊裡解下態…………

数秒か数十秒か数分か数時間か、どれほど経ったかわからないけど、一抹の判断力が戻ってくる。
(きっと見間違いだ)
これほど(自分のなかで)大騒ぎして単なる見間違いなら大恥もいいところだ。自分以外誰もいなくてよかった。
覗き込む。
「……見えないような気がするけど、錯覚だよね」
16年そこにあり続けたモノが綺麗さっぱりなくなっていた。
棒と袋のあった場所には何やらスジというのだろうか、割れ目のようなものができている。
いやしかし人の視覚回路はファジーにできているが故に騙されやすい。
視診だけで判断するのは早い、と脳のどこかが反論する。
詭弁だろうが逃避だろうが自己防衛だろうがそれは一理ある。あるといったらある。
触診もしなければ完璧とはいえない。
そうと決まれば話は早い。
けど、知らないうちに握りこんでいた右手は痙攣を起こしたかのように震えてしまっていた。
腋の下を圧迫したときに起こるに似た痺れが右手──いや全身を覆う。
全身が細かに震え、ともすれば揺れているかのようにさえ感じる。

触れる。

ババ抜きでジョーカーを引いたときの数十倍ものショックがぼくを襲った。
「ない」
右人差し指は男の証を何一つ発見できなかった。
「……お、んなに……なった………?」
胸があり、男のモノがない。ぼくの知識内で語るなら、それは女の特徴で、男女の差異に他ならない。
(ありえない!)
昨日までは確かに男だった。ここに間違いはない。
でも今朝になって性別が真逆になった。
ダウト。それは現実的に起こりえない。雌雄同体生物ならまだしも、人間にとっては。
やっぱり間違いだ。
たまたま触れられなかっただけで、ちゃんとあったのだ。
まさぐるようにサーチする。
「あっ…」
『男』の代わりに人差し指は妙な感覚を返す。意図せず割れ目を下から上になぞっていたようだ。
反射的に背筋が伸びた。バネ仕掛けの人形が元の位置に戻ろうとするかのように。
続けて頭の中に何かが閃く。
これまで味わったことのない感覚だった。
「なに……これ……」
触れるなという警告にも、興奮を促す情動にも取れる得体の知れない謎の衝動。
果たしてそのどちらなのか、それとも2種類の混合物なのか、あるいはそれ以外の何かなのか、判断はつかない。

いつしか座り込んでしまっていた。どのタイミングで腰が砕けたのかまったくわからない。
それほどまでにショックが大きかった。
(どうしよう)
意外にも次に湧き上がってきたものはパニックでもなく、これからどうするかという疑問だった。
「話せるわけないよなあ…」
朝起きたら女の子になってました。
誰が信じるだろうか。ぼくでさえ「なに言ってんの」と取り合わないだろう。
不幸中の幸いか、『元』の顔と大して変わりがなく、体つきもこの程度の膨らみもまず見破られることもない『誤差』の範囲内で済んでいる。
隠し通すしかない。
そう心に決めたとき。
「なーにやってんだ、陽」
背後でドアを勢いよく開けられた。
「に、兄さん!?」
首だけ振り返って、そこにいたのは潤(じゅん)兄さんだった。
まずい。反射的に思った。
穿いているものは膝から下にあって上半身は裸。ほぼ全裸の状態で部屋の真ん中に座り込んでいる。
それだけでも不審極まりないのに、加えて今のぼくは昨日までのぼくではない。
「なにやってんだ? いつまで経っても降りてこねーし」
不審者でも見るような目でぼくを睨みつける。メガネの反射が鋭い眼光のように見えた。
「き、着替えてたんだ。夜に汗かいちゃったみたいで」
咄嗟の嘘。我ながら苦しい言い訳だ。
たったいま隠し通すことを決めたばかりだというのに早くも崩れ去る一歩手前。砂上の楼閣にもほどがある。
「いーんだよ隠さなくたって。『処理』してたなんて誰にも言わねーよ」
「ち、違うよ! そんなんじゃ……!」
「そんなことより早くな。遅れても知らねーぞ」
言いたいことだけ言って兄さんは階下に姿を消した。
本当の事はばれずに済んだけど、あらぬ誤解を招いてしまった。
でもこの両者を天秤にかけたとき、どちらに傾くのかはわかりきっている。
まるでチェスだ。キングを守るために他の全ての駒を犠牲にする。
でも相手のキングがどこにあるのかわからない不条理なまでに不利な条件でのチェスゲーム。
チェックメイトの糸口は3日後に掴めるはずだ。
当面の敵は、
「バレないで日常生活なんて送れるのかな…」
世界であり社会といういきなりのボスキャラだった。
めげそう…。

------------

学校の存在を思い出したのは、時計の針がいつも家を出る時刻を指していた頃だった。
超特急で着替えを済ます。ハンガーから制服のカッターをはずし、いつものように身に着けてゆく。
身に着ける端々で小さな違和感を感じたけど、そんなことを気にしている余裕はない。
朝食を諦めなければならないほど土俵際に追い詰められている。
カバンを引っ掴み階段を駆け下りる。ダイニングの横をそのまま通過。さようなら朝食。
走るスピードそのままで靴をはき玄関から外に飛び出した。
直後むわっとした空気が頬をなでる。まとわりつくような湿気。走るには向かない環境だ。
でもそうも言っていられない。
一生懸命走るぼくの横を何の苦労もなく通り過ぎる車に、羨望と世界中の格闘家の集まるボーナスステージに送り込みたい願望を覚える。
せめて自転車でもあればそれなりに楽はできるけど、あいにく校則で自転車通学は自宅から学校までの距離が2キロ以上と決まっている。
学校の近くに友達の家があればそこまで乗っていくという裏技が使えるのに、残念なことにそんな一等地に住んでいる友達はいなかった。

派手に息を切らし、汗と湿気で肌に張り付いたシャツに不快感を覚えつつも、何とか遅刻せずに済んだ。
先生とはほぼ同着だったけど。危ない。
磁石のS極とN極のようにくっつきたがる前髪を額から引き剥がしながら呼吸を整える。
が、治まらない。
肺が酸素を貪欲に求める喘ぎが止まらない。立ち上がろうという気力もない。
もしあったとしてもこんな膝が大笑いしていては無理だ。
おかしい。
ペース配分をした走りだったはずだ。
間に合わせるためにスピードを上げ過ぎたかもしれないけど、ここまで全体力を使い果たすようなことはこれまで一度もなかった。
……おそらく。
(この身体になって体力が落ちてる?)
そうとしか考えられなかった。
陸上競技を見ていても男女の差は瞭然だ。
身体の構造の違いか心肺機能の差か、たぶんそんな要因が関わっているのだろう。
「よお、今日は遅かったな」
息も絶え絶えに机に突っ伏しているところに、上から陽気な声が降ってきた。
朝っぱらからこんなにテンションが高いのは一人しかいない。小学校時代からの親友の芹沢明(せりざわあきら)だ。
「ちょっと寝坊しちゃって」
上向いて顔を確認する。正解。
普段からつき合せて新鮮味もまるでない二枚目と三枚目の中間くらいの顔を眺めていても仕方ないので、突っ伏しに戻る。
こんな不快指数の高い日でもサラサラ感を失わない髪も見飽きた。
「そんなことよりいいのか?」
「なにが?」
「1時間目体育だぞ」
それを聞いて身体が反射的に勢いよく起き上がった。
散々疲れて息をするのも面倒なくらい何もやりたくない気分なのに酷すぎる。
1時間目は休息にあてようと思っていたのに……。
「遅れて怒られるのは陽だけじゃねえからさ。早くしてくれよ」
体育教師の鬼頭心人(きとうしんと)は前時代的な教育方針を打ち出している。
精神論を筆頭に、一人のミスは全員のミス──連帯責任を押し付け、体罰の代わりとばかりにあらん限りの大声で罵声を浴びせる、など。
一度目をつけられると、別の意味でとことん『特別扱い』されることになる。
その凄惨な光景を見ると、絶対にその立場になりたくない、死んでもご免だと心の底から思えるようになる。
教室の前にかけられた時計を見ると時間がなかった。
(今日は時間に追われてばっかりだ)
と、いつものように服を脱…………
カッターを脱ぎシャツから体操着に着替えるところでピタリと身体が止まった。
「どうした、陽?」
教室から人が少なくなったとはいえ、人前で着替えるなんてことができるわけがない。
今朝誓ったばかりではないか。世界から真実を隠し通す、と。
「ナンデモナイ」
何でもありすぎるけど、なんでもない。
「…? まあ何にせよ早くな。待っててやるから」
「えっと……それは困る。……すごく」
「なんでよ?」
それはこっちのセリフだ、と言いたいのをぐっと堪える。どうしてこんな時に限って追究しようとしてくるのだろうか。
適当な言い訳を探す。
瞬間、閃いた。電球。
「パリ…………じゃない。ちょっとトイレ行ってくるから先に行ってて」
言うなり返事も聞かずに教室を飛び出した。
そのまま個室に飛び込みカギをかける。
束の間の安心。それもすぐ振り払ってシャツを脱ぐ。
「やっぱり、あるんだよなあ…」
ささやかながらも確実に存在する膨らみを見て現実を思い知らされる。
深いため息が漏れる。
この手もこの足もこの体もこの頭も、身体中のありとあらゆる構成要素が不幸でできているかのように思える。
その不幸を覆い隠すように体操着に乱暴に頭を通す。
白い体操着は、白いというだけで不幸に対抗しているようだ。
これで黒だったり紺だったりすれば一層陰鬱な気持ちになっていたことだろう。
幸い体操着は元々サイズが大きめで、肝心の膨らみは外からだとシワに隠れてほとんどわからない。
グラビアアイドルみたいなポーズを取らず、気持ち前かがみになっていればバレることもなさそうだ。

──キーンコーンカーンコーン

「やばっ!」
個室の扉越しにくぐもって聞こえてきたチャイムの音。ぼくは慌ててグラウンドに駆けていった。


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