目の前に『ぼく』がいた。
そいつはまるで合わせ鏡のようにぼくそっくりで、ぼくが右手を上げればそいつもまた左手を上げるんじゃないかと思うほど精巧で精密だった。
いつもぼくが鏡越しに見ている顔──他人からの評価なら『中性的』、
ぼく自身の分析なら男にも女にもとれるどっちつかずで中途半端──がそこにある。
「誰?」
2メートルほどを挟んで問いかける。
「誰だって? それはもちろんぼくだよ。半田陽(はんだよう)さ」
ぼくの声でそう告げる。それは紛れもなくぼくの名前だった。
実は双子でふざけてぼくの名前を名乗っただけの可能性もないこともない。
でもそれはありえない。驚くべき出生の秘密も何もない、平均的な家族の平均的な人生を16年間過ごしてきたはずだ。
「もう1回聞くけど。…君は誰?」
「今にわかるさ。なにしろぼくたちは他人同士じゃない──家族よりも兄弟よりもずっと近いところにいるんだから」
『ぼく』が意味ありげににやりと口の端を吊り上げた。
「じゃあ、また」
そういい残すと踵を返し、夕闇の向こうへと消えていった。
それを待ちわびたかのように一斉に街灯がともる。その下でぼくは混乱する頭を抱えて立ち尽くすしかなかった。

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あの日から3日が経ち、でもぼくの周囲には何も起こってはいなかった。
忘れかけてすらいたのに、ここにきて思い出したのは同じような時間に出会った場所を通ったからだ。
記憶が蘇って、あれはなんだったのだろうかと改めて思う。
それとなく親に聞いてみるのもいいかもしれない。出生について重大な秘密なんてなさそうだけど。
「ただいまー」
玄関には靴が3足。兄さんのと母さんのと、珍しいことに父さんの革靴が段差に沿って揃っていた。
「あれ、今日は遅かったわね」
ダイニングに入ると料理を並べている母さん──半田円(はんだまどか)に呼び止められた。
「ちょっとコンビニで立ち読みしてて」
本当はゲーセンに行っていたんだけど、言うと確実に怒られるので適当に誤魔化す。
目でばれないように目線を母さんからはずすと、父さん──半田両一(はんだりょういち)と目が合った。
「今日は早いね。いつもは11時とかもっと遅いのに」
「ああ。会社からこれ以上残業代払いたくない、って言われてな。サービス残業するのも馬鹿らしいから帰ってきた」
コップになみなみと注がれたビールを一息に飲み干すと、心底幸せそうな顔になった。
「会社の中の人も大変だね」
「近頃は行政の目が厳しいらしくってな。それに乗じて組合も動き回っているとかなんとか。私らにゃ嬉しいが会社はたまったもんじゃないな」
ごくありふれた家庭内の話。
こんな家族にサプライズな過去があるとはどうしても思えない。
「あのさ、どうでもいいことなんだけど……」
それでも、どうでもいいことながらも心の中にわだかまった微かな不審を拭い去ろうと何気なくそれとなく聞いてみる。
「ぼくが生まれてきたときに何かなかった? 例えば双子だった、とか」
……全然何気なくない。というか直球ど真ん中ホームランコース。本当ならかする程度がちょうどいい。
けど、あまりにはずれると意味のない会話になる。
こういう話の調整は苦手だ。
「なにか……? なあ母さん、陽が生まれてきたときになにかあったかな」
「んー、特別なことは何もなかったと思うわよ」
「おお、そういえば!」
父さんが何かを思い出したのかぽんと手を叩いた。
びくっとする。何かがあったのか…正直かなりショックだ。
「産声が天使のラッパみたいに聞こえたなあ。二人目とはいえあれには感動した」
それ、なんてし○かちゃん誕生秘話?
「別に何もなかったの? 双子とか絶対にない?」
「ないわよ」
2階にある自室に戻ってからぼくは安堵のため息をついた。
白昼夢。そうだ白昼夢だ。そうでなければ何かタチの悪いイタズラだ。
方法は思いつかないけど、何か催眠術かトリックを使えばぼくがもう一人いると思わせることもできるに違いない。
声だって自分が思っているのと実際のはかなり違う。骨を通さず聞こえる声を把握している人なんてそうそういない。
『残念でした』
不意にどこからか声がした。ぼくが思っている自分の声が。
あたりを見回すと、
「やあ、また会ったね」
窓際に3日前の夕方に見た『ぼく』が悠然と座っていた。
「──! どこからっ!」
「タネも仕掛けもありまくりだけど、それは企業秘密」
ウィンクしながら指を振る。自分がやっているみたいで気味が悪い。
「どうした?」
『ぼく』がぬうっと下からぼくを覗き込んでいた。写真以外で見ることのできないアングルに違和感を覚える。
「そんなカッコつけている自分を見て恥ずかしいと思ってるだけ。もうやらないでくれると嬉しいんだけど」
考えてみれば異様な光景だった。同一人物が同じ時間、同じ場所に二人もいる。客観的に見てありえないことだった。
でも主観的には実現している。絶対的な矛盾がそこにはあった。
逆説が真であるなら、今ここで起こっていることは現実ではないことになるけど、これがよくできた夢だというには無理がありすぎた。
「何しにきたの?」
もっともな質問をぶつけてみる。最近は学校でも来訪目的を明かさないと入れない時代だ。
でも刃物かざして「生徒刺しにきました」は認められない。現状はすでに校舎に入り込んでいるのと同じだけど。
…………
これはもしかして危険度99%と赤文字で表示されてもおかしくない状況ではないだろうか。
高めに推移していた警戒心がリミットに近づく。
だが心配のしすぎではないか、という一節が頭をよぎってすぐ消えた。
いきなり殴られたり刺されたり、撃たれたりすることだってあるかもしれないし、その可能性はディープインパクトが勝つ以上にある。
一発だけなら誤射かもしれない、なんて悠長なことは言ってられないのだ。
「そう身構えなくたっていいよ。挨拶にきただけだし」
敵意をあらわにしたぼくとは対照的に、『ぼく』は平静におどけた感じでたしなめるように言った。
「いまはまだ『その時』ではないからね。『その時』になれば歴史が動く…………じゃなかった……。いやこれでも間違いじゃないか。
すぐにわかることになるさ。ちなみに『その時』は3日後だから」
今までいた窓際からひょいと立ち上がり、ぼくに向かってくる。
反射的に身構えるぼく。
部屋の真ん中にいたぼくの真横で歩みを止めた。すれ違う形で並んだ状態だ。
「じゃあ、また」
耳元で囁かれて身体がすくんだ。
その一瞬で『ぼく』は跡形もなく消え去っていた。ぼくの後ろにはドアしかない。そのドアが開いた音すらしなかった。
どこから出て行ったのかと周囲を探すと、ドアにメモ紙が張り付けてあるのを発見した。

『今はこれが精一杯』

……すごく力有り余る精一杯だと思うのは気のせいだろうか。
ふうと大きくため息をつく。安堵感からか解放感からかその区別はつかない。たぶんどちらもがその息には混じっている。
それにしても、とさっきを思い返す。
「背、伸びてた……」
並んだ時にわかったけど、同じだったはずの身長が『ぼく』だけ頭半分くらい伸びていた。
前に会ったのが3日前だったのを考えると急激な伸びだ。
身長の低いことがひとつのコンプレックスになっているぼくにとっては羨ましさを通り越して僻みにすらなる。
ともあれ終わったことだ。『ぼく』の身長なんか関係ない。そう、まるっきり関係ない。
3日前には何事もなかった。
今日も何事もなかった。
だったら3日後も何事もないに違いない。
「タワゴトだけどね」
短絡的としかいいようがないことはわかっていたけど、そうとでも割り切らないとこれからやっていけそうになかった。
それほどまでに非現実的すぎた。
(3日後に何もないといいけど)
そう願いながら、その日は眠りについた。

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次の日、目を覚ますと何だか身体がだるかった。
妙に身体が重い。何かがぼくの上にのしかかっているかのようだ。
イメージ的には象。朝焼けをバックにサバンナのど真ん中に布団を敷いてその上に象が乗っている感じ。
(せーの……!)
心の中で勢いをつけて腹筋の要領で一気に起き上がる。たったそれだけのことなのにかなり体力を消耗してしまった。
朝起きることは重労働だけど、息が切れるのは理屈に合わない。重病人でもケガ人でもないのだし。
訝りながらも、いつものように洗面台に向かう。鏡に映ったぼくが「やあ」と声をかけてくるかも、と思うあたり重症だ。
昨日のことがまだ余韻として残っている。
果たして、鏡に映った顔はいつもよりふっくらした感じだった。
むくんでいるのかと指でつついてみると、ぷにぷにとした弾力でその指を押し返してきた。
むくんだという以外にこの現象を分析できないので、仕方なしにそれ以上の詮索を打ち切る。
(身体もなんだか重いし、きっとそのせいそのせい)
深く考えてもしょうがない。日常生活は送れるし、だとすれば大したことではない。たぶん。
部屋に戻り、着替える。まずはTシャツから。
無造作に脱ぎ捨てると思った以上の涼気に鳥肌が立った。もう7月だけど梅雨に入っているせいか肌寒い。
早く替えのTシャツを着よう──
ふと目が胸のところで止まる。
「あれ?」
なんか膨らんでいるような……?
まだ寝ぼけていた意識が覚醒する。
(そんな馬鹿な!)
手に持ったTシャツを放り投げ、急いで確認する。
「…………」
見間違いではなかった。残念なことに。
確かに胸の部分が膨れていた。ささやかでちょっとで少しだけ。でもはっきりと。
「腫れたんだ。きっと。絶対。うん、そう」
恐る恐る触れようと試みる。その指が震えている。未知への恐れ。
きっとエジソンが電灯のスイッチを初めて押すときもこんな気持ちになっていたに違いない。
点灯。
「うっ…」
あまりの緊張で意思とは無関係に肺から空気の塊が吐き出される。
結論からいうと、柔らかいけれども弾性に優れたいつまでもふにふにしたい、癖になりそうな感触だった。
腫れものにしてはまったく痛くないし痒くもない。ただいつものようにそこに肌があってそれを触っている、それだけ。
「鳩胸にでもなったのかな…」
顔もむくんでいるし、全身が不調なのかもしれない。
心因性なら一晩で総白髪になったという例もあるので、基本的に何が起こってもおかしくはない。
そうやって自分を納得させる。自己防衛機能絶賛稼動中。
ふと。
いつもなら気にならないようなことが思い浮かんだ。
下、下半身、局部、陰部とも呼ばれる部分のことが、何故か。
ぼくの予想はありえない未来を描いていた。そんなことは現実的にはありえない。
でも『ありえない』ことはすでに3日前から起きている。
心音が途端に早くなる。
確認しないと、と脳が命令を出す。でも心がやめろと制止をかける。
きっと何事もないと思う反面、ひょっとしたら万が一とも思っているからだ。
どこからともなく天使とも悪魔ともつかないのが飛んできて勝手に戦いを始める。
どちらが良いことなのかわからないまま。


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