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(ああ、わたくしは、あの方を、愛している……)
 ひとしきり泣いて、美子はやっと思い当たった。男が物の怪でないと解っても、生きていればそい遂げられない。その上、男はなにも教えてはくれない。自分の身の上も、姓も名も……。男の目に愛情は感じ取れるのに、肝心のところが掴み取れない。何も知らなければ、相手の胸に飛び込もうにも飛び込めない。男の実体を探しようがない。物の怪でないのなら彼は生き霊なのだろう。現し身から抜け出た魂が美子のもとに通い、想いを遂げている。そうとしか考えられない。  
(ならば、わたくしはどうすればいいの……?)
 このまま手をこまねいて、なにも出来ずに時を過ごしているうちに、入内の日が来るだろう。男の実体と会えないままに、後宮という牢獄に連れ去られてしまう。
 募る思いは美子の心身を斬り付け、ぼろぼろにした。うち拉がれた心に、ひとつの記憶が浮かび上がる。
(いまのわたくしはまるで、あの恋文の主のよう……。恋い焦がれる想いをどうすることもできずに、恋文に想いを激しくぶつけてきたあの殿方の……)
 ただひとえに、逢いたいと綴られていた。あなたの姿を見たい。目に焼きつけたいと……。その香りを聞くだけで、死んでしまってもいいと、ままならない恋を嘆いていた。その言葉の数々は、いまの自分の心情に重なる。 
 そう、わたくしも、あの沈香に包まれているだけで……そう思ったとき、美子は愕然とした。
(沈…香……。あの、恋文に焚きしめられていた薫りとまったく同じ……)
 当時、文に自分の好みの香を焚きしめるのが雅びであった。香によって、文の送り主がすぐに解るほど、それは定着していた。唐渡りの成分が邪魔しているものの、底辺の沈香は同じ種類のものだ。つまり、恋文の主と、あの男の香が同じ……。
 到達した事実に、美子は震える息を噛み殺す。恋文の主と、男が同一人物だったら……?
 昼最中、人目の多いなかでも美子の震えは止まらなかった。なるべく几帳の陰にかくれて見せないようにしているが、やはり目立ってしまう。が、気にしている余裕は美子になかった。
 はじめて目にした恋文は、怪しく不気味と思えた。どうして見たこともない女にこれほど情熱を傾けられるのか不振だった。
 が、回を重ねるうちに印象は変わってきた。それほどまでに愛される魅力がある女かと、自問自答したりした。それほどに、飽きもせずこまめに男は文を送ってきた。恋文の内容に、せつない歌に、ときめきを覚えるようにもなった。
 一度、返事をしてみようか……? そう思った頃、父に恋文のことが発覚してしまったのだ。父は溜まった恋文を見るなり、灯台に焼べてしまった。
『ふうむ……内容は素晴らしいが、あのお方はよくない。我が家にとっては最悪の相手だ。この文のことは早く忘れなさい』
 すべての恋文が燃やされたとき、忘れなければいけないのだな、と思った。思いながらも、内容が朧になっても恋文のことをずっと覚えていた。考えてみれば、恋文を通して美子もまた見たこともない相手に淡い思慕を抱いていたのだ。
 仲立ちの佐穂から止められたのか、恋文はあれきり来なくなった。内心、美子は寂しかった。
 恋文の主と、男が同一人物だということは、佐穂を通して充分考えられる。
 気分が悪そうな主人を気にして、当の佐穂が几帳を立て廻して場所を隔絶してくれた。案じて佐穂は美子の顔色を見てみる。
「姫さま、お加減が悪いのですか?」
「そうじゃないけれど……調度、おまえに色々聞きたいことがあるの」
 ぎくり、とはっきり解るほど佐穂の顔色が変わった。
「な…なんのことでございましょうか」
「……おまえ、いまでも恋文の方と連絡をとっているの?」
「え……」
 言葉少なになる佐穂に、美子は切り込む。
「この二日ほど、わたくしのまわりに怪異が起きているのよ。それも、おまえがあの沈香を焚くようになってから……。ある殿方の生き霊が、わたくしのもとに夜な夜な忍んでくるのよ。それで、嫁ぐ前のわたくしに……」
「お、お許し下さいませ……!」
 美子の言葉が終わる前に、佐穂は蒼白になって目の前に額ずいた。
「わたくしが、ついつい誘惑に乗ってしまったせいで……!」
「……え?」
 真実を吐かせるつもりで切り出したのに、思いもしない科白が飛び出す。
「……誘惑? どういうこと? まさかあの方と!?」
 気色ばんで美子は問いつめる。佐穂は否といった。
「……いいえ。わたくしの相手は主上の一の宮さま・朝道親王さまにお仕えする家人で……」
 主上の一の宮・朝道親王……。思い至りもしない高貴な人の名に、美子は目を白黒させた。

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 佐穂の話では、恋文の主は一の宮・朝道親王だという。
 朝道親王は現天皇の第一の親王で二十三歳になる。天皇が位についた頃、ある更衣を寵愛して生ませた。更衣は頼りになる親族・後ろ楯がなく、嫉妬と怨嗟に塗れた後宮に神経が耐えられず早くに亡くなった。したがって、いまの一の宮も廃れ親王同然の立場にある。それからのち、権勢家の左大臣の一の姫・透子が入内して東宮を生した。一の宮は東宮の異母兄である。
 以前から、一の宮は左大臣の二の姫・美子が美しいと噂を聞き、懸想していたという。そこで、主人を思った家人・伊清が美子から一番近い侍女・佐穂に近づいた。若く逞しい伊清は二十歳の中ごろに差しかかった佐穂を容易く口説き落とした。こうして伊清と佐穂の関係が始まったのだが、佐穂にとって、それは新たな苦しみの始まりだった。
「伊清は、わたくしと関係を結びながらも、一の宮さまと姫さまの仲立ちをしてほしいと懇願してきたのですわ。それで、つい、わたくしも文を預かって……」
「おまえは、伊清にうまく利用されたわけね……」
 悄然と、佐穂は頭を垂れる。恋をしている者の心は当事者である美子がよく解る。これ以上佐穂を苛めるのは酷なような気がした。
「はじめのうちは、ことがうまく運んで姫さまにお文をお見せいたしましたでしょう。でも、左大臣さまに見つかって……。さいわい、わたくしが仲立ちしたことは明らかになりませんでしたけれど」
「そうよ……それで、終わるはずだったのでしょう?」
「ええ……ですが、一の宮さまのお嘆きが思いのほかで……。食事も咽に通らないほどらしくて……。
 実は、姫さまには内緒にしていたのですけれど、一度、夜に忍んでこられたことがあるのですよ。そのとき、わたくしが手引きして……。はじめて一の宮さまにお会いしたのですけれど、それはそれは真摯で、誠実そうな方で、この方ならばとわたくしは思いました」 
 さらさらと佐穂は流すが、美子は聞き捨てならないことを聞いたような気がした。
「て、手引きをしたですって? 夜に、忍んでこられたですって!?」
 聞き咎めるが、佐穂はあっさりと告白した。
「姫さまの入内の日取りが決まってからですわ。
 一の宮さまは一期の思い出にと、一度でもいいから姫さまを垣間見たいとおっしゃられたのです。
 そう、賀茂の祭り(葵祭)の夜、侍女達が総じて出かけていった日があったでしょう。その日しか機会はないと思ってわたくしがご案内申し上げたのです。決して間違いを起こさないとお約束してくださったので」
「……」
「結局、逆効果だったようですのね。忘れようと、たった一度の思い出にと忍んでいらしたのに、かえって物思いがひどくなられたようなのです」
 佐穂は、はっきりとそのときの情景を思い浮かべ美子に語った。
 満月が美しい夜。月光に照らされて座っていた美子を見て、一の宮は涙をひと雫流し呟いた。
『ああ、美しい……』
 涙を拭うのも忘れ、倦むことなく美子だけを熱い瞳で見つめ続ける。一の宮に見られていることを知らず、美子は物憂げに脇息に寄りかかっていた。薄い几帳が風に揺れ、相間にはっきりと美子の姿を浮かび上がらせる。
 一の宮の腕が震えていたことに気づき、危険を感じて佐穂は促した。
『さあ、もうよろしいでしょう。みなが帰ってまいります』
 彼も、無理強いしようとはしなかった。がくり、と頷いてみずから踵を返した。
 佐穂は、このとき一の宮ならば、美子を与えても、と思ったという。
「あれから幾月か経ちまして、一の宮さまはとうとう床にお付きになったそうですわ。それも、すべて姫さまを想ってのことなのです。
 そこで、見兼ねた伊清が、市で怪しげな薬を見つけてきたのです」
「怪しげな薬……?」
 固唾の呑んで美子は聞き入る。
「唐土に伝わる方士の秘薬だそうですわ。それを、一の宮さまがお好みの沈香に交ぜ、枕元に焚いたそうですわ。
 なんでも、その薬はひとの魂を飛ばす作用があるそうで、薬を混ぜられた同じ種類の香が焚かれた所に魂は辿っていくとか……。遊魂にとって、そこで起こった現実は夢でしかなく、相手にとっても実際に起こったことではないので、与える打撃もそれほど大きくはないと……。一の宮さまをせめてお慰めするための、伊清の心なのですわ」
 聞いて、美子は伊清が恨めしく思えた。
 一の宮にとって、美子との間でなした交わりは夢でしかなく、美子にとっても打撃は少ない、など……。
 美子は怒りの眼差しで佐穂に詰問した。
「どうして、そんな馬鹿な企みに手を貸したの! 一の宮さまの慰めですって!? 一の宮さまにとってわたくしとの交わりは夢でしかないのに! わたくしにとっても、打撃が少ないとは言い難いわ!  
 そうして、一の宮さまは眠り続け、わたくしは生す術もなく入内してしまうのね!」
 これでは、空しすぎる。一の宮の想いも、自分の恋も、夢で曖昧にされいつしか消えてしまうだろう。それが、一の宮にとって、自分にとって救いなのか?
「……このままには、しないわ……」
 ぽつり、と美子は低く呟いた。そのときである。
「ねえさま! こんなところに閉じこもられて、なにをなさっているの?」
 立て巡らされていた几帳をどけながら、薔子が割ってはいってきた。どかり、と美子の隣に座り込む。咄嗟に佐穂は脇息を暢達してきた。
「ありがと」
 佐穂にそう言って、薔子は姉に向き直る。
「困るわよ。わたくし、父さまにねえさまのお相手をしろと命じられてるの。近頃、ねえさまのお心が不安定だって。近く東宮さまに入内する方がこれでは駄目だって」
「……余計なお世話よ」
 機嫌が悪く、美子は独り言を言う。ふふん、と薔子は笑った。
「ねえさまの情緒不安定の原因、もしかして在五中将だったりして」
「冗談を言うのはいいかげんにして」
 美子は取り合わない。
「あ、正確には、在五中将に立場の近い方、だったりして」
 妹の発言に、美子は瞠目した。
「先程のわたくしと佐穂の会話、聞いていたの……!?」
「まあね」
 ぺろり、と薔子は舌を出した。   
「なんだか夢みたいな話ね。あ、一の宮さまにとっては夢なのか」
「……わたくしにとっては、夢ではないわ」
「あ、そうね。でも、入内してしまえば立ち消えでしょ」
 勝ち気でつぶらな瞳が美子を覗き込んでいる。美子は顔を背けた。
「……あなたは、どうしてわたくしが東宮さまに入内することにこだわるの。父さまほど真面目な理由じゃないでしょう」
 むっとして、薔子が脇息から身体を起こす。
「わたくしは、ただ、ねえさまに目を覚ましてほしいだけよ。いつまでも子供じみた夢にしがみついているのは愚かだって、はやく気づいてほしいだけよ」
「子供じみた夢じゃないわ。現に、わたくしと一の宮さまは……」
「それが、夢だと言うのよ。
 あの在五中将の例をみてみなさいよ。高子姫と駆け落ちまでしているのに、結局は結ばれなかったわ。現実は、そんなものよ」
 うっと、美子は詰まった。一の宮と自分が現実に結ばれるためには、在原業平や高子姫のように世間から背を向けなければならないのだ。はかりしれない勇気がいる。美子は唾を飲み込んだ。
「高子姫だって、連れ戻されておかげで貴い地位にまでいけたんでしょ。后になり、帝の母ぎみにもなれたのだから。ねえさまも、このまま黙って東宮さまに入内したほうが賢いわよ」
「じゃあ、あなたは恋をしたいなどとは思わないの?」
 今度は、薔子が詰まる。
「そ、それは、一度ぐらいは……」
 ここが正念場とばかり、美子は念を押す。
「薔子、入内してしまえばね、他の殿方との恋は許されないのよ。それで、本当に幸せ? 女として生まれて、本当に幸せなの?」
「で、でも……無理よ、わたくしたち、権謀家の娘に恋など許されないわ。優れた家に生まれた、それが、わたくしたちの誇りではないの!?」
「わたくしは、そんなこと一度も思ったことないわ。わたくしたちは、親兄弟にいいように利用される人形なの? 愛してもいない方に嫁いで、他の女人方と妍を競わなくてはいけないのよ。それが、本当に望んでいること?」
 段々と薔子の勢いが弱くなってくる。
「わたくしは……この家に相応しい生き方をしたいだけよ。たしかに、恋に憧れる気持ちも解るわ……でも、女として最高峰に上り詰めるのもいいかな、と……」
「なら、あなたが入内しなさい」
 はっきりと告げられ、薔子は目を見開く。
「……ねえさま?」
「父さまにとって、東宮さまに入内するのがわたくしだろうとあなただろうと、構わないはずよ。要は、父さまの娘が后になって、次の主上を生めばいいのだから。だから、望むのなら、あなたが后になって。 わたくしは、父さまが一の宮さまを危険視しないように運びたいの。父さまが一の宮さまを嫌うのは、一の宮さまが皇位を継ぐ資格のある親王さまだからよ。一の宮さまが皇位を放棄して、父さまの傘下にはいれば、すむことなの。一の宮さまにとっても、そのほうが生きやすいはず」
 一の宮が浮かべていたあの哀しい微笑みは、世をはかなんでのものなのだ。後見もなく、孤独を味わって今まで生きてきたのだ。生きることに絶望し、心から愛していた姫も、母の身分が低いことから年下の、成人していない弟に譲らなければいけないのだ。
 だとすれば、一の宮にとって考えようによっては、自分との婚姻は不利ではないのではないのか。権力家の父と組めば、きっと甲斐のある生き方ができる。美子は両の手を強く握りしめた。
「ね、ねえさま……そんなこと、許されるの? 父さまに逆らうことなどできるの?」
「わたくしは、諦めないわ。諦めるなんて、哀しすぎるわ」
 薔子は姉の変わりようを茫然と見つめていた。立ち上がり侍女達のもとにいく美子の後ろ姿は、雄々しい。いままでの姉には見られない姿だ。
「ねえさまって、そんなに強かったかしら……」
 呟いて、肩を竦めた。

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 佐穂が香炉に沈香を焼べるのを、美子は不思議そうに眺めた。
「本当にその香が、一の宮さまの魂を導いているの?」
 待ちわびた夜がやっと訪れたので、美子はそわそわしている。恋しい人の正体が判ったので、また昨夜とは一段違った心持ちだった。一刻もはやく、美子は一の宮に逢いたい。
 にしても、美子はもうひとつこの沈香の効果を信じられないでいた。すこし怪しい薫りが混じっているだけで、他の香と別物には見えない。
「ええ、伊清はそう申しておりましたわ。それに、実際、一の宮さまは姫さまの寝所に忍んでいらしたのでしょう?」
 佐穂にそう言われて、美子は顔から首筋まで紅潮する。
「わたくしも、本当に一の宮さまがいらっしゃるかどうか疑問でしたわ。伊清にも本当にいらっしゃるかどうか確かめてくれと言われましたし。
 そうしたら、二日前に忍んでいらっしゃったでしょう」
 ちら、といたずらっぽく佐穂は美子を見る。夜目にも赤い美子の面が面白く、佐穂は吹き出す。美子は汗を吹き出しながら咎めた。
「佐穂、悪趣味なことを言うのね!」
「申し訳ありませんわ。でも、わたくしは確認したあとすぐに下がりましたわよ。お邪魔になってはいけないからと。
 わたくしは心底、一の宮さまがおいたわしくてならないのです。あれほど姫さまに恋い焦がれておられて……。わたくしは、姫さまには一の宮さまの方がお似合いだと思いますわ」
「それは、わたくしが一の宮さまに恋しているからそう言ってくれるの?」
 虚をつかれて、佐穂は美子を見る。くす、と美子は笑った。
「わたくしのことなら何でも解るおまえだもの。きっと、気づいてると思ったのよ」
 ふふ、と佐穂も微笑む。
「わたくしは、確かに一の宮さまがおいたわしいと感じましたけれど、ことがうまくいくかどうかは、姫さまのお心次第だと考えておりました。だから、一の宮さまが忍んでこられるまで、姫さまにこの香のことを何もお話しなかったのです。お話しすれば、姫さまに恐怖を与えてしまったでしょう」
 確かに、先にそのことを聞いていれば、一の宮を受け入れなかっただろうと美子も思う。
「ですから、姫さまが一の宮さまに恋されたことは、わたくしにとって大誤算でしたのよ。
 わたくしも、姫さまがこのまますんなり東宮さまに入内されたほうが、一の宮さまとの恋を貫くより危険は少ないと思いますもの。現実に、姫さまはきっとまだ乙女のままですわ。いまなら危険な橋を渡らずにすみますわよ」
「佐穂……」
 侍女の言葉に、美子は項垂れる。佐穂は細く息を吐いた。  
「それでも…姫さまが、本当に一の宮さまをお慕いしていらっしゃるのなら、わたくしは味方いたしますわ。姫さまも、お可哀想な一の宮さまもそれで救われるのなら」
 こくり、と美子は頷く。
「では、もうすぐ一の宮さまが参られますわね。わたくしは下がりますわ」
 手をついて頭を下げると、佐穂は立ち上がった。御簾を引き上げ、ふと、振り返る。
「どうか、頑張って下さいませ」
 佐穂はにっこりとそう言い、御簾の陰に消えていった。
 主人思いの侍女にありがたく思い、美子は頬を袖で覆った。
 御帳台のなかで、まんじりともせずに美子は一の宮を待つ。沈香が濃く漂ってきて、美子は彼が来たことを悟った。
 美子が入内すると知ったとき、一の宮は何を思っただろう……。月明かりの中、皎々と艶やかな美子をかいま見、一の宮は動揺したのだろうか。美子は、あのとき涙を流した一の宮の心のうちを思い、せつなく苦しくなった。はやく、恋する人の姿を見たくて御帳台から出た。
 泣きそうな顔をした美子に、沈香の男……一の宮は瞠目していた。彼の様子を気にせず、美子は飛び込んでいく。
「一の宮さま……っ!」
 思いにもよらず、美子から自分の名を聞き、一の宮は身体を強張らせた。彼の変化に、美子は面をあげる。
 いままでよりも一層悲愴に、一の宮の顔が歪んでいた。震える手を美子から離し、一の宮は片手で顔を覆う。
「一の宮さま……?」
 どうしたのかと、美子は問いかける。堅く目を瞑り、一の宮は美子を見ようとしなかった。
「どうかなさったの……わたくしが、あなたのお名を知ってしまったから……? どうして、なぜ、知ってはならないのですか!?」
 一の宮の拒絶に、美子は錯乱して取り縋る。が、美子の掴む狩衣が、次第に透けていく。驚愕して、美子は一の宮を凝視した。
「一の宮さま……」
 彼は、涙を流していた。何かをいいたげに口を数度開け、言葉にならないのに気づき無念そうに噤んだ。そうするうちにも、彼の身体は闇に溶け込んでいく。
「いや、行かないで……っ!」
 美子は引き止めようと手を差し延ばす。ほとんど消えかけた口元が、かすかに開き、掻き消えた。
「さようなら……」
 今度は、はっきりとそう聞こえた。
 さようなら……。
 最後にそれだけ言い残して、一の宮の生き霊は消えた。泣いている美子を残して。
「いやあああぁぁぁーっ!」
 はち切れんばかりの声で、美子が叫ぶ。隣の間に控えていた佐穂が驚いて駆け付けてきた。
「姫さまっ!? ……一の宮さまは!?」
 問いかける佐穂に構わず、美子は突っ伏して泣きじゃくった。

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「……それで、すっとねえさまは床に伏してるの?」
 朝、御帳台に薬湯を運ぶ佐穂に、薔子が尋ねる。面を暗くして、佐穂は頷いた。
「本気……なのね。ねえさま、一の宮さまのこと……。
 それにしても、どうして一の宮さまはねえさまがお名を知っただけで消えてしまわれたの?」
 判然とせず、薔子は顎に手を当てる。
「多分……一の宮さまは、ご自分と姫さまでは結ばれることは適わないと思っていらっしゃるのでしょうね。一度、左大臣さまにさし阻まれてしまわれたから」
「……一応、一の宮さまも皇位を継ぐ資格があるお方だからでしょうね。東宮さまを擁する父さまには、一の宮さまは煙たい存在なのよ」
 薔子の言に、佐穂は涙ぐむ。薔子は溜め息をついた。
「まったく……一の宮さまも弱腰ね……」
 薔子がそう言う。と、
「一の宮さまのことを悪く言わないで!」
 御帳台のなかの美子が聞きつけて妹を咎めた。几帳と壁代を幾重にも隔てたところにいるというのに、薔子と佐穂の会話を聞きつけたのだ。やぶ蛇だと、薔子は首を竦める。仕方がないと、佐穂とともに御帳台の前に進んだ。
 一晩泣き続けて瞼を腫らした美子が、恨めしげに薔子を睨んでいる。大きく嘆息し、薔子は姉の身体を起こした。佐穂が薬湯を勧めると、美子は少しずつ呑んだ。
 思いきって、佐穂は美子に切り出した。
「あの…一応、伊清を呼んだのですけれど、お会いになりますか?」  
 その言葉に、美子の顔色が変わった。
「はやく、座を造ってちょうだい!」
 姉の意を汲み、薔子が侍女達に指図する。美子は妹の変わり身に唖然とする。
「……恋煩いで寝込んでいるなんて、ねえさまも一の宮さまも情けないじゃない。ふたりとも、元気になる方法を考えたほうがはやいでしょ?」
 妹の性格らしく、すこし皮肉が入っているが、妹が手を貸してくれていることに気づき、美子は表情を明るくした。 

 御簾と几帳を立て廻し、姫ぎみ達の存在を消して座が造られた。
 確かに、佐穂を魅了しただけあって、伊清はなかなか魅力的な男だった。少しばかり幼顔で、濃い眉が聞かぬ気そうだ。一の宮には劣るが、男振りの見事な青年である。美子と薔子はなるほど、と佐穂を見やる。佐穂は恥ずかしそうにしていた。
「……それで、いま、一の宮さまは?」
 我慢できず、美子は伊清に詰問した。
「いまは、眠っておられますが、もうすぐ薬が切れそうで、もう、姫さまのもとには……」
「来られなくなられると、いうこと……?」
 茫然と、美子は呟く。みるみる顔色が暗くなっていく。
 見兼ねて、薔子が問いかけた。
「もうすぐ、ということはまだ薬は切れていないのね。まだ、すこしはあるのね」
「はい、それは……」
「だったら……」
 明るく言う薔子を、美子が遮る。
「でも、もうすぐなくなるのよ。切れてしまえば一の宮さまは来られなくなるわ」
 嫋々と言い、美子は涙ぐんだ。薔子は姉の手をぎゅっと握る。
「すぐに、ここにその薬を持ってきて!」
「は、はい……?」
「はやくっ!!」
 薔子にどやしつけられ、伊清は腰を浮かせた。
 美子も妹が何を企んでいるのか合点がいかず、茫然としている。
「薔子……?」
 まだ、何か足らず、薔子は佐穂を手招いた。
「ねえさまの好みの香って、たしか梅香よね」
「ええ、そうよ」
 美子は頷く。
「佐穂、梅香をふたつ作れるぐらい持ってきて。それで、その、方士の秘薬とかなんとかを、梅香に混ぜるのよ。出来上がったものを、ひとつはねえさまが寝る前に焚いて、もうひとつをねえさまの支度ができてから一の宮さまの枕元に焚くのよ。そうね……目安は、一の宮さまの沈香の薫りがふた方、完全になくなったころ」
「そ…それは、三の姫さまっ」 
 興奮して、佐穂が思わず立ち上がる。にこり、と薔子が笑った。
「そう。そうすれば、ねえさまも一の宮さまのところに行けるわけでしょ。あとは、ねえさまが一の宮さまを説得して」 
「説得……」
「そうよ、それぐらい、できるでしょ? わたくしに、あんな大きなことを言ったぐらいだから」
 挑戦的に、薔子は美子に語りかけた。はじめ、東宮に入内したほうがいいと言っていた彼女が、いまはこころから姉のしあわせを願っている。美子は嬉しかった。

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 急いで帰ってきた伊清は、小さな袋を携えてきた。袋をあけると、むわっと、鼻をつく異臭が漂った。
「なにっ、これ……?!」
 大袈裟に、薔子は鼻を袖で覆った。
「ほ、本当に、これを混ぜてあの沈香を造ったの……?」
 美子も不審げに聞く。
「間違いございません」
 伊清は断言する。
 佐穂は秘薬を受け取ると、姉妹に見せた。薔子は嫌そうな顔で、払い除ける。
「佐穂。誰か、信用できる侍女がいれば呼んできて。その人と一緒に梅香を造ってちょうだい」
 薔子に言われると、佐穂は承知して下がっていった。
 あと、伊清にも命令する。
「伊清、これから佐穂と侍女達に秘薬入りの梅香を造らせるから、出来上がったらそれを持って帰って一の宮さまの枕元に置いてほしいの。ねえさまの方が先に香を焚くので、支度ができたら使いに文を持たせるわ。それが合図だから、香を焼べて」
「で、でも、姫さま……」
 伊清は逡巡する。
「おまえは、一の宮さまが一番大事よね? 一の宮さまの幸せを一番に考えて、ねえさままでまきこんだのよね」
「は、はい……」
 さすがに後ろめたく、伊清は小さくなった。
「これは、一の宮さまのおためなのよ。ねえさまが、一の宮さまの処に行くから。ねえさまのこと、頼むからね。
 絶対に、わたくしの名誉にかけて、一の宮さまをひどい目に遭わせないから」
 薔子のほうも、何かを決意したらしい。美子はそれを敏感に感じ取った。
「薔子、あなた……」
 照れくさそうに、薔子は小鼻を掻く。
「ねえさま、わたくしは、権勢家の娘として生きるから。ねえさまは、違う生き方を見つけて」
 そう言って、さっぱりと笑った。
 
 すべては、薔子の思惑どおり運んだ。
 出来上がった梅香を伊清に持ち帰らせ、もうひとつを佐穂に渡した。美子は佐穂と視線を交わし、頷いた。
 夜の闇が立ちこめ、何も知らない侍女達は美子の寝所を整えた。侍女達が下がると、いったん寝間着を纏っていたのを、単に着替え、袴を履き、新調の袿を三枚重ねて纏った。佐穂に念入りに髪を梳らせて一の宮に逢う支度をする。
「もうそろそろ、沈香の薫りは消えたかしら」
「そうですわね……」
 鼻孔を動かし、佐穂は答える。
「では、そろそろ……」
 佐穂は立ち上がると、沈香で使ったものと違う香炉を持ち出し、梅香を焼べた。ふわり、と梅の香があたりを舞う。
「佐穂……わたくし、一の宮さまにお返事を差し上げようと思っていたの。そのときに、この梅香を焚きしめようと……。でも、その前に父さまに見つかってしまって……。すこし、残念だったの」
「姫さま……」
 微笑み、美子は御帳台に横たわる。柔らかな薫りに包まれ、眠りが押し寄せる。
「姫さま、使いが出立したようですわ」
 まどろみながら、美子は頷く。
(いま、参ります……)
 美子は、遠く離れた一の宮に語りかけた。  


(3)へ続く


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