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咲き誇る桜が屋敷を彩る……音羽家。
新都東京の池谷に建てられた広大な西洋風お屋敷は、周囲の人々には「桜館」と親しみを込めて呼ばれている。
その館に住まう人々は、人の目には華麗で優雅という印象をもたれるようだ。
だが桜館に住まう人々の関係は、外的には極普通と言えなくもないが、内面は荒んだ風が吹きつけていることを知るものはそれほどいない。
「兄上」
春に帝大の文学部を首席で卒業したばかりの音羽家長男総一郎は、今日は珍しく館の庭に佇み散りかけの桜を仰いでいる。
総一郎は、青年の年になるにつれ、その顔貌は「華族一の麗人」といわれた母楓子に瓜二つとなっていく。 黒曜石の如し瞳に、日焼けなどほとんどしない肌。髪は瞳同様の色で、今は髪が伸びて瞳に微かにかかっている。
微笑めば質実な梅を印象づける青年だが、滅多にその顔に笑みは見られず、いつも涼しげな表情を絶やすことはない。
喜怒哀楽を封印したかというかのような、能面のように変わらぬ涼しげな表情。
物腰はさして男性としては引き締まったと表現することは難しいが、どちらかというと着やせする方で人の目には華奢に映ることが多いようだ。
和服も洋服も上品に着こなし、鹿鳴館あたりでは「美麗な御曹司」として、父鷹久には上流華族より持ち込まれている縁談は数知れぬと噂になっていた。
だが音羽伯爵家の御曹司が、二十三歳になった現在において、華燭の典(婚礼)を挙げていないばかりか、いまだに許婚すらいない状況に…… 世間は怪訝に思っているのも確かだ。
今は大学院に通い……大学入学とともに館の者すべてが反対する中で、あえて館を出て下宿を選んだ総一郎が、館に戻るなどよほどのことがないがきり ありえないことだった。
「久しいな、九朗」
と、タバコを吸っていた総一郎は、口よりそっとタバコを離して、そういった。
今日は珍しく和服を着用している。いつもよりは幾分くつろいだ服装だが、総一郎が着ればすべてが優雅に見えるのが不思議だ。
九朗はほぼ半年振りに顔を合わせた兄のもとに近寄り、再びその口にくわえられたタバコを背伸びして強引に奪い取った。
「ダメです、兄上。タバコは身体によくない」
と、一瞬だけ滅多に移り変わらない涼しげな表情に苦笑が刻まれたが、それは風に乗って瞬く間に掻き消えていってしまう。
九朗は少しだけ胸がジクリと痛んだ。
この兄総一郎が、極度に表情を作るようになったのは今から十年前のこと。あの音羽家で起きた惨劇が、多感な少年だった兄の心を凍らせてしまったようだ。
「九朗は相変わらず、タバコについてはうるさい。……おまえの前では吸わぬようにしなければならぬな」
音羽家次男……九朗は、十三歳。中学二年にあたる。この時代の旧制中学は、中学四年になると誰でも旧制高校に進学することができるが、 旧制高校とは少数精鋭主義で受験合格はかなりの難関といえた。また帝大進学を希望するものが多い。そのため授業内容も難しさを極め、 留年、落第などは日常茶飯事。
あと二年進学までは時間があるとはいえ、今の時期で家庭教師について勉強をしている九朗だった。……その勉強の量にため息がつき、 今の時間は英語の勉強なのだが……ついつい放棄して桜を見に来たのだが。
「兄上は僕と違ってあまり身体がよくないのですから、タバコはやめてください」
「九朗……家庭教師の呼び声が聞こえていたが」
ギクリとなり、九朗はお得意のにこにこ笑いをしたが、兄はタバコの箱を取り出し、もう一本タバコを吸い始めた。
「兄上……」
「これから父上に呼ばれている。……気分を害すべき前に一服させろ」
父鷹久と兄は、ここ数年顔を合わすのもお互い避けあっている。もともと仲のよい父子とはいえなかったらしいが、十年前の事件が発端でさらに悪化した。 父に言わせれば日々母楓子に似てくる兄を見るたびに寒気が襲うらしい。
(僕には優しい父上だけど……)
兄への反動か、父は九朗を目に入れても痛くないほど可愛がってくれる。
それこそ猫かわいがり。あろうことか、音羽家を九朗に継がせたいなどと言い出している有様だ。
(跡継ぎは兄に決まっているのに……父上は)
総一郎と九朗は母親が違う。
総一郎の母は正妻で、旧五摂家につながる名門公卿出身である。だが九朗の母は、その正妻に仕えていた女中。 九朗は一応は音羽家に庶子と認められているが日陰者の立場であることは変わらず、一切に公的な舞踏会や晩餐に音羽家次男として出席することは 許されないことだった。
『それは九朗が成人していないからだよ。もっと大きくなったら私と一緒に行こうね』
音羽家の兄弟は母が違うといえども仲がよいと評判だった。兄は自らが恵まれた出生たることを気に掛けているのか、ことさらに弟を気づかい、 弟は自らが兄の災いにならぬように控えめで、兄を立ててきている。
それはある意味奇妙な光景だった。
「そろそろ行く。……またな、九朗」
「兄上。たまには帰ってきてください」
すると総一郎は足を止め、スッと振り返りその瞳には冷たき感情が込められている。
「私がいない方が、父上にはよいこと。ついでに、波風が立たなくておまえにもよいのではないか」
「兄上」
「この家はおまえが好きなようにすればいい。私は何もいらない」
その氷を思わせる冷たき眼差しが辛くて、九朗はついつい視線を逸らしてしまった。
時折見せるこの兄の「氷の視線」は苦手だ。というよりも怖くて……震えてしまう。
何事にも完璧で、滅多に感情を見せることなく毅然とある兄。母を失った九朗をその手で育ててくれ、温かな優しき愛情を与えてくれる一方、 ほんの時折、ゾッとするほど冷たき目で九朗を見据えることがあったのだ。
(兄上……誰よりも尊敬している兄上)
その目を見るたびに、思い出してしまう。始めて兄と顔を合わしたときの、あの冷めた目を。
「僕はずっと兄上を助けようと決めて育ってきたんです。兄上が伯爵になって僕が補佐する。だって兄上ずっと言われたじゃないですか。 ……早く大きくなって兄を助けておくれって」
「九朗……」
「だから僕はがんばってきた。すべて兄上のために。兄上の役に立つために……それさえなくなったら、いったい九朗には何が残る??? 昔から九朗には兄上しかいないんだよ」
そう涙混じりに叫びつつ、九朗の心にはただ兄を尊敬し愛する心以外にも確たる何かがあるのだった。それは人に語れるものではない。 九朗自身も忘却の海に捨てて、二度と思い出したくはない感情だろう。
だが忘れられないのは、その思いが根強く心に留まっているからに過ぎない。
春になれば思い出す。
『九朗……』
そう自分を優しく呼んだ人の声を。
忘れはしない。その人が命を失った日の悲劇。九朗を命を投げ出してかばった母のぬくもりを。
「それとも兄上。もう九朗なんていらないんですか。九朗じゃ役に立ちませんか」
その悲痛な言葉に総一郎は何一つ答えを返しはしなかった。
黒曜石の静かな瞳は、感情など一切込めずに九朗を見据えるばかりだ。
「兄上……帰ってきてください。ここは兄上の家。兄上がいずれ治める家でしょう」
「父上は九朗に継がせたがっている。……俺はもうあの父に関わるのはごめんだ」
「兄上」
「父上の好きにさせればいい。九朗の思うままに致せばいい。この家に縛られるのは、もうたくさんだ」
そうして総一郎は背中を九朗に突きつけて、庭より館に向けて足を踏み出した。
完璧な容姿、完璧な頭脳。何をしてもほぼ完璧にこなす兄と、何をしても思うままにいかない自分はどうしてこうも違うのだろうか。 九朗にとって総一郎は憧憬とともに、劣等感の象徴ともいえた。
勉強ひとつ……どの教科においても、家庭教師なしで旧制高校に首席で入った兄に追いつかない。このままで行くと高校受験は見事に 落ちる可能性すらある。
(どうしてこうも自分と兄は違うのだろう)
兄のようになりたいという心。それが強くなるたびに劣等感が強くなり、そして兄の顔を見るたびに九朗の心は激しく揺れる。
普段ならば決して抱かない思いに苛まれる。
……母を殺したあの人に瓜二つの顔。
(兄上……)
九朗は苦しんでいた。この苦しみをどうにかして欲しい、と縋る相手は兄しかいない。
尊敬し憧憬し劣等感すら抱く兄を、心の奥底で憎しみを抱いている自分を九朗は認めたくなくて、忘却の海に沈めたくて、 その葛藤に苦しみ続ける。
「僕はこの家なんか継ぎません」
兄が継ぐもの。兄が当主となり治める。それは幼いころから九朗がわきまえてきた当然のことであり、庶子でしかない自分が表に出ることなど許されないこと。
九朗はイヤというほど自分の立場というものを使用人たちに教えられてきた。
半ば世継ぎの座を放棄するように帝大の文学部に進学し、家を離れたときなどなおさらだ。
この家は兄のもの。自分は兄の母から父を奪った女中の子供でしかない。
どれだけ使用人に冷めた目を浴びせられてきたろうか。
母春香が自分をかばって楓子の手にかかって死んだのも、さも当然というような目。気が触れた楓子を哀れむような使用人の目。
九朗には自分という存在を支えるには、父の猫かわいがりと、弟として扱ってくれた兄の思い出しかなかった。
そのためもしも自分が家を継いだら、この館の使用人ばかりか鹿鳴館あたりに死した母とともに悪し様に言われるのは目に見えている。
『泥棒猫の子供』
九朗は桜を見ながら、両手で耳を覆った。
滅多に家に戻らない父。館を出ていった兄。ひとり残された九朗が、この館でどんな風に見られているのか知っていようか。
膝を抱えて毎日泣いているのを知っていようか。
どんなに劣等感を抱かせる象徴でも、愛情とともに心の奥底に憎悪を抱く兄だろうと九朗は総一郎に側にいて欲しかった。
確たる肉親として、自分を愛してくれるのは兄しかいない。
父の愛し方は、ただ自分の顔に母の面差しを写し、母を愛しているだけなのだ。
兄に会って兄に抱きしめてもらわなければ、九朗は分からなくなる。
自分は生きていていいのか。
昔のように総一郎が「自分のために」と言ってくれなければ、九朗は分からない。
兄のために、という言葉が九朗にとっての精神安定剤であり、そして兄に対する贖罪でもあった。




「総一郎」
血の繋がった実の父子というのに、総一郎は父鷹久と二人っきりで顔を合わすのは、実に四年ぶりといえた。
そう、帝大に入学が決まり、父に断らず勝手に下宿先を決めてきたとき以来だ。
あのとき、総一郎は父があっさりと下宿を許すと思っていた。この館から自分が出て行くことをむしろ歓迎すると信じて疑っていなかったのだ。
(あなたは九朗を跡継ぎにしたいのだから)
その障害に過ぎない自分が、音羽家より出て行くことをどうして反対などしようか。
だが総一郎の考えは見事に覆されたのだ。
『ばか者が』
何一つ言葉を挟むことなく、総一郎は生まれてはじめて父に容赦なく殴られた。
口の中が切れ、ツッと血が流れてこようとその痛みよりも、殴られたことに驚いて総一郎は立ち尽くしたものだ。
『おまえは音羽の名に傷をつけるつもりか』
そうして、総一郎は納得した。
父という人は、自分の思惑よりも世間体を気にする人だということを。
このまま何の落ち度もない嫡子を廃嫡にして追い出し、庶子に家を継がすほどの勇気はない。まして総一郎を追い出すこととなれば、 母楓子の実家一条家が黙っていないだろう。
自我を押し通す欲望より、世間体を気にして縮こまる小心者の男でしかない。
総一郎は呆れ、今まで父に抱いていた厳格という印象を消した。
あの日より四年が経つ。
今では何か自分に落ち度がないか公然と捜す父に、いつ自分から廃嫡を願おうか総一郎は機会をうかがっていた。
一番父が堪える方法で、縁を切る。
それが母楓子を裏切り、気が触れるほどに追い込んだ父へ捧げる総一郎の私情でもあった。
(だが、な)
まるで親に捨てられるかのように怯え縋る目をする異母弟の顔を見ると、無情と呼ばれる総一郎の胸にも微かな痛みがこみ上げる。
「大学院をやめて家に戻れ」
と、久々に会う息子に父が投げつけたのはそんな言葉だった。
「鹿鳴館あたりで噂になっている。……おまえが家を出たのは、九朗に思うところありだとかな。 そろそろ文学ばかりに浸っておらず、先の道を考えろ。父の跡を継ぎ貴族院の議員となるもよし。財界の道をいくか。それとも帝国陸海軍の士官になるのもよい」
「そのどれも御免です。俺は記者になるつもりですから」
「……総一郎。おまえは伯爵家の世継ぎだぞ」
「それは九朗に継がせるといいでしょう。記者か編集の仕事につくつもりです。私は働きますよ。伯爵家などすべて捨てて、 ひとりで生きていきます」
そこで父は怒りのまま拳を握ったので、総一郎はまた殴るのかと腹の中で笑った。
「伯爵家の一員に相応しくないとして勘当したら如何です。……よかったですね、父上。これで九朗に跡を継がす理由ができた」
「……総一郎」
「これでこの顔を見なくてすむはずです。私は貴族などに向かないようですし、お互いにこれは良策というものでしょうが」
そこでニヤリとでも嗤えば、さらに総一郎の気分は晴れ晴れとなったろう。
この父が自らの望みが達成することに悦楽を抱けば、愚かな大人よと嘲笑すら抱くこともできる。
「……そちの見合いを決めてきた。一週間後、一条家でだ」
視線をそらし、書斎の机に両腕をついて呻くように父は言った。
「今、我が家は少しばかり商いがうまくいってはいない。……一条家の助けが必要だ」
その言葉の意味をおそらく正確に理解した総一郎は、無感情に笑うことしかできなかった。
「一条家の祖父の財力が欲しいために、疎んじている私を世継ぎから追いやれないんですか。あなたはいつもそうだ。 世間体やら財力やら。呆れて物が言えない」
「そちは世継ぎだ。この父が勘当をしない限り家から離れることも、職に就くことも許さぬ。後々に音羽伯爵となるものとして、 修行を積まねばならぬ」
総一郎の目には今、父がとても小さく哀れな生き物に見えていた。
家を守るため、自らが疎んじてならない息子に頭を下げようとしている。
何か情けなくて、総一郎は椅子にグタリと身を沈めた。
「……祖父は一条家を俺に継がしたいようですよ。ついでに言っておきますが、あなたが母を気を触れさせた理由を知ったら、祖父は 私を一条に引き取り、一切音羽家と縁を切るでしょうね」
元摂関家一条公爵家主人行義には、子供は娘楓子しか授からなかった。そのため、目に入れても痛くないほど楓子をいとおしみ、音羽家に 嫁がすときに『子供を最低二人宿し、下の子供に一条家を継がせる』と誓約を交わしたほどだ。
それが子供は総一郎のみしか生まれなかったことに消沈している一条公爵が、即今はほぼ表に出ることがなくなった母楓子のことを知ったら、どれだけ 父を恨むだろうか。
まして、父によって楓子が長年どんな扱いを受けていたかも知るとどうなるか。
十年前よりある一定のことについて気が触れたままの母のことは、音羽家のタブーとして決して表に漏れぬよう管理されている。
「あの祖父にはあなたなど潰すのは意図も簡単でしょう。私も、この家よりまだ一条家を継ぐ方がいい。……ただ、私がこの家に、 音羽の姓を捨てないのは、九朗がいるからだけなんですから」
「九朗だと」
「えぇ。私がこの手で育てた可愛い九朗。私に一途に懐いてくれて……けれど、その胸の中には私と母楓子への憎しみもある。 愛情と憎悪が均等で、どちらの感情にも縋ることのできない九朗。私が可愛がりながらも、いつも大切なところであの子を突き放すのはなぜか 分かりますか。この家を出たのもなぜか父上には分かりますか」
「総一郎、おまえ」
「私は九朗を憎んでいます。同時にいとおしい。……だからこそ、アレを苦しめたいのです」
総一郎は今まで封印したかのように表に見せなかった冷酷な顔をした。
「あなたも九朗も私は許さない。……九朗を可愛がりながら、私の心は張り裂けんばかりの憎悪に染められる。私の心も愛憎均等に包まれているんです。 父上。私はこの愛憎をどちらに傾くか知りたい。そして九朗の愛憎もね。だから、今のところは一条に養子に入るのもやめておきましょう。 見合いもしてあげます。……ただ忘れられるな。この音羽家を継ぐのは九朗。私ではない」
長年の父への鬱屈した思いを吐き出すように、総一郎を珍しく饒舌となった。
「そして苦しめばいい。この音羽の当主として辛苦をなめればいい。それが私の思いですよ」
「総一郎。おまえは九朗を愛しているのか、それとも憎んでいるのか」
「半分ずつだといったでしょう。だから、私たちは離れられないんです」
クックックッ喉を鳴らして、総一郎はタバコを取り出し口にくわえた。
今、苦しみに満ちている父を見ても何の感慨も沸かない。総一郎の心は十年前に凍ったままだ。
(春香……あなたに瓜二つの九朗をどうして憎しみだけで見ることができようか)
母の女中として、毎日母のために必死に働く春香が、好きだった。
その春香に父との間の子供があると聞いても、父に呆れる一方で春香へは同情と哀れみが強くなった。
母は、愛情の裏返しで夫と関係を持った春香を憎み蔑む一方、長年慈しんできた妹のような春香を複雑な目で見つめている。
微妙ながらも母と父、そして春香の関係は成り立っていたのだ。
それを一日で壊し、あろうことか春香の命すらも消す要因となった九朗の存在をなぜに憎まずいられようか。
総一郎もまた心に矛盾と葛藤を抱いていた。
春香に瓜二つの九朗自身を弟として慈しむ心と同時に、春香の命を奪い、母に気をふれさせた要因となった九朗への憎しみと。
兄弟はそれぞれ相手に一番の激情を抱きながらも、決して離れられずにいる。
まるで、その異常なまでの過去の出来事によって執着という絆を培っているように………。
散りかけの桜が最期の足掻きで美しくあろうとしているその日。
音羽家内部は緊迫した雰囲気に染まっている。



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