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+++  序  +++



『九朗……』
そう……春の日差しのように優しくあたたかな声で、自分の名を呼んだ人の顔を思い出すことはできない。
ただ声だけが、ときおり脳裏に響きわたる。
(母さん)
声に、在りし日の母の面影を求めようと、一度としてそれは脳裏には映りはしない。
声を耳は記録し、面影を頭は記録していない。そのことに、何度打ちのめされたろうか。何度胸に鋭い痛みが走ったか。 せめて写真一枚だけでも残されていれば、この焦燥とした思いより解放されたのかもしれない。
今では母に面差しがよく似てきているという自らの顔を鏡に映して、九朗は小さく「母さん」と呼ぶ。
胸には何度として味わった哀しみと、そして心底に眠る負の感情がわずかに動き出している。
(僕は……憎んでなどいないよ、大丈夫)
鏡に向かって九朗はニッコリと笑った。
そして幾ばくかの沈黙が過ぎて後、九朗はその大きな瞳よりツーと水滴を一滴床に落とす。
……憎んではいない。けれど、哀しく……寂しい。
(僕が僕が……いなければ……)
九朗より母を奪ったあの壮烈な日のことは頭に鮮烈に記憶しているのに、どうしてか母の顔だけをいつまでたっても 思い出すことができない。
その名の通り「春」のような人だった母春香の顔だけが……。



あの日は……。
今から十年前のある春の日。それは九朗が三歳の時のことだった。
音羽というとある伯爵家で女中働きをしている母春香は、息子の九朗と音羽家の広大な敷地内に建てられている小さな家で暮らしている。
『約束ね、九朗。母さんが戻ってくるまで、家から出てはダメよ』
それは、おかしな約束だった。
九朗が覚えている限り、母が最初に「指きり」で約束をもとめたのは、このことだったと思う。
朝から晩までお屋敷で……働く母のカサカサな手に触れ、我侭をいって母を困らせてはいけないという思いから、九朗は何度も 母に指きりをして約束を守ってきた。
おとなしく家で本を読んだり、玩具で遊んだり。言いつけ通りに台所に入ったり、火に触れたりはしない。
九朗は母の言いつけは必ず守るとてもいい子だったのだ。
父はといえば、時折家に訪ねてくるだけ。このころの九朗は、父という存在は時折「家に来るお客」としか思っていなかったのである。
まして九朗は父の名前すら知らない。いつも「父上」と呼ぶだけのお客だった。
父に対する意識が低いために、母に求める愛情が濃かったのかもしれない。
その日は朝から雨が降っていた。
最初は小降りだったが、昼過ぎには屋根を打つ音が大きくなり、ついには雷が頻繁に鳴り響く。
不意に訪れた春の嵐。
「母さん、母さん」
九朗は雷が大嫌いで、身体を震わせながら布団の中にもぐっていたが、一時間経とうと……三時間が過ぎようと雷は通り過ぎては行かない。
あまりの怖さにたまりかねた九朗は、脱兎の如し勢いで家を飛び出し一度しか入ったことはない母が働いているお屋敷に飛び込んでいた。
「………」
屋敷の出入り口には一人の少年がいた。
左脇に一冊の本を挟め、洋式の衣服を着こなしている……その少年が、一瞬鋭い眼差しを向けてきたため、九朗はビクリと肩を震わせた。
「どうした」
だが少年は九朗が涙目となり怯えていることを察したか、穏やかな顔となり屈んで九朗の頭を撫でてくれた。
「君はどこの子だい。この屋敷に仕えているものの子供かな」
最初の鋭い眼差しには怯えたが、その穏やかな声音と、凛としたきれいな顔が優しげな表情をしているので、 九朗は少しだけ安心して、小さく言葉を声にした。
「僕、九朗。母さんがここにいるの」
「九朗? 君が春香の子供の九朗なのか」
「うん。お兄ちゃんは母さんを知っているの」
そこで少年は少し顔色を変え、まるで食い入るように九朗の顔を見入ったが、すぐに周囲を伺い、九朗の耳元で小さく言った。
「早く家にお戻り。ここにいてはいけない。春香に用事があるなら、すぐに家に戻るよう言付けてあげよう」
「だって雷。……僕、怖いの。家で一人でいるのイヤ」
それは決して我侭をいって母を困らせることのない九朗にとっては、珍しいといえるほどのひとつの「我侭」だった。
「こわいの、怖いよ」
「すぐに、本当にすぐに春香には家に戻ってもらう。だから、お帰り。ここにいてはダメだ。もし母上に見つかったら……」
「総一郎さん」
そこへ和服を優雅に着こなし、ニ階より一人の女性が降りてきた。
「そのようなところで何をしていますの。侯爵閣下の晩餐会にお呼ばれしていることを忘れていて。早く支度をなさいませ。 侯爵閣下は時間には厳しきお人ですよ」
「母上」
少年……総一郎は、まるで九朗を背後に隠すようにしたが、母上と呼ばれた女性は総一郎の前へと進み……瞳を細めて九朗の顔を見据えた。
「総一郎さん。その子はどこのお子さんですか」
と、女性のまるで人を値踏みするかのような視線がイヤで、九朗はプイッとその目から視線を逸らした。
「……下働きの人の子供です。つい屋敷に入ってきてしまったようで、私が送っていこうと」
「まぁ総一郎さん。音羽家の嫡子にして世継ぎたる貴方が、そのような下女の子になど話しかけるだけでもはしたなきこと。 誰かある。この小汚い子供を屋敷より追い払いなさい」
「母上」
九朗は震えていた。女性の鋭い視線が見ているだけで怖く、つい背中でかばってくれる総一郎にしがみついてしまう。
「総一郎さん。そんな子から離れなさい。汚らわしい」
と、懐より布を取り出して、女性はそれで口を覆った。
「誰かいないのですか。……春香、春香、春香はいますか」
「母上。私が親元に連れて行きます。……そう眉間を険しくなされては、せっかくの美しさも色あせます」
「まぁ総一郎さん。……あなたも女性への褒め言葉がお上手になったこと。その言葉をぜひとも晩餐会であなたを取り囲む女性たちに お言いなさい。あなたといったら、まったく言葉を口になされないのだから」
どこか総一郎は、すぐにでも九朗を屋敷より追い出したがっている……いや、この女性の側より離したいのだということは、なんとなく九朗にも分かった。 ましてこの女性の冷たい目がぞっとするほどいやなもので、これなら雷に耐えているほうがまだ怖くないとも思ってしまうほどだ。
「さぁ行こう。おいで……」
総一郎がスッと手を差し出してきた。指の長い整った手だ。九朗は一瞬迷ったが、その手に触れるとヒヤリと冷たくてビクリとする。
「もう屋敷に来てはいけないよ」
そのまま、総一郎に連れられ屋敷を出て家に戻っていれば、何も起きなかったろう。
ただ雷の怖さに九朗は震え、あの女性のイヤな瞳を思い出して嫌悪感に苛まれるだけで終わったのだ。
だが、天は時として非情な運命というものを用意する。
「奥様。如何なさいましたか」
そこへ奥より現れた人の声を聞いた瞬間、出入り口を潜ろうとしていた九朗の足はピタリと止まった。 総一郎の手を振り払い、にっこりと満面に笑みを浮かべて反転する。
「母さん」
きっと慌てたのは総一郎の方だったろう。
瞬きする間の後に追いかけ、すぐにその両腕に小さな九朗の身体を抱きこむ。
「母さん、母さん。はなしてよ、お兄ちゃん。母さんがいるの」
「母さん、ですて。……ならばその子が……九朗」
そこで明らかに顔色を変えた女の瞳と、九朗の目はピタリとあった。
(な、なに)
九朗は訳もなくガタガタと震えだす。その目は幼子にはどんな感情が込められたものか知れなかったが、 先ほどの蔑視の感情とは明らかに違う……そう苛立ち…憎悪に殺気を漲らせている。
「春香。なにをぼんやりとしているのですか。早く九朗を連れて行きなさい」
その総一郎の切羽詰った声に、女性の背後に佇むだけだった母春香は、慌てて九朗に駆け寄ろうとしたが、その九朗との距離を女性に阻まれた。
「奥様」
キッと女性は顔を強張らせ、ガタガタと手を震わせつつ、春香の身体を突き飛ばして、
「この泥棒猫」
その声は屋敷にこだまする。
「……もと色町で売られていたおまえを、お情けで屋敷の女中として置いてやった恩を忘れ、だんな様に取り入った小汚い女が」
春香は床に身を倒し、その目は女性を通り越して縋るように九朗とその九朗を抱き抑える総一郎を見ている。
(ここから離れて、九朗)
そう瞳は訴えていたが、九朗も総一郎もその場から一歩たりとも動けない緊迫感が周囲を支配していた。
「しかも情けで子を産ませておいてやったというに……この女は。……いったであろう、子を決して私の前に出すな、と。 一生、私の目の前によらすな、と」
「母さん。母さん。……母さんを苛めるな」
と、凄まじい力で総一郎の腕をくぐりぬけ、九朗は母のもとに駆けていく。
「九朗」
母の叫び声。
「そうその名。だんな様のお好きな名。その名をつけて、時折顔を見に行っている。……妾とその子になど構うものか。 いつものように接していようと言い聞かせてきたというに。それが正妻の義務と……その子さえ見なければ」
と、女性は憎しみを漲らせ何を思ったのか、かけてくる九朗を睨みすえ、そして懐に手をやる。
「母上。何を考えているのですか」
総一郎が慌てて九朗を捕まえにかかるが、時すでに遅し。
懐より短刀を取り出し、鞘を抜いて九朗めがけて襲い掛かる方がはやかった。
「九朗………!」
「憎らしき子。あのだんな様とよく似た暗褐色の目……その目!!!!」
女性の気迫に呪縛されるように、九朗の足は止まった。その隙を逃すまいと、女性が駆けながら短刀が九朗の顔めがけて振り落とす。
「九朗!」
それは一瞬のことだった。
九朗めがけて振り下ろされた刃は、女性の背後より九朗の前にまわりこんだ春香によって遮られた。
「……奥方さま。……楓子さま。この子だけは……」
九朗を身体を挺して守った春香の胸よりは、じわりじわりと真紅の色が衣を染め始めていた。
「楓子さま……楓子さま」
「……春香」
ガタリと崩れ落ちた春香は、そのまま何度も「お許しを」と言い続けた。
何が起こったかわからない九朗は、倒れた母のそばに駆け寄り「母さん」と何度か呼ぶと、苦しげな表情をしていた春香が ふと柔らかい表情を刻んで、その手が九朗の頬に触れた。
「ごめん……ね、九朗。かあさん……もう九朗の側にいられない」
「母さん。どうして、ねぇどうして」
胸元を突き刺した短刀を目にし、あふれ出し衣を染めることを止めない血というものに九朗はピクリとする。
「ごめんね……ごめんね」
そのままか細くなっていく呼吸とともに、声もさらに小さくなっていく。
背後で総一郎が医者を、などと使用人に叫んでいる声が聞こえるが、それよりも母の弱弱しい声だけが九朗の聴覚を支配していた。
「九朗……可愛い九朗」
頬に当てられていた母の手がパタリと床に落ちる。
「誰も恨まないの。……最後の約束よ、九朗。さぁ小指を出して……」
「母さん」
「指きりよ、九朗。さぁいって、絶対に誰も恨まないって」
弱弱しく差し出される小指に、九朗は自分の小指をからめて、
「うん、約束する。だから、かあさん。どこにも行かないで」
母を失うのではないかという恐怖感が胸に浮き上がり、九朗は涙をポタポタ落としながら母にすがりついた。
「いい子ね、九朗………。坊ちゃん、総一郎坊ちゃん」
と、母が最後に呼んだのはその人だった。
「九朗を……頼みます」
母はその言葉とともに息を止め、身体より一切の力が消えていってしまった。
「母さん、母さん……」
九朗が何度も呼びかけても母の声音は返って来ない。握り締めた手は、いつものように優しく九朗の手を握り返しはしない。
母は眠ってしまったのか、と三歳の九朗は思った。
きっと疲れて眠ってしまったのだ。だから、手を握り締めてくれないんだ。
静寂が周囲を包んでいく。
背後より総一郎が九朗を抱きしめてくれていることも分からず、母が目を覚ますのをひたすら待っていた。
「母上。なんたることを、あなたは」
総一郎の抑えられたその声。
唐突に女性……楓子は笑い出した。ホホホホホ、と狂ったように笑いながら、よろよろと母に近寄りその胸を貫いている短刀一筋を強引に抜く。
「母上」
「かわいい春香。幼きころより私に忠実で……春香。おまえは許せたのよ。おまえだから許せたの。けれど、その子供はダメ。 ダメよ」
楓子は短刀を両手で握り締め、慈しむように頬にあてる。
「春香……春香」
そのままハハハハと笑い声をあげたまま、ゆらゆらと千鳥足で歩いていく。
「母上」
総一郎が追い、その母楓子の身体を両腕で押さえ込むと。
「いとおしいだんな様。なぜに私を裏切り、妹のように可愛がっていた春香にお手を出しました。あぁだんな様」
楓子は自らの息子の総一郎を「だんな様」と呼ぶ。
「だんな様。憎きお方。いとおしいお方。あぁ……だんなさま」
「母上……」
総一郎は楓子を強く抱きしめ、その目に涙を溜めながらキッと振り返る。
それは母春香に向けては哀しいまでに優しく、そして九朗と視線が合った一瞬。
ぞっとするほど冷めた眼光が九朗の瞳に突き刺さった。
……おまえさえいなければ。
そんな意思がありありと込められた眼差し。九朗は振り払おうと視線は逃すものかと追ってくる漆黒の眼光。
震えていた九朗の身体が、さらにガタガタと震え……痙攣を引き起こしていく中。
「あぁだんな様。だんな様」
楓子の……息子総一郎を『だんな様』と呼ぶ声だけが響いていく。
雨の音が聞こえてくる。雷も鳴り響いているのに、九朗はまったく気づきはしない。
どれだけの時が過ぎたか。駆けつけた屋敷の使用人たちの手により母はは家に戻され、質素な通夜が行われ……火葬された。
九朗はただ見ていた。母が目を覚まさないことが悲しく、火葬されるその場には連れて行かれず……総一郎がずっと九朗の傍らにいた。
何が起きたのか九朗にはわからない。
「母さんはどこにいったの」
と、総一郎に尋ねると、その人はあの冷めた眼光をもう九朗に向けることなく、優しく九朗の頭を撫でる。
「遠いところにいってしまったんだよ」
「じゃあ、帰ってくるまで時間がかかるね」
無邪気に笑った九朗だったが、総一郎は何も答えず九朗の身体を抱きしめている。
「九朗、私は君の兄だよ。これから春香の代わりに私が君の側にいてあげる。……もう私たちには母はいない。父も、いないと同じだ。 たった二人だけの兄弟になってしまったんだよ」
突然「兄」と言われ、抱きしめてくれるその人は優しかった。
けれど九朗は忘れはしない。
あのとき、自分をぞっとするほど冷めた目で見据えた兄総一郎を。
それは、明らかに殺気と憎悪が込められた視線だったのだ。
その日九朗は一人の「兄」を得た。そして父はいつまでたっても……現われはしなかった。



以来音羽家の庶子として迎えられた九朗は、十歳年上の兄総一郎の手により育てられていく。
時はゆっくりと、だが確実に流れていった。
母が命を失って十度目の春の訪れを迎えた。
九朗は十三歳になった今でも、あのときの母の命が消えたときのことを忘れてはいない。
桜を見るたびに……脳裏には母の声が響く。
『指きりよ、九朗。さぁいって、絶対に誰も恨まないって』
はい、母さん。九朗は誰も恨んではいない。
ただ、自分の存在だけが許せないでいます。













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