第2章:人生哲学

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++数ヶ月前の自分(前哨)++


最近ヘラヘラ幸せ面した人が羨ましくて仕方が無い。

自分について、周りについて、生きていることについて、死について、

真剣に考えれば考えるほど、絶望感というものは増していく。

『存在的』に見た自分というものは全くもって『無意味』である。

しかし、俺は今ここにいる。確実に生きている。

語ってる、笑ってる、泣いている、人を想い続けている。

その全部は死をもって無意味となってしまうのに、俺はやはりここにいる。


初めて自分の存在意義について疑問に想ったのは小学生のころだろうか。

もともと気の弱かった俺は、消極的なガキだったと思う。

そんなせいもあろうか、いじめというものも体験した。

ひどく苦しかった。楽しい記憶なんて残ってはいない。

家庭事情もその頃からあまりよくなかった。

親同士の喧嘩。罵りあい。非難。暴力。

俺の周りには、人間の汚い部分が溢れかえっていた。

そんな当時に、唯一、本音を、苦しみを話せたのは、

ベッドに置かれた小さなぬいぐるみだけだったかもしれない。


友人関係というのも、そうそう良くなかった。

相手を傷つけるようなことも多く言ってきたと思う。

それも今となって振り返ればのことであって、

その当時は(今もかも知れないが)謝るという行為さえ恐れていた。

自分が傷つくのが一番怖かったから・・・


中学も中盤を過ぎ、心にもゆとりが出来る一方、

自分の多面性について、ふと考えてしまうことが増えた。

うまく対人関係を気づいていくには、自分を制御しなくてはならない。

それに気づいたとき、本当の自分というものがどこにいるのかわからなくなった。

楽しそうにバカ笑いしてる俺が本当の俺なのか、

はたまた、このことについて悩んでいる俺が本当の俺なのか。

さらに家庭事情も俺を悩ませた。ウザすぎる父親の存在。

過激化する薄汚い利己主義に縛られている生活が嫌で仕方なかった。

どーして俺はこんなところに生まれてきたのだろう。

・・・これが初めて死にたいと思った瞬間だった。


高校選びもイロイロと周りから言われたが、

結局自分が選んだところに合格して、通うことになった。

全員が初対面となるこの場で、新しい生活に期待をした。

何も悩まないで、楽しく、ただ楽しく生活が出来ればそれでよかった。

気を使わない人間関係を作りたかった。

最初からいろいろな困難があったが、それも俺にとって意味をなしてた。


だが、やはり最後まで俺を狂わしたのは『家庭』だった。

高1で初めて、親に真っ向から反抗した。

しかし、常識が通じず、力でもかなわないクソ親の前に俺は無力だった。

初めて殴りあった、刃物も向けられた。希望というものが一気に崩れた気がした。

俺の心はそこから確実に崩れ落ちていった。


そしてさらに自分自身で考える時間が多くなった。

自分、他人、家庭、学校、社会、宇宙、時間、生死。

特に俺が考え始めたのは『意味』というものだ。

いろいろな本に出会い、人と出会い、さらにその考えは深まっていった。

結局たどり着く先は『無意味』という絶望なのだが。


その一方で、大切な人との出会いも会った。

まずは高校での友達。

男子が少ないウチの学校において、全員が全員、【自分】を持っていた。

心から一緒に居て楽しいと思った。

そして楽しいだけじゃなく、考えさせられもした。

今まで自分ひとりで悩んでいたと思っていたことを

同じように悩んで、考えて、そして共通した答え、また違う答えを持っていた。

そんな彼らと話すことによって、多少なりと心が見えてきた気がする。

そして、今俺が一番大切に思う人・・・

その人は全てを聞いてくれて、励ましてもらった。

全ての苦しみを理解しようとばかり思っていた俺を、

良い意味で退けてくれ、包み込んでくれた。

安らげる場所が無い俺にとって、唯一安心できる居場所になってくれた。


そんな出会いによって、少なくとも俺の心は絶望に支配されることがなくなった。

今は、絶望と希望が微妙なバランスによって保たれていて、

とりあえずは前へ進もうとする状態になった。

そして俺の思考はさらなる深いところへ向かっていく。


++生きている真意++ なぜ自分は生きているのだろう? その答えというものはない、と始めに言っておこう。 「なんらかの意味があったから生きてる」という答えは所詮つじつまあわせ。 そのない答えに、答えを当てはめるためにできたのが宗教だと思う。 神の存在を作り、自分たちは神により創られた、と。 そうすることにより、その疑問を表面的に解決してきた。 宇宙が誕生した理由が誰にもわからないように、 自分たちが産まれてきて、生きていることだって、 結局は誰にもわかりはしないのだ。 しかし、だからといって、=(イコール)無意味と考えてしまうのもどうだろう。 答えが無いものに捕らわれすぎて、路頭に迷うのはどうだろう。 それこそ本当に無意味と思わざる得なくなってしまってるのではなかろうか? こういったように、自分が生きている真意というものは 自分の気の持ちようで変わってくるというものだ。 先ほどは、「答えはない」と言ったが、正しくは人それぞれなのかもしれない。 まぁ、そんなことはどうでもいい。 だってその答えは自分なりに見つける以外ないのだから。

++人生の意味を考える++ 楽しい時も、苦しい時も、悲しい時も、一瞬にして過ぎ去ってしまう。 そういったところから、無意味としてしまいがちである。 どうあがこうとその時は二度と戻らない、というのは皆知っていることだろう。 今とても幸せな瞬間を体感していても、 いくら願ったところでそれを永遠に続かせることはできない。 そんな瞬間、瞬間を繰り返して、俺らの人生は形成されているのだ。 その一瞬というものは記憶として脳内に残っていく。 そして記憶が脳内から消え去ったとき、その出来事は全く消え去ってしまう。 今この1秒はどこへ行くかと行ったら、どこへも行かない。 記憶として残るか、『無』になって消えるか。 こう考えると、自分の視点から見て死ぬということは『無』であろう。 だけど、他人の視点から見れば、自分が死んでも、 その人の記憶に自分が残っていれば、その死は『無』ではないと思う。 記憶に残るだけじゃなくて、いろんな手続きとか、葬式だってやらねばならない。 死んだら確実に周りに影響は及ぶのだ。自分ひとりの問題ではない。 このことから、客観的に人生を見てもそれが無意味ではないのではなかろうか。 しかし、自分の人生の意味を客観的に見ることはバカらしい。 だって自分の人生は自分で作っているのだから。 意味は誰が作るものでもない、自分が作るもの。 無意味だと思えば無意味でも良い、死にたいと思えば死んだっていい。 でも、自分は楽しく生きていきたい。それでいいんじゃないかって。
++結局のところ++ 人生は完全に理論的には語れない。 1秒の間に目まぐるしく変化する世界。この世は自分ひとりじゃない。 他の人間がいて、動物が居て、植物が居て、石があって、雲があって、 書ききれないほどいろんなものがあって、それでも地球は宇宙の中ではちっぽけで、 言葉一つで、科学だけで、語りきれないことだってたくさんある。 短い人生の間でそれを語って、死んだら何になるんだって、 そんなのもわからなくていいと思っている。 『無意味と思い続ける人生』と、『楽しく生きようって過ごす人生』 どっちが良いっていう簡単なことすら迷ってたあの頃。 辛いことを辛いと思うだけで現実から逃げて、早く消え去りたかったあの頃。 今こうして書いてることもいつかはあの頃になるけど、 絶対生きてるうちは無駄にならない。 死んだら無駄になるの?って死んだらそんなことだって考えられないんだよ。 だったら生きてるうちはさ、は何したって良いじゃん。 それが自分自身の道じゃないかなって。有意義な人生じゃないかなって。

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