○「なんで勉強しなくちゃいけないのか?」
えぇ、まず勉強とは何なのか、あなたに問いたい。
国語・数学・英語… そういうことを指すんでしょ?とか、言わると困るが
それは、あくまで教科である。俺らが言いたいことはんなことではない。
えと、決して国数英etc...が勉強じゃないって言ってるんじゃないよ。
っつーか勉強しなきゃいけないってのが思い違いじゃない?
教育を受けさせる義務はあるけど、受けるのは権利(内心の自由)じゃないの?
えぇ、したいなら思いっきりやるべきです。
点数取りたいんだったら、先生に誉められたいのなら
優等生と呼ばれたいのなら、有名大学にいきたいなら。
そうでなくても、したいならすればいい。
「2次関数なんて将来使わねぇよ。」って言ってるあなた。
そのとおりです。使いません。じゃぁ、なんでやるか?
それは人それぞれです。やりたきゃやればいいのよ。
やりたくないなら、文句ばっか言ってねぇでやらなきゃいいのよ。
わからない人にはわからないかもしれんが、2次関数やら数学やらに
興味をひかれる人だって世の中にはいるんだ。
だからこそ、数学ってやつはここまで発展してきたし。
今アナタの身の回りは成り立っているわけです。
だから、あなたもやれってわけじゃないですよ。
あんたも、自分のやりたいことをやれ。ってことです。
そして学校というものはなんなのか。
なにもないところじゃ、なにも知らないままで、やりたいことも見つからないかもしれないし。
やりたいことが見つかっても無知じゃそこにたどりつかないかもしれない。
そのため義務教育ってものをわざわざ作って、教育を受ける権利をくれるわけです。
学校はいわゆる自己実現への補助。自分で行うべき勉強の補助的役割に過ぎない。
しかし学校という環境でしか学べないこともたくさんある。
だから行事というものがあり、制度というものがある。
勉強するだけなら行事なんていらないし、部活だっていらない。
そもそも、勉強するだけなら、塾もあるし、通信制のゼミだってあるわけよ。
なんで学校があるかってと、集団生活の必需性等学ばせるため。
そして前にも言ったように、自己実現のためへの補助なのです。
おわかりのように数学が出来ないからいい仕事に就けないというのはもちろん間違い。
だから、したくなければしなかったらいい。それも権利なのだから。
将来何をやりたいか。それに合わせて勉強すればいい。
もちろん、やりたいことに向けての勉強です。
でも、今のこの世の中。夢がないって人も多いと聞きます。
中学卒業しても、やりたいことないから、流されるまま適当な高校にいく。
それでいいのだろうか。まぁ、オレから言わせてもらえば「いいんじゃない」
そこで夢をみつければいいんだから。やりたいことなんていつ見つけてもいいんだよ。
ま、それまでは学校の勉強してても、してなくても個人の自由です。
でも、何もしないんだったらしとけば。程度です。
そして受ける側じゃなく、受けさせる側。そう教育者の立場はどうするべきか。
それは自己実現への補助の体勢の見直しだと思う。
今の教育に必要なのは、各自の自己意識を高める事だと思う。
履歴主義から実力主義へ変わってきている今だからこそ。
先生達側の態度の中途半端さが、さらに自分で考えられない人間を増やしてしまっている。
そしてそれにより多くの矛盾が生じ、悪循環を引き起こす原因となる。
教科書がどうこうとか、国民意識がどうこうだとか言ってる場合じゃない。
今の教育事情、イジメ問題、不登校問題などばかりが浮き上がってる。
痛いほどわかっていながら、具体的な解決案が出ていない。
決して難しい事では無いのに、意思の弱い教育者が何も出来ていないだけなのだ。
各自親と連携を取り、学校全体で本気で取り組む。
それが無理だと言っているようじゃ教師辞めろという話だ。
塾などが要らないほど充実した学習環境と、
自己意識を高める、また協調性を持てる人間を育てる、
それが今の学校には必要なのではないか。
成績なんてあくまで他人の評価なんだから、そんなに気にするな。
成績上げたければ、テストという理解度チェックに向けて必死こけ。
そしてその場だけわかったふりをしろ。そうしときゃその場は安心。
しかし、結局教育という過程を受けた後は、社会に出て「勤労の義務」が待ってる。
そこで自分が活躍するために今何をするか、どんな分野で自分の力を発揮できるか。
結局は統一された教科書というものを利用し学んでいるわけだが、
それこそあくまで補助。自分の勉強というものは自分で見つけるのだ。
それに気付かない奴が多すぎる。頑張って成績あげようと必死こく。
某国立大学の生徒は「与えられた仕事はこなせるが、自分からは行動できない」そうだ。
普通のサラリーマンになって、機械的に仕事して、給料貰って幸せなら構わない。
ただたくさんの夢というものはいつの時代もある。
だからこそ自分のその夢の自己実現のために、自ら学ぶ姿勢を身に着けなくてはならないのだ。
補助が溢れている時代、それを使いこなした奴が勝つのだ。
○「今の学校ってどうなんよ?」
あくまで学校は補助的なものだと言った。
しかし、今の世の中では学校は『主体』になってしまっている。
アレをやれ、コレはダメ、それは良いという指示に対し、
何も疑問を持たずにその通りに従う。従わない生徒に対しては怒る。
学校の決まりなのだから、責任なのだからと教える。
そしてそれを通して、社会でも適応できる人間を育てる。
これが今の主体的学校教育であると俺は捕える。
実際この方法は合理的であり、間違いであるとは思えない。
集団生活していく上で、集団学習は当たり前の如く必須である。
また、正しい事・悪い事を刷りこんでおくのも小さいうちから。
ただし、ここでいう善悪はあくまで社会を主体に考えた場合。
これは、社会に適応した人材を育成するためであるが、
あくまで「国」のための人材作成過程のひとつであろう。
「民あっての国」はずが「国のための民」になっているのではないだろうか。
しかし、俺はこれが嫌でたまらない。それはなぜか。
これによって出来上がるものは「社会で通用する人間」に過ぎないからだ。
もしも全ての生徒が学校方針に従い、何もトラブル無くいったらどうなるのだろう。
今の現状なら、柔軟性が無く、人間性に乏しく、個性も無く、
自分の意見も持てない、言ってみれば、全く面白みのない人間が育つだろう。
無論、そのほうが「社会」を運営していくには都合がいいだろう。
反論を持たない、全て従う、機械のように仕事をする。
ひとりひとりの個性を尊重し、長所をのばす。
本来学習の目的はそこにあるはずだ。実際お国もそう言っている。
しかし、そのためのカリキュラムをつくっている国民の代表さんは、
結局「お国のための民」であり、お国のためだけに働く人達だ。
そんな奴らに、個性を尊重する方法なんてわかるはずもなく
知ろうとも思っていないだろう。「大東亜共栄圏」と似ているかも知れない。
一見いいこと言ってるように思わせて、結局は自国のためかよ。
まぁ、自国のためっつっても、結局は金なんだろうけどさ。
これは大げさなことではなく、実際、学校生活を通して
肌で感じた現状を通して成した予測である。
「そんなことはない」と教育に携わる人間は言うと思うが、
だったら学校の規則を全て守らせようとするのだろう?
反論は全て受け入れられないのだろう?
そもそも規則をつくらないと、共存していけない人間は
一番愚かな生物だと思う。ということは幾度と無く言っているが、
結局学校でもきまりはあるわけである。
当たり前の事人間である以上それが普通だろと言いたくなるようなもの)
くだらない事(なぜそんなものを縛る必要があるのかと笑ってしまうようなもの)
「自己表現だ」「これも個性だ」と言って、規則をやぶるのもどうかとは思うが、
しばりすぎは逆効果だと思う。
常識のないやつにはいくら言ったって無駄なんだから。
「廊下は走らない」
こんくらいでいいのではなかろうか?
もちろん、全ての反論を受け入れろとは言えない。
っつーか、そんなことしたらさらに「正しさ」すらわからない人間が増えるから困る。
(実際学校からしてわかってないことがあるが)
もし従わない場合にそれに対する罰を重くするというのが
『今の現状』には最適かもしれない。
リスクが大きければ大きいほど、各自が「責任」というものを感じるはずだ。
しかし、罰が無いと何もできないってのは悲しい。
結局、ルールを守れない奴は、あとでみんなから疎遠されるんだから
馬鹿な奴は、それでも自分の何が悪いのかわからんだろうし。
罰とかそう言う物ではなくて、他人に迷惑をかけたくないから、自分もがんばろう。
その気持ちが人間としての心ってものではないだろうか。
最後に「責任」というモノには2種類あると思っている。
それは「自己責任」と「社会的責任」
自己責任はあくまで自分自身の問題。
これを選んだんだから最後まで貫き通すなどがそうだ。
もう1つの社会的責任は、社会内での規約を守ること。
それを破ると他人に迷惑がかかることなどがそうだ。
俺は思うのだが、自分自身で決めたことに対して「責任」ってあるのだろうか。
高校を決めたことは「権利」を使っただけであって、
誰かに「責任」云々言われる筋合いは無いと思うのだが。
自分で決めたことに対して、それに責務感を感じなければそれは「責任」でなくなる。
と、考えると「責任」はあくまで人によって作られた「人造物」に過ぎない。
自分で作った責任は、あくまで自分のものであり
他にあーだこーだ言われる筋はまったくもってないし、
責任の回避もしょいこみも解決もすべて自分任せである。
社会的責任はその逆ということでいいかと。
ようするにすべては周りの、つまり社会の判断で決まる。
どっちにしろ責任というものは周りがいてこそ起きる物である。
自分ひとりしかいないの、責任がどうってことはないはずある。
たとえ責任が発生した時点でひとりであっても、
それが責任として受け入れるには、誰かとの交流があってこそであろう。
○Re:『バカ』は多い?(GOTSHU)
バカが多いってのは、バカに対しての見解にもよるが、
一般的に最近は自分から行動しない。
人の意見に流される、流行についていかないと不安感にかられる。
要するに自分の意見を持たない人達。
持っていると自負している人にも、時たま、苦笑するしかないような人もいる。
おそらく小学校、中学校で先生の言うことを聞いてはそのとおりに実行していたか、
聞きもせずに、周りの流れだけみて、それに合わせていく。
まぁ、教育過程がよほど悪かったんでしょうね。
それは学校だけでなく、生活の中で。
言ってしまえば、おばかさんだけでなく、極悪人も、一躍時の人も、
いままでの周りの環境によってそうなったわけです。
たとえ遺伝子的なものがあっても、結局その潜在的な能力を
生かすも殺すも周りの環境しだいなわけです。
それはもちろん、親、兄弟、親戚、ペット
庭の景色、帰り道に見た空、初詣の人ごみ、
給食の味から、聴いてきた音楽まで
すべての影響を受けて、あなたがそこにいるわけです。
それは誰一人として、まったく同じ経験をする人はいません。
だから一人としてまったく同じ人はいないのです。
結局、すべては環境次第なんですけど、
これを読んだ人もこれに影響されるわけで、
「俺がこんな人間なのは周りの影響のせいだー」
って、悲観的にならないで、むしろこれに影響されたことによって
自分の意思をしっかりもって生きて欲しいですね。
こう考えて見て下さい。
あなたに出会った人は、出会うたびにあなたに影響されるんですよ。
あなたにも他の人の人生を変える力があるんです。
あなたが面識のある有名人は、あなたのおかげで今有名になってるのかも知れませんよ。
あなたに会った人が将来成功するかもしれません。
もしかしたら、嫌いな人を落としこむことも、
むしろいい人に変える事もできるかもしれないんですよ。
この世に無能な奴なんていないんだよ。
○高校受験生に捧ぐ(ぶるー)
死ぬ気で勉強して高校に入ったとして、キミは実際そこで何がしたい?
俺は受験勉強はほとんどしていない。(過去問やっただけ)
落ちる気はしなかったし、現に公立高校に受かって通ってる。
ただなんとなく中学時代は過ごしてて、成績も悪くは無かったし、
けれど勉強も部活も興味はほとんど持てなくて、ただ流されてた。
だから高校入試もただなんとなくやって、ただなんとなく受かった。
高校に入って数ヶ月がたち、家庭状況が悪化していった。
そのとき俺は自分自身について見つめなおす得た機会を得た。
そこで気づいたのが、なんとなく生活の無意味さ。
なんとなく過ごして得られるものの質は低かったことに気づいた。
俺は今、興味を持ったことをすぐ実行するように心がけている。
現時点での俺の興味は「音楽」と「科学」
歌詞を作り、ハーモニカを吹き、ギターを弾き、
部活をサボってまで俺は夢中でやっている。
この世のことを全て道理でつじつまを合わせられる科学にハマっている。
与えられたやるべきことよりも、こっちのほうが俺の中で優先順位が高い。
結局何が良いたいかって言うと、高校選ぶ際に
〜をしたいから選びましたっていう理由を持っていたとしたら
それを流されること無く持ち続けようということ。
高校に入ると与えられるものが多くなる。
だからこそその縛られた中で「自分」を貫き通して欲しい。
無理してワンランク上の高校に挑戦なんてしなくていい。
本当に挑戦するべきなのは、それからなんだから。
だから無理しないでいいよ。そのかわり自分をしっかり持つ。それだけ。
校則は守るべきなのか
「なんで校則を守らなきゃいけないのだろう?」
ふと疑問に思った人も少なかれいると思う。
そこで俺の視点から答えを出してみたいと思う。
よく教師が「ルールだから守れ」というが、その後が無いのは説得力に欠ける。
つまり「ルール」=「守る」の証明を飛ばしていきなり答えを書いたような。
そうなんだと納得できる人はこの後を読む必要はない。
まぁ、意地でも守りたくない人とか、興味ある人だけ読んでくれれば良いと思う。。
さて、ルールを守ることはどういった効果(言い方オカシイけど)があるのか。
それは社会(集団)を形成していく上で、安定を図るために作られたものに他ならない。
と、いうことはたった一人(個人)ではルールというものは存在することはないということだ。
そこからわかるように、学校に校則という規則があるのもわかるだろう。
もし、その規則を破ったとなると、その集団が崩壊する恐れがある。
身近な法律というものを例にあげてみる。
『人を殺すのは犯罪だ』というものがあるが、もしこのルールがなかったらどうなるだろう。
利益を求める本能から殺し合いは増大し、社会というものはたちまち成り立たなくなる。
弱肉強食の世界。そう、野生の世界である。
その状態を望む人は滅多にいないと思うので話を進めるが、
やはりそんな世界になるのは恐ろしい。秩序がない世界、常に命が危険に晒される世界。
それが恐ろしいと思えるからルールが出来たのだ。
そう、ここが重要。
ルールが出来たのは、恐ろしいと思える『感情』の力によるものなのだ。
もし、感情が無かったらルールなどは成り立たない。
それは想像してもらえばわかると思う。
『集団』に『感情』が加わって初めてルールというものが出来るのだ。
では、ここで一旦問う。
「ルールは守るべきものなんですか?」
はい、これで「そうです」と答えられた人はこれでよしとしましょう。
しかし、まだ納得できない人もいるはずです。
だってまだ核心に触れていないので。
じゃぁ、その核心を話したいと思います。
もし、あなたが「それでもルールを守りたくない」と言ったとしましょう。
それは認められることはありません。自己中心的意見にすぎません。
先生にも言われるでしょう。「そんなの通用しない。筋違いだ。」と。
と、いうことは「守るべきだ」ということになるのか。
いや、それも違います。
その“するべきだ”という判断は『社会的判断』に過ぎないからです。
逆説としていうと、自分で良いと思ったら良いんです。
ただそれが社会的に認められないというだけなんです。
では、みんな破っても正当化されるじゃないかと思うかもしれません。
しかし、その「正当化」が主体的なものなのか、はたまた客観的なものなのかにより
答えが変わってくるのです。
自分がOKと思ったらOKなんです。例え社会がNOを出そうとも。
ここで1つ気をつけたいことがあります。
それは自分がOKといったからといって、相手がOKになるのかといったらそれは違います。
自分がOKと思ったときのOKはあくまでも自分の中でしか適用されないんです。
それは「主観」は「客観」ではなく、「客観」が「主観」でもないように、
「自分」が「他人」ではなく、「他人」が「自分」ではないように。
「自分」にイコールとなりうるものは「自分」でしかないのだから。
話が逸れましたが、規則を破りたかったら破れば良い。
ただ、その先に待ち構えているものの覚悟を有しますが。
法律にせよ、校則にせよ罰則がある。
その罰則を受ける覚悟があって、自分の意見を貫き通せるというものです。
ルールの先に待ち構えているものは新たなルール。
それすらに反発する覚悟があるなら破ったって良い。
しかし『社会的』には損であるのは誰にしろわかるでしょう。
でも、それも客観的に過ぎないのです。
「ルールを守れ」
「嫌です」
「そんなの認められないぞ」
「認められなくてもいいです」
「じゃぁ、罰則を与えないとな」
結論的には罰則が最重要な気がしてきますが・・・
最終決定をするのは自分。全ては損得。
|