警察署のロビーで、親切な婦警さん――御年43歳――に頂いた熱い緑茶を啜ってい
ると、何処からともなく分厚いタオルが飛んできた。
頭を直撃した上、視界を覆ったそれをめくり上げると、目の前に黒いスーツ姿の兄――
エースが立っていた。
折角背が高くて、そこそこ顔もいいのに、付けているネクタイはヨレヨレ、背広はシワシワ、“独身です!”と全身が訴えている。捜査が忙しい時はいつもこうだ。普段はものすごくファッションにうるさいくせに…。
「拭いとけ、風邪引くぞ」
そう言いながら、少々乱暴にタオルで頭を引っ掻き回される。緑茶こぼれたら勿体無
いのに。
「自分で拭くからいいよ」
「ダぁメ。オレが拭くの」
心底嬉しそうな笑顔。
あんた幾つだよ。
仕方がないので湯飲み茶碗を隣の椅子の上に置き、エースに向かって頭を突き出し
た。
「んー」
「おっ、とうとう観念したか!」
別に観念はしてねぇんだけど。
そんなおれの胸中を知ってか知らずか、縦横無尽にタオルを動かしているエースは上
機嫌だ。
たしかに、仕事で忙しいエースと会うのは久しぶりだけど、こう子ども扱いされたんじゃ
たまらない。
「で、どうなんだ?」
「おう」
タオルを丁寧に折りたたみながら、エースはにっかりと笑った。
「我らがボス、スモーカー警視殿のお許しが出た。病院行くぞ」
飲みかけの緑茶を一気に飲み干し、湯飲み茶碗とエースが畳んだタオルを椅子に置
く。
歩きながら黄色いカッパ(…エースの陰謀だ。小学生かおれは)を羽織る。グレイのカッパを着込んだエースと並んでロビーを出た途端、静かな雨音が耳を満たした。
梅雨だから、雨が降るのは当たり前だ。でも、今日はそんなことさえ癇に障る。
曇天を見上げてエースが呟く。
「現場検証の方はもう終わっただろうが、何分、雨が降ってるからな…。証拠が流れち
まってるかもしれねぇ。まあ、嬢ちゃんがいっから大丈夫だとは思うが」
「あー、あのいっつもメガネ無くす鑑識の人か」
エースが言っているのは、最近数が増えてきた女性鑑識官の1人であるタシギの事
だろう。日常生活においてはこれ以上ないというほどウッカリを連発し、いつもメガネを無
くす天然な人だ。が、こと鑑識においては、何かにとり憑かれたように作業に没頭し、ど
んな些細な証拠も見逃さないのだという。
何回か会ったことがあるが、とてもそんな感じには見えなかった。けど、エースが信頼
してんなら大丈夫だろう。
大丈夫じゃなきゃ困る。
「嬢ちゃんにかかりゃ、証拠もあっという間だろうさ」
玄関先に回されていたエースの愛車――HONDA MAGNA、排気量748cc。黄色
いボディが特徴的なバイク――の後部シートに飛び乗ると、きちんとヘルメットを被る。
「問題はその後だ」
「…」
同じくシートに飛び乗ったエースの腰に手を回す。
「捜査で犯人が即捕まりゃいいが、上手く行かなかった場合・・・」
エースはそれ以上言わずにエンジンをかけた。かなり強力なエンジン音だと思うが、バイク好きなエース
に言わせると「こりゃあ静かだ」だそうで、バイクには興味がない俺には良く分からな
い。
警察署前を飛び出したおれたちは、その後一言も交わすことはなかった。
幼い日、おれは…おれの家族が乗った車は交通事故にあった。
交差点で、信号無視のトラックが突っ込んできたのだ。
助かったのは、おれとエースだけ。
父さんと母さんは車とトラックに挟まれていて、漏れたガソリンの引火による爆発火災
で死んだ。
あの事故以来、おれもエースも車に乗れない。
電車は平気、バスにも乗れる。
でも、車は駄目だ。
あの閉鎖空間。
震動。
中学生のとき、一度、どうしても乗らざるをえなくなって、無理やり乗った事がある。
哀しいかな、おれは過呼吸に陥り、そして気を失った。
原因は、心的外傷、というやつだそうだ。
病院に担ぎ込まれたおれの所へ、仕事も何もかも放り出して真っ青な顔で駆けつけて
きたエースを見たとき、おれは自分が情けなくなった。
あの事故――父さんと母さんが死んだ事故をいつまでおれは引き摺ってるんだろう。
今でも車と火が怖いなんて、あれから一体何年たった?
それに、またエースに心配をかけてしまった。エースはあの事故以来、それまでも十
分ブラコンだったのがもっと酷くなってしまい、かすり傷でも大騒ぎしていたところに、お
れが「倒れた」と聞いて、半ばパニックに陥っていたように思う。
今思えば、あの頃のエースはおれに依存していたのだろう。おれを守ることで、自分
の心を安定させていたのだ。それで、エースの心が弱いということにはならないと思う。
誰だって、弱ったときはそうなるんだから。
でも、あの頃のおれはそんな事にも頭が回らなくて、自分が情けなくなってしまい、お
れは見舞いに来てくれたシャンクスや友人達を追い返したりもした。
一時期、おれは荒れていた。
けど、大学に入ってから。
そういうことを考えているヒマがなくなった。
ナミと出会ったからだ。
車だとか火だとか、時々見ていたあの日の夢だとか、そういうことを思い出しているヒ
マがなくなったのだ。そんなことをしているヒマがあるなら…ナミと話している方が楽しい
と知った。
ナミにはこんなこと言ってないけど、ナミは賢いから、多分気がついてると思う。
絶対、言わないけど。
サンジは。
昔、両親の心中に巻き込まれて以来、いつも死ぬことを考えていた。
おれみたいに、はっきりと分かる形での後遺症はない。
けど、見てれば分かる。
サンジはいつだって死にたがっていた。
それは「車に乗れない」とか「火が怖い」とかいうことより数倍性質が悪い心の傷だ。
おれにはエースがいたけど、サンジはそのとき一人ぼっちだった。それがいけなかっ
たんだ。もっと早くにゼフの爺さんがサンジを見つけてやれてれば、もう少し違っていた
だろうに。
…ゾロっていう恋人ができても、サンジはやっぱり時々暗い目をする。
でも、最近は、そんな目を見かけなかった。
きっとサンジもおれみたいに気がついたのか、でなきゃゾロと何かあったに違いないん
だ。
それは良い変化だと思った。
このまま、サンジが“死”よりもゾロを選んでくれればいいと思った。
なのに、何で今なんだよ。
何で、今、車に轢かれたりしてんだ。
おれはエースの腰に回した腕に少し力を込めた。
何故だか腹が立って仕方がなかった。
運命だとか神様だとか、そんなもの信じちゃいない。でも。あんまりじゃないか。
おれがこれだけ腹を立てているということは、多分ゾロはもっと腹を立てているに違い
ない。
…この怒りは何処にぶつけるべきか。
決まって、いる。
「おーい、ルフィ!」
エースがフルフェイスのヘルメット越しに怒鳴った。
「お前、つーかお前ら、捜査は警察に任せろよ!?」
いつのまに読心術を身につけたのか、エースの言葉におれは少し笑った。
赤信号。
バイクが止まる。
「やだ」
「やじゃねぇだろ」
「警察に任せといたら犯人殴れねぇじゃん」
「それがいけねぇから言ってんだろが」
「おれもだけどゾロもな。それと、みんなも。絶対このままじゃ気が治まらねぇよ」
「だからって暴力沙汰は」
「大丈夫」
「は?」
「バレないようにするから」
どうやって、とはエースは尋ねなかった。
その代わり、きちんと左右を確認して、一気にアクセルを捻った。
青信号。
バイクは走り出す。
もうすぐ病院だ。
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