記憶の混迷。





















 さっきまでゾロといたはずなのに、気がついたら1人で砂浜に座っていた。
 空には満点の星。打ち寄せる波音は静けさを際立たせる。
 俺は裸足で、忍び寄る波が時折足を撫でていく。
 ゾロはどこへ行ってしまったんだろう?
 俺は立ち上がり、暗い海の彼方に目を凝らした。

 ――忘れた

 誰かが叫んだ。

 ――お前は全部忘れた

 聞き覚えのある声だった。

 ――全部忘れてしまったんだよ

 何を言っているんだろう、この声は。
 俺は一歩踏み出した。
 海水に浸る素足が心地よい。
 一歩、また一歩踏み出す。
 すぐに足首まで海の中だ。
 どんどん歩いていく。
 脛、膝、腿、腰、腹、胸。
 いい加減歩きにくくなってきた。
 そういえば俺はどうしてこんなところまで歩いてきたんだろう。

 ――忘れたふりをしてきたんだ

 また誰かの叫び声が聞こえた。

 ――だけど忘れられるわけないだろう

 悲痛で、悲痛で、どこか自嘲的な。

 ――忘れたって無かったことにはできないんだよ

「―――」
 ふと見ると、俺の両隣には男の人と女の人が立っていた。
 2人は俺を見下ろして、ちょっと笑った。
 安心した。
 俺は2人と手を繋いでいて、2人も胸まで海の中に浸かっていた。男の人は綺麗な 金髪で、女の人は綺麗な黒髪だった。
 あともう少し進めば、立ってはいられなくなる。
 2人が進むので、俺も一緒に前進した。
 胸、首。
 あ、もう、足が離れる。
 いや、本当はとっくの昔に足はついていなかった。
 だって俺は今5歳だ。
 お父さんとお母さんも足が着かなさそうなのに、俺が海底に足が届くはずないんだ。
 俺は2人を見る。
 2人は微笑んで俺を引っ張る。
 気がつくと海から波が消えていて、俺たちはまっ平らな水面に浮かんでいるのだっ た。
 不意に、2人が俺を挟むように抱き合った。
 お父さんからはハンバーグの匂いがした。
 お母さんからはケーキの匂いがした。
「―――」
 そして2人は沈んだ――俺も一緒に。
 海の中は、静かだった。
 どこまでも青くて深かった。
 ハンバーグの匂いとケーキの匂いはしなくなったけど、代わりに海の匂いが肺を満た した。
 それはそれで心地よくて、俺は安心して目を閉じた。
 2人がいれば何も怖くない。
 だってお父さんはとっても料理が上手だし、お母さんはすてきな服を作ってくれるん だ。
 雷が鳴って眠れない夜も、怖い夢を見て飛び起きた夜も、2人の間にいれば怖い事 なんて何もないんだ。
 だから、今だって、怖くなんかない。
 このまま、どこまでも深く深く沈んでいったって。












 悲痛な叫び声が耳をつんざいた。












「死にたくない!!!」











 途端にそこは静かな蒼い空間ではなくなった。









 肺を満たすのは、海の香りなどではなく。
 空気を求めて開いた口には、ただ苦い海水が入ってくるばかり。
 海面に浮上しようとばたつかせる手足を、何かが物凄い力で引っ張った。

 ――無かったことには

 それは、俺の愛した父と母ではなかった。
 いや、それは確かに父と母だったのだけれど。

 ――できないんだよ

 まなじりを吊り上げ、何か怒鳴るように開いた口から立ち上る気泡。
 苦しさから歪みきった顔、俺をにらみつける目。
 人間の顔ではなかった。
 鬼の形相。
 能面の般若の面、それも生きている。
 そんな2人が俺の手足をしっかり握り締めて離さない。
 ああ、沈んでいく、沈んでしまう、死の中に。
 苦しくて苦しくて必死に手足を動かした。

 ――忘れられないよなぁ

 声が、
 嘲笑う。

 ――お前は、何より信じていた2人に殺されたんだもんなぁ

 見ると俺のすぐ傍に、俺が浮かんでいた。
 俺は海の中なのにちっとも苦しそうではなくて、なのにぼろぼろ涙を…紅い色の涙を 流していた。
 助けて!
 そう俺は口を動かしたが、俺は泣きながら笑うだけだった。

 ――あの時は、誰も助けてくれなかったっけ

 全身から力が抜けていく。
 そうだ、そうだった。
 確かに覚えている。
 あの時は、誰も助けてくれなかった。
 何より大好きだったお父さんとお母さんは――どんなときにも俺を守ってくれた人た ちは――俺を殺そうとしていて。
 何かが俺の中で砕けた。

 ――なあ、どうして俺は生き残ったんだろうな

 目の前が黒く塗りつぶされていく。
 なのに、俺にははっきりと見えた。
 手足を握って離さないお父さんとお母さんの手は、いつの間にか鎖に代わっていて。
 ごぼり、ごぼり、器官を満たしていくのは闇。

 ――死ぬはずだった
 ――あの時、一緒に死んでいれば良かった。そう何度も思ったな
 
 こくり、俺は頷いた。
 どうして生きてんだろう。今。

 ――なあ、このまま死ぬか
 ――今度こそ、死のうか

 手足を縛る鎖がぎちぎちと軋んだ。
 全身が、痛い。
 特に利き腕に走る痛みは尋常ではない。
 そう、まるで骨がバラバラに砕けてでもいるような。

 ――そうだ、あの時死ぬはずだったんだから
 ――どうせ、人はいつか死ぬんだから

 俺は涙だけではなく、全身から紅い物を流していた。
 よく見ると傷だらけだった。
 特に利き腕は酷い有り様だった。

 ――なあ、この腕を見ろよ。
 ――ぼろぼろだ。

 そう言って俺が腕を上げると、俺の腕が目茶目茶に痛んだ。
 声も出ない。

 ――これじゃあ、もう、二度と料理はできないかもしれない。
 ――治ったって、以前のようには動かないだろうさ。
 ――料理ができなきゃ、生きている意味がない。
 ――なら、もう、いいじゃないか、死んだって。
 ――さあ。














「麻婆豆腐!」
















 肺から喉から闇を吐き出しながら俺は叫んだ。
「ふざけんな! 俺はゾロと約束してんだ、麻婆豆腐作ってやるってな! アイツを腹 一杯にしてやるって約束してんだ、こんな所で死んでたまるか!!!!!」
 そうだ、ゾロは、ここにはいない。
 こんな、死で満ちた所には。
 ゾロに会うためには、ここにいてはいけない。
 俺は必死に身をよじって鎖を振りほどいた。
 振りほどく途中で、俺も傷だらけになったけれど。
 一部始終を見ていた俺は、全身から血を流しながら、大声で笑った。
「へぇ、思ったより俺って根性あるじゃねぇか」
「馬鹿野郎、何イイ子ぶって諦めてんだよ! てめぇはそんなに賢かねぇだろうが!」
 俺は俺に掴みかかったが、そこには何もなかった。
 空を切った手には、痛みだけが残った。
 数歩間を取り、自分自身を真正面から見据える。
「…ここは、どこだ?」
「俺の中にある、死にもっとも近い所」
「どこから帰れる?」
「さあ、忘れちまった」
 俺は得意の蹴りを繰り出した。
 案の定、何も蹴る事はできなかったが。
「だぁから、諦めてんじゃねぇよ! 俺はな、足掻く! 絶対ここから帰ってやる!」
「帰って、どうする」
 俺はにやにやと笑いながら宙に浮いた。
「帰っても、そこにあるのは絶望かもしれない」
 ぽたぽたと滴り落ちる紅い物が、次第に水溜りを作っていく。
「夢を、捨てる事になるかもしれない」
 真紅の水たまりはゆらゆらと揺らめいた。
「あの時死んでおくべきだったと後悔するかもしれない」

「それがどうした」

 俺は一歩踏み出した。
 紅い水溜り、ほのかに温かな其の中に立つ。
「かもしれない、かもしれない、かもしれない。過程並べんのは楽だよな。その楽さに 縋って引きこもりゃ、もっと楽だろうさ。けどなあ!!」
 全身が痛む。でも、それより痛いのは。
「やりもしないうちから、失敗を恐れてたんじゃ、何もできねぇだろうが!! 思い出せ、あ の夜、俺はゾロと約束しただろうが!!」
 

 
 ――俺は、楽は、しない。



 俺は逃げ出そうとしている。
 目の前の俺は。
 そうは、させるか。
 あの夜、俺は誓ったんだ。
 逃げ出して、たまるか!
「…そう、それだ」
 俺はふわり、と水溜りの上に立った。
 微かな波紋を目で追うと、いつの間にかそこはあの日の砂浜に変わっていた。
「その言葉が聞きたかった」
「何言って…」
 俺は、俺を見た。
 この表情、見覚えがある。
 ――ゾロをからかうときの、笑顔だ。
「…おいお前、まさか、わざとやってるか?」
 俺はニヤリと笑った。
「当たり」
「ふざけてる場合じゃねぇだろ、俺は…」

 そうだ、俺は、今21歳で。
 父と母が入水自殺したのは、もう16年も昔の話なのだった。
 
 …美しい母は不治の病に冒され。
 …優しい父はそんな母が痩せて小さくなって死んでいく様に耐えられなかった。
 だから。
 家族3人で。

 俺は何故だか助かった。
 父と母は助からなかった。

 何故。
 と、問うても答えはない。

 胸の中の大きな虚ろ。
 決して塞がらぬ大きな虚ろ。

 愛する者に殺されかけた記憶。
 いつも身近にある「死」の囁き。

 「死」の誘惑にかられて、俺は何度もあの闇を見たのではなかったか。
 そして、このもう1人の俺も。


 
「思い出したかよ?」
「くっきりはっきりな」
「お、余裕出てきたじゃねぇの」
「バァカ、『忘れても、無かったことにはできない』…つまり、『事実は事実なんだ』って 言ったのは、テメェだろ」
「そう。事実は事実、無かったことにはできない。それなら、どうする?」
 俺は胸を張って答えた。

「受け入れる」

「そういうこと」


 俺は満足げに笑うと、俺の頭を軽く撫でた。
「特に、昔の出来事はな」
 その動作が、ひどく昔の懐かしい暖かい記憶と重なって、俺はくしゃりと顔を歪めた。


 父さん。
 母さん。


 そうだ、少しは良い事もあった。
 たくさんあった。


 たくさん、あったんだ。



「相変わらず、“死”は魅力的だし、折りにつけ死んじまいたくなるけどさ。でも、それと 同じくらい、生きている事が嬉しくてたまらないことがあるだろ?」
 俺は何故か俺と向かい合って立っていた。
 相変わらず血塗れだったけれど。
「胸の虚ろは消えないけど、満たしてくれる光が、たくさんたくさんあるだろ?」
「…うん」
 つん、ときた。
 ああ、泣く。
 泣いてしまう。
「だから、大丈夫だ。例えこの手が二度と動かなくたって、俺は、希望を知っているん だから」
 こみ上げてくるものは勝手に眼から溢れ出した。
 止めようがないので放っておいた。
 俺は、そんな俺の頭をもう一度そっと撫でると、夜風のように囁いた。
「いいか、約束を忘れるな。あの日の空と海とを忘れるな。胸の虚ろを満たす光を忘れ るな。そうすれば、俺は生きていける」
 ゆらり、と周囲の闇ごと俺は揺らいだ。
「本当は、何もかも忘れないで覚えていられたらいいんだけどな」
「大丈夫さ、思い出せるから」
「そうそう、その意気だ」
「当然だろう、俺はお前なんだから」
 俺はクスクスと笑うと、闇に溶けるように消えた。

 ―――残された俺は、ゆっくりと振り返った。

 ゾロ。

 ただ静かに見守っていてくれた人のほうへ。
 広げられた腕、その中へ飛び込んでいく。








 胸の虚ろを満たしてなお溢れ出す光の中へ。





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