PM 8:01 -Robin-



夢と現実。




 大企業、バロックワークス。
 父、クロコダイル。
 いまやこの国でこれらを知らぬものはいない。
 彼の表の顔は、「人材派遣」で一躍経済界のトップに踊り出て、慈善事業にも熱心 な理想の男性。
 けれどその裏の顔は、あらゆる悪事をも引き受け、人を殺す事も何とも思わない男。
 世間の人々は決して知る事はない――病院の傍に破格の値段で宿泊できる施設を 建て、病人の家族とにこやかに握手している男が、数時間前まで、失敗をしでかした 麻薬密売人を「処分」していた…などということは。
 本妻、つまり私の母はとうに死んで、今は数名の愛人の間を行き来している。
 当然のことながら、私の家の家族仲は冷え切っている。
 もっとも、現代社会で生きていくために必要なのはお金で、それだけは腐るほどある のだった。
 私自身、自社株を山のように持っている。そこからもお金がどんどん沸いてくる。
 そういうわけで、私は何不自由ない生活を送っている。
 だが、時折、父の裏の顔を知る人物や、企業の急激な成長に危機感を抱く者、父に 弱みを握られ揺すられている人などが、私の所へやってくる。
 誰かに恨みをぶつけたいのだろう。護衛も一切無しで暮らしている私は、絶好のター ゲットに見えるらしい。…私に何かあった所で、あの父が動揺するとは全く思えない し、想像もつかないのだが、彼らはそうは思わないようだ。父の性格を考えればすぐ分 かるはずなのに。
 とはいえ、私も死ぬつもりはなかったので、幼いうちに様々な自衛手段を覚えた。
 アメリカに渡り、バロックワークスアメリカ支社で、暗部の訓練を受けたのだ。…あれ は5歳から15歳にかけてのことだった。10年間、来る日も来る日も専門トレーナー(と いうよりあれは「教官」だった)について、成長期の体に負担をかけぬようにしながら 様々な訓練を行なった。
 その後、18歳になるまでアメリカにいた。時折バロックワークスの仕事を手伝いなが ら…と言うより、実行しながら暮らした。どうも私はその手の仕事に多分に向いていた ようで、自らに流れる父の血を自覚して少し自己嫌悪に陥った事もある。
 18歳になったとき、父に日本に呼び戻された。多分、政略結婚でもさせるつもりなの だろうと思った。後継ぎなら、愛人との間に男の子が生まれていたし。
 けれども、数年ぶりに会った父の口から出たのは意外な一言だった。
「どこでもいいから、国内の好きな大学へいけ」
 …そのとき父の目に浮かんだ皮肉な笑いを、今も忘れる事は出来ない。

 大学を卒業したら、もはや自由はないものと思え。

 まあ、仕方がない。
 私は優秀なエージェントに育っていたし、容姿もそれなりに――男性にしてみれば、 とても――良いので、バロックワークスのイメージ向上には適任だ。
 多分父の秘書にでもされて、裏の世界にどっぷり漬かる事になるのだろう。
 だが、それまでにはあと4年ある。
 どうせ今までも自由なんてなかったのだ、人生の中で4年間ぐらい自由に暮らしてみ るのも悪くはないだろう。父の手のひらの上で踊らされている自覚もあったが、折角の 機会なのだ、利用しない手はない。
 そう考えた私は、この街へやってきた。
 空と海の間にある、穏やかなこの街へ。
 
 そして出会った。
 
 





 気だるい眠りからゆっくりと浮上する。
 暗い部屋の中に明滅する小さな光。
 メールの着信を知らせる、携帯電話の光だ。
 右手を伸ばし、携帯電話を引き寄せる。
 開いた途端、強烈な光が眼を射た。一度目を閉じて落ち着くのを待ってから、ゆっくり と瞼を上げていく。
 画面に表示される、「着信あり」と「メールあり」のアイコン。
 そういえば、サイレントモードにしたままだった。
 メールのアイコンをクリックして、差出人を確認する。
 メールは情報屋さん――ウソップからのものだった。
 件名は「緊急」となっている。
 
 文面を読み進めるにつれ、自分の眉根が寄っていくのが分かった。

 …轢き逃げ。

 ――まさか。
 何だって轢き逃げなんて。
 急いで起き上がろうとして、左腕の痛みに顔をしかめた。
 携帯電話の光にうっすらと浮かび上がる包帯。
 よみがえる、雨の中、夕暮れの路上での襲撃の景色。
 あれは、この街に来て以来、久しぶりの襲撃だった。
 男は歩いて帰宅中の私の目の前に車をつけると、突然飛び降りてきて、バタフライナ イフで襲ってきた。
 正直な話、少し笑ってしまった。
 今時、サングラスとマスクで顔を隠した男に、バタフライナイフで襲われる女なんて、 ドラマの中ぐらいにしかいないと思っていたからだ。
 男の動きはどうにも素人くさかった。傘とカバンを利用して、昔に身につけた護身術 でナイフをかわし、さらに柔道の一本背負いの要領で投げ飛ばしてやると、本当に素 人だったらしく、男は受身もとらずに路面に叩きつけられ…そして何かが折れるような ちょっと鈍い音がした。
 その素人は再び襲い掛かる気力を無くしたらしく、少し腰を落とし体を開いて構えた 私を壮絶な目つきでにらみつけると、左手を庇いながら車の助手席に飛び乗った。
 あっという間にドアは閉まり、車は急発進して視界から消えた。
 男が飛び乗った車、黒のセダンはナンバープレートを外していた。そこだけは一応 ちゃんと気を使ったようだ。
 …放っておいても良いだろうと思った。
 手口があんまり素人だったから。
 気がつくと、左腕に少しだけ擦り傷ができていた。
 何だか疲れたので、帰宅してすぐにケガを手当して、ベッドに横になったところまで は覚えている。
 そんなことがあったから、メールを見て、柄にもなく一瞬どきりとしてしまった。もちろ んこれは偶然、だろう。そこに因果関係はないはずだ。
 そのはずだけれど。
 この、湧き上がる不安はなんだろう。
 私が襲撃された時間。場所。そこから猛スピードで逃走する車。車は市内を走り抜け る。無意味に複雑な経路を、無闇な速さで逃げていく。すると、その先には――…… そんな馬鹿な。
 どれだけの偶然を重ねればそうなるというのだろう。
 けれども偶然が重なれば、時には想像以上の結果を――悲劇をもたらす事があるの だ。
 ――行かなければ。
 私はベッドサイドの小さなライトをつけると、乱れた服装と髪型を整え、上着を羽織っ た。
 カバンを手に取ったところで、それに大きな切り傷ができていることを思い出す。一瞬 逡巡して、結局そのカバンで行くことにした。おそらく、多少は証拠品としての役割を果 たしてくれるだろう。
 ドアに鍵をかけ、エレベーターで1階に降りると、外は相変わらずの小雨模様だっ た。
 雨音ばかりが耳につく夜の闇の中を、バス停へ向かう。 

 私は、家の事情で、人の死に関わった事も一度や二度ではない。
 私自身、見知らぬ人間に殺意を向けられ、実際に襲われてもいる。
 だから慣れているはずなのだ――そう、例えサンジ君が死んでしまったって、私は きっとみんなとは違った反応をするだろう。
 いや、しただろう。
 この街に来る前の自分なら。
 でも、何か。
 今では、何かが、私の中で少し違う気がする。
 私は知っている――彼が食堂でくるくると働く姿を。部室のコタツ机に突っ伏して眠る 姿を。時々クラブ棟の屋根の上で、空と海を見ながら煙草を吸っている姿を。何よりそ の眩しすぎる笑顔を、私は知っている。
 その点が今までと決定的に違うのだ。
 誰が死のうが生きようが所詮他人だった。けれどもサンジ君は少なくとも他人ではな い。
 他人ではないのだ。
 ふと、左腕に目をやる。
 この程度なら大した事はない、そう思って病院に行かず警察にも届けなかったが― ―とはいえ、警察には多分助けてはもらえないだろう。警察は、バロックワークスには 関わりたがらないのが常だから。しかし、今回は、そうも言っていられない。
 私は、確かめなければならない。知らなければならない。その上で、対処せねばなら ない。
 私を襲撃した男が逃走に使った車と、サンジ君を轢き逃げした車が同一のものであ るかどうか。違うなら違うで、私がバロックワークスを動かせば、警察より早く犯人を見 つけられるだろう。それが、もし同一のものであるなら――。

 やってきたバスに乗り込みながら、私は仏頂面の剣士さんのことを思った。サンジ君 が大事で大事で仕方がない、餓えた獣みたいな青年の眼。
 
 彼に、好きにさせてあげよう。

 事後処理には、慣れている。


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