楽園へ至る道

「……ということなんだ。僕たちは、長い長い時間 ときを経て再び交わるために俗世への転生を繰り返した。そしてこうして今やっと出会えたんだ」

 水色の髪を指で梳きながら唇を寄せた。

「壮大なbedtime story……どうも」

 ランガは興味なさそうな様子でゴロリと愛之介に背を向けた。ベッドのスプリングが小さく軋んだ。

 ことの発端は、ランガがふとした疑問を口にしたことにある。なぜ愛之介が愛抱夢と名乗りランガのことをイヴだと思ったのか、そう彼は訊いてきた。すごく気になっていたわけではないんだけどね、と断りを入れて。今までそんなことを気に留める様子など見られなかった彼が、いったいどういう風の吹き回しだろうか。

 それならばと、アダムとイヴ、そして二人に瓜二つの外見を持ったルシファーとリリスのスペクタクル大ロマンを急遽創作し寝物語として話し聞かせたのに、この態度だ。

「おや? 感動してくれないの?」

「だいたいその設定無理ありすぎ。最初のヒトが男二人だったら、子孫はつくれない」

「これは、裏アダムとイヴの物語なんだ」

「裏?」

「表があるってこと。男女のアダムとイヴはちゃんといるから心配しないで」

「別に心配しているわけじゃない。随分とご都合主義のこじつけ設定だと思って」

「ん? それを言い出したら、聖書の人類創生話がそもそもこじつけだよ。だいたいアダムとイヴを最初の人類とか言っているのキリスト教だけだ。ユダヤ教は旧約聖書ベースにしているけどアダムとイヴは最初の人類じゃない。最初のユダヤ人でしかないんだ。中にはアダムとイヴはメタファであり個人を指すものではなく国家、ユダヤの民のこと。その建国と亡国のことだという説もあるくらいだ。さらに創世記の記述から冷静に計算していくとアダムとイヴは今から六千年くらい前に生まれている。ところが沖縄で最初に見つかった縄文人である港川人の骨なんて二万年前のものだと鑑定されているんだ。沖縄の人の祖先は、アダムとイヴよりずっと昔からいたってことだよ」

「へえ、沖縄すごいな」

 いや、そこ、棒読みで感心するところではない。

「沖縄だけではなく六千年前くらいでは、ぽちぽち世界各地で文明が起き始めた頃だ。まあそれは置いておいて、君がさっき言った通り、これは〈bedtime story〉——僕と君の物語だ。聖書という原作に僕が新しい解釈を付け加えた……いわば、僕らのためのおとぎ話——〈fairy tale〉だよ。そのつもりでもっと話を聞く気ある? 質問があったら答えよう。もっとも退屈だったらこの話はやめる」

「一応、聞くよ。質問だけど、あなたの中でこの男同士のアダムとイヴにどういう存在意義が?」

「生殖ではなく愛のためだけにセックスをした最初のヒトってことだよ」

「はあ? 無理やりすぎて意味わからないけど。まあ元が無理やりだからいいのか。アダムがあなたにイヴが俺に生まれ変わったという設定はいいとして、ルシファーとリリスはそのあとどうなったの?」

「アダムとルシファ、イヴとリリス。どちらも不完全な半身だったんだ。それで一つになる必要があった。僕はアダムでありルシファーでもある。君はイヴでありリリスなんだ」

「じゃあ、なんであなたはルシファーではなくアダムって名乗ったの?」

 そこは、普通引っかかるところではないだろう。まあいい。瞬時に思考を巡らせた。

「それは簡単な話さ。ルシファーとリリスではあまりにも認知度が低すぎて、ギャラリーはポカーンだろ? わかりやすくが僕のモットーだ」

 背を向けていたランガは、ゴロリと体勢を戻し仰向け愛之介を見た。目が合う。

「そういうこと? もう、あなたの話を少しでも真面目に聞こうとしていた俺が馬鹿みたいだ」

 ヨイショと上半身を起こそうとするランガの肩を支える。彼は愛之介の裸の胸に片頬を押し付けた。熱い吐息が胸を掠り、ぞくりとしたものが背を駆け上がる。そして、彼が瞬きするたびに長いまつ毛が、肌を擦る。さわっさわっと。なんともこそばゆい。

「それにアダムの漢字当て字はすぐに思いついたけど、ルシファーのしっくりする漢字なんて見つからないと思うんだよ。どうやっても〈愛〉という漢字を入れ込むのは難しい」

「え? 漢字って、アダムって漢字があったの?」

 身体を少し離し、顔を上げたランガは目をパチクリさせている。

「おや? 知らなかったのかな?」

 と口にしてから、はたと気づく。

 待てよ? 考えてみれば当然か。冷静になればS参加者たちのほとんどは知らない可能性すらあった。いつも「アダム」と口頭で名乗っているだけだったし、トーナメントのように文字で記載する必要があるときは、誰であってもSネームはアルファベット表記で統一していた。当然愛抱夢は「Adam」だったのだから。

「実はこういう当て字だったんだよ」とサイドテーブルの引き出しからメモを取り出し、書いてみせた。『愛抱夢』と。

「これで、アダムって読めるんだ。日本語って、漢字ってすごい」

 今更こんな説明をすると、らしくもなく小っ恥ずかしいかもしれない。

 ランガは〈愛〉の漢字を指差し「これは〈love〉だね」と言い、次に〈抱〉を「これは……〈hug〉?」と顔を上げた。

「他にも〈Embrace〉〈cuddle〉〈snuggle〉とか、前後の文脈によって〈make love〉という意味になったりもするね」

「ふーん、で……」

 ランガは〈夢〉に指を押し付け「〈dream〉?」と訊いた。

「そうだね」

「愛抱夢らしいな」

「らしい?」

「うん、とても」

 ランガはニコッと笑った。それは嘲笑的な印象のない純粋な笑顔だった。

 正直、この当て字は当時かなり真剣に悩んだ末に思いついたものだ。それなのに笑ったやつ——ジョーはまだしもチェリーなんてSネームも大概だと思うが——はいたし、呆れたのか絶句したやつ——スネークだって恥ずかしいだろう! 某ゲームのプレイヤーだったとも聞いたが——もいた。

「君は笑ったり呆れたりしないのかな」

 彼は、きょとんとした顔で首を傾げた。

「どうして? だってあなたは、いつでも一生懸命で真剣だったから。俺まだ日本語よく理解していないと思うけど、この漢字の一文字ずつの意味は、あなたの探していたものなんだなって思った」

 日本語を母語にしていない彼の方が、むしろ面白おかしく捉えたりせず、素直に当時の愛抱夢の心情に寄り添ってくれている。この子にとって、それが自然体なのだろう。

 そんな真っ直ぐな眼差しを向けられると、泣きたい気分になる。本当に君の言葉は、心にストンと落ちる。

 ランガがここにいてくれる幸運に心から感謝しよう。

「まあ、ザコに笑われたところで痛くも痒くもなかったしね」

「愛抱夢ってさ、すごくこだわっていたよね。アダムとイヴとエデンに。トーナメントタイトルもホワイトエデンだったし。しかもサブタイトルが——」

ランガは言いづらそうに口をへの字に曲げた。

「僕は本気だったよ」

「それも理解している。冗談だったとは思わないよ」

「ありがとう」

「ねえ、あそこは俺には何もない何も感じない楽しくない世界だったけど、あなたのエデンだった?」

 あそこ——ゾーンと呼ばれるあの世界のことだ。ランガをうまく誘い込むことができた。ランガもあの素晴らしい世界に夢中になるだろうと疑わなかった。しかしこの子はイヴになることを拒んだ。ここは楽しくないと。

「そうだね。あそこは僕を縛るものは何もない。スケートのことだけを考えていればいい世界。自由だった。俗世のこと全てを忘れられたんだ。はじめてあそこに入り込んだ瞬間もう夢中になった。すべての重圧から解き放たれる悩みのない理想郷、間違いなくアダムが帰りたがったエデンだったんだ」

「でもひとりぼっちだった? だから俺を連れて行こうとしたんでしょう?」

「エデンに至れるのはアダムとイヴだけなんだ。アダムにはイヴがどうしようもなく必要だった。それだけだよ」

 アダムはイヴによってしか癒されない。

 ランガは愛抱夢の首に腕を巻きつかせた。

「寂しかったんだね」

 そうだ。寂しかったのだろう。でもまだ、君の前でも認めない。

「どうだったかな」

「今でも、あそこがエデンだと思っている?」

「ああ、もちろんあそこはエデンだよ。でも、エデンに君と共に閉じこもることだけがおまえの幸せか、と問われれば、そうではないのだろうくらい今では思えるようにはなっているよ。俗世でこうして君といる。それでこんなにも満たされる」

「そう、よかった。あなたがまたひとりであそこへ行こうとしたらどうしようかと思っていた」

「君を置いて行くはずなんてないさ。いくらエデンでも、イヴがいなければ何の価値もない」

「じゃあさあ、今のあなたにとってのエデン——ゾーンはどんな価値があるの?」

「まあ、その……敢えて言えばリゾート地……かな?」

「リゾート地?」

「気分転換にときどき行くのも悪くないと思っている。もちろん君とね」

 あの世界へ、ともに辿り着くことのできる才能を持ったスケーター——イヴを探した。君が僕の前に現れるまで八年もの間待ち続けた。長かった。

 あの場所は俗世のあれやこれや、鬱陶しい押し付けや縛り、全てを忘れることができる。スケートのことだけ考えていればいい、悩みや苦しみのない世界だった。でも……あの風景の中には自分しかいなかった。しかも思い出したくもないあの準決勝で、赤毛に足をすくわれたあの瞬間まで孤独の自覚はなかった。

 愛之介はランガの腰を掴み抱き寄せ、首に唇を押しつけ手のひらを胸の上で滑らせる。

 ランガは首をすくめながら、自分の胸をまさぐる男の手首を掴んだ。

「今夜はもう無理だからね」

 抗議しつつも乱れはじめた息に、ふふふ……と笑みが溢れた。

「君がその気にならなかったら潔く諦めよう。もちろん無理はさせないから安心して」

 耳に息を吹きかけ、舐め上げれば「ひっ……」と、ランガは背を震わせた。指の腹が乳首を掠めるたびに、身を捩るが、抵抗は形ばかりになっていく。

 そんなランガの反応に、愛之介は愛撫を続けながら楽しそうに目を細めた。

「ねえ、ランガくん、僕はさっきからずっと悩んでいたんだ」

「ん……悩むって、……な……にを?」

 浅く乱れた呼吸の中、途切れ途切れの声が訊いてくる。

 すでにツンと立ち上がっている胸の突起を押し込むようにして小刻みに揺らしてやれば、甲高い悲鳴を上げ愛撫から逃れようと身を捩った。そんな彼をきつく抱きしめ抵抗を封じた。

「君をどうやって、その気にさせようかって、さっきからずっと悩んでいた」

「え?」

「実は、前々から、ちょくちょく悩むことあったんだ。君は気が付かなかったみたいだけれど。だいたい勝率は三、四割程度かな。だからこそ、次はどうしてやろうかと考える。そんな悩みがなくなったら面白くもなんともない……だろう?」

「意味が、わからない」

「つまり悩みのない世界なんて、退屈なだけの偽物だってことなんだ」

「なるほど」

 変に感心する彼を、そっとベッドの上に横たえ頬に手のひらをあて見下ろした。

「今夜は僕の勝ちみたいだね」

 自分の口から出た軽率な一言に少しばかり焦る。勝敗を持ち出すと、この子はムキになる傾向がある。ところが……

「なんか、むかつく」と言ったきり、ランガは否定しなかった。

 潤んだ青が、ただ愛之介を見つめていた。

 いつ見ても、ランガの顔も身体もため息が出るほど美しい。白く透きとおるような肌。繊細な顔立ち。綺麗な筋肉が無駄なくついたアスリートらしい身体。それなのに自分の容姿に対して、とことん無頓着だ。

 やがてランガは指を伸ばし愛之介の頬に触れた。輪郭をなぞりながら、桜色の唇が僅かに開き白い歯が覗く。その風情はクラクラするほど扇情的なものとして映り、脳髄を刺激した。

 綺麗な形の唇が動いた。

「キスしようよ」

「どのようなキスがいいのかな?」

「うんと甘いのがいい。甘くて激しいやつ」

「かわいいおねだりには、誠意を持って応えないとね」

 脚と脚が絡み擦れ合う。それから腹、胸へと重石をしていくように体重をかけながら覆いかぶさっていった。汗ばんだ肌と肌がピタリと吸いつき、胸で響き合う鼓動を聞く。

 頬に軽く触れるだけのキスしてから、唇を重ねた。

 甘くて激しいキスを、君が望むままに。