ふたりの距離はゆっくりと縮めていこう

1.ウサギはウサギでも

 屋上での暦とランガ、スケートで繋がった親友たちのランチタイム。どうでもいい雑談のスタートはいつもスケートがらみだ。

「そういえばさ、おまえがスケートはじめたばかりのころ、先生に追いかけられたことあっただろ。あのときカーブ曲がれなくて塀に激突していたよな。今のおまえからは想像できないぜ」

 顔を横に向ければ、弁当箱に箸を突っ込む暦と目が合った。

「暦は曲がり方教えてくれていなかったんだから。仕方ないだろ」

「だからといって減速もしないで、障害物に突っ込んでいくか? ふつー。ランガは最初から度胸がいいというか命知らずっていうか無鉄砲だよな」

「ジョーに忠告されても愛抱夢とのビーフやめなくて、大怪我をした暦に言われたくない」

「あ、あれは、だな……。実也を侮辱したあいつがどうしても許せなかったんだ」

「シャドウとの最初のビーフも、暦はスケートを侮辱されて挑んで無茶をしたと聞いた」

「誰から?」

「岡店長。ほら俺の最初のバイトのとき暦怪我していただろ。その理由を教えてくれた」

 ポーク玉子を突き刺した箸を持ち上げ、暦は唇を突き出した。

「余計なことを。無茶だって自分でもわかってらぁ。あんときはやるしかなかったんだよ」

 ランガは笑う。

「暦らしいよね。自分の滑りたいという気持ちより、誰かが傷つけられた、とか自分のプライドが傷つけられた、みたいなことでムキになるの。いつも人のことを気にかけている。俺は誰かのことを考えるとかじゃなくて滑りたいって気持ちしかないから。俺は実也が侮辱されたとか、実也が傷つけられたんだって想像することはできなかった。……暦は、俺と違って人の気持ちがわかる。優しいんだ」

「おい、真顔で恥ずかしいこと言うなよ! むしろおまえだよ。無茶している意識ない。迷いがないというかなんというか。まあ実際なんとかしちまうんだよな。俺ら凡人と違って……」

 最後の方、暦の声は消えそうに小さくなってブツブツ声になっていた。

 暦の指摘——言われてみれば、スノーボードをやっていたころもそうだった。

「いつか、なんともならなくなることもあるのかな」

「どうした?」

「昔、父さんに言われたんだ。『おまえは〈snowshoe hare〉みたいだ。何も考えずに突っ込んでいくと、いつか痛い目に会うから気をつけなさい』って」

「ヘア? 髪の毛?」

「違うよ。えっと日本語でなんて言うのかな?」ランガはスマホを取り出し確認してみる。「カンジキウサギだって」

「はぁ? あの耳の長いウサギ?」

「そうだよ」

「おまえが、あのかわいいウサちゃん? どこが?」

 暦はプププ……と笑った。

 〈hare〉がかわいいって? ランガは目をパチパチとさせた。まあ、確かに見た目は可愛いような気はする。でも……

「どこがって、〈snowshoe hare〉ってものすごいスピードで雪の中を走っていくんだ。敵から逃げるためにね。でも、勢いがありすぎて、たまに障害物を避けられず衝突して、そのまま死んだりする。そういうところが俺みたいなんだって父さんが言っていた」

「カナダのウサギってそんなに速く走れるのか? 俺の知っているウサギと違う」

「暦の知っているウサギって?」

「ふわふわモコモコの白い毛で柔らかくて、目が赤くて、ピョンピョン跳ねて、いつも口をもぐもぐさせてニンジン食べている。寂しいと死んじゃう、みたいな。おとなしい動物かな」

「〈snowshoe hare〉は群れにならない単独行動の動物だから、寂しくて死んでいたりしたらもう絶滅しているよ。それに結構凶暴だよ? 人にも馴れないし。あ、冬、食料が少なくなると他の動物の肉食べたり、ときには共食いしたりもするって父さんが言っていた」

「待て! それ本当にウサギか?」

 ランガはもう一度スマホで確認し、写真を暦に見せた。

「ほら、これが〈snowshoe hare〉だよ」

「耳が長い。確かにウサギといえばウサギか。ペットのウサギとイメージが違うのは野生だからか? それにしてもカナダって怖い国だな」

 カナダとは関係ないと思う。どうも話が噛み合っていない気がするけど、まあいいか。


「ということで、話が噛み合わなかったんだけど。俺の日本語がおかしいのかな?」

 それから、数日後のSでのこと。暦とのウサギ談義を愛抱夢に話していた。日本語と英語についてランガの中で、なんらかの齟齬が生じたとき、とりあえず愛抱夢に相談することが癖になっていた。実際、アメリカの大学を出ている愛抱夢の日本語と英語を交えた説明はわかりやすい。

 愛抱夢はランガの話を聞いて「ふむ」とスマホで何かを調べている。そして、「なるほど。そういうことか」と、ひとりで納得していた。

「おそらく赤毛くんの言っていたウサギって、〈rabbit〉のこと。日本では〈hare〉も〈rabbit〉もウサギなんだ。だから噛み合わなかった」

「あ……そうなのか。確かにどちらも耳長いから、デフォルメされたマスコットキャラクターになったりすると区別つかなくて、〈hare〉か〈rabbit〉のどちらなのかと論争になったりするんだ」

「まあ、僕も興味なかったからね。二つの言い方あることは知っていたけど、単純にペットのウサギを〈rabbit〉で、野生のウサギを〈hare〉というのだろうくらいに思っていたし調べもしなかった。実際は種が全く違う。〈rabbit〉はアナウサギで穴を掘るから前足の力が強い。巣穴まで逃げればいいから速くは走れない。ペットや家畜は全部これの改良種。〈hare〉はノウサギのことで、敵から逃げ切ろうとするからスピード勝負で後ろ足の筋肉が発達している、らしい。こっちは人に懐かないからペットにも家畜にもならないということだ。なるほど。勉強になるね」

 勉強になるって、どう考えても愛抱夢の表の仕事にとっては何の役にも立たない無駄知識だ。もちろんスケートとも関係ない。

「そうだったんだ」

「お父さんは君のことを〈snowshoe hare〉みたいだって言ったんだね。なるほどね。確かに」

 愛抱夢はランガの顔をじっと見て、フフフ……と笑った。

「何がおかしいの?」

「確かに、君がスケートをする姿はまさに〈hare〉だね。全身筋肉で引き締まったバネみたいな身体。幅と高さのあるジャンプ、圧倒的スピード」

「じゃあ、俺、そのうち何かに激突したりするのかな。父さんが心配していたんだ。学校で塀にぶつかったとき大丈夫だったけど。スケートができなくなるような怪我だけはしたくないな」

「おや? そんな心配、君らしくないね。最初の曲がり方を教わっていなかった初心者であったときを別にすれば、今までに障害物を避けられなかったりぶつかったり、なんてことはなかっただろう?」

「確かに、ないかな」

「無意識だろうけど、君は、コースのコンディションをいくつかの視点から同時に俯瞰し、滑りながら瞬時に判断できているんだ。それで初見のコースでも大胆な滑りができてしまう。凡人だったらおそらく大怪我している。いや、それ以前に君のような滑りをしようなんて発想にはならないよ」

 ふかん? 愛抱夢の言っていることは難しくてよくわからない。そもそもランガは、自分がそんな特別だとは思っていない。

「へえ、そうなんだ」

 適当に頷いておいた。

「実は、前々から君のことをウサギ——この場合〈rabbit〉ね——みたいだなって思っていたんだよ。日本でのウサギのイメージって、白くてふわふわしていて温かくて……とても抱き心地がいい、なんだ。いつまでもずっと抱いていたくなるようなね。ランガくんも同じだよ」

「俺、ふわふわした毛なんて生えていないよ?」

「それは概念の問題かな?」

「がいねん?」

 ランガには理解できない日本語が飛び出してきたけど、愛抱夢は言葉の説明をする気はないようで、勝手に話を進めた。

「ふわふわした毛がなくても、ランガくんのことを、ぎゅっとハグするだけで僕は癒されるんだ。疲れたとき、そばに君がいてくれればと思うことがよくあるよ。君をここでぎゅっと抱きしめれば、きっと疲れなんて吹っ飛ぶのに……って」

「そ、そうなの?」

「それでだが、僕は今、とても疲れている」

「それなら、Sなんかに来ないで家で休んでいればよかったのに」

 目元はマスクに覆われてはいるが、愛抱夢が微妙な表情になったのが、わかった。

(俺、なんかまた空気読んでいなかった?)

「肉体的ではなく精神的な疲れだからね。家で休んでいても癒されない」

「ふーん、それは大変だね」

 マスクの下から覗く愛抱夢の赤い瞳は真剣に真っ直ぐランガを見つめていた。

「ランガくん……」

 名を呼ばれてドキッと心臓が跳ねた。何故か緊張する。

「はい」

「僕にギュッとハグされる気はない?」

「いいけど」

 腕を下にして広げた。

 うん、ハグならいつでも大丈夫。

 愛抱夢の口端が吊り上がった。多分、にっこり笑ったんだと思う。

「今、ここではまずい」

「どうして?」

「日本にはハグの習慣ないからね。皆がびっくりする。特に赤毛くんに見られると大騒ぎになるかもしれない」

 よくわからなかったけれど「そうなんだ」とだけ返しておいた。

「じゃあ、今度……」

「いや、僕は今、疲れているんだ」

 わがままだなぁと思う。

「どうすればいいの?」

「今から、一緒に滑ろう」

 滑りながらのハグはスケートに集中できない。勘弁して欲しい。

「滑りながらは、ちょっと……」

「そんなことはしないよ。コースの途中からほんの少し外れると、ちょうど死角になった都合いい場所があってね。誰かに見られることなく、君を存分にハグできるんだ。ほら、今の僕らにとっては打ってつけだろう?」

 いくつか、よくわからなかったこともあったけれど、とりあえずダメだという理由は思いつかなかった。

「わかった」

 愛抱夢は満面の笑み——マスクに目元が隠されているので多分だが——で、恭しくランガの手を取った。

2.片思いの楽しみかた

 Sのコースには何箇所か、まるで天然のジャンプ台のように綺麗なカーブを描きながら競り上がる岩がある。そこをキッカーにして崖を飛びコースをショートカットできれば、ビーフの流れは、より有利になってくれる。

 ところが、ひとつだけ愛抱夢以外、誰も飛んだことのない崖があった。何せ飛んだところで安全な場所に着地できるかどうか見当もつかない上に、ショートカットにならないのだ。

 実は、その崖を飛ぶと、まず朽ちかけたフェンスにデッキ底面を当てボードをスライドさせなくてはいけない。そこから飛び降りることで、やっと細い小道に着地することができるのだ。そのことを知っているのは愛抱夢だけだった。

 今、その難関をあっさり攻略したふたりがガタガタというウィール音を響かせ荒れた斜面を減速しながら滑り降りて行った。

 目的の場所へ到着した愛抱夢はくるりと振り向きざまにボードを蹴り上げ掴んだ。愛抱夢の後ろに続いたその少年は、涼しい顔をしてスッと停止する。心配はしていなかったが、思わずニヤリと笑みを浮かべた。

 愛抱夢はやや大袈裟なジェスチャーで両腕を大きく広げ、招待客を歓迎した。

「ようこそ、スノー」

 ランガは「へえ、こんなところがあったんだ」とキョロキョロあたりを見回した。

「どう? 気に入った?」

「ここが、コースからほんの少し外れたところ?」

「僕らにとっては、ほんの少しだっただろう? あそこから飛ばないとここには来れないけどね。君と僕以外でここに辿り着けるものは、誰もいないさ」

 コースを外れた死角になるようなところが、誰でも簡単に侵入できる都合のいい場所であってたまるか。それこそ、誰かに邪魔されるかもしれない。最悪、先客がよろしくやっている可能性すらある。それを考え、簡単に入り込める死角がないよう入念に整備をした。ここは神聖なスケートコースなのだ。俗っぽい利用の仕方は許さない。

 自分のことを棚に上げるのは、愛抱夢の当然の権利だ。なんせ愛抱夢はSの神なのだから。

「実也やジョーやチェリーも?」

「おそらく無理だろうね。それ以前に、あそこから飛んでも下の構造がどうなっているのか確認できないのだから誰も飛ぼうなんて無茶はしないよ。ショートカットになるどころか遠回りになりそうに見えるだろうし。君だって、まさかいきなりフェンスに飛び乗ってデッキを滑らせるなんて想像できなかっただろう?」

「うん、思わなかったよ。それに、これからだってあそこで飛ぶことないよね。だって、ここ行き止まりだから飛ぶときワクワクしても、そのあと続けられないんじゃ楽しくない。それより、ここからコースにどうやって戻るの?」

「ああ、ボードを抱えて少し崖を伝い降りてから、ジャンプして放り投げたボードを足でキャッチ。そのまま着地する、しかないね」

「ええ? カッコ悪い。……まあいいけど」

「それより、ランガくん。君はここに来た目的、忘れていない?」

「あ、そうだった。ハグするんだよね?」

 言われてはじめて、思い出した、という顔だ。

「そのとおり。ハグして、いいかな?」

「いいよ」

 それでは遠慮なく、と腕を広げランガに近づきハグをする。彼の腕も愛抱夢の背中に回された。

 ぎゅっと腕に力を込めれば、柔らかく弾力のある身体が跳ね返る。無駄なくついた筋肉の感触を、ピタリと合わさった胸で聞く心臓の鼓動を、ほのかに立ち上る汗のにおいを、全身で感じ、しばし堪能する。

 しばらくして腕の中でもぞもぞと動いた彼は「疲れ取れた?」と訊いてきた。

「半分くらい取れたかな」

「これ、いつまでやっているの?」

「君がやめようと言うまで。やめたくなったら教えて。……やめようか?」

「ん? まだ大丈夫だよ。あなたの気が済むまで、いいよ」

 それならば、ありがたくこの幸せを噛み締めていよう。

 それからどれくらいの時間、体温のやりとりをしていたのだろうか。名残惜しいがランガが呆れる前にやめておいたほうが無難だろう。だが、その前に……。

「ランガくん、もうひとつお願いがあるんだけど」

「何?」

「キスしていいかな? もちろん、いつもと同じところに」

「いいよ」

 いつものところ——髪や額くらいだ。かつてランガの父親がそうしたように、そこへのキスは抵抗がないようだった。もっともそのあと調子に乗って冗談っぽく「唇にキスしてもいいかな?」と訊くと「ダメ」と即答される。

 そっと髪、そして額に唇を落とし、もう一度ぎゅっと抱きしめてから 愛抱夢は身体を離した。

「疲れ取れた?」

「お蔭で癒されたよ。ありがとう、ランガくん」

「どうってことないよ」

 彼は無邪気なニッコリ笑いを浮かべた。

 疑う様子は全く見られない。もちろん彼に言ったことは嘘ではないのだが、あの長時間のハグにしろ、キス——髪や額にとはいえ、キスはキスだ——にしろ、ランガはどうも警戒心がなさすぎるように思う。自分だけなら良い、というか、むしろ歓迎なのだが他の人に対してはどうなんだろうか。

「君は、ハグしたいと言われたら、誰でもハグするのかな?」

「言われればね。とりあえずよく知っている人は嫌ではないよ。暦だけじゃなくて、実也、シャドウ、ジョー、チェリーと。でも皆日本人だから、そんなことしようとしないかな。あ、でも暦はハグじゃなくて、何かあると断りもなく飛びついてきたり抱きついてくる。出会ってすぐの友達になる前から、もうそんな感じだった。それが自然すぎて嫌だとか嫌じゃないとか考えたこともなかったかな」

「確かに、見ていると赤毛くんは、嫌いな相手以外だったら誰に対してもパーソナルスペースが狭いね」

「うん。それも暦のいいところだよ。色々な人とすぐに親しくなれる。俺と違って」

「でも、普通、親愛のハグってそんな長時間抱き合っていたりしないよね? 僕がずっと長い時間ハグしていて、無理していなかった? キスも本当は嫌だったとか」

 彼は、はっという表情で何度もパチパチと瞬きをした。

「俺、嫌なら嫌だって言うよ。でも確かに……俺、なんで平気だったんだろう」

 そう言ったきり、首を傾げ黙り込んでしまった。

「悩ませてしまって、悪かったね。君は嫌ではなかったって考えていいんだね」

「もちろん」

 そうか。ならば今夜はもう少しだけ押してみようか。

「あとひとつ図々しいお願いがあるんだけど」

「何?」

「キスしていいかな?」

「したよ」

「そうではなく」と彼の桜色の唇に人差し指を軽く押し当てる。

「ここにね」

 柔らかくしっとりとした感触だ。

 ランガは、また目を大きく見開き愛抱夢の顔をじっと見つめている。

 ややあって「ダメ」とにべもなく返してきた。

 少々性急すぎたか。

「そうか、変なこと言って済まなかった」

「俺、まだ、そこまであなたと……えっと、親密なわけじゃない。スケート以外の愛抱夢のことはあまり知らないし」

 まだ……か。無意識で口にしているのだろうが、その言葉だけで十分すぎることなんだ。

 愛抱夢の口元から笑みが溢れた。

「それなら、もっと頻繁にS以外でデートしよう。お互いを知るためにね。どうかな? もちろんスケートもセットだよ。君にコーチしよう。僕の持っている技術、全て教えるよ」

 彼の顔がぱっと明るくなる。目をキラキラさせて身を乗り出してきた。

「それいい。先約がなければだけど。俺、暦とよく遊ぶ約束するし」

 うん、まあそれは仕方ない。焦りは禁物。急いては事を仕損じる、だ。

 あとどれくらい待たされるのだろうか。見当もつかないが、君がこうして自然体で僕を受け入れてくれるのなら、それで今は十分だ。その分、この片思いを楽しめばいい、と考えればそれも悪くない。イヴを待ち続けたあの時間を思えば、決して長いとは感じないだろう。

「では、そろそろ戻ろうか。保護者ヅラした赤毛くんが心配して探し回る前に」

 手を差し出せば、ランガは微笑みその手を取った。