君が繋いでくれた俗世へ戻ろう
一日中引きずりそうな後味の悪い夢を見るようになったのは、ここ最近のことのように思う。
先日見た夢は、腕に赤い何本もの赤い線が刻まれていく——そんな夢だった。あのとき受けた痛みの記憶が鮮明に蘇る。目が覚めたとき、肌の上に刻まれた傷の痕が赤く浮き上がっていた。その行為を『愛』だと言われても疑うことはない。あれを暴力とは認識できないほど、夢の中の自分は幼かった。
もうひとつ、必死に誰かを探している夢も見た。やはり自分は子供だった。
神道家の暗い屋内を隈無く探した。使用人に「……見なかった?」と聞いて回る。皆困ったように目を逸らし首を横に振った。
庭に出る。庭師を見つけやはり「……はどこ?」と訊く。この庭師……名前は……だ。
「愛之介様……息子はもうここには来ません。大旦那様の言いつけです。愛之介様によからぬ影響を与えるからと。息子がご迷惑をおかけして申し訳ありません」
そんな……。嫌だ嫌だ嫌だ。忠、忠、忠、どこ?
もう一緒にスケートできないの? 忠、行かないで! ここにいて!
夢の中で泣いて、目が覚めた。
現実に起こったこととは全く違う。忠は愛之介にスケートの楽しさを教えたくせに、そのスケートを取り上げた父親の側についた。それは愛之介を裏切ったと同義だ。さらに忠は神道家から離れたことはない。今でも愛之介の秘書として、日頃もっとも近いところにいて仕えている。それなのに、なぜこんな奇妙な夢を見させられるのだろう。
内容を覚えていないことも多いが、おそらく繰り返し似たような夢を見ている。間違いない。目が覚めたとき、強い無力感と喪失感に苛まれているのだ。大切なものを、心の拠り所を奪われるのだという不安だけが残る。最悪の気分だ。
そんなこと、今の現実世界での神道愛之介には、無縁でなくてはいけないことなのに。
これを悪夢というのだろう。こんなくだらない夢で真夜中に起こされると、そのまま朝まで寝付けないことも多い。睡眠が浅いことはよろしくない。日中のパフォーマンスに響き、今後、政務に影響しないとはいえない。いつもの神道愛之介のキレが鈍くなるのは問題だ。気づいているものは、まだいないだろうが、のちのち勘繰られるのも面倒臭い。
就眠場所を変えれば悪夢から解放され熟睡できるのだろうか。週末、気休めと知りつつ愛之介は、別荘で休むことにした。
正直それでも眠るのが、少々憂鬱だ。
ふと雪色の少年を思う。
彼がそばにいてくれれば違うのだろうか。
愛之介は手にしたスマートフォンのディスプレイをしばらく見つめていた。まだ夜の十時前だが彼のことだ。もう寝ているかもしれない。メッセージの方が無難だろう。寝ていたら諦めればいい。そこまで深刻な状況ではないのだから。
指が少し躊躇うように彷徨い、それから決心して画面に触れた。
なんて切り出そうか。
彼に知ってほしいのか隠しておきたいのか、愛之介自身もよくわからなかった。取り敢えず軽い感じで、どちらへも自然に繋がるように——指が動く。
〈ランガくん、助けて〉
幸い就寝前だったらしく、すぐに折り返しの電話がかかってきた。
——「どうしたの?」
「ここのところ眠れないんだ」
——「睡眠不足? 何か心配ごととか?」
「怖い夢を見るんだ。おばけに追いかけられる夢とか」
——「はい? なに子供みたいなことを言っているの?」
「だって僕は子供なんだろう?」
——「もう、すぐそれを持ち出す。……俺、どうしたらいい?」
「なるべく早く。できれば今すぐ会いたいけど、都合は?」
——「うん、大丈夫」
「今、いつものあの別荘に僕はいる。待っている」
——「わかった」
それから一時間も待たずに別荘のインターフォンが鳴った。
「やあ。早かったね」
「急いで来たから」
「上がって。連絡したとき、もしかして寝ようとしていた?」
奥のリビングへ通す。
「うん、もうパジャマでベッドに入ろうとするところだったんだ。それで慌てて着替えた」
「悪かったね。でも嬉しいよ」
リビングのソファーに座るよう促し、ノンカフェインのコーヒーをすすめる。隣に座ればランガは、じっと愛之介の顔を覗き込んだ。
「大丈夫なの? 眠れないとか、怖い夢を見るとか、おかしなこと言っていたけど、疲れている? 仕事大変なの?」
「おや、心配してくれているのかな。そのことだけど……」両口角を吊り上げニヤリとした笑顔をつくった。「ごめんね。それ嘘だから」
ランガの目が丸くなり、すぐに眉尻が上がった。
「な……」
尖らせた唇がかすかに動いたのを見てとり、彼の唇に自分の唇を押しあて、そこから続くだろう文句を封じた。
逃れようと身を捩り首を振ろうとするランガの後頭部をがっちり掴み固定し、体重をかけソファーに強く押さえつける。やわらかい、でもきつく閉ざした唇を吸い、わずかに開いた隙間から舌を入れ、あと少し開かせた。
「ん……」
鼻から甘い声が抜け、ランガの身体が腕の中でほどけていくのを感じ、愛之介は少しだけ拘束する力を緩める。
ランガは唇を振り解き困惑した表情を浮かべた。
「いったい何なの?」
「長いこと君に会えなくて、僕の泉はカラッカラになってしまったんだ。ということで、なるべく早く君を充填したかった」
「じゅうてん?」
「君を抱きたかったってこと」
「だったらストレートにセックスしたい、って言えばよかったのに」
「そう言ったら、君はすぐに飛んできたかな?」
「そ、それは……」
もごもごと口籠もり、ランガは黙り込んだ。間違いなく今夜こうして会うことはできていなかっただろう。こんなふうに慌てて駆けつけてくれる、なんてことは考えにくい。
「ほらね。やはりこうやって君を誘い出して大正解だったんだ」
「ずるい」
口をへの字に曲げ不満げなランガの頭を撫でてから、膨らんだ頬を両手のひらでぎゅっと挟んで顔を近づけた。
「大人はずるいものだって相場は決まっているんだ。僕は前々から君に忠告しているよ」
「そんな忠告なんて知らない」
ランガはプイッとそっぽを向いた。不貞腐れたような表情は、彼の面立ちを実年齢よりずっと幼く見せて、思わず苦笑する。そんな顔をされると、自分が彼に対してやろうとしていることが犯罪臭くて、たまらない気分になる。もちろん、そんなことは断じてないと主張しておこう。
気を取り直してソファーから立ち上がりランガの腕を掴んだ。引っ張り上げたはずみでバランスを崩した彼を腕で受け止め、耳元に「それでは合意がとれたところで、はじめるとしよう」と告げた。
お揃いのバスローブだけを着て、ベッドの上に座り彼を抱き寄せる。頬から首筋にキスを落としてから、唇を重ね合わせた。かるく触れ合うだけだったキスは、角度を変えながら少しずつ深くなっていく。歯列を割り入り込んだ舌で口腔内を優しく撫で回せば、それに彼が応じ二つの熱い舌と舌が絡みあった。
ボディソープの残り香に微かな体臭が混ざる。気持ちを高揚させ、同時に癒してくれるにおい。ずっと欲しくて欲しくてたまらなかったランガのにおいだ。
やがて腕の中でランガはもぞもぞと身じろぎだし、頭を強く振って愛之介の唇から逃れた。苦しげな息を大きく吸って吐いてを何度か繰り返し、顔を上げる。
「もう、息ができない」
涙目で不満を言う彼に、目を細め笑う。
「息継ぎが下手なだけ。君は、軽いキスは慣れているのに長いキスは苦手だね」
「むっ……」
自覚はあるのだろう。少々むくれたような表情を見せたが特に反論はなかった。
ランガの背を抱きバスローブの前立てからもう片方の手を滑り込ませる。胸の丘をまさぐれば手のひらが柔らかい突起を掠め、彼はピクっと背を震わせた。そこが綺麗な桜色であることを知っている。何度も見せてもらっているのだから。
指の腹を使ってなるべくソフトなタッチで突起を弄ぶと、すぐにツンと硬くなった。ランガの表情をじっと見つめながら指を小刻みに動かしてやれば、その度に伏せたのまつ毛が小さく震える。胸に顔を近づけ、もう片方の乳首を舌先で押し転がし吸った。ランガは愛之介の頭を引き剥がそうとする。無視して愛撫を続ければ彼の息が荒くなり、喘ぎを漏らしはじめた。
これ以上いじめるのも可哀想だ。胸から顔を上げれば、頬を上気させうっとりと蕩けるような表情のランガが目に入った。乳首だけで半分いきそうになっている少年は、なんとも愛らしく思わず笑みが溢れる。
ランガの腰を引き膝の上に乗せた。
「僕の首にしがみついて」
言えばランガは素直に従った。
バスローブの裾をめくり彼の尻に触れる。指示したとおり下着を着けていないことにほくそ笑み、小ぶりの丸い尻を手のひらで包むようにして揉みしだいた。
ローションを指にたっぷりとり、塗りつけながら入口をマッサージした。ローションを足しつつ指を挿入していく。指数を増やしながら、自らの通り道を整えていった。そして柔らかくほぐれた頃合いでコンドームをつけ、ランガにもつけてやる。
彼の尻を掴み持ち上げ、いきり立っているものを押しあてた。
「無理しないから。ゆっくり挿れるよ……」
肩に頬を押し付けたランガが、コクリとうなずくのがわかった。
亀頭で入口を慎重に広げ、一気に貫きたい衝動を抑え少しずつ奥へと進めていけば、肉の壁が異物の侵入を阻む。押し込めば少し戻され、また押し込んだ。挿入が深くなるにつれ、じわじわと快感が背をずり上がっていく。それを繰り返せば、やがてペニスは根元まですっぽりと彼の中に埋まり、熱い粘膜に包まれた。
濡れたような甘い喘ぎが、蒼く沈んだ静かな闇に吸い込まれていった。
膝の上で抱いた腰を揺らすたびに、肩からバスローブがずり落ちていき、はだけて覗く白い胸とその上を彩る桜色の乳首が、薄明かりの中に浮かび上がる。その淫らな姿態を強く目に焼きつけ、鎖骨から胸へと唇を押しあて強く吸った。
「あ……ん……ねえ、少し待っ……」
ランガは愛之介の髪を掴み軽い抵抗を見せる。
まとわりつく粘膜。キュッと締めつける肉壁。眩暈がするような快感に襲われ危うく果てそうになり、それでもなんとか耐えた。
「すごいね。僕の方が早くいってしまいそうだ」
掠れた声で囁いたその直後、先に根を上げたのはランガだった。
「……あっ……う……」
こらえきれずに声をあげ全身を震わせたランガは、がくりと愛之介の胸に崩れ落ちる。重なる裸の胸が汗でしっとりと吸いつき、早鐘のような心臓の鼓動が響き合った。ランガは愛之介の肩口に片頬を押しつけ浅くせわしない呼吸を繰り返している。首筋にかかる吐息が妙に熱っぽかった。
身体を繋げたまま、ランガをそっとシーツの上に横たえる。
「うっ……やめっ……」
体勢が動いたことによる強い刺激にランガは、愛之介の腕に爪を立て背をしなわせた。
そんな少年を深紅の瞳が見下ろす。
白く透き通った肌、端正で繊細な顔立ち、長くスラリとした手足と、ランガの美貌は際立っている。なにより彼の持つ成熟前である少年特有の危うさも、大きな魅力だった。そんな未熟な身体を開かれ愛之介のペニスを受け入れさせられている。その様は、ひどく痛々しい。それでも今の愛之介にとっては、劣情を煽るものでしかなく、この行為を躊躇させる理由にはなかった。
無意識に逃げようとする腰を引き戻し、跳ねる身体を押さえつけ、顔を隠そうとする彼の手首をまとめて頭上に固定した。目尻にうっすら涙を滲ませ、苦しげな表情で訴えるランガを執拗に攻める。
律動に合わせギシギシと軋むスプリングの音が耳障りだ。ふたりの息が激しくなる。ランガの額にぽつりぽつりと汗が浮き水色の髪が貼りついた。
切れ切れにあがる嗚咽のような声を聞き、それでも快楽に流される淫猥な表情を見つめながら荒々しく漕ぎ続けた。やがてぐったりとした肢体を一層深く貫き、愛之介は一方的に達した。
がくりとランガの上に崩れ落ちた愛之介は、呼吸を整えながら彼の身体から小さくなったものを抜き上半身を起こした。
乱れたシーツの上に、ぐったりと投げ出された白い裸身を目でなぞれば、ゾクゾクとしたものが背中を走り、果てたばかりの中心が早くも熱を持ちはじめていることがわかった。まだ足りないのだ。もっと、この少年が欲しい。
手のひらを彼の頬にあて首から胸へと滑らせていけばうっすらと開いた瞼から青い瞳が覗く。目が合う。
「これで、終わりだと思っては駄目だよ」
愛之介は微笑んだ。見開かれた青い瞳に、一瞬だけ怯えの色が混ざったように見えた。それでもランガは嫌だとは言わなかった。愛之介は彼の上に覆いかぶさり、再びこの少年の肉体を貪りはじめた。
今の愛之介は、この美しい獲物を徹底的に蹂躙してしまいたいという情動に支配され、それに従った。
乱れた息が落ち着いたころ、そっと身体を外す。頭の中を侵食していた熱が引き、冷静さを取り戻してきた頃合いで、彼の水色の髪を指で梳きながら「ランガくん」と小声で名を呼んでみた。ピクリとも動かない。
あれから三回ランガの中でいった——いや、そんな優しいものではない。ただ自分本位に犯しただけなのかもしれない。自覚はある。愛之介が一回いく間に、ランガは何度も繰り返しオーガズムに支配されていたのだから、気を失い、そのまま眠ってしまったとしても無理はなかった。
ランガは拒絶しなかった。気が進まないときは、はっきり嫌だと主張するような子だ。その彼が、嫌だもやめてもなく、ただされるがままに愛之介に身を任せていた。
温めた濡れタオルで汚れた身体を拭きながら、白い裸身を見つめる。頭の中が冷めてくるとともに、自分のしでかしたことに愕然とする。
「酷いな」
ぽつりと漏れた言葉に、誰がやったのかと自嘲する。白い肌に赤い花びらのような鬱血が散っている。それでも着衣で隠れる箇所だけに集中してつけているということは、無意識に理性は働いていたらしい。
全身隈無く拭き終え、一通りの後始末を済ませてベッドに腰をかけた。顔にかかる水色の髪を指でどける。泣き疲れて眠ってしまった子供のようなあどけない顔だ。愛おしさが込み上げてくる。そんな自分の身勝手な思考が嫌になる。
何度抱いても、どれほど激しい行為に付き合わせても、ランガの清麗さは失われることはなかった。これからも決して失われることはないのだろう。
そんな感慨に耽っていたとき、いきなりパチっと大きく目が開かれ、青い瞳がはっきりと愛之介を捉えた。
心臓が止まるかと思った。眠っていると思い込んでいたところで、こんな射るような視線を向けられたのだから。
ランガの口から怒りの言葉が飛び出す気配を感じ、瞬時に「ごめんね、ランガくん」と謝っていた。我ながら情けない。
「もう、らしくなく自分勝手だった」
ランガは恨みがましい目で睨んできた。
「それは認めるよ。あまりにも君が不足しすぎていて、がっつきすぎた。この埋め合わせは必ず……」
「そんなのいいよ。少し辛かったけど、何もかもが悪かったわけじゃなかったし」
すべてを否定されなかったことに、ほんの少しだけ安堵する。
「いつから目が覚めていたの?」
「少し前。あなたに身体を拭かれているときかな。色々考えたかったから目は開けなかった」
「考えたかったって、何を?」
ランガはふいっと目を逸らし、ぼそっと何かをつぶやいた。それは小さな声だったが、確かに「嘘つき」と聞こえた。
「嘘をついて君を呼び出してしまったのは申し訳なかった」
「違う。そのことじゃない」
強い語調に、触れようと伸ばした指を引っ込めた。
「違うって?」
「嘘だと言ったことが、嘘だったんだ。あなたが眠れていないことも怖い夢を見ることも本当のことだ」
目を凝らして彼を見る。濁りない青い瞳が、愛之介をまっすぐ見据えていた。
「どうして、そう思ったの?」
らしくなく声が震えた。
「目の下は黒いし顔色も良くなかった。眠れていないんだなって俺でもすぐにわかったよ」
「参ったな……」
苦いものが込み上げてくる。まさかこんなにあっさり見抜かれてしまうとは。まだ子供だと思って甘く見ていたのか。
ベッドから上半身を起こそうとしたランガは、痛むのか顔をしかめた。そんな背中を支え抱き起こせば彼はそのまま愛之介の胸に顔を埋めた。
「ねえ、そういうのはもうやめて」
胸の上でくぐもった声が響いた。
「そういうのとは?」
「俺の前では我慢しないで。お願いだから無理しないで」
「別に我慢も無理も——」
「している」
珍しく、ランガは愛之介の言葉を強く遮った。
何も言えなくなった。
確かにそうなのだろう。わかっている。ランガの前で虚勢を張る必要はないことなど。それでも、まだ自分の中のちっぽけなプライドが邪魔をする。だから……。
「努力しよう」
今はまだ、それで許して欲しい。
「俺では相談相手になれないし、そんなことわかっている。それでも……辛いのに平気なふりしなくていいよ。本当は泣きたいのに笑ったりしなくていいんだ。俺とふたりのときは我慢なんてしないで」
ランガをきつく抱きしめた。力を込めて。折れるほど強く。痛い——と言われるまで腕の力は緩めなかった。
「君には敵わないな」
彼はもぞもぞと身じろぎ顔を上げた。
「その怖い夢って、もしかして子供のときの夢?」
「そうだね」
「それ、見るようになったのは最近のこと?」
「確かに最近見るようになったかな」
正確にはランガとの関係が親密になってからのことだった。
「じゃあ、もう大丈夫だよ」
「どうして?」
「それは、思い出すのが辛すぎて見ないように、心の奥に隠して蓋をしていた恐れだよ。でも心が強くなったから隠す必要もなくなったんだ。それで、もう平気だって夢を見させられる。ねえ夢は夢だよ。現実じゃない。いつか見なくなるか、見ても、また見たなくらいで気にならなくなる。そう父さんが言っていた」
「君のお父さんが?」
「うん。俺が小さいころ雪山で遭難しかけたことがあったらしくて。あ、本当にしていたわけじゃなかったらしい。俺がひとり取り残されたと思い込んでいただけの話で。記憶は曖昧ないのに成長してから怖い夢を何度か見るようになったんだ。それで父さんが」
「そうか」
「だから、もう……大丈夫……」
語尾はあくびに掻き消されていた。瞼が半分閉じている。
「眠くなっているね」
「眠い」
「じゃあ、寝ようか。おやすみ、ランガくん」
「おやすみなさい」
ランガは愛之介の唇に軽くキスをして、ベッドに潜り込むと、あっという間に寝息を立てている。愛之介もランガに寄り添い明かりを落とした。
もう出会ってしまったのだ——ランガと。
選ばれたスケーターのみがたどり着けるあの素晴らしい世界。自分が自分でいられる唯一の場所。傷つけられることも裏切られることもない。
楽園——エデン。
ランガは自分とともに、あの高みへ至ることのできる唯一の存在だ。エデンでアダムとイヴになるはずだった。それを彼は「楽しくない」と一蹴した。
あの決勝戦、丸裸にされた心。すべてを曝け出してふたりは全身全霊で激しくぶつかり合った。
そして曇りのない青い瞳は愛抱夢——愛之介のあるがままを映し出し、ただその孤独に寄り添おうとした。それもごく自然体で。
知ってしまったのだ。
心を覆う鎧を脱ぎ捨て、無防備なまま彼に包まれはじめて得られる安らぎを。
ランガの命を道連れにすることも厭わなかった——あれほどのことをしでかして、なお無条件で受け入れられることの幸せを。
あのとき確かに心を通わせ意識を共有し魂が共鳴した。
(僕はランガ——君を離さない)
心の中で、はっきりとそれを言葉にする。
理性が手放すべきと忠告してこようが、身を滅ぼすと警告してこようが、自分の意志とは関係なく魂はただランガを探し求めるだろう。どれほど強固な決意を持ってしても、己を律し自戒し抵抗しても、愛はランガに向かってだけ、ただ注がれる。
それは誤魔化しようのない事実なのだ。ならば否定せずにそれを認めようと思う。抗うことはもうしない。悲劇に向かうかもしれないという恐怖からも目を逸らさない。覚悟を決めてしまおう。
なに、うまくやっていくさ。何故なら自分は神道愛之介であり愛抱夢なのだから。
ランガに毛布を掛け直し、髪に口付けた。
そして目を閉じ、愛之介はゆっくりと深い眠りに落ちていった。
真っ暗だった。——また悪夢か?
漆黒の虚空に、ぼんやりと浮かぶ柔らかな光が見える。目を凝らせば、その中で膝をかかえうずくまる小さな人影に気がついた。
泣いているのか?
愛之介はそっと近づき、指を伸ばした。
指先が触れるか触れないかで、慌てて引っ込め目を伏せた。
この子供は自分だ。
ひとりぼっちで、受けた傷や痛みの全てを、意識の奥深くに閉じ込め蓋をする。あのとき隠れて泣くことしかできなかった。
男は強くなくてはいけない。賢くなければいけない。頼ってはいけない。弱音を吐いてはいけない。泣いてはいけない。勝たなくてはいけない。
そう徹底的に叩き込まれた。それが愛されるための条件だったのだ。
周りの大人からそう諭され、疑う術を持っていなかった無垢だからこそ愚かだった自分だ。
幼い自分が、これから辿る運命を思うと、胸が痛む。
生まれてはじめて心を許した相手とスケートとの出会い、そして裏切り。
深い闇と孤独の中でのたうち回り、ただイヴを探し求めることになるだろう。
そこまで思考を巡らせはたと気づいた。
いったい何を感傷的になっているのか。これは既に終わった過去を再生しているに過ぎない。ただの記憶の残渣だ。
君が言った通り夢は夢だ。
だから僕は君が繋いでくれた俗世へ戻るよ。
ランガ——君がいてくれる現実に。
了