永遠の赤

 瞼を閉じ、俯瞰的視野でパークの全景を鮮明な3D映像として、脳裏に描いた。目を開きスタートを切る。イメージしたとおりのコース取りで迷いなく滑り降り、ボトムから傾斜を一気に翔け昇った。キッカーで蹴り上げた体がふわりと宙に浮き、空中でデッキを掴みグラブ・トリックに入る。

 ランガを中心にぐるりと大きく世界が回転した。目を大きく見開き、その景色を網膜に焼き付けた。

 気持ちいい。この浮遊感はたまらない。

 より高く、より速く、より大胆に。まだいける。限界は遥か先だ。もっと、もっと……高みを目指すんだ。

 このヒリヒリした感覚は何ものにも代え難かった。

 そんな視界の片隅に、自分を見つめる深紅の双眸を一瞬だけ捉えたような気がした。


 ——「今、大丈夫か?」

「うん、休憩中だから問題ないよ」

 ——「こっち、すげー寒くなってきたぞ」

「寒いって、何度なの?」

 ——「十八度」

「全然寒くない」

 ——「二十度切ったら寒い。それよりいつ沖縄帰ってくる?」

「クリスマスには」

 ——「じゃあ、そんときだな。おまえのボード、すんげーアイディアがひらめいたんだ」

「へえ、やっぱり暦はすごいな」

 ——「おう、きっと驚くぜ。なんせ俺は天才メカニックだからな」

「頼りにしている。暦のボードは世界一だ。土産何がいいか考えておいて」

 ——「わかった。っと、こっちはもう寝る時間なんだ。おまえの元気そうな声聞けてよかったよ。俺は寝るな。おやすみ」

「俺も。暦と一緒に滑るの楽しみにしている。おやすみ」


 暦とは、もう何ヶ月か会っていない。それでも、こうやって毎日、タイミングが合えば通話で声を聞いて、たわいのない会話をし、タイミングが合わなければメッセージを送り合う。


 高校を卒業するまでは、いつも傍に暦がいた。朝、待ち合わせてスケート通学。隣の席で授業を受け、ランチは屋上で一緒に食べる。そのままふたりで同じバイト先へ行く。バイトが入っていないときは、パークで一緒に滑る。

 クラスメイトたちは「おまえらいつも一緒で、よく飽きないな。まさかデキているんじゃなだろうな?」などと茶化してくる。暦は、ムキになって「んなわけねーだろ」と否定した。〈デキている〉の意味がわからなかったから笑って流していたけれど、後から暦に説明されて、ふたりで大笑いをした。

 いずれにしろ、間違いなく母親より暦といる時間の方が長かった。

 暦と一緒にいるのは楽しい。それ以外の言葉は浮かばない。

 その中でも、暦と滑るスケートは最高だ。ワクワクしてお腹の底から大きな声を出して、何時間でも笑い合いながら滑っていられる。あの心が弾む感じは、暦と滑っているときだけだ。

 競技スケートとは全く違う。もちろん、お金のための仕事と遊びを一緒にしてはいけないことくらいはわかっている。

 プロになって暦と毎日一緒にいることは不可能になった。最初は少し変な感じがした。落ち着かないというか不安というか。いつも一緒にいた友達がいないのだから。単純に寂しかったのかもしれない。

 けれど、それもすぐに慣れ違和感も気にならなくなった。暦が近くにいなくても大丈夫だと思えるようになっていた。

 なぜなら気づいたからだ。暦はいつも俺と一緒にいることに。確かに俺たちは繋がっているんだ。きっと一生だ。そのことを強く実感できた。

 そのことはランガの自信につながった。自分はひとり立ちできているんだという、ささやかな自信に。


「よっ、ランガ。話は終わった?」

 いきなり後ろから肩を抱かれる。そのままスマートフォンの画面を覗き込んできた。

 首筋に生温い息がかかる。

 リーアムだ。

 彼は、ランガがよく練習するこの屋内スケートパーク近くにある大学に通う、大学院生だった。ランガがここアメリカに拠点を移してから、三人目のボーイフレンドということになる。正式に付き合い出して、まだ一ヶ月ほどだった。

 趣味と割り切ってスケートを楽しんでいる彼は、講義の合間に、こうしてふらっとランガを訪ねてくる。

「いきなり何するんだよ」

「誰と話していた? 日本語だとわからないぜ」

「友達」

「男?」

「そうだよ、親友。俺にスケートを教えてくれた先生でもあるんだ」

 スマホをポケットにしまう。

「愛している?」

「もちろん」

 彼は、ふーんと至近距離から覗き込んできた。

「寝た?」

 この手の軽口をランガは好まない。

 眉をひそめ「親友とはセックスしない」と露骨に不快感を示した。

 彼は肩をすくめる。

「冗談だって。気を悪くしたのなら謝る。少し嫉妬したんだ。君の友人を侮辱するつもりはなかった」

「わかっているよ」

 少し言い方がきつかったかもしれない。ランガは目を伏せ笑顔を作った。

 悪い奴ではない。ユーモアがあって一緒にいるとくだらないジョークで笑わせてくれる。頭も切れるし気も効く。何よりも優しい性格でランガを大切にしてくれる。

 そんな彼に、付き合いたいと言われたとき、断る理由を見つけることができなかった。

「なあ、ランガ。今夜、一緒に食事しよう。それから、俺のアパートに来いよ。どう?」

 彼は、少し照れくさそうに人差し指で頬を掻いている。

 この誘いが何を意味するのか、鈍いランガでも流石に察した。それなりに経験を積み年齢を重ねているのだから。

 彼とは何度かデートを重ね、キスもした。流れ的に不自然なところはない。そうだ。何もない。

「わかった」

 ランガのボーイフレンドは思いっきり破顔した。

「よしっ! 俺、これから講義だから。また後で連絡する」

 彼はスキップするような軽い足取りでキャンパスへ戻っていった。


 ふと、うなじに、ある人の刺すような視線を感じ、振り向いた。

 愛抱夢?

 誰もいない。当たり前だ。愛抱夢こと神道愛之介は、臨時国会で忙しく、日本を離れることはできないのだから。

 こんなことは前にもあった。ランガが前のボーイフレンドと親密になりそうになったタイミングだったと記憶している。

 ランガは首を強く振って、その印象を打ち消そうとするかのように勢いよく、しかし乱暴に斜面を滑り降りた。お椀状になったボトムから緩やかな上昇カーブを滑っていくと上部の傾斜はほぼ垂直だ。そこから一気に空中へ高く飛び上がり、エア・トリックを決めようとした。

 そのとき、耳にあの声が響いた。

 ——「ついてこい」

 え?

 その声に意識をさらわれる。軸がぶれ、空中姿勢が乱れた。

「どうした。らしくないぞ! ランガ」

 着地バランスを崩し、尻もちをつきそうになったランガに、コーチの大声が飛んでくる。

 無言で唇を噛み、ミネラルウォーターを喉に流し込んだ。手の甲で口を拭う。

 愛抱夢——なんなんだ。

 別れても、あの男は時と場所を選ばず、ランガの情緒を乱しにかかってくる。

 いや違う。彼のせいではなく自分の責任だ。引きずられ勝手に感情をかき乱しているのは未練からだ。いい加減忘れるんだ。

 あの人は、もう自分とは交わることのない人生を歩んでいるのだから。


 ホストマザーに夕食はいらないことと、今夜は友人宅に泊まることを伝え、待ち合わせ場所へ向かった。

 さやかな夕食を共にし彼のアパートへ。

 リーアムと一緒にいる時間はリラックスして過ごすことができる。アメリカに来て付き合った他の誰よりも。特にイベントがなくても構わなかった。お互い肩肘を張る必要がなく疲れない。たとえ言葉を交わさず沈黙が続いても気まずくならない関係は、気楽だった。

 その夜も、ふたりソファーに並んで映画を観ていた。おそらくふたりともあまり観てはいないのだろう。ただのBGMでしかない。

 彼の手がランガの二の腕を掴みグイッと抱き寄せた。ランガは彼の肩に頭をあずけ目を閉じた。

 このまま、恋人同士になることは、ごく自然な流れなのだろう。それも悪くないと思えた。

 だから、このボーイフレンドと肉体関係を持つことに、さほど抵抗はなかった。


 その夜、心地よい疲労の中、狭いベッドで抱き合うようにして眠りについた。人の体温を愛しいと思えるのは、どのくらいぶりだろうか。

 朝、傍らで眠る男より、早く目が覚めた。こういうことは珍しい。


 かつて、あの人より自分の方が早く起きることなんてなかった。

 そっと髪を梳かれ優しく頬を撫でられ、最後にはキスまでされて、ランガはようやく目が覚める。

 ——「そろそろ起きないとね」

 彼の指の感触が不意に蘇る。


 そんな遠い記憶に蓋をして、ゆっくりと上半身を起こした。カーテンの隙間から入り込む朝の弱々しい光が、ベッドカバーにやわらかな陰影を落としていた。

 ベッドからカーペットに、そろそろと足を下ろす。

「何時?」

 掠れた眠たげな声が聞こえた。

「ごめん、起こしちゃった?」

 彼は、ごそごそと時計を確認する。

「いや、起きる時間だね。朝食を準備するから、待っていて」

「手伝うよ」

 ふたりでたわいもない会話をしながら朝食を摂った。

「俺、食べ終わったら帰るから」

「せっかくの土曜日だ。もう少しゆっくりしていけよ」

「うん、でもなんか滑りたい気分なんだ。またいつでも会える」

「ランガ……」

 椅子から立ち上がったところで名を呼ばれ、手を握られた。

「何?」

 視線を下げれば、じっと見つめてくる彼と目があった。その真摯な眼差しに心が揺れた。

「愛し合ってくれて、ありがとう」

 その言葉はひどく重い響きを内包していて、ズシリと胸に落ちた。わずかに唇は動いたけれど声にすることが、できない。口の中がカラカラだった。

 ランガはただ微笑み、体をかがめて彼の唇に軽くキスをした。


 ホームステイ先に戻り、自分の部屋でスケートパークへ行く準備をしていたとき着信音が鳴った。ポケットからスマホを引っ張り出せば、母からのメッセージだった。

 メッセージアプリを開く。


〈ビッグニュースよ! あの神道愛之介議員が、結婚決まったみたい。素敵な女性。さすがね。ニュースサイトに詳しいこと書いてあるから興味あったら読んでみて。でも、あなたにはどうでもいいニュースよね。つい興奮してごめなさい。〉


 一瞬、感情が凍った。

 震える指でスマホを操作し、日本のニュースサイトを確認する。

 女性ファンが多い若手議員である神道愛之介の結婚は、大きく取り上げられていた。ふたりの馴れ初めからプロポーズの言葉まで。お祝いムード一色だ。

 相手は政策秘書として彼を支えていた有能な女性だという。これからもずっと彼の側で、同じ理想に向かって手を携え歩んでいく、最高のパートナーであることが、彼のコメントから伝わってきた。

 当然だ。あの人が選んだ女性なのだから。


 愛抱夢が結婚。

 そうか。よかった。本当によかった。あの人は、これからも順調な人生を歩んでいくのだろう。

 これで彼は家庭を持ち幸せになれるんだ。政治家として、夫として、いつか父親としても。迷いは無くなるだろう。

 ほっとした。嬉しかった。心からおめでとうを言いたかった。それは偽らざる本心だった。


 ぽつりとスマホの画面に水滴が落ちる。

 あれ? と慌てて画面を指で拭いた。手の甲にも水滴は、ぽたぽたぽたと立て続けに落ちていく。

 視界が滲む。驚いて目元を指で擦った。濡れた指を呆然として見つめる。

 そっか、俺、泣いているんだ。なんでだろう。嬉しいのに。喜んでいるはずなのに。

 寂しい?

 そんなはずはない。だって俺には、一生いなくならないと知っている、誰よりも信じられる大切な親友がいる。たくさんのスケート仲間もできた。それに俺を大切に思ってくれるボーイフレンドだっているんだ。

 ほら大丈夫だ。

 なのに、なぜ涙が止まらないのだろう。

 皮肉な笑みが浮かぶ。

 違う。そうではないだろう。目を逸らすな。わかっている。本当は悲しいんだ。なぜなら、俺はもう愛抱夢に会えない。会ってはいけなくなったのだから。

 それを言葉にした途端、鋭い針のようなものが胸を突き刺した。

 自分はひとりぼっちではない。それでも誰もあの人の代わりにはならないのだ。あの人の代わりなんてどこにもいやしない。


 こうなることは最初からわかっていた。その覚悟はあったはずだ。

 自らの意思で別れることを決めたんだ。自立しなければいけないと思ったから。

 あの人に守られるだけだった。そして、そのことに気づくことがないほど子供だった。ただ楽しいこと気持ちいいことだけを夢中で追い求めた。

 愛抱夢と滑るヒリヒリするスケートは、何ものにも代え難い。高鳴る胸の熱を抑え込もうなんて発想は、なかったし多分それはできなかった。

 のめり込めばのめり込むほど、あの人に傾倒すればするほど、そこから離れることなんて考えられなくなっていく。それは麻薬のようなものだった。

 それからスケート以外の愛抱夢を求めるようになるまで、さほど時間はかからなかった。

 一緒に過ごす空間は心地よかった。あの人の話を聞き、食事を共にする。やがて、どちらからともなくスキンシップを求めていく。ハグしてキスをする。そうすることがごく自然であるかのように。

 いつしか、より深く強く繋がりたくなった。あの人を感じたくなった。欲しくなる。

 一線を超えたきっかけなんて、もう覚えていない。でも、間違いなく仕掛けたのは自分だ。あの人はただ押し切られただけ。

 愛抱夢は大人だから、神道愛之介としての立場も、そのリスクも何もかもがわかっている。

 自分は無知で愚かな子供だったから難しいことは何も考えなかった。その一瞬だけが全てで、無責任に自分の快だけを追い求めれば気が済んだ。

 情熱的なセックス。快楽に流されどこまでも無防備になる自分を、あの人の腕の中でだけは、許せた。あの瞬間だけは、俺はあの人のものだったから。


 状況が許す限り夜を共にし、寄り添いながら眠りについた。愛抱夢の胸の中は、繭に包まれているような安心感をランガにもたらしてくれた。

 早朝のやわらかな光が満ちる寝室。ベッドの中で微睡んでいると、大きな温かい手のひらが、頬にそっと押しつけられる。その手の甲に自分の指を重ね、うっすら目を開ければ深紅の瞳が覗き込んでいる。

 目が合えば彼は微笑んだ。

 ——「おはよう、ランガくん。よく眠れた?」

 ランガの口元が綻ぶ。

 ——「おはよう、愛抱夢」

 身も心も、何もかもが満たされた幸福な日々だった。

 肌を合わせてさえいれば、この関係は、ずっと続くのだと信じていた。自分は愛抱夢のことをよく知っているのだと、そう疑わなかった。

 違っていた。そんな単純なものではないのだ。

 神道愛之介の立場や、それ故の苦悩などランガには、全く見えていなかった。


 そんなランガでも否応なく大人になる。やがて知りたくもないことを知ってしまった。

 いつまでも無邪気な少年のままはでは、いられないのだ。

 卒業を控え自分の将来を鑑みるようになり、ようやく世の中、この日本という国の仕組みや現実に目が向くようになった。

 カナダで同性婚は、当然の人権として認められていた。同性愛者の政治家だっている。それが日本ではどれほど特異なことで、受け入れる人が少ないのかをランガは深く考えることはなかった。

 同性愛者だなんてことは、保守的な人々の中ではスキャンダルでしかない。それが現実だった。

 神道愛之介は国政を預かる政治家だ。しかも保守政党の。政治家に同性愛者であることを公表している人はいる。だが保守政党である彼の支持者は、どうだろう。頭の硬い連中ばかりだと彼は、度々こぼしていた。

 今からそんな日本を変えていくと彼は宣言した。嘘ではない。きっといつかやり遂げてしまうのだろう。でも、それはここ何年かの短い期間で成し遂げるなんてことは、不可能だ。ぼんやりとしたランガでも、そのくらいは理解できた。

 そんな理想に神道愛之介が突き進もうとしたとき、自分は彼の足枷になりかねない、ならば今のうちに離れた方がいい。

 それがランガの導き出した答えだった。


 ——「俺、ずっとあなたに守られてきたんだね。だから、ひとりでやっていこうと思っている」

 すっきりとした笑顔で、ひとり立ちの意思表示ができたと思っている。彼が安心できるように、大丈夫、ひとりでやっていけると。

 俺、頑張ったんだ。


 自分の決断が誤りだったとは思わない。それを受け入れた愛抱夢も。

 誰も悪くはない、何も間違ってはいない。それなのに、どうしてこんな身を引き裂かれるような痛みに耐えなければいけないのか。

 枕に顔を押し付け、声を押し殺してランガは泣いた。泣いて、泣いて、一生分の涙を出し切ってしまおうとするかのように、泣き続けた。

 今日だけだ。明日になれば、いつもの自分に戻る。明日の朝には、おめでとうと、心からの祝福を彼に伝えよう。結婚祝いに何か贈ろう。

 それまでの間、今だけは子供のように泣く自分を許してやろう。

 ランガはそう自分自身に言い聞かせ、静かに涙を流し続けた。


 あの人とはもう会えない。会ってはいけない。そんなことは、わかっている。それでも願いが一つ叶うのなら、もう一度だけ、あの人に会わせて欲しい。

 会って一緒に滑ろう。

 そして、あのふたりだけの世界へ。

 誰にも邪魔されないあの世界へ俺を連れていって。

 ——お願いだから、愛抱夢。

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