残り火
ランチタイムが終わり一息ついたところだった。
腐れ縁の幼馴染は図々しくも居座っているが、まあ仕方ない。今は、これから来る予定の懐かしいスケート仲間でもある友人たちを待っているのだから。
ドアベルの音に顔を上げればふたり連れの青年が店内に入ってきた。
「来たな。暦、ランガ。適当に座ってくれ。カルボナーラでいいか?」
出会ったばかりのころは、まだ少年だったふたりだが、ここ数年ですっかりと大人びた容貌になっていた。
「ジョーの料理ならなんでもいいぜ」と暦が椅子を引いて腰を下ろした。「俺も」とランガも続く。
「久しぶりだな、ランガ」
「ほんと、久しぶり。ジョーもチェリーも元気そうだね」
「そういえば、エックスゲームズ冬季大会優勝したんだって? おめでとう。夏季大会は日本で開催なんだってな。千葉だったか?」
「うん。でも日本大会ではビッグエアはないんだ。パークで出場するつもり」
「お前なら大丈夫だろう。どっちでもな」
「ありがとうチェリー」
「活躍は嬉しいけどさ、あまり遠くへ行ってしまうなよ」
「暦、そう言われても大会に出場するには日本から離れないわけにはいかない」
ランガのピント外れの応えに暦がため息をつき、人差し指を親友に突きつけた。
「まったくオメーは相変わらずだな。意味がちげーよ!」
ランガは軽く目を見開き、不思議そうに首を傾げている。
薫はフォローも入れず、ただ笑っているだけだった。
プロになって海外にいる時間が長くなったランガは、日本語上達にブレーキがかかっている、というかむしろ後退しているように見えた。
それでも、こんなずれた反応も昔のままで、むしろホッとする。
ふたりの前に、パスタ、サラダ、スープを置いた。
「うまそう。サンキュ」
「食後はコーヒーでいいな」
「ありがとう。シャドウは仕事って聞いているけど、実也は?」
ランガはサラダを食べながら顔を上げた。
「全国模試らしい」
「そりゃ、あいつも受験だしな。文武両道ってか」
暦はフォークにパスタを軽く巻きつけ、ズルズルと食べている。
「実也は、暦とは頭の出来が違うからな」
薫の余計な一言に暦は唇を尖らせた。
「言われなくても、わかってらぁ」
ふたり食べ終えたタイミングで、コーヒーを淹れた。ついでに薫にもおかわりを注いでやる。
「ランガは、まだしばらく那覇に滞在するんだろう?」
ランガは薫に顔を向けた。
「うん、今回は少し長い滞在になるかな。なるべく母さんとゆっくり過ごすよ」
「それがいい」
「このあと母さんと待ち合わせなんだ。遅れたけど母の日のプレゼント買う約束で」
空になったカップをソーサーに置いてランガは言った。
「思いっきり甘えてこい。ついでに親孝行してこい」
「そうするよ、チェリー。そういうことで、申し訳ないけど俺、先に行くから。ジョー、ご馳走様」
「お粗末さま」
「おう、明後日は実也もシャドウも一緒だからな。みんなで滑れるな」
「楽しみにしている」
ランガは立ち上がった。
「そうだ、ランガ」
「何? ジョー」
このことを彼に伝えていいのか少々迷っていた。なんとなく皆が話題にすることを避けていた、ある人物の名前を出すことに躊躇いはある。
ランガはその澄んだ青い瞳で虎次郎をじっと見た。
やはり話しておこう。
「愛抱夢が予定を繰り上げ、今日戻ってくるってさ。そろそろ那覇空港に到着している時間じゃないかな」
一瞬、場の空気が凍りついた。
薫は眉をひそめ、暦は不安そうな表情でランガの顔を見上げる。
沈黙が落ちた。
ランガから表情が消えた。気のせいかもしれない。だがそう見えた。
彼は数回瞬きをして、軽く目を伏せ口元に笑みを浮かべた。
「そうなんだ。子供ができたって母さんから聞いたけど、彼は元気?」
「ああ、元気だ。早速、親バカ発揮している」
ランガはニコッと笑った。
「幸せそうでよかった。じゃあ、俺、行くから。また二日後に」
彼は片手を上げ、ドアに指をかけた。
ドアが閉まり、カランカランとドアベルの響きが耳に残った。
ふぅーと暦が大きく息を吐き、緊張を解いた。薫はギロッとこちらを睨んできやがる。おー怖っ!
「お前、なんであんな話題を持ち出した?」
「そんなの名前が出ない方が不自然だろう。まるで腫れ物扱いだ。これ、いつまで続ける気だ?」
薫は渋い顔をして、暦に視線を移した。
「お前、ランガから別れた理由とか、何か聞いていないのか?」
「たいしたことは。『独り立ちしたいから』なんて言っていた。あいつ、あまり自分のこと話さないんだよな。訊けば、もっと答えてくれただろうけど、プライベートなことだし詮索するのもなぁって。そっちは愛抱夢から何か聞いていないのか?」
「俺たちも『振られた』の一言だったな。ああ、それと『ランガを解放することにした』なんてかっこつけていやがった」
そうだったな、と薫も同意する。
「ランガから愛抱夢の話題を持ち出すことあったか? 暦」
「ないし、俺もそんな話なんてしなかった」
「こっちも同じだ。もう、それは不自然なくらいだ。こちらから、さりげなく触れれば何でもないように話す。でも引っ張らず、さっさと切り上げてしまうんだ」
「ランガも同じだよ」
コーヒーカップに口をつけた瞬間、薫は顔をしかめた。
「おい、虎次郎。コーヒー入っていないぞ。おかわりだ。二人前」
「お前が飲んだだけだろう。偉そうなやつだ」
コーヒーサーバーを手に戻り、ふたりのカップに注いだ。
「そういえば……」
カップにクリームを垂らし暦が顔を上げた。
「あいつさ、別れる少し前、様子が変だったな。今から思えば」
「どんな様子だった?」
「なんか思い詰めているというか、考え込んでいるというか。まあプロになると色々あるのかな、くらいに考えていた。相談してこないってことはひとりで答えを出したかったんだろう、と思って放っておいた。もしかしたら……」
虎次郎は腕を組んだ。
「あいつら、おそらくケリがついていない。何かがまだ燻っているんだよ」
「いい加減なことを言うな。根拠はなんだ?」
薫がジロリと虎次郎を見た。
「勘だよ! 勘」
「脳筋ゴリラの勘か! 毎度のことだが聞いた俺がバカだった。学習能力のない自分が嫌になる」
苦々しげに自虐の言葉を吐き出すと、薫は額に手を当て俯いた。
暦が薫と虎次郎の顔を交互に見た。
「おい、待てって。何年経ったんだよ。ランガだって、あの後、付き合っているヤツがいるって聞いたぞ」
「そうだな、その相手とはどうなった?」
暦に質問する。
「そ、それは割とすぐに別れたって言っていた。まあそれもよくある話だし……」
「確かに、なんてことのない、ありふれた話だな」
薫も暦に同意する。
「あ、……そういえば、その後、もう誰かと付き合ったりしないって。スケートに専念したいなんて言っていた」
「ああ、なるほどな」
薫が納得したように頷いた。おそらく同感だ。
「なるほどって、どういう意味だ? そもそも愛抱夢って国会議員が表の顔なんだろう? しかも結婚して子供までいるんだぞ。さっきジョーが言っていた燻っているって何だよ、それ。色々まずいだろう。世間相場では」
真面目な青少年らしい反応だ。
虎次郎は、テーブルに肘をつけて体重をかけると、暦に顔をぬっと近づけた。
「なあ、暦。Sで乱痴気騒ぎを起こしていた俺たちスケーターが、世間で言うところの倫理とか道徳とか振りかざすなんて、滑稽だろうが」
「うっ、まあそうだよな。学校にバレていたら俺ら退学させられたかもだったしなぁ。今、思い出してもゾッとするぜ」
ふと視線に気づいて目をやれば薫が怖い顔で睨みつけていた。
「虎次郎、お前、意識して愛抱夢の話をランガにしたな。背中を押してやったつもりか?」
意識して、のところまでは当たっている。だが……。
「そんな大袈裟なわけあるか。俺は選択肢を増やすための情報提供しただけだ。アドバイスなんてする気はねえよ」
ふん、と薫は鼻を鳴らした。それでも反論はなかった。
「暦とランガ、俺と虎次郎と愛抱夢。スケーター同士の関係は、どうせ変わらないってことか」
暦が顔を上げ、丸い目から覗く瞳をキラキラと煌めかせた。
「そっか。俺もランガもお互い、ゼッテーにいなくならないって信じ合っているんだもんな。なんせ俺たちにはスケートがある。それだけは天地がひっくり返っても変わらないんだ」
「そういうこと。あとはあいつらに次第だ。……さて、この話は終わりだ、終わり」
話題を変える。
薫と暦は食器の片付けを手伝いながら、最近できたらしい暦のガールフレンドの話をしている。
スケート以外の青春も大切だ。勉学に恋愛に、悩め頑張れ若者。
愛抱夢とランガ。不思議な関係だ。その繋がりは無二のもののように思えた。
虎次郎と薫のふたりは愛抱夢の古い友人だ。昔の彼を知っているからこそ見えていなかった。薫は愛抱夢の本質は変わっていない、と現実を認めようとはしなかった。虎次郎は変わってしまった愛抱夢を、ただ否定した。
ランガだけが、澄み切った青い瞳の中に愛抱夢の本質を映し出していたのかもしれない。そして、その孤独な魂に寄り添った。事情なんて何も知らないのに。いや、先入観がないからこそか。
俺たちが、あいつらにできることなど何もない。それでも、ふたりにとって納得のいく結末を願わずにはいられなかった。
了