今一度君をあの世界へ連れて行こう

 ドアを開ければ秘書が出迎えた。

「お帰りなさいませ」

「彼は?」

「スノーはリビングに通してあります」

「ご苦労。様子は?」

 ジャケットを脱ぎ秘書に手渡す。

「今夜も滑りたくないと」

 愛之介の顔が曇った。

「僕が直接確認しよう」

「愛之介様」

「なんだ? 忠」

「彼に……あ……いえ」

 言い淀み目を伏せた秘書が何を言おうとしたのか察することは容易い。

 愛之介は鼻を鳴らした。

「案ずるな。一線は超えない」

「はい」

 これは詭弁だ。忠も納得してはいまい。しかし万策尽きたお前にはもう〈俺〉を止めることはできない。神道愛之介、愛抱夢がやろうとすることに干渉することは今後一切許さない。ただ黙って見ているがいい。

「お前は戻っていろ。万が一クレイジーロックへの足が必要になれば連絡する」

「かしこまりました」

 ドアの開閉と施錠の音を背後で聞き、少年が待つ奥のリビングへと向かった。


「ようこそ。ランガくん」

 愛之介は口元に穏やかな笑みを慎重につくった。

「愛抱夢……」

 ランガは愛之介の姿を認めると一瞬表情を硬くするが、すぐに射るような視線を向けてきた。いつもなら可愛らしく感じるだろう強がりも、今はこちらの神経を逆撫でしてくれる。

「約束の日だね。君の答えを聞かせてもらおうか」

「この前も言った。あなたとは滑らない。もう滑れない」

 忠の報告通りだ。一週間経ってもランガの気持ちに変化はなかったということか。

 ぎゅっと拳を握りしめた。


 愛抱夢が偶然迷い込んだゾーン。俗世を忘れ純粋にスケートのことだけを考えていればいい楽園だった。ところが、そこは俗世で感じる以上の強い孤独感を愛抱夢に突きつけてくる場所でもあった。そこが魅力的であればあるほど「お前はひとりぼっちだ」と。光が強くなれば闇も深くなる。夢中になればなるほど耐え難いほどの孤独に苛まれていった。

 彼はひとりぼっちの寂しさを癒してくれる他者をイヴと名づけ探し求め、ついにランガを見つける。

 そしてトーナメント決勝戦で愛抱夢は切望したイヴを自分のものにすることができた。それなのにそのイヴは……。

 愛之介は先週のランガとのやりとりを思い返していた。


「僕と滑りたくないの?」

「あなたと滑るスケートは好きだ。あんなにヒリヒリしてドキドキするスケートは、あなたと滑るときだけだから。他の誰と滑ってもあんな気持ちにはならない」

「ならば何の問題もないだろう」

 すっと一歩足を踏み出せば、彼は後ろへ一歩退き首を強く横に振った。

「あそこは楽しくない」

「楽しくない? どういうことだ?」

「真っ白で何もなくて、何も見えない何も聞こえない何も感じない。……誰もいない」

 この子は何を言っているのか。

「僕がいただろう」

「最初はいた。でもすぐにいなくなってしまった。もしかしたらいたのかも知れない。けれど何も感じなかったんだ。あの場所では全ての感覚が失くなるんだ。何もわからなくなる。楽しいも悲しいも嬉しいも寂しいも……何もかも」

「そんなはずはない。また一緒に滑ればそれは勘違いだとわかる。いい子だから聞き分けて」

 指でランガの頬に触れればピクリと後退る。彼の唇が戦慄いた。

「怖いんだ」

「怖いことなんて何もない。君はあの素晴らしい空間に初めて触れたことで戸惑っているだけだよ。今度こそ僕は君のそばから離れない」

「いやだ」

 声を絞り出してランガは俯いた。

 愛之介は嘆息し、しばし黙考する。ここは彼が落ち着くまで待つしかないだろう。

 両手のひらで彼の輪郭を包み、なるべく優しげな声色をつくった。

「わかったよ。一週間ほど時間をあげよう。今、君が置かれている状況は説明したね。ゆっくり考えて決めなさい」

 まだ混乱しているだけだ。少し頭を冷やせば彼の考えは変わる。あの誰にも邪魔をされない神聖な世界を求めるようになる。そう愛之介は信じていた。そのときはまだ。


「それが、君の導き出した答えか」

 ランガは頷いた。

 愛之介は困惑した。

 ランガは愛抱夢とゾーンを共有することを許された唯一の存在だ。俗世に身を置きながらでも、望めば何度でもふたりだけの領域へと旅立つことができる。それなのにイヴになることを拒み、その権利を放棄しようとしている。それは愛抱夢という存在を否定することと同義だ。

 あの素晴らしい世界を目にしていながらなぜ? 理解できないししたくもなかった。

 恫喝し無理やり滑らせたところで意味はない。今のランガではあそこへ至ることはできない。彼がその気になるよう誘導するしかないのだが、ここまで手こずらせてくれるとは想定できなかった。

 困惑から苛立ちへ、やがてふつふつとした怒りが腹の底から湧き上がってくるのを抑えられなかった。

 ぎりっと握りしめた手のひらに爪が食い込んだ。

 無造作に少年の前髪を掴み顔を上げさせた。薄く開いた瞼から、透き通った氷の青が愛之介を捉えた。

 それを目にした刹那頭に血が上った。

 この世にたった二つしかない希少な青い宝石。手に入れたつもりだった。それなのにこの指は届いていなかったと言うのか。いったい何年待ったと思っている。ランガこそが狂おしいほど求め続けた唯一無二のイヴなのだ。冗談ではない。今更諦めることなどできるはずもない。

 愛之介はランガの腕を掴み乱暴に寝室へと引きずっていった。

「どうして君は自分がイヴである運命を受け入れない?」

 怒気で声を荒げ、激情に任せてランガをベッドに叩きつけ馬乗りになる。少年は衝撃に顔を歪めるが声はあげなかった。

「君は間違っている。アダムに愛されることを拒むイヴなどどこにいるんだ」

 ランガは大きく目を見開いた。

「俺はイヴなんかじゃない」

 叫ぶように発せられた一言。致命的な拒絶。愛之介の中で何かが砕け散る音が響いた。

 一瞬の沈黙。頭からスーッと血が引き熱が奪われていく感覚。

 徐々に落ち着きを取り戻した愛之介は、冷淡無常な目で組み敷いた少年を見下ろした。

「君には二つの選択肢を与えていた。今から僕がすることを受け入れなくてはいけないよ」

 冷ややかに告げ少年の着衣に指をかけた。

「いやだ」シャツのボタンを外していく男の手首をランガは掴む。

「君が選んだことだよ」

 ランガの抵抗を封じる一言だった。


 ランガは愛之介に逆らえない。彼の母親も親友も男の掌中にあった。そのことをよく言い聞かせてある。

 現実問題、愛之介が提示したランガを縛るためのプランは諸刃の剣だ。一つ間違えれば愛之介の政治家生命そのものを終わらせかねない。行使することは非現実的なのだ。なんのことはない。ただのハッタリでしかない。

 それでも、この無知な子供を支配するための脅しとしては十分機能すると踏んでいた。


 シャツ、ジーンズ、下着とランガが身につけていたものを次々と床へ落としていった。

 陽は傾きかけているが、ブラインドを上げレースカーテンだけで覆われた広い窓からの採光は十分で、寝室は照明をつけなくても明るい。隠そうとするかのように腕と脚を折り曲げ身体を丸める少年の四肢をゆっくりと開いていく。やがて白い裸体が惜しげもなく晒された。

 はじめて目にする姿態は思っていた以上に美しい。

 しばし眺めてから、そっと肌に触れれば彼は息を詰めた。その感触を手のひらで味わいながら胸から腹まで滑らせグイッと力を込め指を食い込ませた。少年の腹筋に力が込められる。まだ若い筋肉はしなやかで柔らかい。

 愛之介は目を細めた。

 誰も足を踏み入れたことのない純白の、まだ一筋のシュプールも描かれたことのないシャンパンスノー。

 それなのに不思議と性的な興奮は覚えなかった。

 深紅の瞳は冷酷な光を帯びはじめていた。

 愛之介の中で膨れ上がりつある情動は憤慨であり焦燥だ。その中に支配欲や征服欲が複雑に入り混じる。そんな彼が嗜虐心のまま動けば、この白い肌を引き裂き赤い血を流させ鬱血の痕を全身隈なく刻んでいくだろう。

 それでも、その衝動を抑え込める程度の理性は働いていた。

 少年の白い肌はほんの少しの鬱血も目立つ。目視できるような痕をつけるのは非常に危険だ。スケートによる怪我とは明らかに異なる傷痕は、母親や学校関係者の目に触れてしまえば大ごとになる。単純な暴力に訴えることは浅略だと判断していた。

 肉体のダメージは最小限に。精神的に支配することを醒めた思考で画策する。

 君がどこにも行けないように全ての逃げ道を絶ってしまおう。そうすれば君は僕に依存し僕だけを見るようになる。

「従わないイヴにはそれなりの罰を与えないとね」

 愛之介はベッドに腰をかけ、残酷な謀略を巡らせほくそ笑んだ。

 腹に乗せていた手のひらを、脇腹から外腿、内腿へと滑らせて行く。そのまま縮こまったペニスをそっと握った。少年はヒュッという吸気音とともに白い喉を反らした。

 それにしても予想はできたけれど間違いない。淡い色の未熟なペニスは誰にも触らせたことはない。そう、この子は他者からの性的接触を知らない。

 抱きしめられることもキスをされれることも、彼の父親や母親からのもの、もしくは両親から近い人たちからだけだった。いずれにしろ愛おしさからくる慈しむだけの行為だ。触れ合うところで感じる体温も抱きしめてくる腕の強さも髪を梳く指の感触も頬を包む手のひらも、それらはランガにとって優しく不安を宥めてくれるものだった。

 一方、愛之介はそんなふうに他者から慈しみを持って触れられた記憶を持っていなかった。そう、ただの一度も。

 男はなるべくソフトなタッチでバラバラと指を動かす。

「やっ……!」

 ランガは自分を弄ぶ指を引き剥がそうとしながら身体を回転させ愛之介に背中を向けた。無意味な子供の悪足掻きがいっそ憐れだ。

 横たわるランガを腕で拘束しながら抱き起こし彼の背に胸を重ねた。シャツ越しに伝わる少年の怯えがいっそ甘美だ。震える獲物の肩に顎を乗せ「言ったはずだ。君に拒否権はないよ」と耳元に告げた。

 愛之介の手を引き剥がそうとしていたランガの指から力が抜けた。

 ペニスを揉みしごきながら、もう片方の手も腹から胸へと這わせた。やがて胸の突起を探り当て二本の指を使って柔らかなタッチでいじってやるれば、ランガは身じろぎ小さな呻きを漏らした。

 ここも当然誰からも触れられたことはないか。

 抗うすることを諦めた少年は、ただ愛之介が与える刺激をやり過ごそうとしていた。必死で意識を別のところへ飛ばしているのだろう。それは健気でいじらしいのだが逆効果だ。かえって男の嗜虐心を煽るだけだった。

 愛之介は淡々と、しかし容赦の欠片もなく行為を押し進めていった。言葉はない。聞こえるのは空調の微かな唸り音。そして肌と布が擦れる音、はぁはぁと荒くなりはじめたふたり分の息遣い。それらは入り混じりとても小さな音量なのにひどく淫らに響いた。

 男は腕の中にすっぽりと閉じこめた少年の劣情を刺激したり焦らしたりと、思いのままに快感を高めていった。間断なく漏れはじめた喘ぎは既に少年の意思でコントロールすることはできない。

 今のランガは肉体の主導権を奪われた非力で哀れな子供でしかない。

 徐々にしごく力を強めていけば、やがて手にピクピクという脈動を感じた。迸る熱いものを手のひらで受け止めた愛之介の口元に歪んだ笑みが浮かぶ。

 前のめりにがくりと崩れ落ちるランガを片腕で抱き留めた。

「随分と出たね。溜まっていたようだ」

 からかいを含ませた言葉がけにも反応は無かった。感情を封印し肉体の快不快から意識を逸らしているのか。屈する気はないという意思表示なのだろう。

 ぎりっと奥歯を噛み締めた。どこまで強情な子なのか。

 腕の中でぐったりと弛緩しているランガをそのままゆっくりとうつ伏せに横たえた。

 手を拭きながら、少年の背から尻、太ももの滑らかな曲線を目でなぞった。

 このまま力尽くで四肢を開かせ凌辱の限りを尽くすことも可能だ。それはゾクゾクするほど魅力的な誘惑だ。しかし、それで手中に収めたとしてもこの子は完全に壊れる。壊れたイヴでもいないよりはずっといいかもしれない。とはいえ魅力が半減してしまうのも確かだ。

 愛抱夢が欲しているのは完全なイヴなのだから。

 少年の外腿を軽いタッチで撫で、尻、内腿へと手のひらを滑らせ時間稼ぎをしながら考える。どうしたものか。

 この子を壊さず追い詰めるギリギリのラインを冷徹に見極めようとする。

 ふと気がつけば室内はすっかり暗くなっていた。全ての輪郭が蒼黒の闇に融け始めている。陽はすっかり沈み、夜の帳が下されたのだ。

 スタンドライトを点けランガの足元から光が当たるよう設置位置を動かした。その意図を察した彼は首を捻り目を見張る。少年の尻が明るく照らされた。

「そのままで少し待っていなさい」そう言い残し部屋を出た。洗面所の棚から保湿用フェイスジェルを手に取った。

 どうせ大したことをするわけではない。これからやろうとするレベルのことなら十分専用ローションの代用品になるだろう。

 寝室に戻った愛之介は、少年の両脚を掴み左右に開かせた。抵抗は見られなかったが筋肉が強張っていることが触れた手に伝わってくる。

「そんなに緊張しないでいいよ。君を傷つけるつもりはない。むしろ気持ち良くなってもらうだけだから。今日のところはね」

 白い尻を左右に開けばスタンドライトの照明で奥が明るく照らされた。綺麗な桜色のアヌスが閉じている。ここも誰にも触れさせたとも見せたこともないのだろう。

 人差し指と中指にコンドームを被せ、指先にジェルを乗せた。尻の割れ目に指を差し入れジェルを塗りつける。

「ひっ」彼の背が小さく跳ねた。

「冷たかったね?」

 もちろんそれだけではない。ランガはプライベートゾーンについての教育は就学前から受けているはずだ。誰にも見せてはいけない、触らせてはいけない。そう徹底的に教え込まれた大切な場所を生まれて初めて自分の意思と無関係に暴かれ続けているのだ。

 それがこのむしろ奥手の少年にとって、どれほど常軌を逸していることで混乱に陥らせているのか。自分の身に何が起こっているのか処理しきれるわけはない。

 襞とその周辺をグルグルと指でなぞった。軽く叩いたり押したりの強弱をつけ刺激を繰り返しす。そして、もう片方の手をシーツと胸の間に滑り込ませ胸の突起を探り出し柔らかい愛撫をはじめた。

 ランガは声を噛み殺しシーツをぎゅっと握りしめた。意識を乖離させ人ごとのように自分の肉体を俯瞰し与えられる刺激をやり過ごそうとしているのか。生憎その頑張りはもうあまり長くは保たない。

 うつ伏せたランガの太腿がもぞもぞ動くのを愛之介は見逃さなかった。

「どう? 気持ち良くなってきた?」

「なっていない」苦しげな息とともに彼は強く否定する。見れば涙目だ。

「そうかな? ムズムズしてきただろう? それが感じているってことだよ。アヌスとその周りはね、神経が密集していて敏感なんだ。そういうところは簡単に性感帯——Erogenous zoneにすり替わる。脳がそう学習していく」

 言いながら、ジェルを足しつつ指先でなるべく軽いタッチでグルグルと円を描くようにマッサージを続けた。

「違う……」

 うわごとのように違う違うと繰り返しシーツに顔を押し付け弱々しく首を振り続けている様は痛々しい。

 胸を撫で回していた指を下腹部へと滑らせていった。半勃ちになった彼のペニスを手のひらでそっと包む。

「若いからかな。さっきあれほど出したのに、もうこんなになっている」

 コンドームを被せた人差し指をぐいっと強めに押し付ければアヌスはキュッと閉じ異物の侵入を拒んだ。それでも強引に第一関節まで捩じ込んだ。

「うっ……」少年は顔を歪め小さな呻きを漏らした。この程度でも痛みはあるのだろう。今はまだこれが限界か。侵入させた指をゆっくりと苦痛を与えないよう蠢かせ、もう片方の手で彼のペニスを完全に勃ち上がるまで揉みしだいた。

 少年の喉の奥から堪えきれなかった声が漏れる。それはごく小さな音量だったのに薄闇に覆われた静かな部屋ではとても高く悲鳴のように耳に反響した。

 やがて少年のペニスはピクピクと脈打ち白濁した液体がシーツに散った。

「いい子だ。全部出してしまいなさい」

 優しい声音で囁いてみるが反応はない。

 ベッドから立ち上がり、放心し力無く投げ出されている白い裸身を見下ろした。

「生憎そろそろ時間だ。僕はこう見えても忙しい身でね。可能であればもっとじっくり君を愛したかったな」

 そうだ。きちんとした痛みを与えたかった。でも身体に傷痕をつけずに痛みを感じてもらえる方法が見つからなくてね。

 しゃがんで少年の顔を覗き込んだ。水色の髪を指で梳いてみるが瞼を閉じたままピクリとも動かない。目を凝らせばシーツが涙で濡れていた。

 ランガは愛之介の手から逃れることはできない。でもそれは絶望するようなことではないのだ。いい加減、諦めてしまえば楽になる。愛之介の腕の中に絡め取られ愛されることを悦びとすればいい。感謝し愛を受け入れればそれで済むことだ。

 この子供はそんな簡単なことがなぜわからないのか。愛之介は彼の歳の頃には理解し受け入れていたことなのに。

 少年の瞼がうっすらと開いた。目の焦点は合っていない。それでもスタンドライトの光を受け澄んだ青い虹彩はキラキラと煌めいていた。その清麗さに愛之介は息を呑んだ。彼の視界に自分が入るよう顔を近づけた。

 君の瞳の中に今の僕はどのような姿で映し出されているのだろう。僕に向けられる眼差しに込められる君の感情を想像するとゾクゾクする。

 嫌悪? 憤怒? 軽蔑? 憎悪? 敵意?

 ああ上等だとも。それがなんであれ激しければ激しいほど好ましい。君の瞳に映し出されるものが僕だけなら。君が誰よりも僕を見てくれているのならば満足だ。僕はただ君に愛を注ぐだけだ。

 顔にかかる水色の髪を指で退けた。

「あともう一週間だけ待ってあげよう。それまでに滑れるようになりなさい」

 ランガの唇が微かに動いた。

「もし、滑れなかったら?」

 苦しげに絞り出した声は掠れていた。

 愛おしむような手つきで絹糸のような髪を撫でる。

「君が今まで誰からも何からも汚されたことがない純白の雪だったとしても、知識くらいはあるはずだ。僕が君に何をしようとしているか理解できているよね?」

 言いながら手のひらで胸を撫でさすった。彼はヒュッと息を吸いピクリと震えた。

「いい反応だ。覚えが早いね。君の身体はもうこうして与えられた刺激を快感にすり替えることを覚えてしまったんだ」

 愛之介はランガの白い喉元を包むように手のひらを置く。少年は息を殺した。

「……もし滑れなかったら、そうだね。こうして……」

 愛之介は目を細め口元には冷ややかな笑みが浮かんだ。指に少しだけ力をこめる。

「君を壊すだけだよ」

 静かに、だが強い圧を込め言い放った。

 そうだ。自分のものにならないのならば、いっそ壊してしまえばいい。壊れたイヴでも気晴らしの玩具くらいにはなるだろう。


 汚れた身体を清めるようバスルームに彼を連れて行った。一時間以内に身支度を整え帰宅の準備を終えるよう伝えた。今日起きたことは誰にも気づかれることのないようにしなさいと念を押す。

 汚れたシーツは洗濯機に放り込んで乾燥までかけてからクリーニング用バッグへ放り込んでおこうと考える。面倒だが噂話好きな使用人たちだ。そこまで信用してはいない。

 ベッドルームは少年の青臭いにおいが残っているだろう。換気風量を強にして室内の空気を入れ替えることにした。

 忠に連絡をし彼を自宅へ送り届けるよう命じた。


 全ての片付けを終えひとりになった薄暗いリビングでソファーにどっぷりと全身を沈めた。疲労を感じて目を閉じ目頭を押さえる。

 瞼の裏に濁りのない氷の青が浮かんでいた。指を伸ばす。手に入れたはずだったのに触れるこすら叶わなかった二つの青い宝石。今度こそ必ず自分のものにして見せる。

 冴え冴えとした光を湛えた青い瞳が真っ直ぐ愛之介へ向けられた。

 ランガくん? その目は……やめろ。そんな目で僕を……見るな……見るな!

「ランガーーッ!」 

 気がついたら叫んでいた。ゆっくりと上体を起こす。額に触れればじわりと汗が浮いていた。乱れた息を深呼吸を繰り返し静めた。

 どうかしている。これはただの思い過ごしだ。ランガはあんな目で自分を見たりはしなかった。ぼんやりと虚空に視線を泳がせていただけだったのだ。それなのに何故このようなイメージが突然湧いたのか。

 誰であろうと、そんな目で自分を見ることは絶対に許さない。

 嫌悪、憤怒、軽蔑、憎悪、敵意……どれだけぶつけらられようが痛くも痒くもない。むしろ愉悦でしかない。なぜなら僕だけを見てくれているのだから。なのに心象風景の中、自分に向けられたランガの目は……愛之介は首を強く振ってその印象を打ち消した。

 やめよう。実際に彼からそんな目を向けられたわけではない。ただほんの少し疲れただけだ。


 そのとき愛之介が言葉にすることなく否定したのは「憐憫」だった。


 ランガを自宅マンションへと送り届けた忠が今度は愛之介を迎えに戻ってきた。

「彼の様子はどうだった?」

「事情を知らない第三者から見れば特に異常は感じないでしょう」

「上出来だ。お前からどう見えた?」

 忠の握りしめた手がブルブルと小刻みに震えていた。

「愛之介様、彼にいったい……」

「ふん、心配するな。一線は超えないと言ったはずだ」

 そうだ。一線を越えてはいないと言い張ることはできる。それでも間違いなく性的虐待と言える行為だった。だが、ランガの身体の隅々を調べてもそのような痕跡は欠片も見つからないだろう。そんなヘマはしない。

「信じられないのなら病院にでも連れて行け」

「決してそういうわけでは」

 忠はまだ何かを言いたげな表情だった。

「なんだ、忠。言いたいことがあるのなら遠慮するな」

 言わんとしていることは想像がつく。

「スノーを力で支配できても心までは縛れません。それで愛は得られない。もし彼から愛されることを……」

 愛之介はそこから先の言葉を遮った。

「勘違いするな、忠。僕がいつランガくんの愛が欲しいと言った?」

「え?」

 忠は目を大きく開いた。

 今更何を驚いているのだ。

「僕はふたりだけの世界で永遠にランガくんを愛したいだけだ。あそこでは彼の視界に存在するのが僕だけになる。ランガくんは僕だけのイヴなんだ。イヴがアダムの愛を受け入れるなんて当然だろう?」

 そうだ。望んでいるのはたったそれだけ。それなのにランガは愛之介から愛されることを未だに拒み続けているのだ。

「愛之介様……」

「屋敷に戻る。車を回せ」


 ランガに与えた猶予は一週間。それまでSは開催されない。ゆっくりと答えを導き出せばいい。愚かな結論に至らないことを祈るだけだ。

 その間、愛之介はランガが日々どう過ごしているか、盗み撮りした映像チェックは欠かさなかった。

 朝の登校、バイト、スケート仲間との交流。少々元気がないように見えるかもしれないが家族や友人から見ても異変を感じるほどではないだろう。

 問題は、あの忌々しい赤毛と一緒のときだ。

 自分の置かれている状況を理解できているのかと疑問に思うほどの笑顔だ。滑る様子はとても楽しそうに見えた。スケートボードの改良を依頼しているのかボードを手にしたふたりのやりとりも撮影されていた。

 その様子に愛之介は強い憤りを覚えた。

 全くもって感心しない。君にはよそ見をしている余裕などないはずだ。いずれ何らかの警告は必要だろう。


 最終結論を聞かせてくれる約束の日。忠にはランガをマンションまで送り届けたらすぐに戻るよう命令していた。

「やあ、ランガくん」

 言われた通り彼は奥のリビングにひとりで待っていた。

「愛抱夢……」

「返事を聞かせてもらおうか」

 愛之介は上着をばさりとソファーに投げた。

 ランガが視線を上げた。鋭い眼光が愛之介を射抜いた。精一杯の虚勢だ。それでも意思が宿り瞳に強い光が戻ってきている。

 そうだ、その顔、その目だ。

「俺、あなたと滑るよ」

「よろしい。それでこそ僕のスノーだ」

 両腕を下に広げ愛之介はランガに歩み寄っていった。

 ああ嬉しい。やっと僕のイヴになる決心がついたのか。

「条件がある」

「条件?」

「ビーフで勝負する」

 ランガは掴んだボードを前に突き出した。

 愛之介は顎を上げ目を細めた。口元には満足げな笑みが浮かぶ。

「ラブリー!」

 ならば今一度、究極の滑りへと君を誘おう。


 本当に長かった。まだ見ぬイヴに焦がれひたすら何年も探し続けていた。

 それもようやく終わる。

 僕は遂に君を……完全なイヴを手に入れる。

 誰にも邪魔されないふたりだけの世界で……ランガくん、君を愛そう。