勝っても負けても

「賭け? 僕たちの純粋なスケートにそんな低俗なものは必要ない。そうだろう? スノー」

 何度目かの愛抱夢とスノーのビーフ。とにかく滑ることが目的のふたりであるため「対戦者同士は必ず何かを賭けなければならない」というS初心者でも頭に叩き込んであるはずの基本ルールを忘れている。愛抱夢はわざとだ。賭けを考える暇があったらさっさと滑りたいとでも考えているのだろう。ふたりのビーフで今まで賭けの賞品を取り決めたことはなかった。面倒くさいという気持ちはわからないでもない。

 問題は、ルールを作ったS主催者である愛抱夢が無視しているという点だ。正直示しが付かない。

 ここは一言釘を刺しておくべきだろう。

 忠は、すっと前に出る。

「なんだ? 忠」

「確かに賭けの賞品など、おふたりの崇高な勝負に価値はないものということは重々承知しております。しかし運営から言わせていただきますと、主催者が守っていないとなると、今後、参加者のルール遵守意識に悪影響が及ぶでしょう。なし崩し的に他のルールも守られなくなっていくことが危惧されます」

 愛抱夢の口元がぐいっと曲がり表情を作る。

「確かに一理ある。だが何を賭ければ……」

「犬だ! 負けたら犬になるんだ。次はランガが勝つ!! てめえはランガの犬だ!」

 声を上げたのは赤毛の子だった。思いついてやったっぜ! といった満面の得意顔だ。

 それに反応して「犬、犬、いっぬ!」の大合唱が沸き起こる。ギャラリーが一斉に悪ノリを始めた。

 皆、愛抱夢の犬が見られる期待にワクワクしている。確かに見ものだ。日常的に秘書である自分を「犬」呼びしている主人が犬扱いされる? 少し想像しただけで頬が緩んでしまう。

 愛抱夢はチラリと忠に視線を送った。

「なんだ、その締まらない顔は」

 慌ててキリッと口元を締める。

「いかがいたしますか?」

「ふむ、スノーはそれでいいのかい?」

「暦の希望なら俺はいいよ」

「やったー! ぜってー勝てよランガ!」と赤毛の少年が拳を上げた。

「うん」スノーもニッコリ笑顔で応える。

「了承した。その提案を飲もう。僕が負けたら僕はスノーの犬だ」

 おおおおお!!!! と会場に歓声が響いた。

「愛抱夢が勝ったら?」スノーがチラリと愛抱夢を見た。

 そうだ、そちらも決めなくてはいけない。

「僕が勝ったら……」

「うん、何を賭けるの?」

「スノー、君は僕の飼い主になって僕を管理する。どう?」

「わかった」

 即答だった。多分スノーは何も考えていない。

 赤毛の少年を含むギャラリーは困惑のあまりかポカンと口を開けている。

 最初に「はぁーーーーー????」と身を乗り出し、大声を上げたのは少年だった。正気に戻ったらしい。

 これは、どちらが勝っても起こるだろう結末は同じだということだ。

 自分も赤毛の彼も一つ大きなことを失念していた。犬の飼い主、主人は所詮スノーだということだ。犬を管理できるような子ではない。

 管理者不在の犬がどうなるのか、少し想像するだけでも恐ろしい。

「ちょっと待て! てめー何か良からぬことをたくらんでいやがるな」

「良からぬこと? それは心外だなぁ。これはスノーも納得していることなんだよ。双方合意の上でというルールはきちんと守られているんだ。君が口を出すようなことではないだろう」

「暦、大丈夫だよ。俺負けないから」

 スノーは呑気に微笑んでみせた。

「いや、その発言からしてお前、何もわかっていねぇだろ!」

 この一連のやりとりを呆れ顔で静観していたジョーが赤毛の少年の肩を掴んだ。

「落ち着け、暦。ルールはルールだ」

「なんだよ! 俺ら所詮あいつの手のひらの上かよ! 結局あのヤローの思い通りになるっていうことかよ」

 地団駄踏んで悔しがる彼の気持ちはよくわかる。すまない。これは自分にも責任があるような気がする。

「大丈夫だとは言わないが、そもそも墓穴を掘ったのはお前だ」やはり呆れて傍観者を決め込んでいたチェリーがうんざりとした様子で口を挟んだ。

「愛抱夢はランガが嫌がることは絶対にしないはずだ。そこまで心配するな」

 その通りなのだが、このスノーという子は、普通の子なら嫌悪しそうなことでも受け入れてしまうボーッとした子なのだ。友人としてはそういうところを含め心配なのだろう。が、残念ながらもう決まってしまったことだ。諦めよう。お互いに。なんせ愛抱夢はSの神なのだ。

「忠、こっちへこい」

 呼ばれて顔をあげる。口元にご機嫌な笑みを浮かべ主人が耳打ちをしてきた。

「かしこまりました」

 愛抱夢は明日までにある品を用意するように指示をしてきた。主人が所望するのは、なるべく高価で品質の良い赤い首輪と赤いリードだ。犬用の。

 嫌な予感しかしない。

 頭がガンガンしはじめたが気を取り直し、これからの作業手順を脳内で整理する。まずは、めぼしい候補をピックアップしなくてはいけない。明日中に調達しろとの命令なのだから急ぐ必要があるだろう。獣耳と尻尾グッズも気を利かせて調べておこう。別にやけを起こしているわけではない。自分は痒いところに手が届く有能な秘書だと自負しているだけなのだ。

 ふたりの勝負、ビーフのことはキャップマンたちに任せることにして、忠は主人の命に従うことにした。

 どちらが勝っても負けても自分が為すべきことは変わらない。責務を完遂することに全力を注ぐだけなのだから。