見えないもの、聞こえないもの
屋上で仲良くふたり並んでのランチタイム。
「俺、〈犬猿の仲〉って日本語、最初は仲良しのことだと思っていた」
「なんでそう思ったんだ?」
暦の箸が止まり、隣に座り紙パックの牛乳を豪快に飲むランガをチラリと見た。
「ジョーとチェリーが犬猿って言われているの聞いて」
「あーなるほど。確かにそうだよな。英語で“犬猿の仲”ってなんて言うんだ?」
「Fight like cats and dogs」
「へえ、猿じゃなくて猫なんだ。犬は共通なんだな」
暦でもcatsとdogsくらいは聞き取れたらしい。
「うん」
「チェリーとジョーだけどさ、いつもどつきあっていて小学生以下の悪口の応酬だけど、なぜか一緒でセットみてーなものだし。なんだかんだ言って信頼しあってお互いを気にかけているようにも見えるし。そう考えると仲良しだよな。幼なじみだって聞いた」
「そっか、親友ってこと?」
「まあ腐れ縁って親友みたいなものだよな」
「くされえん?」
「切りたくても切れない繋がりっていうか、絆?」
「なんか憧れる」
「憧れる?」
「俺と暦が、ジョーやチェリーくらいの歳になったらそうなれるかな。なれるといいな」
「う、うん」
「あれ? 暦、照れている?」
「お前たまに堂々と小っ恥ずかしいこと言うよな」
「そう?」
「まあいいけどさ。俺たちにはスケートがあるからな!」
「もちろん言っただろ? 俺、暦とずっと、ずーっと一緒にスケートしたい」
暦はすくっと立ち上がり、綺麗に晴れた青い空に両腕を高く掲げた。
「同感だ。俺たちは無限にスケートをするんだ!」
それは大人の面倒臭さを知らない無邪気な子供の特権、爽やかな青春のワンシーンなのだろう。
ランガはカナダにいたころ、友達らしい友達はいなかった。当然仲間などというものもいない。沖縄へ来て、スケートを通して暦と友達になれた。それが最初の一歩。それからスケート仲間というものを知り、世界は広がっていった。
暦、実也、シャドウ、チェリー、ジョー、愛抱夢、多分スネークもスケート仲間だとランガは捉えていた。
その中でも、暦と自分は親友だ。
実也とももちろん仲良くはしているが、彼は学校に仲の良いスケート友達がいると聞いた。より親しい友人というのならスケート以外の繋がりもあるだろう同年齢の友達の方がよりそうだと言える。シャドウもSで仲の良いスケーターがいることはわかった。チェリーとジョーは自称犬猿の仲で幼馴染、でもS以外でも頻繁に一緒であることが多いらしい親友同士。
愛抱夢とスネークの関係は謎だ。愛抱夢はスネークのことを「犬」と呼ぶ。スネークも「私は愛抱夢の犬だ」となんでもないことのように言った。愛抱夢がMasterでスネークは雇われているServantだと説明はされた。表向きにはPrivate secretaryだという。
日本語は今ひとつ使い方がわからないことがあるけれど、本人たちが納得しているのだからまあいいか。大人の世界は複雑すぎてまだ高校生でしかない自分には難しい。
スケート仲間の中でも、暦は生まれて初めてできた友達なのだから特別。しかも、通学、学校、バイト、Sと、誰よりも、おそらく母親よりも日がな一日一緒に過ごしている。それが楽しいのだから、きっとそれを親友と言うのだろう。
その暦とは一対一で会おう遊ぼうという話にはなる、というかなっている。
他方、実也、チェリー、ジョー、シャドウたちは仲間として皆で会う、一緒に滑って遊ぶという雰囲気はあっても一対一で会って何かをしようなんてことは想像できない。誘いもしないし誘われもしない。友達と言えるのかもしれないけれど、ふたりだけで会って時間を保たせられるほど親密なわけではない。年齢や知り合ってからの時間の問題もあるかもしれないからこれから変わっていく可能性はある。
そこまで思考を巡らせ、あれ? と思う。
俺と愛抱夢ってなんなんだろう?
実也、チェリー、ジョー、シャドウと同じスケート仲間ではあるのだが、彼らと同じカテゴリには属さない気がする。
一緒に遊ぶ仲間の輪の中に愛抱夢がいることはないけれど、彼と滑ることを第一目的にして一対一で会うことはそんなに不自然なことではなかった。
その夜クレイジーロックに愛抱夢が姿を見せるらしいと皆が噂していた。
ランガに愛抱夢から連絡があったのは数日前。一緒に滑りたいから君がクレイジーロックに来るというのなら僕も都合をつけるよ、と。
願ってもないことだった。その日から愛抱夢と滑ることを想像して興奮が止まらなかった。会える日が待ち遠しくて仕方ない。
愛抱夢と滑るスケートは別格だ。
もちろん他のスケーターたちと一緒に滑るのもそれぞれ違う楽しさがあってワクワクする。
特に暦と滑るスケートはドキドキして本当に楽しくて、世界はキラキラと輝き、お腹の底から思いっきり声を出して笑うことができる。そんなのは暦と滑ったときだけだ。やはり暦は自分にとって特別なのだ。
それを親友というのだろうとランガは理解していた。
では、愛抱夢とは?
一緒に滑ったとき、彼よりヒリヒリさせてくれるスケーターを他に知らない。彼と滑ったときほど純粋にスケートそのものに集中しのめり込むことはない。
引っ張られる。見たこともない景色を見せてくれる。虹色に輝くあの瞬間、ランガと愛抱夢しかいなくなる。それはゾーンというものだと後から知った。あれほど怖かったあの世界が怖くはなくなっていた。それはおそらく愛抱夢があの世界に閉じこもることに価値を見出さなくなったからなのだろう。
いまだに愛抱夢が一方的にランガを導く世界だ。それは変わらない。それでも今の彼なら大丈夫だとランガは確信していた。
あのときの闇の中に閉じこもり膝を抱え蹲る小さな子供はもういない。
——俗世でも君がいてくれる。僕はひとりぼっちではない。今はもう。
——いるのは俺だけじゃないよ。みんないる。
——そうだね。君がそれを教えてくれた。
前回滑ったとき、そんなやりとりをしたことをなんとなく覚えている。
直接言葉を交わしたわけではない。
でも、確かに伝わり、伝えることができたのだ。
ヘリコプターのプロペラ音を耳にして、参加者が一斉に上空を仰いだ。
「来た! 愛抱夢だ」
「愛抱夢! 愛抱夢!」
愛抱夢コールに会場内が沸き立った。やはり彼はS界のスターだ。
ヘリコプターからパラシュートで降下する赤い男にスポットライトが当たる。こんな大袈裟な演出なのに疑問を持つ参加者はいない。
着地点だろう場所へ向けランガは走り出していた。
「おい、ランガ! あいつと滑るのか?」暦が叫ぶ。
「もちろん!」
「いいけどさぁ無茶すんなよー」
怒鳴るような大声が背後から聞こえた。
ランガは振り返り親友に手を振った。暦も手を振り笑っている。
「わかっているー」怒鳴り返す。
赤いマタドール衣装にいつもの仮面をつけて愛抱夢は降り立ち華麗にステップを踏んだ。
ランガは駆け寄る。
「愛抱夢、滑れる?」
「当然だランガくん。今日も負けないよ」
今のところ勝敗は五分と五分。
「今日は、俺が勝つ!」
大きな歓声が鳴り響く中、ふたりはスタート地点へと向かった。
了