俗世で生きる

「ランガくん? もう寝たかな」

 そっとノックしてからゲストルームへと入っていく。

 書類の英訳や和訳を手伝うという名目の不定期アルバイトは、少しでも家計を助けたいと思っている孝行息子の彼にとって渡りに船なのだろう。頼めば二つ返事で引き受けてくれる。

 集中的に片付けて欲しいと理由をつけていつも泊まりがけにしてもらっている。けれど、それは建前。本音はできる限り君を側に置きたいだけだ。


 開けっ放しの窓から差し込む冴え冴えとした月の光を浴びた彼の寝姿がベッドの上にあった。

 ああ、美しい。なんて清らかなんだろう。

 あどけない寝顔は実年齢よりずっと幼く見える。ビーフ時の好戦的な彼とは別人だ。

 それにしても君は警戒心というものが無さすぎる。その気になれば、僕は君にどんな酷いこともできるんだ。僕は何度も夢の中で君を犯している。知らないだろう? 抵抗する君を押さえつけ猛ったペニスで貫きたい。熱く絡みつく粘膜の中へ自分を深々と埋め、何度も突いて、泣き叫ぶ君を汚したい。

 そんな嗜虐心に突き動かされてしまえば、僕は君にとても残酷なことをしてしまうかもしれない。

 軽蔑するかい?

 でも、もうひとりの僕は君をずっと守りたいと思っている。誰からも、僕からも傷つけられないように、君を宝石箱に入れて大切に仕舞って置きたいくらいだよ。

 そんな相反する二つの情動が愛之介の中でせめぎ合っていた。引き裂かれるような痛みを胸に与えながら。


 窓から流れ込むひんやりとした夜気が頬を掠めた。愛之介は開け放たれた窓とカーテンを静かに閉めた。朝方はもっと冷えるだろう。理性を保てるうちに自分の寝室に戻ろう。

 眠るランガの髪をそっと撫で唇で触れた。

 そのとき、手首を掴まれた感触に慌てて体を起こす。目を覚ました様子はない。ランガはそのまま愛之介の腕を胸に抱きしめ頬を寄せた。

 やれやれ。僕の腕は抱き枕とかぬいぐるみのようなものなのか。この腕を引き抜けば起こしてしまうかもしれない。安心しきったような寝顔に、それは少々かわいそうな気がした。

 指が自然に外れるようになるまで、こうして彼の寝顔を眺めていればいい。

 ランガの唇が微かに動く。

「ダッド……」

 愛之介は苦笑した。

 父さん、か。残酷だな君は。萎えることを言ってくれる。


 ランガはカナダ人の父親と死別している。父親との死別は自分と同じなのだが、その父子関係は全く違う。

 彼の滑りの基礎をつくったスノーボードは父親の指導だと聞く。それは今のスケートの滑りへと繋がっている。もともと才能はあったのだろう。それでも父親という優秀な指導者がいて初めて滑りの才能を開花させることができたのだ。

 あまり自分のことを話さない彼だが、父親をどれほど愛し、そして愛されていたかは伝わってくる。

 愛之介も若いうちに父親を亡くしている。

 けれど父親を失って大きな喪失感を抱えることになったランガと自分は違う。父親である神道愛一郎が亡くなったときの気持ちを一言で表すのなら開放感という言葉が一番近い。

 愛之介にとって父親は俗世の象徴だった。

 神道愛一郎は威圧的で強権的な男だった。家長として絶対的な権力を持ち、神道家内のこと全てを意のままにしていた。

 もちろんスケートに対しては、これっぽちの理解も示さなかった。

 政治家としての手腕は確かに素晴らしかったのだろう。今の自分は父の足元にも及ばないなんてこと、まだひよっこ政治家でしかない愛之介は身に染みている。

 だから畏怖とともに政治家としての神道愛一郎を尊敬もしていた。だが父親としての彼、その人間性はむしろ軽蔑していたのかもしれない。愛し愛されていると自らに言い聞かせていたところで、くだらない世界を構成する一部であったことには変わりない。


 愛之介は指でランガの髪を弄りながら、ぽつりと漏らす。

「君は僕のことをどう思っているんだろう」

 もし僕が今の年齢より十歳ほど上だったのなら、君はもう少し僕に甘えてくれていたのだろうか。君がお父さんにそうしたように。もっとも、そうなると君が僕を受け入れてくれることは今以上に難しくなってしまうだろうね。僕も君に欲情してしまうことの後ろめたさをもっと強く感じていたに違いない。


 やがてランガの指から力が抜けたことを確認して、愛之介はそっとベッドから離れた。

「おやすみ、ランガくん」


 早朝、路面を滑走するウィールの小さな振動音が聞こえてきた。

 ランガが滑っている。おそらく忠も一緒だ。ランガは忠と滑りたがった。希望を叶えてやらないわけにはいかない。空いている時間は自由に滑っていいとふたりに伝えてある。


 愛之介は、物心がついてから一度も水がはられたことのないプールへと向かった。

 子供のころ忠と一緒に何度も滑った。愛之介にとってスケートの原点が詰まっている思い出のプールだ。

スケートは神道家に縛られ続けてきた愛之介の唯一の息抜きであり救いだった。スケートがなかったら幼少期の記憶の中に「楽しい」は存在しなかったかもしれない。

 その記憶を随分と長いこと封印してきた。


 朝の光の中、ふわりと宙に浮くランガの姿が目に飛び込んできた。

 高く伸びやかなエア。美しいフォルム。逆光で縁取られた輪郭が金色に輝いていた。あのとき見た彼の周囲に舞う白い雪と羽を一瞬幻視して、愛之介は息を呑む。

 着地したランガはボードを蹴り上げ掴むと、愛之介に向かってダッシュしてきた。

「おはよう、愛抱夢。うるさかった?」

「おはよう。うちの屋敷の防音対策完璧なんだ」

「見て、スネークから教わった」

 言うなりランガは再びプールへ飛び込み滑り出した。

「おはようございます。愛之介様」

「おはよう、忠。ランガくんはどう?」

「恐ろしい吸収力ですね。基本でもコツでも一度教えればほとんどのことはこなせる。その上こっちが想像もしなかったような形であっさりと応用して見せてくれます」

「知っているよ」

「それは彼の滑ることへの純粋さと素直さのなせる技でしょう。まるで昔の……」

 忠は言い淀む。愛之介はふっと小さな笑い声を漏らした。

「昔の僕みたいだと言いたいのか? 忠」

「あ、はい。申し訳ありません」

「別にいいさ。きっとお前の言う通りなのだろう」

 忠は口元に穏やかな笑みを浮かべた。

「私はこの後の準備もありますので先に失礼させていただきます」

「ああ、よろしく」

 忠は一礼してから屋敷へと向かった。

 ボードを抱え戻ってきたランガが息を弾ませ訊いてきた。

「どうだった? 今の」

「実にラブリーだったよ。ランガくん」

「また、それ?」ランガは不満そうに眉を寄せた。

「最高の褒め言葉なんだけどね」

「あれ? スネークは?」

「仕事の準備があるからね。一足早く戻ったよ」

「スネークが愛抱夢の先生だったって、よくわかった」

「似ているかい?」

「あれは愛抱夢と同じ滑りだ! って思うことがよくある」

 少し前の自分だったら、そんな指摘は不快に感じたのかもしれない。でも今は大丈夫だ。

「そうか。君にスケートを教えてくれたのはあの赤毛の、確か暦って名前だった?」

「うん。暦は俺のスケートの先生でメカニックかな? 俺に合うボードは売っていないからって暦が作ってくれた。暦のボードが無ければ俺は今みたいに滑れなかった。暦って本当にすごいんだ」

 親友の話をするときのランガの表情は生き生きと輝く。今ではそんな彼に心を掻き乱されることはなくなった。

「それにしては滑りは似ていないね」

 一瞬の沈黙。それから「あ、そっか」とランガは何かに納得したようにポンと手を打った。

「スケートを教えてくれたのは暦だけど、滑りを教えてくれたのは父さんだったからだ」

「君はお父さんからスノーボードを教わったんだったね」

 ランガの滑りの基本はスノーボードだ。こと「滑る」ということに対する天才性は幼い頃から親しんだスノーボードで培ったものなのだろう。

「俺、父さんと滑るスノーボードが大好きだった。でも父さんが死んで楽しさがわからなくなって。それで乗れなくなって。暦はそんな俺に滑ることの楽しさを思い出させてくれた。スケートの楽しさ、たくさん教わった」

 目をキラキラさせて話す親友のこと。そんなランガは眩しくて少しだけ羨ましかった。一生ものの親友を手に入れた彼が。

 苦いものが込み上げてくる。自分たち大人が壊してしまった二度と取り戻せないものを見せつけられたからだ。それは微かな嫉妬と、同時に自分たちのような失敗は繰り返して欲しくないと願わずにはいられない。

「それなら僕は赤毛くんに感謝しなくてはいけないな。彼がいなければ君はスケートをやることもなく僕は君と出会えなかった。これを言い出すとキリがないけどね」

「俺も、俺もスネークに感謝するよ。スネークがあなたにスケート教えてくれたから俺は愛抱夢に出会えた」

 そうか、君も僕と出会えたことを喜ばしいことと思ってくれていたのか。

「嬉しいなぁ、ランガくんがそう言ってくれるのは。では君にとっての暦くんが僕にとっての忠みたいなものだったのかな」

 ランガはうーんと首を捻った。

「俺にとっての父さんが愛抱夢にとってのスネークだよ。滑ることの楽しさを初めて教えてくれた人なんだから」

 ああ、なるほど。そういうことか。


 ランガが昨日ぽつりと漏らした言葉を思い出した。

「愛抱夢と俺、ちょっと似ている」

「そうか」とだけ言って追求はしなかった。したところで彼がそう感じた理由を明確に言語化することはできないだろう。

 ランガは自分の感情や受けた印象をうまく説明できない。「ドキドキする」とか下手すると「なんか変」みたいな漠然とした表現をするが、それが何かを当の本人もよく掴めていない。詳しい説明を促すと首を傾げて黙り込んでしまう。それはまだ日本語が不慣れだということもあるだろうが、おそらくカナダにいたころからそんな調子だったのだろう。

 あの赤毛の少年が初めての友達だと聞いた。この歳まで友人がいなかった、もしくは必要としていなかったというのは驚きだ。察しのいい両親の愛情に包まれ、他人との関わりを必要としてこなかったのかもしれない。

 もっとも、それは自分も大差ない。だが偽りの世界で神道愛之介という人間は、表層だけを取り繕い多くの役立つ他人と親交を深める、ということを容易くやってのけてきた。他者の感情に寄り添ったり共感したりという演技は上手かった。そう自負している。人心収攬の才能に恵まれた若手政治家という評価を得られたのだから演技賞くらい貰えてもいい。嬉しくはないが。

 そんな自分に比べランガは圧倒的に経験値が足りていない。

 そして今、腑に落ちた。ランガが似ていると感じたものの正体。

 ふたりとも滑ることの楽しさを最初に教えてくれた大切な人を失っている。

 ランガは死別という形で。愛抱夢は裏切りという形で。

 そうして、あの大好きだった世界の中でふたりともひとりぼっちになってしまった。ふたりにとって楽しいはずの世界は孤独を強く突きつけてくる場所になったのだ。

 愛抱夢とランガ。スケートとスノーボード。失い方が違えば、もたらされる情感は大きく異なる。

 ランガは父親の死と向き合えず、真っ白な虚無の中でひとりぼっちでたたずむことしかできなかった。母親に連れられて来た沖縄の明るい陽光の中にいても、世界は色を失くしたまま。そんなランガの無彩色の世界を再び色づかせたのは、暦という赤毛の少年だったのは間違いない。

 無二の親友とスケートを得たことによって、ランガは再び滑る楽しさ思い出すことができたのだ。

 一方、愛抱夢の絶望と孤独。それはスケートの師であると同時に生まれてはじめて心を許した相手の裏切りによるものだった。暗闇の中に突き落とされ人間不信に陥った愛抱夢は、楽しく滑っていたはずの仲間を自らの意思で切り捨てた。いつか裏切られ傷つく前に。ただ怖かったのだ。

 そんな中、愛抱夢は偶然入り込んだゾーンに夢中になる。あの素晴らしい世界があれば、あやふやな仲間などいらないと思えた。なのに何故か、共にいてくれる存在イヴを探した。そんな矛盾に目を背けたまま何年も探し続けて、ようやく見つけたイヴがランガだった。

 それなのにランガはイヴになることを拒否した。「そっちは楽しくない」と。

 あの決勝戦、ランガは愛抱夢を置き去りにしてゴールすることもできたはずだ。なのに、それをしなかった。

「滑ろう。ひとりじゃ楽しくない」微笑みとともに差し出されたボードを愛抱夢は受け取った。

 並走しながら、少しずつ取り戻していく「楽しい」の記憶。忠と、やがてチェリーやジョーたちと。

 愛抱夢のプライドが「くだらない」と意地になって最後の抵抗を試みる。だが所詮なけなしの抵抗だった。

 君が思い出させてくれた滑る楽しさを、僕はもう手放さない。

 そこまで思考を巡らせ、ふと気づく。

 待てよ? そうすると僕にとってのランガくんは、ランガくんにとっては暦くんになるということなのか?

 いや、黙っていよう。それは断じて認めたくない。


「愛抱夢?」

 掛けられた言葉に意識を引き戻された。振り向けば青い瞳が怪訝そうに愛之介の顔を見つめていた。

「どうかした?」

「今日一日の過密スケジュールを少し考えていた。大人は色々大変なんだよ」

 戯けた笑顔で適当にはぐらかした。大人は大変、というのは子供を煙に巻くには良いフレーズだ。

「なんか変」ランガは敏感に何かを察したのか、眉を寄せ口を尖らせた。

 これも使い過ぎれば不信がられるな。ほどほどを肝に銘じておこう。

「それよりそろそろ朝食だ。シャワーを浴びて支度して。急いでね」

「あ、こんな時間」

 慌ててエントランスへ駆け込んで行くランガの背中を見送り、煙草に火をつけた。

 一服してから戻ろう。


 ランガを俗世から引き離し、ふたりだけの世界に閉じ込めておく意味は既に失っている。

 僕は俗世で生きていくことを選んだ。君がいるこの世界で。その方がずっといい。

 君のことを何よりも大切に思っている。それでも君を性愛の対象として欲している自分も否定しない。

 君の清麗さは一度抱いてしまえば儚く消えてしまうものなのだろうか。焦れば永遠に君を失うかもしれない。それが何よりも怖い。僕は臆病なんだ。

 僕は僕の欲望と折り合いをつけなければいけない。

 ああ、もちろんうまくやっていくさ。

 いつか君が僕を求めてくれる、その日まで。